七章 解決する日曜日
1
日曜日、猪狩は九時に家を出た。休日だというのに二日連続の早起きである。サラリーマンですら休日はこんなに早く起きないのではないだろうか。すこぶる気分は悪かった。
昨日の夜、伊勢から電話があった。聞きたい事があるから来て欲しい、との事だった。休日は寝ていたかったし、伊勢は仕事なのだからそちらが来るべきではないかと思い、いささか不満だったが、結局、了承して出かける事にした。
自転車で地下鉄まで向かい、街中へ向かう。駅から十分ほど歩くと目的の警察署が見えてきた。高いビル、といっても周りも高いビルだらけなので目立つわけではない。何階建てだろうか、とりあえず気にせずに中へと入る。
受付で伊勢の名前を出すと場所を教えてくれた。エレベーターでその階まで上がる。
その場所は会議室のようなところだろうと推測した。猪狩はその扉を開けた。
そして、閉めた。
「ちょっと、ちょっと!!」瞬時に中から奈美香が飛び出してきた。
「お前だろ!!」猪狩は怒鳴った。久々に怒りが湧いてきた。
「な、何よ!」奈美香は多少狼狽えたようだったが、負けじと突っかかって来る。
「お前が藤井から聞いて伊勢さんに言ったんだろ!」
「だって、犯人が分かったんでしょ?」
「単なる推測だ。集められた情報からそいつが犯人だったら筋が通ると納得できるだけだ。何にも根拠なんてない」猪狩は続ける。「それは単に自分を納得させることができるだけで、自己完結するものだ。それを言葉にして他人に発信した時点で、責任が発生する。その責任を俺は負うことなんてできない」
「犯人を野放しにしていいの?」奈美香が静かに言った。
「そうは言ってない。警察の仕事だ」
何度この言葉を繰り返しただろう。そんな事を猪狩は考える。
「真相に気づいているのは康平だけなのよ!!」今度は奈美香が声を荒げた。
いつになく、真剣な眼をしていた。好奇心で事件を追っているあの眼とは全然違う。
ああ、そうか。
猪狩は気づいた。
「人殺しであってもいいやつである事とは無関係だ」
そんな言葉が思い出された。
猟奇的に殺人を犯す者もいれば、そうでない者もいる。極端な例で言えば、家族を殺された恨み。もちろん、小説ではよくある事だが、現実ではあまり見かけない。なぜならば犯人は、ほとんどの確率で警察に逮捕されるし、ましてや警察が知らずして家族がその真相を知るなど、まずありえない。
ひとまずそれは置いておいて、何が言いたいかと言うと、前者は弁護士がよく使う「責任能力に疑問」などと言われるように、精神そのものに異常がある場合である。
それに対し後者は「情状酌量の余地あり」など呼ばれるものである。その場合、人殺しであるという事実とその人間の人格にはそれほど因果関係はないのではないか。
確かにそうかもしれない。だが、法治国家において、おそらくはそうでなくとも、殺人という行為は許されるものではない。たとえ殺した相手が鬼畜のような人間だったとしてもだ。
裁く事ができるのは法のみであって、人は人を裁けない。
奈美香は知っているのだ。自分の見知った者の中に犯人がいる事を。
殺人は許してはならない。知り合いならばなおさらだ。知り合いでなくとも当然だ。
奈美香は救って欲しいのだ。間違ってしまった誰かを。正しい人格であるが故に。
猪狩は気づいた。奈美香がそう思っている事を。
昨日の藤井の姿も思い浮かんだ。
彼が最後に語っていたとき、その表情は悲壮なものになっていた。
彼は被害者ではない。被害者の遺族でもない。けれど、たしかに事件を身近に感じ、心を痛ませている。
これは警察の手伝いではない。大それた人助けでもない。
ただ単に、友人を楽にするだけだ。
猪狩はひと息ついた。ため息ではない。これは落胆の表れではない。自分を落ち着かせるものだ。
猪狩はドアノブに手を掛けた。
2
部屋の中央で、長机がいくつか集まって正方形を作っていた。奥の辺には安田と本田が、右には結城と奈美香、左には南原と山本が、そして手前には伊勢が座っており、空席が一つある。猪狩はその席の前に立った。座ろうか迷ったが、これから喋らなくてはいけないのだろうと思い、立ったままでいる事にした。
「何なんだよ!? いきなり呼び出して!」そう言ったのは本田だ。
その言葉は明らかに猪狩に向けられていた。猫のような顔が、怒りで狐のように吊り上っている。
猪狩は今度こそ落胆のため息をついた。
「別に俺が呼び出した訳じゃないんだが。まあ、俺が喋らなきゃいけないのは間違いなさそうだな」
そう言って猪狩は伊勢のほうをチラッと見た。伊勢は苦笑いして肩をすくめた。それはどういう意味だろう、と考えた。騙して呼びつけた事への謝罪だろうか、それとも奈美香に押し切られたから自分は悪くないとでも言いたいのだろうか。
「康平が、犯人が分かったって言うのよ」
奈美香が煽るように言った。猪狩は少なからず腹が立った。何を得意げに話しているのだろうか。
「じゃあ、さっさと逮捕したら? なんで私たちが呼ばれたの?」
奈美香の横にいた結城が言った。
「俺が呼んだ訳じゃないんですけどね……。まあ、何と言うか、ちょうどいいメンバーですね。と言うか、話さなくちゃ駄目ですか?」最後は伊勢に尋ねた。
「そうしてちょうだい」
伊勢は微笑んで言った。その微笑みは何を意味するのだろう。猪狩は本日二度目のため息をついた。
「仕方ないですね……。では、あなたたちが呼ばれた理由を話すにあたって、少し事件について考えてみましょう」
目上の人もいるので、猪狩は敬語で話すことにした。
「事件の概要はこうです。高木君と南原君がバッテリーの今後について話すために、部活の終わったあとでもう一度部室に行きました。そこで、何者かが急に入ってきて襲われた」
猪狩はそこで一度、南原の方を見た。
「そうだよ」
「当然わかるとは思いますが、これは物取りの犯行ではありません。何せ、財布は盗られていませんし、そもそも、サークル会館の奥の野球部の部室を狙うなんて馬鹿げています。と言うことはどう考えても犯人は彼らを殺す目的で侵入したことになります。さらに言えば、彼らがあそこにいたことを知らないと犯行はできません。よって、犯人は野球部内の人間であるということです」
そこまで言うと場の空気が変わった。
「ちょっと待てよ! 何だって俺らがそんなことしなきゃいけないんだよ!? それにそうだとしても……」本田が叫ぶように言った。
「そう。仮にこの中に犯人がいるとしてその人物を聴取すればいいだけです。けど、どうも推理小説の読みすぎなやつがいまして、皆さんを呼びつけたようです」
そう言って奈美香の方を見た。彼女は舌を出して「あっかんベー」のポーズをとっている。先ほどの真剣な眼差しはどこに行ったのだろう。相変わらず、切り替えが早い。というより騙されたのだろうか。いや、どちらも本心だろう。矢式奈美香とはそういう人間である。
本田は奈美香を睨みつけている。いつもは温厚な彼だが、今回ばかりは腹を立てているようである。
「ですから、手っ取り早く結論だけを言っても良いのですが、それだと納得しない人がいるでしょうから」と、もう一度奈美香を見る。今度はそっぽを向いて知らんぷりをしている。
「それなりに筋道を立てて説明しましょうか。
現場は密室でした。ではどうやって密室にしたのか。よく推理漫画であるような糸を使った方法は使えません。見たところそんな隙間はありませんでした。
では、機械仕掛けだったのか。工学部の友人に頼んで作ってもらい、第一発見者となってそれを回収したのか。五時半にアルバイトだったとしても、原付を使えばギリギリ間に合います」そう言って本田の方を見る。
「なっ!?」
「それとも十年前になくなった部室の鍵は、実は十年前のキャプテンが持っていたのか」
今度は安田の方を見る。
「そんなことはない!」安田は憮然として答えた。
「どちらも合理性にかけます。なぜなら二人とも部室で話し合う事を詳しくは知らなかったからです。ではここで皆さんにお聞きします。この中で高木君と南原君が部室で話し合う事を知っていた人はいらっしゃいますか?」
誰も答えない。
「でしょうね。もっとも、犯人なら嘘をつくでしょうから、質問の効果はあまりありませんが。それでも、二人は犯人ではありません。本田君の場合、機械仕掛けしか方法はないでしょう。しかし、彼にそれを回収する素振りはありませんでした。監督の場合、鍵を持っていたというのが不自然です。学生時代に遊び半分で盗ったのなら、十年も経つ前に返すか、失くしているでしょう。
では、質問を変えます。今回の事を誰かは知っていてもおかしくないと思う人はいますか?」
今度は全員が手を挙げた。
「これって……?」奈美香がつぶやいた。
「当日二人は監督に手酷く怒られていたようですから、話し合おうという流れになるのは当然です。ですから、自分は知らなくとも誰かが知っていると思ったのでしょう。しかし、ここで日時、場所について詳しく知る事ができた人物がいます。それは結城さんです」
「え!? ちょっと待ってよ!!」
「南原君は携帯電話を置いていきました。その携帯電話を見れば時間も場所も簡単に分かります。メールでやり取りしていたようですから。まるで007カジノ・ロワイヤルのラストですよ。……すみません、関係ない話でしたね。
ですが、彼女には密室にする方法がありません。強いて言えば南原君が彼女を庇って密室という不可解な状況を作ったというくらいでしょうか。ですが、どうも不自然です。
ちょうど、密室にしたことが不自然という話になったので、なぜ犯人は現場を密室にしたのかを考えましょう。そのために少し現場の状況を整理してみましょう。部室のすぐ外には駐車場があります。高木君は普段は徒歩ですが、その時は車で来ていました。部室のすぐ外に停めてありましたね。聞いた所では彼の車を知っている人はいないようですね。そして彼は携帯電話を車の中に置いていきました」
「あ!!」そこまで言って奈美香が声をあげた。
「一人、気づきました。他には?」
誰も反応しない。
「では、最後に一つ。被害者からは睡眠薬が検出されました」
「ああ、そういう事か」伊勢が納得する。「でも、なんで密室?」
「五十点。密室については分からないみたいですね。このくらいにしておきましょうか。
では、これから事件の真相を話します。
この事件には二つの殺意と三つの計画がありました。ただし、三つ目の計画は咄嗟な思いつきです。そして、採用されたのが三つ目の計画です」
周りは静まり返っている。わけがが分からないようである。
「二つの殺意とは高木君のものと犯人のものです」
「高木の?」山本は驚いている。
「なぜ、高木君は車で来たのでしょうか? それは殺した南原君を運び出すためです。彼は部室に二人でいたという事実をもみ消そうとしました。これが一つ目の殺意と一つ目の計画です。しかし、それは叶いませんでした。犯人に殺されてしまったからです。
二つ目の計画はほぼ同じです。部室にいたという事実をもみ消そうとしました。しかしそれも叶いませんでした。いくつかのイレギュラーな状況が起きてしまったからです。
イレギュラーな状況とは何でしょうか。一つはもちろん、高木君の殺害計画です。
では、高木君はどこまで計画を遂行したのでしょうか。実はあと一歩のところでした。彼は南原君を殴り倒しました。殺してしまったと思ったのでしょう、止めは刺しませんでした。そして、運び出す前に痕跡を消そうとしました。まず、そのとき飲んでいた飲み物を冷蔵庫に戻し、紙コップを廊下のゴミ箱に捨てます。運び出すことで、現場は部室にはなりませんし、朝になれば回収されてしまいますから証拠にはなりません。
そのとき、彼は邪魔をされないように一度鍵を閉めました。おそらく窓から運び出そうとしたのでしょう。非常口がすぐ横にあるとは言え、廊下に出るのは危険です。ましてや、窓の外はすぐ駐車場です。こちらの方が賢明でしょう。
そして、凶器と南原くんを運び出そうとした所で、彼の計画は潰えてしまいました。彼が飲んだ飲み物には、正確には紙コップのほうだと思いますが、睡眠薬が入っていたのです。
数時間後、意識を取り戻した犯人は、眠っている高木君を運び出そうとします。しかし、そこであることに気づきます。携帯電話がなかったのです。これが二つ目のイレギュラーです。彼の携帯電話には履歴が残っていますから、処分しなければ大変なことになります。探そうにも犯人は彼の車を知らないし、そもそも車で来ていること、携帯電話が車の中にあったことを知らなかったでしょう。
それで、二つ目の計画も潰えます。そこでどうしたか。高木君に殴られた事を利用して第三者に襲われた事にしようとしたのです。幸い昼に監督に怒鳴られていたので、話し合う『かも』という事を知っていた人間は多くいます。実はこの『かも』は前の二つの計画では不安要素でしたが、ここで好転します。
睡眠薬の入った紙コップを処分しようとしましたが、それがない事に気がつきます。高木君が捨てた事を悟り、誰かに見られたくなかった犯人は部屋を出ることなく、鍵を確認せずにそのまま気絶したふりをします。残っていた睡眠薬を使ったかもしれません。もしくは、本当に気絶したかもしれません。相当の出血でしたから。これで密室の完成です。もうわかるでしょう。もちろん犯人は……」
猪狩は指を差す。口調も元に戻す。
「南原、お前だな?」
南原は俯いている。何も言わない。
「しらばっくれてもいいけど、証拠なんていくらでも出てくる」
猪狩はそう言うと踵を返して、部屋を出ていった。
この結末で、誰が救われるだろうかと考えながら。