EP 26
『執事の帰還と、爪切りへの絶叫』
ルナミス帝国での外交交渉(と、マモルの為の胃薬の買い出し)を終えた筆頭家令エドガーは、満足げにアルニア公爵領の地を踏んだ。
交渉は完璧。これで領地の物流はさらに安定するはずだ。
しかし、街に入った瞬間、彼のアタッシュケースが手から滑り落ちた。
「……な、なんですかな、あれは」
エドガーは眼鏡の位置を直したが、幻覚ではなかった。
マモルマートの袋を下げて歩くオーク。
公園のベンチで日向ぼっこをするガーゴイル。
そして、カフェのテラス席で優雅にお茶をするサキュバス。
「領内に……魔族達が闊歩しておりますが……!?」
明らかに、世界の敵であるはずの魔族が、善良な市民として馴染んでいる。
エドガーは顔面蒼白で公爵邸へと走った。
***
「マモル様ッ!!」
リビングの扉を勢いよく開けると、そこにはコタツでくつろぐいつものメンバーがいた。
「あ、お帰りエドガー。お土産ある?」
マモルがのんきに手を挙げる。エドガーは肩で息をしながら詰め寄った。
「お土産どころではありません! これは……私がルナミス帝国に出張してる数日の間に、一体何があったのですか!?」
「えっと……それはその……」
マモルが言い淀んで視線を泳がせる。
代わりに口を開いたのは、ミカンを剥いていたフィリアだった。
「あのね~、マモルはね~、『魔王』になったんだよ! エドガーさん!」
「…………は?」
エドガーの思考回路が停止した。
時が止まる。
「そ、れは……? どう言う意味で……演劇の役か何かで……?」
「いいえ」
エルミナが追い打ちをかけるように、紅茶を飲みながら補足した。
「マモルさんは決闘で魔王サルバロス様を倒して、魔界の掟により全権を継承し、ワイズ皇国を含む全魔族領を治める事になったんです。つまり、世界征服完了ですわ♡」
「……………………」
エドガーの全身が、プルプルと小刻みに震え始めた。
公爵領の経営だけでも死ぬほど忙しいのに?
それに加えて、魔界全土? ワイズ皇国? 数億の魔族の管理?
「だ、だからさ……エドガー」
マモルが申し訳なさそうに、しかし縋るような目で執事を見た。
「そういうわけだから。……後はよろしくな」
その一言が、決定打だった。
「――おぅぇッ!!」
エドガーは白目を剥き、盛大に嘔吐いた。
許容量を超えたストレスが、物理的なダメージとなって彼を襲ったのだ。
「おい、エドガー! 大丈夫か!?」
マモルが慌てて背中をさする。
エドガーは膝から崩れ落ち、うわ言のように呟いた。
「魔王……領地経営……異なる法体系の統合……通貨レートの調整……外交問題……あぁ、胃が……胃が爆発する……」
「しっかりしろ! 君が倒れたら俺が困るんだ!」
マモルはハンカチでエドガーの口元を拭ってやりながら、ふと思い出したように言った。
「あ、そういえばさ。あと俺の『爪切り』何処に有るか知らない? さっきから探してるんだけど」
その瞬間。
死にかけていたエドガーが、バッ!と顔を上げた。
充血した目には、明確な殺意と、爆発した感情が渦巻いていた。
「知るわけねぇぇぇぇッ!!!」
公爵邸が揺れるほどの絶叫。
常に冷静沈着、丁寧な言葉遣いを崩さなかった完璧な執事が、ついにキレた。
「私は執事であり、貴方様の母親ではありませんぞおおおッ! 魔界の統治を押し付けた直後に! 爪切りの場所を聞くとは何事ですかあああッ!! 自分で探しなさいこのおたんこなすがあああッ!!」
ハァハァ……と肩で息をするエドガー。
マモル、フィリア、エルミナは、その迫力に押されて縮こまった。
「ご、ごめんなさい……」
静寂が戻ったリビング。
唯一、デュラスだけが、我関せずといった様子でコーヒーを啜り、新聞を広げていた。
「……ふむ。次のレースは『ヘルファイア記念』か。大穴狙いで行くか」
彼は静かにページをめくった。
エドガーの悲鳴も、世界の激変も、競馬の予想の前では些末なノイズに過ぎないのだった。




