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恐怖の闇

妊娠。


その二文字が私の脳内を侵食し、思考を真っ黒な泥で塗りつぶした。

 喜びは一瞬で霧散し、後に残ったのは、得体の知れない「寄生者」を内側に宿しているという悍ましいまでの不快感だった。

 

 下ろさなければならない。一刻も早く。

 

 手術費用を工面するために身体で稼いだ現金をかき集めたが、あと五万円ほど足りなかった。


 金を作る手段なんて、私にはもうこれしか残っていない。

 

 私は逃げるように家を飛び出し、再び大久保公園へと向かった。

 立っているだけで吐き気がせり上がってくるが、必死でそれを飲み込む。

 声をかけてくる男は、誰でもよかった。一刻も早くこの金を手に入れ、自分の中から「それ」を消し去りたかった。


 一人目の男は、ホテルに入るなり、乱暴に私をベッドへ押し倒した。

 

「……っ、う、ぐ……」

 

 男の汚らわしい肉棒を口に含んだ瞬間、喉の奥が激しく拒絶反応を起こした。それは生理的なつわりなのか、それとも精神的な嫌悪感なのか。

 耐えきれず、私は男の股間の上で、大量のゲロをぶちまけてしまった。

 

「おい! 何してんだよ、汚ねえな!」

 

 男は怒り狂い、私の髪を掴んで無理やり後ろを向かせた。

 潤滑も何もないまま、獣のような勢いで後ろから突き上げられる。

 痛い。ただ、裂けるような痛みだけが走り、私は冷たいシーツを噛んで耐えた。

 

 二人目の時も、限界だった。

 胃の中はもう空っぽなのに、痙攣が止まらない。

 今度は吐かないようにと必死で奥歯を噛み締めていたが、激しいピストンに揺さぶられ、またしても黄色い胃液を吐き散らしてしまった。

 

「ちっ、まともにできねえのかよ。五千円引かせてもらうからな」

 

 二万五千円のはずが、二万円に値切られた。

 

 明け方。三鷹の家に戻ると、リビングで先に帰宅していた父が死んだように眠っていた。

 私は泥棒のように息を潜め、脱ぎ捨てられた父のズボンから財布を抜き取った。


 五千円札が一枚。足りない分を、その汚れた手で補填した。






 手術は、あっけなく終わった。


 

 麻酔から覚めた時、下腹部にあった「重み」は消えていた。

 けれど、代わりに私の胸の中に、底知れない虚無感が居座り始めた。

 

 自分を捨てた母親。

 誰の種かもわからない子供。

 それを、自分の手で葬り去ったという事実。

 

 絶望感。そして、逃れようのない自責の念。

 私はもはや、自分が人間であることを辞めてしまったような気がしていた。

 

 その日の夜。私はまた吉祥寺へ、井の頭公園へと向かった。

 ベンチに深く腰を下ろし、漆黒に沈んだ池を見つめる。

 

 ふと視線を上げると、ジブリ美術館の巨大な模型が、夜の闇の中で異様に膨れ上がっているように見えた。


 それが意思を持っているかのように、私を押し潰そうと襲いかかってくる。


 

「……ひっ」


 

 恐怖で身体がすくむ。

 その時、林の奥から、微かな声が聞こえた。

 

 オギャア、オギャア……。

 

 赤ん坊の泣き声だった。

 背筋が氷のように凍りつく。

 

 深い闇の中から、真っ白で、まだ形も定まらないような小さな赤ん坊が、這いずりながらこちらに向かってくるのが見えた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい!」

 

 私は泣き叫びながら、ベンチを蹴って逃げ出した。



 死に物狂いで走り続け、気づくと三鷹の住宅街に飛び込んでいた。

 

 涙で視界が歪む中、前方に、一人の男のシルエットが見えた。


 あの中年特有の、少し丸まった背中。吉祥寺のおじさんだ。



 

「おじさん……! おじさん、助けて!」



 

 私はなりふり構わず、その背中にしがみついた。

 おじさんなら、この呪いのような泣き声を止めてくれる。そう信じていた。

 けれど――。

 

「えっ、あ、ちょっ……大丈夫ですか? 警察呼びますか?」

 

 振り返ったのは、全く見知らぬ、怯えた表情のサラリーマンだった。

 

「……あ……」

 

 血の気が引く。

 おじさんは、もういないのだ。どこにも。

 

「大丈夫です……ごめんなさい、間違えました」

 

 私は男を突き飛ばすようにして、自宅まで一心不乱に走った。



 誰もいない冷え切った家の中。

 私は寝室に逃げ込み、布団を頭から被ってガタガタと震えた。

 

 けれど、逃げられない。

 

 ベッドの下から、クローゼットの奥から、そして私の耳元から。

 

 オギャア……オギャア……。

 

 赤ん坊の泣き声が、部屋いっぱいに響き渡る。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……許して……っ!」

 

 絶叫しても、声は止まない。

 恐怖に耐えきれず、私は再び家を飛び出した。

 

 三鷹駅に向かって走る。

 駅が見え、街灯が明るくなり、深夜でも行き交う車や人の姿が視界に入ると、ようやく呪縛が解けたように息が整い始めた。

 

 憔悴しきった私は、駅前のタクシー乗り場近くにあるベンチに座り込んだ。

 夏の熱帯夜。アスファルトからは熱気が立ち上っているというのに、私の背筋だけは、まるで雪山に放り出されたように冷たかった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 膝を抱え、ただそれだけを呟き続ける。

 明るい駅前の光の中にいても、私の周りだけは、まだあの深い闇が粘りつくように漂っていた。

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