彼女の名はシリカ
――フラウ様の背は、小さかった。
でも、そんな小さな背中が。
私を守ってくれたのだ。
シリカは夜な夜な、その光景を夢に見る。
炎を纏った光。
自らの悲鳴。
散った熱と、そして。
身代わりとなって自分を庇った小さな影。
その背は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
「どうしてあなたが、私なんかを」
以来、シリカはフラウに心を奪われていた。
あれは恩義ではない。憧れでもない。恋愛感情でも、友情でもない。
それは“信仰”だった。
「……お美しい……今日も、尊い……」
口には出さない。ただ、心の中で呟く。
小さく静かな湿った呪文のように。
彼女は古い血を受け継ぐ魔族であったが今はもう落ちぶれていた。
力を持たぬものは首を下げて強者に従うしかない。
だが心の中には強い情念が渦巻いていた。
昼下がりの食堂。
不器用にフォークを落とし、服を汚したフラウに、シリカは誰よりも早く反応する。
素早く駆け寄り、白いハンカチを取り出してしゃがみ込む。
「失礼します。動かないでください……私が……拭き取りますから……」
静かに、優しく、だがどこか震える手で――彼女の胸元を拭う。
(フラウ様の体温が、こんなにも近くに……)
本来、抱いてはいけない喜びが心の中に広がる。
「……また、触ってるのね」
冷たい声が背後から降る。
アメリアだ。
「言ったはずよ? 許可なくフラウに触れるのは――不愉快だって」
シリカは床に膝をついたまま、言い返すことなく項垂れる。
だが。
「……っ」
フラウが、さっと立ち上がりアメリアの手を取る。
その仕草に、アメリアの目がわずかに揺れた。
「……本当に、あなたって……誰にでも優しいのね」
フラウが自分を庇ってくれる。
それすらも――奇跡だと、シリカは思っていた。
(この優しさを、誰にも奪わせたくない)
その夜。
湯浴みの時間。
シリカは無言で、フラウの背を流す役を“偶然”担当していた。
「背中……失礼しますね」
泡立てた布を掌に包み、丁寧に丁寧に撫でるように洗う。
声には出さない。
けれど、心の中では。
(この肌は誰にも傷つけさせない、私が……私が、守らなければ)
フラウの一番近くにいたい。
だが今の立ち位置ではそれもままならない。
例えば。
そう、メイド長にでもなれば。
仕事の差配にももっと自由が利くようになるだろうか。
その為であれば自分はどんな努力でも惜しまないだろう。
(あの奇跡に焼かれてから、私はずっと、あなたの信徒なのです)
泡を流しながら、目を伏せたまま小さく笑みを浮かべる。
その笑みは、狂気ではない。愛でもない。
ただ、祈りに似た――魂の底から湧き出る信仰の形だった。