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二章 思案する火曜日

     1

 

 猪狩は、まだ人もまばらな教室の中にいた。

 マルチメディアホール2と名付けられているその教室には、黒板の代わりにホワイトボードが設置され、音響や映像のAV機器が多種多様に置かれている。

 そこは猪狩が第二外国語として履修したドイツ語の講義が行われる場所であるが、それらの機器が有効に活用されたことは未だなく、教室の名前に対して、講義内容が明らかに名前負けしていた。

 今は二講目が始まる二十分ほど前だ。まだ一講目の講義中であるが、この教室は使われておらず、猪狩も講義が入っていなかったので、早めに来て終わりきっていない宿題を済ませようとしていた。仲間内では猪狩は成績優秀な方だが、唯一苦手なのが語学だった。

 猪狩の他には学生が三人いたが、携帯電話をいじったり、本を読んだりしている。おそらく、前の講義が休講になってしまったり、交通機関の関係で早く来てしまったのだろう。

 名詞の性と冠詞の格変化に手間取っていて、何故、古代のドイツ人は物に男性だの女性だの、はたまた中性だのをつけたのだろうと考えていたところで、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。

「聞いたわよ」

 猪狩は少しだけ視線を後ろへとずらし、声の主が想像通りだったことに落胆した。

 矢式奈美香。猪狩とは小学校からの幼馴染で、家も近い。何かと一緒にいる腐れ縁だ。

 彼女は猪狩の隣の席に座った。肩を優に越す長髪が揺れる。もともと、茶系の地毛だったが、大学に入ってからさらに明るい色に染めたようだ。

 他の女子と同じように化粧も大っぴらにするようになったし、大学に入学してからの彼女の変化は、女子ならば当然のことだったが、幼いころから彼女を見ている猪狩にとってはトーストのバターをマーガリンに変えるくらい新鮮で、奇妙だった。

「ちょっと、聞いてるの?」

「宿題をやらせてくれ」言い訳ではなく本心で彼は言った。

「野球部で殺人事件があったんでしょ?」猪狩の訴えを奈美香は無視して言う。

「へえ」

「とぼけても無駄よ。あんた第一発見者でしょ」

「何で知ってるんだよ。それに正確には殺人と殺人未遂だ」

 猪狩は諦めて教科書を閉じた。

「私の情報網をなめないでくれる?」

 確かに彼女は顔が広い。O大の三人に一人は彼女と知り合いで、さらに三人に一人は彼女が知らなくとも彼女を知っている者だという噂がある。つまり、O大で彼女を知らないのは全体の三分の一ということになる。

 もちろん、これは噂であって本当かどうかは分からない。現実的に考えて信憑性は低い。だが、彼女に知り合いが多いのは事実である。

「どうだったの? 密室だったんでしょ? 窓はちゃんと見た? 合鍵は?」矢継ぎ早に彼女は質問してくる。

 なぜか密室のことまで知っているようだ。目撃者は猪狩と藤井と本田の三人だけのはずである。野次馬はいたかもしれないが、密室の事までは知らないはずだ。二人のうちどちらかが彼女に情報をリークしたということになる。

 藤井から聞いたのかもしれないし、本田から、もしくは本田の友人から聞いたのかもしれない。もし藤井から聞いたのであれば、今度会ったときのために嫌味の一つでも用意しておこうと猪狩は思った。

「窓は鍵が掛かっていたし、鍵は何年も前からなくなってる。そして一番大事なことが一つ」

「大事なこと?」奈美香は興味津々の様子で身を乗り出してきた。

「俺は何も考えたくない。警察の仕事だ」

 そう言って宿題をしようと教科書を開いたところで、猪狩は思いっきり奈美香に頭を叩かれた。

「いてっ! 何すんだよ!?」

「別に」

 奈美香はそっぽを向いて黙ってしまった。


     2


 昼休み、奈美香はサークル会館に向かっていた。

 彼女は苛々していた。

 気に入らないのは猪狩の態度だ。彼は警察の仕事だと言って考えようともしない。

 たしかに、それは正しい。警察の仕事を邪魔するのは良くない。

 だが、考えることは邪魔をすることだろうか。猪狩の頭脳は必ず役に立つはずだ。現に、彼は二か月前にある殺人事件を解決した。通常の事件よりも不可解な状況のものだった。

 それが、警察があとから解決できたか否かについては置いておいて、少なくとも警察よりも早く、そして自分よりも早くそれに気が付いたのだ。

 まったくの野次馬というわけではない。事件の第一発見者なのだから。ならば、多少考えを巡らせることは不謹慎ではないだろう。

「……いや、不謹慎かな?」

 事件について見聞きしたことを警察に話すこと、事件についての自分の見解を話すこと、両者の境界はどこにあるのだろう。前者は立派な捜査協力で、後者は不謹慎なこと?

 答えは出ない。おそらく、ないのだろう。ならば、進もう。止められていないのだから。

 猪狩のことはいったん忘れよう。

 奈美香はサークル会館に入った。ロビーの奥の廊下はラグビー部、サッカー部、野球部の順に部室が続いていて、野球部の部室の手前にはドラマでおなじみの黄色いテープが張り巡らされ、制服を着た警官が立っていた。

 どう頑張ったところで、野球部の部室には入ることができない。奈美香はさり気なく隣のサッカー部の部室に入った。造りは同じはずなので、考察するには十分だろう。

 サッカー部には知り合いが多いので、勝手に入っても何とかなるはずだ。

 サッカー部の部室は側面に棚が置いてあり、私物が乱雑に入れられている。その反対には黒板が設置されていて、連絡事項よりも落書きが多く見て取れた。それでも部屋全体としてはかなり整頓されている。壁の上部の隅に紐が張られており、タオルなどが干されている。

「鍵が本当になかったとすると……」

 奈美香は窓の方に近づく。

「ドアよりは窓の方が閉めやすいわよね」

 一番想像しやすいのは糸を使った方法。ただ、糸が通りそうな、例えば通気口などはない。

「でも、ないなら作れば……」

 窓ガラスに小さな穴をあければ、気づかれにくいだろう。もしくは、自然に欠けましたとでも見えるように、左右の窓の間に糸が通るように隙間を作れば、なお気づかれにくい。

 今度はドアの方へと向かう。

「こっちは難しそうね……」

 扉は金属製でしっかりした造りだ。中からならツマミを回せば鍵はかかるが、隙間などないし、作れそうにもなく外からかけるのは困難だろう。こちら側には窓はなく、糸を通すこともできない。

 こちらを外から鍵を掛けるには機械仕掛けしかないだろう。しかし、O大は商学系の単科大学だ。文系大学にそのようなものを造れる人物がいるとは到底考えられない。趣味程度で作れるようなものなのだろうか。

「ああ、現場が見たい……」

 実際に現場を見ないことには仮定は仮定に過ぎない。これ以上は想像の限界だった。考察ができても、検証ができない。不毛な思考で少し苛立ってきた。汗臭い部屋の臭いも耐え難くなってきた。

 とりあえず奈美香はサッカー部の部室から出た。

 何とか野球部の部室を覗こうと試みる。入り口に立っている警官が迷惑そうに奈美香を見た。彼はそこに立ってから幾度も学生に好奇の目で見られたのだろう。いい加減うんざりだといった表情だった。

 中から若い男が出てきた。二十代後半だろうか。

「マネージャーさんですか? 何か必要ですか? まあ、ちょっと難しいですけど」

 奈美香のことをマネージャーと勘違いした男は、奈美香に対し申し訳なさそうな表情を作った。柔らかい感じのする、紳士的な男だ。

「あ、いえ、そういうわけじゃ……」

「ああ……。珍しいのはわかりますけど、邪魔しないで下さいよ?」男は顔をしかめた。

「すみません……」奈美香は頭を下げる。「あの、窓に小さい穴があいてたりしませんでしたか? もしくは窓に隙間があったりとか……」

 男は目を見開いて奈美香をじっと見た。しばらく間があった。

 余計なことを言って怒りを買ってしまっただろうか。それとも、突拍子のないことを言ったために呆れられてしまったのだろうか。

 彼女は身構えていた。

 やがて彼は声を出して笑い出した。

「あ、あの……?」笑われるという想像をしていなかった奈美香は拍子抜けしてしまう。

「ああ、いや、ごめん。もしかして矢式奈美香さんかな?」

「え? はい……。なんで知ってるんですか?」

「勘。そんなことを言う人って珍しいからさ。いやあ、そうかそうか……」男は一人で納得している。「ああ、そうそう、窓に細工されていた様子はないよ。隙間もない。一般人にはこれくらいしか教えられないよ」

「あ、そ、そうですか。すみませんでした。失礼します」

 まさか、すんなり答えてくれると思っていなかった奈美香は調子を崩されてしまった。会ったことのない男に名前を当てられるし、完全に居心地が悪くなっていた。早くこの場を去ろうと一礼して踵を返すと、うしろから彼の声がした。

「猪狩君にもよろしく」

 奈美香はもう一度驚いてしまった。


     3


「伊勢さんだな、たぶん」

 放課後、猪狩と奈美香、怜奈の三人は一緒のJRに乗っていた。運悪くクロスシートではなく、ロングシートだったので、三人が横一列に並んで座っていた。

 猪狩が一人で帰ろうとしたところを奈美香に止められ、さらに怜奈にも遭遇したという次第であった。

 奈美香に昼休みの出来事を聞かされた猪狩は、伊勢のことだと思い当たった。そして、彼について手短に説明した。あまり思い出したくない出来事であり、奈美香や怜奈も一緒に体験したことだったので多くは語らなかった。

「なるほど、そういうことか」

 説明し終えると、奈美香は納得したように頷いた。

「また、密室殺人?」怜奈は苦笑いした。

 怜奈も今回の事件について知っていた。自分の大学で起きた殺人事件だ。騒がれないはずがなく、すでに大学の人間の大半は噂程度であれば知っているだろう。

「厳密に定義するとすれば密室殺人と、密室殺人未遂。一人は死んでいない」

 猪狩は自分で言って、馬鹿馬鹿しいと思った。何一つ厳密になっていない。密室という言葉がそもそも厳密に定義できるほど確固としたものではないのだ。

「そうだったね」

「密室の謎っていう観点で見れば一緒だけどね」と奈美香。

「条件が違う。中に生きた人間が一人いる」

「じゃあ何? 人を殺して、中から鍵を掛けて、自分を殴って気絶したっていうの?」まさか、と彼女は鼻で笑った。

「条件の話をしただけだ。出血がひどかったから、気絶してたのは間違いないだろう。それに、少なくとも自分ではできない」

「でしょ? ほら、いっつも揚げ足ばっか取ってるからよ」

「勝手に言ってろ」

「勝手に言ってますよーだ」奈美香は舌を出した。「それにしても、どうやったのかしら?」

「さあ? そもそも、俺は密室が嫌いだ」

「どういう意味?」怜奈が首を傾げる。

「利点がない」

 怜奈は余計に首を捻る。

「もし、推理小説が生まれた頃、つまり科学捜査が発達していなかった頃に、本当に小説みたいな密室殺人が起きたとしたら、密室の謎を解かないと犯人を捕まえられないかもしれない。

 けど、例えば、今の時代にどうやったか分からないような完璧な密室殺人が起きたとする。どうやっても密室の原理を証明できないとする。けど現場に落ちていた凶器から、犯人の指紋が出てきたら? 被害者の爪から犯人の皮膚が検出されたら? 犯人の毛髪が発見されたら? 密室は何の意味を持たないんじゃないか?」

 とは言ったものの、猪狩はどうすれば殺人として立件されるかは知らなかった。どうやったかが分からなくても物的証拠があれば良いのだろうか。

「間抜けな犯人ね」奈美香が笑いをこらえている。「痕跡を残さなければいいじゃない」

「もし、痕跡がなければそれこそ密室にする意味がない。何も証拠がないんだから捕まる心配はない」

「うーん」怜奈も奈美香も猪狩に言い負かされた形になって何も言えないようだ。

「でも、実際に起こってるじゃない」そう言ったのは奈美香の方だ。

「そう、わけがわからない。密室の原理も、密室にした理由も」

「うーん」奈美香は考え込んでいる。

 猪狩は一通り説明し終えて、シートに深く座り直した。珍しく何の意味のないことを長々と話してしまった。これ以上何も考えようとは思えなかった。

「そうだ!」考え込んでいた奈美香が言った。「明日、南原君のお見舞いに行きましょ!」

「は?」猪狩は思わず間抜けな声を出してしまった。

 サッカーのユニフォームを着て野球の試合に出るような、会話の流れを無視した発言に呆れるしかなかった。

「いいね!」

 だが、怜奈も乗り気のようだ。三対二。民主制のもとで言えば、猪狩の負けである。

 猪狩は深くため息をついた。

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