第四話 硝子の天秤は釣り合わない
親戚たちが潮が引くように去っていった後の実家は、墓場のような静寂に包まれていた。
テーブルの上には、食い散らかされた寿司の桶と、空になったビールの瓶が、無惨な残骸のように散乱している。それはまるで、この「家族」という幻想の成れの果てを見せつけられているようだった。
広間には、私と西園寺弁護士、そして玲子、恵麻、父の五人が残されていた。
つい先ほどまで、女主人のように振る舞っていた玲子は、今は畳の上に力なく座り込み、化粧が崩れるのも構わずにハンカチで顔を覆っている。その背中は小さく、惨めに見えた。
「……さて。皆様がお帰りになりましたので、最終的なお話をさせていただきます」
西園寺先生が、事務的で冷ややかな声を響かせた。彼は懐中時計を確認し、手元の書類を整える。その動作一つ一つが、玲子たちにとっては死刑執行のカウントダウンのように聞こえるだろう。
「先ほど申し上げた通り、この家と土地は信託財産となりました。受益者である高遠美月様の同意がない限り、第三者の居住は認められません。よって、玲子様、および恵麻様には、速やかに退去していただく必要があります」
「退去って……そんな、急に言われても……行くところなんてないわよ!」
恵麻がヒステリックに叫んだ。彼女はまだ現実を受け入れられていない様子で、スマホを握りしめながら私を睨みつけてくる。
「お姉ちゃん、あんた頭おかしいんじゃないの? 家族を家から追い出すなんて、鬼だよ! ママが可哀想だと思わないの!?」
「可哀想?」
私は静かに問い返した。怒鳴り返す必要などない。感情を荒げる価値すらない相手だということに、ようやく気づいたからだ。
「恵麻ちゃん。あなたは、私の母が大切にしていたバッグを勝手に持ち出し、『似合わない』と嘲笑い、『タンスの肥やし』と言いましたね。あれは、母が初任給で祖母に買った、思い入れのある品でした。……他人の思い出を踏みにじっておきながら、自分たちが被害者面をするのは、少し都合が良すぎませんか?」
「そ、それは……ただ借りただけで……」
恵麻の視線が泳ぐ。彼女の腕には、まだあのケリーバッグがぶら下がっていた。
「返してください。今すぐ」
私は右手を差し出した。
恵麻は唇を噛み、バッグを抱きしめるようにして後ずさった。
「嫌よ! これ、私が使うんだから! お姉ちゃんには地味だって言ったじゃん!」
「恵麻!」
鋭い声が飛んだ。父だった。
父は真っ青な顔で立ち上がり、恵麻の手から乱暴にバッグをひったくった。
「パパ!?」
「いい加減にしろ! お前たちは……お前たちは、俺に何を見せていたんだ……!」
父の手は震えていた。その手から、バッグが私へと渡される。私はそれを恭しく受け取り、胸に抱いた。革の冷たい感触の中に、母の温もりが残っているような気がした。
「父さん……気づくのが、遅すぎますよ」
私が告げると、父は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。
「すまない……美月、すまない……。俺は、玲子がうまくやっているとばかり……。まさか、借金まみれで、お前の遺産を狙っていたなんて……」
「気づかないふりをしていただけでしょう? 揉め事を避けて、自分だけ安全な場所に逃げていただけです。母さんが生きていた頃から、ずっとそうでした」
私の言葉は、父の心臓を抉ったはずだ。父は何も言い返せず、ただ床を見つめて呻いた。
その時、啜り泣く声が聞こえた。玲子だ。
彼女は涙で濡れた顔を上げ、膝行するように私の方へ近づいてきた。
「美月ちゃん……ごめんなさい。私が悪かったわ。魔が差したの……」
その姿は、先ほどまでの傲慢な女帝とは別人のようだった。弱々しく、哀れな中年の女性。
しかし、その目にはまだ、計算の色が残っている。情に訴えれば、私が折れると思っているのだ。
「借金はね、私の実家の母が病気で……どうしてもお金が必要で……。それで、つい手を出してしまったの。恵麻のためにも、いい生活をさせてあげたくて……」
嘘だ。興信所の報告書には、実家の母の病気などという事実は記載されていない。すべては彼女自身の見栄と浪費、そして若い男への貢ぎ物が原因だ。
「美月ちゃん、お願い。この家から追い出されたら、私たち本当に生きていけないの。借金取りも来るし……。ねえ、私たち、家族でしょ? お父さんを愛した者同士じゃない。助け合いましょうよ」
玲子は私の足元にすがりつこうと手を伸ばしてきた。
その指先が私のスカートに触れる寸前、私は一歩後ろに下がった。
彼女の手は空を切り、畳の上に虚しく落ちた。
「……家族、ですか」
私は冷ややかにその言葉を反芻した。
この一ヶ月、彼女が私に向けてきた「家族」という言葉。それは呪いの言葉だった。搾取するための免罪符であり、私を縛り付ける鎖だった。
「お義母さん。あなたは、都合の良い時だけその言葉を使いますね」
「違うわ! 本当に、娘だと思ってるのよ!」
「娘だと思っている相手の部屋を荒らし、給料口座の印鑑を探し出し、精神的に追い詰めて遺産を奪おうとするのですか?」
「それは……あなたの為を思って……管理してあげようと……」
まだ言うか。
私は深いため息をついた。怒りよりも、呆れと哀れみが勝っていた。
「お義母さん。先ほど、西園寺先生が読み上げた信託契約の内容を覚えていますか? 受益者は私一人です。つまり、この遺産は、母が私を守るために遺した盾であり、剣なんです。あなたから守るためのね」
私は玲子の目を見下ろした。かつて私を見下していたその瞳は、今は恐怖と絶望で見開かれている。
「家族なら、奪わないでしょう」
私の声が、静寂の中に染み渡った。
玲子の動きが止まった。
涙を流す演技すら忘れ、彼女は凍り付いたように私を見上げた。
「家族なら、相手の大切なものを尊重し、悲しみを分かち合うものです。あなたは私の悲しみを利用し、母の思い出を金に換えようとした。……それは、家族のすることではありません。ただの泥棒です」
決定的な拒絶。
玲子の顔から、表情というものが抜け落ちた。これ以上、何を言っても無駄だと悟った瞬間だった。
「……西園寺先生、今後のスケジュールをお願いします」
私が促すと、西園寺先生は一枚の紙を玲子の前に置いた。
「退去期限は一週間後とします。それ以降、居座るようであれば、不法占拠として法的措置を執らせていただきます。また、お母様の遺産に関する不当利得返還請求、および精神的苦痛に対する慰謝料請求も検討中です」
「一週間……!? 無理よ、そんなの!」
「無理ではありません。ホテルでもアパートでも、ご自身で探してください。……ああ、それと」
西園寺先生は、さらに追い打ちをかけるように言った。
「高遠修一様より、離婚の申し出があります」
「えっ……?」
玲子が弾かれたように父を見た。父はまだ床に視線を落としたままだが、その口から小さな、しかしはっきりとした言葉が漏れた。
「……離婚だ。もう、無理だ」
「あなた、何を言ってるの? 私を見捨てる気!? 私には借金があるのよ!」
「その借金も、お前が勝手に作ったものだ。俺の退職金まで当てにして……。これ以上、お前と一緒にいたら、俺まで破滅する」
父は顔を上げ、玲子を見た。その目には、かつての愛情の欠片も残っていなかった。あるのは、厄介払いしたいという利己的な感情と、少しばかりの悔恨だ。
「恵麻もだ。お前ももう二十四だろう。働いて自立しろ。俺はもう、お前たちを養うことはできない」
「パパ、嘘でしょ!? 私、働いたことないんだよ!? 無理だよ!」
恵麻が泣き叫ぶが、父は首を横に振るだけだった。
父もまた、自分の老後と生活を守るために必死なのだ。玲子の借金を肩代わりさせられてはたまらないという、ギリギリの判断だったのだろう。
それは決して褒められた態度ではないが、玲子たちにとっては「宿主」を失うという、最も恐ろしい結末だった。
「そんな……嘘よ……こんなの、あんまりだわ……」
玲子はその場に突っ伏し、獣のような声で泣き始めた。今度の涙は、演技ではなく、本物の絶望からくるものだった。
自分の強欲さが招いた結果だ。母の遺産に手を出さなければ、少なくとも父との生活は続いていたかもしれない。けれど、彼女は天秤に欲を乗せすぎた。その結果、天秤ごと粉砕してしまったのだ。
「行きましょう、先生」
私は踵を返した。
もう、この人たちにかける言葉は何もない。
背後で響く泣き声と罵り声を置き去りにして、私は実家の廊下を歩いた。
かつて母と歩いた廊下。
柱の傷、壁のシミ、その一つ一つに思い出が宿っている。けれど、今のこの家は、あの頃の温かい家ではない。欲望と裏切りで汚された、ただの建物だ。
玄関を出ると、爽やかな風が頬を撫でた。
空は驚くほど高く、青く澄み渡っていた。
私は胸に抱いたケリーバッグを、ぎゅっと抱きしめ直した。
「高遠さん、大丈夫ですか?」
西園寺先生が心配そうに私を覗き込んだ。
「はい。……不思議ですね。もっと心が痛むかと思っていました。でも、今はとても……清々しい気分です」
「それは、あなたが正しいことをしたからです。お母様も、きっと褒めてくださっていますよ」
「そうだといいのですが」
私は空を見上げた。
母さん。終わりましたよ。
あなたの遺産は守りました。そして、私も守られました。
これからは、この遺産(愛)をお守りにして、私自身の人生を歩いていきます。
一週間後。
私は再び、実家の前に立っていた。
引越し業者のトラックが去った後だ。玲子と恵麻は、罵声を浴びせながらも、最後は借金取りからの電話に追われるようにして出て行ったという。父もまた、小さなアパートへ引っ越していった。
ガランとした家の中。
家具の跡だけが残るリビング。
私は全ての窓を開け放ち、風を通した。
淀んでいた空気が入れ替わり、新しい光が差し込んでくる。
この家は売却することにした。
信託銀行を通じて売却し、その代金は私の将来のために、そして一部は母が好きだった慈善団体に寄付することにした。
思い出は心の中にあればいい。物理的な場所に縛られる必要はないのだ。
「さようなら」
私は誰もいないリビングに向かって呟いた。
それは、玲子たちへの決別の言葉であり、弱かった自分への別れの言葉でもあった。
鍵をかけ、不動産屋に渡すための封筒に入れる。
門を出て、私は一度だけ振り返った。
庭の片隅に、母が植えた白百合が、一輪だけ凛と咲いていた。
風に揺れるその姿は、まるで私に手を振っているようだった。
「ありがとう、母さん」
私は前を向いた。
駅へ向かう足取りは軽い。
新しいヒールの音が、アスファルトに軽快に響く。
その音は、私の新しい人生のファンファーレのように聞こえた。
硝子の天秤はもう必要ない。
私は自分の足で立ち、自分の価値観で、何が大切かを測っていくのだから。
春の陽射しの中、私は迷うことなく歩き出した。
その背中には、もう誰の影も落ちてはいなかった。




