第二話 蚕食
葬儀から一週間が過ぎ、私の生活は表向き、日常へと回帰していた。
朝起きて身支度を整え、満員電車に揺られて会社へ行き、数字と契約書の山と格闘する。経理部での仕事は、私にとってある種の救いだった。貸借対照表の左右がピタリと合う瞬間や、複雑な計算式が解を導き出すプロセスには、感情の入り込む余地がない。そこには嘘も欺瞞もなく、ただ冷徹な事実だけが存在するからだ。
「高遠さん、ちょっといいかな」
部長に呼ばれたのは、昼休みが終わった直後だった。
私は手元の伝票をクリアファイルに挟み、デスクを立って部長席へと向かった。
「先日の忌引き、大変だったね。まだ落ち着かない時期だろうに、無理して出てこなくてもよかったんだよ」
部長の言葉は温かかった。けれど、私は首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます。でも、仕事をしている方が気が紛れますから」
それは本心だった。家にいたくない。あの、玲子と恵麻の支配する空間に一秒でも長くいたくない。残業でも休日出勤でも、何でも歓迎だった。
「そうか。あまり無理はしないように。……ところで、これなんだが」
部長が差し出したのは、年末調整に関する書類の束だった。通常業務の話に移り、私は安堵した。仕事の話をしている間だけ、私は「かわいそうな娘」ではなく「有能な社員」でいられた。
だが、どんなに時間を引き伸ばしても、定時はやってくる。
オフィスの窓から見える空が茜色から群青色へと変わる頃、私は重い足取りでタイムカードを切った。
帰宅する足が鈍る。最寄り駅の改札を抜けてから、自宅までの道のりが永遠に続けばいいのにとすら思う。
玄関のドアを開けると、甘ったるい香水の匂いと、煮物の匂いが混じった独特の空気が漂ってきた。玲子の匂いだ。
「おかえりなさーい、美月ちゃん」
リビングから玲子の声が飛んでくる。以前のようなよそよそしさは消え、妙に親密で、粘着質な響きを帯びていた。
「ただいま戻りました」
靴を揃えてリビングに入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
ダイニングテーブルの上には、食事ではなく、数枚の書類が扇のように広げられている。そして、上座には玲子が、その隣には父が小さくなって座っていた。
ソファには恵麻が寝そべり、スマートフォンをいじりながらスナック菓子を貪っている。
「ちょうどよかったわ。今夜はみんな揃ってるし、少し大事な話をしようと思って」
玲子は満面の笑みで私を手招きした。その目は笑っていない。獲物を追い込む狩人の目だ。
私はバッグを置くふりをして、胸ポケットのボイスレコーダーのスイッチを入れた。赤いランプが点灯したのを確認し、努めて冷静な顔を作って席に着く。
「大事な話、とは何でしょうか」
「決まってるじゃない、今後のことよ。お父さんも、美月ちゃんのことが心配で夜も眠れないって言ってるの」
玲子は隣の父に肘鉄を食らわせるように合図を送った。父はビクッと肩を震わせ、私の方を向いた。その顔には疲労と、妻への畏怖が張り付いている。
「あ、ああ……美月。お母さんが遺した財産のことなんだがな……」
父の声は蚊の鳴くように小さかった。
母が亡くなってから、父は急速に老け込んだように見える。いや、違う。母という防波堤を失い、玲子という侵略者に精神を侵食されているのだ。
「お父さん、もっとハッキリ言ってあげないと美月ちゃんが困るでしょ。……いい? 美月ちゃん。単刀直入に言うわね。お姉さんの遺産、私とお父さんで管理させてもらうことにしたの」
玲子はテーブルの上の書類を私の方へ滑らせた。
『遺産分割協議書(案)』と書かれたその紙には、すでにワープロ打ちで内容が記されていた。
私はその内容に目を通し、息を呑みそうになるのを必死で堪えた。
不動産(自宅):父・高遠修一が相続
預貯金(約三千万円):父・高遠修一が相続
有価証券その他:父・高遠修一が相続
そして、備考欄に小さく、『高遠美月には、解決金として百万円を支払う』と書かれている。
つまり、母が遺したすべての財産を父の名義にし、実質的に玲子が管理するということだ。私には手切れ金のような額を渡して、蚊帳の外に置くつもりなのだ。
「……これは、どういうことですか? 母の遺志とは随分かけ離れているように思いますが」
私が静かに問うと、玲子は眉をひそめ、大げさにため息をついた。
「かけ離れてなんていないわよ。お姉さんは家族を愛していたの。お父さんの老後、心配でしょう? 私たちが路頭に迷ってもいいって言うの?」
「父には十分な年金がありますし、退職金も残っているはずです。それに、母の遺産は母が自分の努力で築いたものです」
「あら、嫌だ。水臭いこと言わないで。夫婦の財産は共有よ。それにね、美月ちゃん。あなたには将来があるじゃない。若くて、稼ぐ力もある。でも、私たちにはもう時間がないの。今の生活水準を維持するだけでも、大変なのよ」
生活水準。その言葉に、私は怒りを通り越して呆れを感じた。
玲子の言う「生活水準」とは、月に何度もデパートで洋服を買い、友人と高級ランチに行き、エステに通う生活のことだ。母が節約して貯めたお金を、そんな浪費のために食い潰すつもりなのか。
「ねえ、お姉ちゃんさあ」
それまでスマホを見ていた恵麻が、口を挟んできた。
「細かいことグチグチ言わないでよ。家族なんだから助け合うのが普通でしょ? 私さ、来年あたり結婚するかもしれないんだよねー。その資金とかも必要だし」
「結婚?」
初耳だった。恵麻に恋人がいるという話すら聞いたことがない。
「ま、相手はこれから探すんだけど。でもさ、結婚式って五百万くらいかかるんでしょ? ママが『お姉さんの遺産が入れば、最高の式ができるわよ』って言ってたし」
恵麻は悪びれもせず、未来の夢を語る。母の死を、自分の結婚式のスポンサー決定のように捉えている神経が信じられなかった。
「恵麻の言う通りよ。この子にも幸せになってほしいし、それがお姉さんの供養にもなるわ」
玲子はさも美談のように語るが、論理が破綻している。なぜ、血の繋がらない娘の結婚式のために、私の母の遺産が使われなければならないのか。
「お父さん。……お父さんも、これでいいと思っているの?」
私は父を直視して尋ねた。父は視線を泳がせ、テーブルの木目を凝視したまま、絞り出すように言った。
「……玲子の言う通りだ。家計のことは、玲子に任せてある。お前はまだ若いし、一人で生きていけるだろう。協力してくれ」
失望。その二文字が胸に重く沈殿する。
父はもう、私の父ではない。玲子の操り人形だ。思考することを放棄し、その場を穏便に済ませることしか考えていない。
「……分かりました。父の考えは理解しました」
私は書類をテーブルに戻した。
「でも、これほど重要なことを、今すぐ即決することはできません。少し考えさせてください」
「あら、何を考える必要があるの? サインするだけよ。ハンコ、持ってるでしょ?」
玲子が身を乗り出し、私の鞄に手を伸ばそうとする。その強引さに、背筋が寒くなる。
「持ち合わせていません。それに、法的な手続きもありますから、一度持ち帰らせてください」
「法的? まさか、弁護士とかに相談するつもりじゃないでしょうね? そんなことしたら、家族の縁が切れるわよ。他人を介入させるなんて、恥ずかしいと思わないの?」
玲子の声が鋭くなった。図星を突かれた焦りと、支配下に置いていたはずの私が反抗的な態度を見せたことへの苛立ち。
「いえ、そういうわけではありませんが……四十九日の法要までには、お返事します。それまで待っていただけませんか」
私はできるだけ殊勝な態度を装い、頭を下げた。ここで完全に拒絶して、家を追い出されたり、実印を強奪されたりしては元も子もない。
「……チッ」
玲子が小さく舌打ちしたのを、私は聞き逃さなかった。
しかし、すぐに表情を取り繕い、猫なで声に戻る。
「分かったわ。美月ちゃんも急に言われて戸惑っちゃったのよね。四十九日ね。親戚も集まるし、そこで円満に報告できるようにしましょう」
玲子の目には、「四十九日までに説き伏せればいい」という計算が見て取れた。あるいは、既成事実を作ってしまうつもりかもしれない。
「ありがとうございます。では、今日は疲れたので休みます」
私は逃げるように自室へ戻った。
ドアを閉め、鍵をかけ、椅子をドアノブの下に噛ませる。これだけしても、安心はできなかった。この家の中に、安息の地はもうない。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
悔しい。
母さんが、どんな思いで私を守ろうとしていたか。
『美月、自分の足で立ちなさい。でも、本当に辛い時は、母さんが遺したものがあなたを助けてくれるから』
病床で、母は私の手を握りしめてそう言った。その「遺したもの」を、あの女たちは土足で踏み荒らそうとしている。
数日後。
休日の午後、私は「休日出勤」と嘘をついて家を出た。
向かった先は、都心にあるオフィスビルの一角。西園寺法律事務所だ。
「いらっしゃいませ、高遠さん。顔色が少し悪いようですね」
応接室に通されると、西園寺弁護士がコーヒーを出してくれた。彼の冷静な眼差しに見つめられ、私は張り詰めていた糸が少し緩むのを感じた。
「……家での食事が、喉を通らなくて。玲子さんの圧力が日に日に増しているんです」
私は、この数日間の出来事を報告した。
家中の洗剤や消耗品が、私専用のものだけ安物にすり替えられていたこと。
入浴中に、脱衣所のドアを執拗にガチャガチャと回されたこと。
そして昨夜、私の部屋の前に塩が盛られていたこと。
「陰湿ですね。精神的に追い詰め、判断力を奪う。モラルハラスメントの常套手段です」
西園寺先生は眉ひとつ動かさず、淡々と分析した。そして、手元のファイルを開いた。
「興信所からの調査報告書が届きました。ご覧になりますか?」
差し出された茶封筒。中から出てきたのは、玲子の「優雅な生活」の裏側を暴く写真とデータの数々だった。
平日の昼間、ホストクラブに出入りする玲子の姿。若い男にブランド品を買い与えている写真。
そして、さらに衝撃的な事実があった。
「彼女は、FX投資で多額の損失を出しています。その額、およそ一千万円。さらに、消費者金融数社からの借入があります。総額で八百万ほどですね」
「一千万……それに借金まで……」
私は絶句した。父の稼ぎで贅沢をしているだけだと思っていたが、現実はもっと深刻だった。
「彼女があなたの、正確にはお母様の遺産に執着する理由はこれです。老後の資金どころか、目先の借金返済で火の車なんです。自転車操業を続けるためには、お母様の三千万がどうしても必要なのでしょう」
「娘の結婚資金なんて、嘘だったんですね」
「ええ。おそらく恵麻さんには借金のことは伏せているでしょう。彼女もまた、母親に利用される駒の一つに過ぎません」
西園寺先生は、さらに別の書類を取り出した。
「そして、こちらが本題です。お母様が生前に作成された『遺言信託契約書』の公正証書正本です」
そこには、母の署名と実印、そして私の名前が記されていた。
『遺産は信託銀行が管理し、受益者を高遠美月とする。美月が三十歳になるまで、あるいは婚姻等により独立するまで、元本の引き出しは制限し、毎月の生活費および教育費として定額を給付する』
「お母様は、再婚当初からこの事態を予見していました。ご自身が亡くなった後、玲子さんが必ず財産を狙うだろうと。だから、玲子さんやお父様がどんなに書類を偽造しようと、ハンコを押させようと、遺産には指一本触れられない仕組みを完成させていたのです」
鉄壁の守り。
母の愛が、物理的な形となって私を守ってくれている。その事実に、胸が熱くなった。
「この信託契約は、遺産分割協議よりも優先されます。法的には、あなたの勝利は確定している。あとは、いつ、どのような形でそれを相手に突きつけるかです」
西園寺先生は眼鏡の位置を直し、私を真っ直ぐに見据えた。
「四十九日の法要。親戚一同が集まり、玲子さんが勝利を確信して遺産分割の話を持ち出した瞬間。それがベストなタイミングです。彼女の嘘と強欲を、公衆の面前で白日の下に晒すことができます。……やれますか?」
私は深呼吸をした。
怖い。正直に言えば、怖い。あのヒステリックな玲子が、事実を知った時にどう豹変するか想像するだけで震えがくる。
でも、逃げるわけにはいかない。
母の思い出を、あの汚れた手で触れさせるわけにはいかない。
「やります。……いいえ、やらせてください。母のためにも、そしてこれからの私の人生のためにも」
「分かりました。当日は私も同席します。あなたは、毅然としていればいい」
事務所を出ると、外はもう暗くなっていた。
ビルの谷間から見える月が、冷たく、鋭く光っている。
帰り道、スマートフォンの通知が鳴った。恵麻からだ。
『ねーお姉ちゃん、今どこ? ママがお姉ちゃんの部屋の掃除してあげるって張り切ってるよー。なんか探し物みたいだけど(笑)』
背筋が凍った。
部屋の掃除。それは名目で、実際は通帳や実印、あるいは母の遺言書を探しているのだ。
私は走り出した。
駅までの道を、ヒールが折れそうなほどの勢いで駆ける。
家に帰り着くと、私の部屋のドアが開け放たれていた。
中は、泥棒が入ったかのように荒らされていた。引き出しは開けられ、服は床に散乱し、本棚の本は投げ出されている。
「あら、おかえり。遅かったじゃない」
部屋の中央に、玲子が立っていた。手には、私の銀行印(私の給料口座のもの)が握られている。
「……何をしているんですか」
息を切らして問う私に、玲子は悪びれもせず笑った。
「掃除よ、掃除。美月ちゃん、片付けが苦手みたいだから手伝ってあげたの。そしたら、こんなところに印鑑が落ちてて。危ないわよ、ちゃんと管理しないと」
彼女の目は、探していたもの(母の通帳や実印)が見つからなかった苛立ちで濁っていた。私の給料口座の印鑑など、彼女にとってはどうでもいいのだ。本命が見つからない焦りが、その行動をより粗暴にさせている。
「勝手に入らないでください! ここは私の部屋です!」
私は思わず叫んだ。玲子の顔から笑みが消え、能面のような無表情になる。
「親に向かってその口の利き方は何? 誰のおかげでこの家に住めてると思ってるの? 家族なら隠し事なんてしないのが普通でしょ。あんた、何を隠してるの? お姉さんの通帳はどこ?」
玲子が私に詰め寄る。その迫力に、私は一歩後ずさった。
ここで「信託してある」と言ってしまえば楽になる。でも、まだ早い。今言えば、彼女は別の手段で私を攻撃してくるだろう。四十九日まで、彼女を油断させ、踊らせなければならない。
「……母の通帳は、貸金庫に預けてあります」
咄嗟に嘘をついた。
「貸金庫? どこの?」
「駅前の銀行です。鍵は私が持っていますが、手続きには時間がかかります。四十九日までには、すべて揃えておきますから」
玲子は疑わしそうな目で私をじろじろと見たが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「そう。ならいいわ。四十九日、楽しみにしてるから。もし嘘だったら……分かってるわよね?」
捨て台詞を残し、玲子は印鑑をベッドに放り投げて部屋を出て行った。
床に散らばった母との写真。踏みつけられた私服。
私はドアを閉め、その場に崩れ落ちた。
屈辱だった。自分のテリトリーを蹂躙されることが、こんなにも魂を削るものだとは。
でも、玲子。あなたは大きなミスをした。
私が部屋に仕掛けておいた、もう一つの小型カメラ。
今の一部始終は、すべて映像として記録されている。
私は散らばった写真を拾い集め、胸に抱いた。
あと少し。あと少しの辛抱だ。
あなたのその強欲さが、あなた自身を焼き尽くすまで。
私は硝子の破片のように鋭く、冷たい殺意を、心の奥底で研ぎ澄ませた。




