三章 見舞いする水曜日
1
次の日、講義を終えた三人は、南原の入院している病院にいた。結局、猪狩が言い負かされた形になって付いてきた。藤井も誘おうという話が出たが、連絡がつかなかった。
消毒液の臭いがきつい院内を歩く。そこらじゅうで看護婦がせわしなく動き回っている。だが、今の時代は看護師と呼ぶのがふさわしいようだ。医師ではなさそうな男性も白衣を着て働いている。
「あ、ここだ」
怜奈が南原の病室を見つけた。症状が重いのからか、重要な参考人だからか、ネームプレートは南原の名前しかなく、個室だった。
「そう言えば、南原だっけ? 知ってるのか?」猪狩は奈美香に向かって聞いた。
見舞に行くという状況からして当然知り合いだと思って来たが、奈美香ならばもしかすると、知らなくとも来るかもしれないと不安がよぎった。
「いや、全然」奈美香はきっぱりと言った。「大丈夫よ。何とかなるから」
よぎった不安通りの答えに、猪狩はため息しか出なかった。見ず知らずの人間が見舞いに来たらどう思うだろうか。重い足取りで病室に入った。
「あ?」
ベッドの傍らで椅子に座る人物が声を出した。その人物は藤井基樹だった。彼は来訪者に驚いているようで、目を見開いている。
「何やってんだ?」猪狩は思わず尋ねた。
連絡がつかないと思っていたら、先に来ていたようだ。よくよく考えれば彼には野球という接点がある。試合で会っていてもおかしくはない。
「何って、お見舞いだよ。見りゃわかるだろ。おまえらこそ何してんだよ?」藤井の言葉は刺々しい。あまり機嫌が良くないようだ。
「何って、お見舞いよ。見ればわかるでしょ」奈美香が澄ました様子で言い返した。
「えっと、矢式さん……だっけ?」
そう言ったのは、ベッドで半分身体を起こしている南原だった。彼の頭には包帯が巻かれている。
猪狩は奈美香の顔の広さに脱帽した。彼女の人脈の広さに関する噂があるが、あながち間違いではないと思わざるを得ない。同学年で彼女を知らない者がいるのだろうか。
「初めまして。よく知ってるわね」奈美香は軽く挨拶した。
猪狩と怜奈も軽く紹介する。
「で、初めましてなやつらが何しに来たんだよ?」
やはり、藤井は不機嫌なようだ。野球での繋がりがある分、興味本位で近づく奈美香が気に入らないのかもしれない。
これが正常な状態だ、と猪狩は思った。つまり、奈美香たちが異常なのだ。そして、おそらく自分も異常なのだろう。
普通ならば、殺人事件があれば関わりたくない。警察とは話もしたくない。何も悪いことをしていなくてもパトカーを見ると身構えてしまうのと一緒だろう。
奈美香は藤井の態度や猪狩の考えなど微塵も察することなく会話を進めていく。
「いいじゃない、迷惑かしら?」
「いや、全然。来てくれてありがとう」南原は微笑みながら言った。
「大丈夫なの? 何があったの?」
「もう大丈夫だよ。殴られたんだよ。知らないやつに」南原は少し顔を歪めた。
「顔を見たの?」
「いや、目出し帽っていうの? そういうの被ってて、見えなかった」
「二人しかいなかったの?」
「ああ、部活は午前中で終わってたんだ。けど、バッテリーで話し合おうって事になって。まあ、一回帰ったんだけど、もう一度行ったわけ」
「ふーん」奈美香は何か考えているようだ。
「何を話し合ってたの? てか、何で?」怜奈がふと沸いた疑問を口にした。
「え? ……話さなきゃダメ?」南原は何か渋っているようである。
初めて会った人間なのだから当然といえば当然であるが、話せないような後ろめたいものなのだろうか。
「ははあ。人に話せないような、うしろめたいことなんだ」玲奈が脅すように言う。
彼女は普段のおっとりとした様子からかけ離れたような言動をたまにする。それが猪狩には怖かった。奈美香ほどではないが好奇心も旺盛で、一見すると正反対のような二人だが、結局「類は友を呼ぶ」というものなのだろう。
「……わかったよ」南原は観念したように両手を広げた。「まあ、みんな知ってるしな。ケンカっていうか、あいつ、いつも練習テキトーにやるからキツく言ったんだよ。いつものように言い争いになってたんだけど、とうとう監督が痺れを切らして雷、落とされた。そりゃもう怖かったよ。で、さすがにヤバイから、この先どうするよって話を、って感じ」言い終えて彼はため息をついた。
「ふーん」奈美香は満足そうに頷いている。
「あれ、君ら何してるの?」猪狩たちの後ろからさらに声が聞こえた。
猪狩は振り返った。そこにいたのは伊勢だった。
「何って、お見舞いですよ。見たらわかりません?」猪狩が言った。
2
伊勢は南原の入院している病院にいた。今日から面会が許されるということで、彼に事情聴取に来たのと、彼の担当医に話を聞くためである。まずは、彼の担当医に会いに行った。ある程度、彼の状況を聞いたあとで一番聞きたかった事を切り出した。
「彼が本当に気絶していたかどうかわかりませんか?」
密室という状況を作るにおいて、一番手っ取り早い方法である。中から閉めればよい。ただ、そうすると彼の怪我をどうやって作ったか、という問題に直面する。それにまったく理にかなっていない。そこまでして密室を作り上げる理由や、あの場所であった理由が説明できない。
それでも、とりあえず考えられる方法を片っ端から片付けるしかない。これはその一つである。
「うーん、傷口からして、あれで平気というのはありえないと思います。自分で殴っても、壁にぶつけてもああはなりませんよ」
担当医はたいして悩む様子もなく答えた。どうやら愚問だったようだ。
「わかりました。失礼します」
続いて、南原の病室に向かった。やっと詳しい話を聞くことができる。事件の真相を知る唯一の人物だ。これで事態が少しは進展するだろう。
だが、期待しすぎてはいけない。何事も安全圏で物事を考えるのが伊勢のやり方だった。そのためには過度の期待はご法度だ。
病室の前で、伊勢は一度立ち止まった。話し声が聞こえる。どうやら見舞い客が来ているようだ。
申し訳ない気持ちになりながらも、こちらも仕事だから仕方がない。退いてもらおうと病室に足を踏み入れた。
「あれ、君ら何してるの?」
見舞客の中に知っている顔がいて、思わず声に出してしまった。病室にいた全員が振り向いた。そこには猪狩康平と矢式奈美香がいた。あとの顔は知らなかった。
「何って、お見舞いですよ。見たらわかりません?」猪狩が言った。
なぜかその場の全員がクスクスと笑いだした。笑われるようなことをした覚えのない伊勢は困惑した。腑に落ちなかったが、気持ちを切り替える。
「まあ、そうだろうね。で、悪いんだけど席を外してくれるかな? 仕事なんでね」
「わかりました」真っ先に猪狩が言った。
「ちょっと! 私たち来たばっかりなのに!」奈美香が不満を言った。
「ほら、帰るぞ」
そう言ったのは伊勢の知らない男だった。坊主頭が伸びたような髪型だった。
「じゃあな、南原」彼は南原に向けて軽く手を挙げた。
「ああ、今日はありがとう」南原はそう言って、手を振った。
猪狩たちは去っていった。奈美香は最後まで文句を言っていたが、猪狩に諭されて渋々黙ったようだった。
伊勢と南原だけになる。
「さて……」伊勢は懐に手を入れる。「道警の伊勢といいます」手帳を見せながら言った。
「どうも」南原は軽く会釈する。
「怪我は大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。痛いですけど、そんなには」
「さっそくで申し訳ないんですが、事件当日の事を聞かせてもらってもいいでしょうか? 思い出したくないかもしれませんが、事件解決のためです。あなたにとっても悪いことではないはずです」
「あ、いえ。大丈夫です」
「まず、なぜ部室にいたのですか? 話によると、練習は午前中で終わったようですが」
「はい、そうです。練習は午前で終わったんですけど、二人で話し合おうって事になったんです。ぼくら、ピッチャーとキャッチャーなんで。監督に言われたんですよ。僕ら、馬が合わないっていうか。それで監督に怒られちゃったんです。それで、相談会です」南原は苦笑いしながら、説明する。
「何時に会う予定でしたか?」メモを取りつつも新しい質問をする。
「四時です。メールで決めたんですけど」
発見された被害者の携帯電話にも履歴が残っていたのを伊勢は思い出した。
「野球部員は全員、あなたたちが集まることを知っていましたか?」
「さあ? 知らないんじゃないですかね? 監督が怒鳴り声で話し合えって言ったんで、何人かはその話を聞いていたかもしれないですけど。あと、そのあと、二人で『どうする?』って話をしたんで、それを聞いてた人もいるかもしれません」
「わかりました。次は襲われたときの状況を教えて下さい。まず、何時頃でしたか?」
「うーん」南原は手を顎に当てて考える仕草をする。「よく覚えていません。話し合いが始まってから結構経ってはいたと思うんですけど、部室の時計が止まっていたんで、時間はわからなかったんですよ」最後にすいませんと頭を下げる。
「わかりました。では、どんな状況でしたか? 辛いとは思いますが、できるだけ思い出してください」
「部室で話してたら、急に入ってきたんですよ。目出し帽で顔を隠してたんですけど、男っぽかったです。で、その場にあったバットで殴りかかってきました」
伊勢は部室の構図を思い出す。入り口のすぐ近くに大量のバットがビール瓶のケースに入れられていたはずだ。
「先に襲われたのはどちらですか?」
「僕です」
「犯人の特徴などは覚えていませんか?」
「ほんとに一瞬だったんで……。身長は大きくも小さくもなかったような気がします。男だったらですけど」
「わかりました。今日はこのくらいで失礼します。またお話を聞く事があると思いますが、ご協力お願いします」頭を上げて伊勢は病室をあとにする。
結果は想像の範疇だった。重要ではあるが、劇的ではない成果だ。だが、捜査はこれからだ、と身を引き締めて署に戻った。