EP 28
『執事の受難、あるいは全方位からの陳情』
アルニア公爵邸、執務室。
そこは戦場だった。書類の山という名の塹壕の中で、筆頭家令エドガーは死んだ魚のような目でペンを走らせていた。
「うーむ……今日は竜人族の居住区画の改善案か。……え? 『鬼人族の子供が外壁にラクガキをして困っている』? ……そんなの、町内会で解決してくださいよ……」
魔界統合により、多種多様な種族が流入したアルニア。
文化の違いによるトラブルは日常茶飯事だ。エドガーの胃薬の消費量は、先月の三倍に跳ね上がっていた。
コンコン。
ドアをノックする音と共に、獣人の騎士が入ってきた。
「失礼する。エドガー殿」
レオパルド騎士団長だ。彼は真剣な眼差しで、分厚いファイルをデスクに置いた。
「我等がレオパルド騎士団の、来期の給金についての相談なのだが。魔界遠征の危険手当がまだ反映されていないようでな」
「は、はひぃ!?」
エドガーの口から奇妙な音が漏れた。
予算委員会は来週のはずだ。だが、現場の突き上げは待ってくれない。
「そ、それは財務部の方へ……」
「財務担当のゴブリンが『エドガー様の決裁印がないと動けない』と言っていてな」
「あいつらぁ……責任転嫁を覚えおって……!」
エドガーが頭を抱えていると、今度は窓から黒い霧が侵入し、実体化した。
魔王軍参謀(現・隠居魔王の付き人兼、公衆浴場ヘビーユーザー)のイガロスだ。彼は頭に手ぬぐいを乗せ、肌を上気させていた。
「おい、エドガーよ」
「ひぃっ!? イ、イガロス殿!? 窓から入らないでください!」
「貴様が作った大浴場のサウナだがな……温度と湿度は完璧だ。だが、中でペチャクチャと喋るオーク共がいて叶わん。サウナとは己との対話の場、静寂こそがマナーであろう?」
イガロスは腕を組み、傲慢に言い放った。
「何とかしろ。張り紙をするか、喋った奴を処刑する条例を作れ」
「な、何故……そんな事まで私が!?」
エドガーの眼鏡がズレる。
国家予算の話の直後に、サウナの風紀委員活動?
脳の処理が追いつかない。
「エドガーさん、ちょっといい?」
さらに、廊下から一番聞きたくない声がした。
この街の支配者、諸悪の根源(エドガー視点)、マモルである。
「……なんですか、マモル様。今は手が離せな……」
「エドガー、アルカ用の爪切り何処やったか分かる? あのウサギの絵がついた小さいやつ。アルカの爪が伸びててさ」
プツン。
エドガーの脳内で、何かが切れる音がした。
右には予算を迫る騎士団長。
左にはサウナにキレる魔族参謀。
正面には爪切りを探す魔王公爵。
エドガーは羽ペンをへし折った。
「……」
「……エドガー?」
エドガーは立ち上がり、肺の空気を全て入れ替える勢いで吸い込んだ。
「知るかああああああああああああッ!!!」
執務室の窓ガラスが振動で割れんばかりの咆哮。
「私はアルニアの行政官であり! 騎士団の財布でも! サウナの番台でも! お母さんでもありませんぞおおおッ!!」
エドガーは机をバンバンと叩き、鬼の形相で叫び続けた。
「レオパルド殿は来週出直して! イガロス殿は自分で注意して! マモル様は! いい加減! 自分の物は自分で管理してくださぁぁぁいッ!! 整理整頓は幼児教育の基本ですぞおおッ!!」
「ヒッ、ご、ごめん……」
「む、むぅ……」
「失礼した……」
三人の男たちは、エドガーの覇気に圧倒され、すごすごと部屋から退散していった。
静寂が戻った部屋で、エドガーは荒い息を吐きながら椅子に沈んだ。
「……はぁ、はぁ。……胃が……キリキリする……」
彼は震える手で引き出しを開け、胃薬を取り出した。
だが、その引き出しの奥に、ウサギの絵がついた小さな爪切りが入っていることに気づき、彼はそっと引き出しを閉じた。
「……見なかったことにしましょう」
それが、崩壊寸前の執事が見せた、ささやかな反逆だった。




