第一話 甘い毒、あるいは善意の仮面
窓の外を叩く雨音が、途切れることなく鼓膜を揺らしていた。まるで、今日という日に相応しい涙雨だ。黒い喪服に染み込んだ線香の残り香が、鼻先をかすめるたびに、胸の奥にある喪失感を鮮明に呼び覚ます。
母が逝ってしまった。
膵臓の病が見つかってから、わずか半年。あまりにも早すぎる別れだった。
最後のお別れを告げ、焼き場から戻ってきた自宅のリビングは、ひどく静まり返っていた。通夜から告別式、そして初七日の法要までを一気に済ませた疲労が、鉛のように身体にのしかかっている。
「美月ちゃん、お疲れ様。大変だったわね」
ふいに声をかけられ、私は我に返った。目の前に差し出された湯呑みからは、緑茶の湯気が頼りなげに立ち上っている。
顔を上げると、継母である高遠玲子が、心配そうな眉の角度を作って私を見下ろしていた。五十歳を迎えたとは思えないほど肌艶が良く、仕立ての良い喪服を身に纏った姿は、悲しみに暮れる未亡人というよりも、舞台の幕間に立つ女優のように見えた。
「ありがとうございます、お義母さん」
私は努めて弱々しく微笑み、湯呑みを受け取った。喉が張り付くように乾いていたが、熱い茶を一口すすると、少しだけ生きた心地がした。
「本当に、立派なお式だったわ。お姉さんも、あれだけ沢山の人に見送られて、きっと喜んでいると思う」
玲子は私の隣のソファに腰を下ろし、そう呟いた。「お姉さん」というのは、私の実母のことだ。父が再婚した時、私はすでに高校生だった。だから玲子は、私のことを決して「娘」とは呼ばず、あくまで「美月ちゃん」と呼び、母のことを「お姉さん」と呼ぶ。そこには奇妙な線引きと、同時に土足で踏み込んでくるような無神経さが同居していた。
「ええ……そうですね。母も、安心していると思います」
当たり障りのない返事を返す。心の中では、母が玲子のことをどう思っていたか、痛いほど理解していたけれど。
母は生前、決して玲子の悪口を言わなかった。けれど、父がこの人を家に連れてきた時、そして再婚が決まった時、母が一度だけ浮かべた諦めの表情を私は忘れていない。
「それでね、美月ちゃん」
玲子が少しだけ身を乗り出してきた。その声のトーンが、慰めから別のものへと変わる。獲物を見定めた爬虫類が、音もなく距離を詰めるような気配。
「これからが大変よ。役所の手続きだとか、相続のことだとか。若いあなたには、荷が重いことばかりでしょう?」
来た、と思った。
まだ骨壺も温かいうちから、この話が出ること。予想はしていたが、まさか帰宅して十分も経たないうちに切り出してくるとは。
「父さんもあんな調子だし……私がしっかりしないとね」
玲子の視線の先には、ダイニングテーブルの隅で、缶ビールを片手にぼんやりと虚空を見つめる父の背中があった。母と離婚してから十年以上。再婚してからも、父は家庭内の実権を完全に玲子に握らせ、自分は「仕事が忙しい」という隠れ蓑の中に逃げ込んでいた。今日もそうだ。妻である母の葬儀だというのに、すべてを玲子任せにして、自分はただ参列者のように振る舞っていた。
「お義母さん、ご心配には及びません。手続きのことは、少し落ち着いてから考えようかと……」
「あら、駄目よ。こういうのは早いうちにやっておかないと。それに、美月ちゃんは仕事も忙しいでしょう? 経理のお仕事って、月末月初は帰れないって言ってたじゃない」
玲子は諭すように、優しく、しかし有無を言わせぬ口調で言葉を重ねてくる。
「通帳とか、実印とか、保険の証書とか。全部私が預かって、整理してあげるわ。あなたはお母さんのことを想って、ゆっくり休めばいいのよ。ね? それが家族の助け合いってものじゃない」
家族。
その言葉が、私の胸の中で黒い澱のように渦巻いた。
この人は、私が母から受け継ぐはずの遺産を、自分のものだと思っている。母がコツコツと貯めてきた預金も、祖父母から受け継いだこの家も、すべて自分たちが使う権利があるのだと信じて疑っていないのだ。
「……そう、ですね。私の仕事が忙しいのは事実ですし」
私は伏し目がちにそう答え、肯定も否定もしない曖昧な態度を取った。
ここで拒絶するのは簡単だ。「結構です」と言えばいい。けれど、今ここで波風を立てれば、玲子はヒステリックに騒ぎ立て、父を巻き込んで私を孤立させるだろう。そうなれば、私が水面下で進めている準備に支障が出る。
「でしょう? よかった、分かってくれて。私、美月ちゃんのことが本当の娘みたいに心配なのよ。悪いようにはしないから、全部任せて頂戴」
玲子の顔に、安堵と、隠しきれない貪欲な笑みが浮かんだ。その笑顔は、まるで熟した果実を見つけた鳥のようだった。
「ただ……母の遺品整理もしないといけませんし、重要な書類がどこにあるか、すぐには分からないんです。少しだけ、時間をいただけますか?」
「ええ、もちろんよ。でも、あまり先延ばしにしないでね。ほら、相続税の申告とか、期限があるっていうじゃない? 素人が変に抱え込むと、後で損しちゃうかもしれないし」
損をする。その言葉の裏にあるのは、「私たちが損をする」という意味だろう。
玲子の金遣いの荒さは、同居してから嫌というほど見てきた。父の稼ぎだけでは満足できず、家計を握っていることをいいことに、私の給料にまで「家賃」と称して手を伸ばそうとしたこともある。そして今、彼女の目の前には、母が遺したまとまった資産という、あまりにも魅力的な「財布」がぶら下がっているのだ。
ガチャリ、とリビングのドアが開いた。
入ってきたのは、義妹の恵麻だった。玲子の連れ子で、私より三つ年下。大学を出てからは定職に就かず、家事手伝いという名目で実家に入り浸っている。
「あー、疲れたー。もう無理、この喪服。窮屈すぎて死にそう」
恵麻は不機嫌そうに言い捨てると、ソファにドカッと座り込んだ。黒いストッキングを無造作に脱ぎ捨て、テーブルの上のクッキーに手を伸ばす。
「こら、恵麻。お姉ちゃんの前で失礼でしょ」
玲子が軽くたしなめるが、その声に厳しさはない。むしろ、甘やかすような響きが含まれている。
「だってさー、今日ずっと立ちっぱなしだったじゃん。ママだって疲れたでしょ?」
「まあね。でも、今日は大事な日だから」
「ふーん。……あ、ねえ、ちょっといい?」
恵麻の視線が、ふいに部屋の隅にある仏壇の脇に置かれた、小さな桐箱に向けられた。いや、違う。彼女が見ているのは、その横に置かれた、母の遺品のバッグだ。
エルメスのケリー。母が若い頃に購入し、手入れをしながら大切に使っていたものだ。私は形見として、それを今日、葬儀の場に持ってきていた。
恵麻は立ち上がると、迷うことなくそのバッグに手を伸ばした。
「これさ、お姉ちゃんが使うの?」
彼女はバッグの留め具を勝手に外し、中を覗き込んだり、自分の腕にかけて鏡を見たりし始めた。
「……ええ、母の形見だから。私が使おうと思っているわ」
私が静かに答えると、恵麻は鼻で笑った。
「えー? これ、お姉ちゃんには似合わなくない? だって地味じゃん、お姉ちゃんの服。こういうのはさ、もっと華やかな服に合わせないと、バッグが可哀想だよ」
悪気のない、純粋な悪意。恵麻には「他人のものを奪う」という意識がない。「自分に似合うものは自分のものになるべきだ」という、歪んだ幼児性がそのまま大人になったような女だ。
「恵麻の言う通りかもねえ」
玲子が加勢する。
「美月ちゃんは、どちらかというと堅実な格好が多いものね。そういう高級ブランドは、使い慣れていないと浮いちゃうわよ。恵麻なら、来月の友達の結婚式とかで使えるんじゃない?」
「だよね! じゃあさ、これ私がもらってあげる。どうせタンスの肥やしになるだけだし、有効活用してあげた方がおばさんも喜ぶよ」
恵麻はすでに、そのバッグを自分のものとして抱きしめていた。
私の指先が、冷たく凍り付いていくのが分かった。
それは、母が初めてのボーナスで、祖母へのプレゼントとして買ったものだった。祖母が亡くなった後、母が譲り受け、私に「いつか美月にあげるわね」と笑って話してくれた、思い出の塊だ。
それを、「似合わない」「有効活用」などという言葉で、強奪しようとしている。
「……お義母さん、恵麻ちゃん。それは、母との思い出の品なんです」
喉の奥から絞り出した声は、震えていたかもしれない。それを玲子は「悲しみ」だと解釈したのだろう。彼女は立ち上がり、私の肩を抱いた。
「分かるわよ、辛いのは。でもね、物は物よ。いつまでも思い出にすがっていると、前に進めないわ。恵麻にあげれば、妹が喜ぶ顔が見られるじゃない。お姉ちゃんとして、譲ってあげなさいな」
家族。お姉ちゃん。
玲子はいつだって、自分たちに都合の良い時だけ、その言葉をカードのように切ってくる。
ここで私が怒鳴り声を上げ、バッグを奪い返せば、どうなるか。
『美月ちゃんがおかしくなった』『遺産を独り占めしようとしている』『妹に意地悪をする』
そんなレッテルを貼られ、親戚中に言いふらされる未来が見える。父も、「たかがバッグ一つで」と私を責めるだろう。
私は、ゆっくりと息を吐き出した。
感情を殺せ。
今はまだ、その時ではない。
母が教えてくれた、凛とした強さを思い出す。母は、こんな低俗な挑発には乗らなかった。ただ静かに、為すべきことを為していた。
「……分かりました。恵麻ちゃんがそこまで言うなら、今は貸しておきます」
「やった! さすが太っ腹~」
「あげる」とは言っていない。「貸す」と言った。
だが、恵麻の耳には届いていないだろう。彼女は戦利品を手に、スキップするような足取りで自分の部屋へと消えていった。
「ありがとうね、美月ちゃん。やっぱり、あなたは優しい子だわ」
玲子は満足げに微笑み、私の肩をポンと叩いた。
「それじゃあ、通帳と印鑑の件、探しておいてね。来週には銀行に行きたいから」
そう言い残し、玲子もまた、上機嫌でキッチンへと向かった。夕食の準備でもするつもりだろうか。今日という日に、母のキッチンに彼女が立つ音を聞くのは、拷問に近い苦痛だった。
私は逃げるように自室へ戻り、ドアを閉めた。
鍵をかける。カチャリ、という金属音が、私とあの醜悪な「家族」とを隔てる唯一の結界だった。
膝から崩れ落ちるように、ベッドに座り込む。
悔しさで、視界が滲んだ。
母さん。ごめんなさい。あの大切なバッグを、あの女に触らせてしまって。
爪が掌に食い込む痛みで、辛うじて理性を保つ。
私は震える手で、喪服のポケットからスマートフォンを取り出した。
そして、財布の奥に忍ばせていた一枚の名刺を取り出す。
『西園寺法律事務所 弁護士 西園寺 響』
母が生前、私に内緒で相談し、そして最期に私に託してくれた、希望のカードだ。
画面をタップし、番号を入力する。
コール音は三回。すぐに、落ち着いた低い声が応答した。
『はい、西園寺です』
その冷静な声を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れた。けれど、声に出すのは嗚咽ではない。
「……高遠美月です。西園寺先生、夜分に申し訳ありません」
『いえ、お待ちしていました。葬儀は無事に?』
「はい。……そして、先生の予想通りでした」
私は涙を拭い、鏡に映る自分を見つめた。そこに映っているのは、先ほどまでの弱々しい娘ではない。戦う決意をした、一人の女の顔だった。
「継母が、遺産の管理を代行すると言ってきました。通帳と実印を渡せと。それから、母の遺品も、すでに義妹に持ち出されました」
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。西園寺先生の、冷徹で、それゆえに信頼できる事務的な声が響く。
『典型的なパターンですね。録音は?』
「しました。リビングでの会話、すべて」
私の胸ポケットには、ペン型のボイスレコーダーが入っている。玲子の「私が預かる」「家族の助け合い」「私が管理してあげる」という言葉の数々は、すべて鮮明に記録されているはずだ。
『上出来です、高遠さん。向こうが「善意の管理者」を装ってくるなら、こちらはその仮面ごと剥ぎ取るだけです。……準備はいいですか? ここからは、感情ではなく、法律と証拠が武器になります』
「はい。お願いします」
「お姉さん」と呼ぶことでマウントを取り、「家族」という言葉で搾取しようとする玲子。
無邪気な顔で他人の大切なものを踏みにじる恵麻。
あなたたちが欲しがっているものが、本当に手に入ると思っているのなら、その浅はかさを後悔させてあげる。
「母が遺してくれたものを、あの人たちの欲望の餌食にはさせません。……絶対に」
私は通話を切り、スマートフォンを胸に抱いた。
窓の外の雨音はまだ止まない。けれど、私の心の中には、静かで冷たい炎が灯り始めていた。
四十九日。それが、決戦の日だ。
それまでは、従順な娘の仮面を被り続けよう。
甘い毒を盛られているふりをして、その毒を皿ごとひっくり返す、その瞬間のために。




