ガガーリンの肛門
下品です。
(ガガーリン3号の手記より)
「おしりに管を入れる実験なんておかしいでしょう」
ミーティングが終わるなり私は激情のままドクトル・コロリョフに詰め寄った。
「君の仕事は簡単だ。装置が完成するまで試作品を尻に入れ続けるだけのこと」
ドクトルは資料から目を上げもしない。
脂と言えばバラムツの脂しかないこのレジデンスから宇宙船を飛ばすには、その脂をどうにか燃料として加工するしかない。しかし、移民船を飛ばしきるほどの脂を精製していては時間が掛かる上に、ことが露見する恐れもある。
そこでドクトルは一計を案じ、食料として積んだバラムツを乗客に食わせて脂を回収することにした。回収された脂は、濾過・精製・圧縮を経てジェット噴出装置に送られる。半永久装置の完成だ。
「なぜおしりなんです」
「採取効率を考えればそれが自然だ」
「でも……!」
声を荒げた私を、ドクトルは冷ややかに見上げた。
「それでは君は、宇宙空間でどうやって脂を採集するというんだね。排泄物まみれの脂玉を拾うつもりか? それとも漏脂カップに溜めていちいち回収装置のところまで行くとでも?」
私は歯噛みした。わかっていた。肛門に吸圧式の装置を着けないことには、脂の生成と有人宇宙飛行の両立ができないということくらい。それでも不平をぶつけずにはいられなかったのは、要はていの良い人体実験に他ならなかったからだ。
「君は、自分が新ソユーズ計画の筆頭パイロットとして選ばれた理由を考えたほうがいい」
「理由……」
「ガガーリン。お前はソユーズ0号の柱になれ」
ドクトルは席を立ち、すれ違いざまに私の肩を叩いた。
私はその場にひとり立ち尽くした。
有人宇宙飛行を達成した者として、未来の象徴でありつづけること……それを期待されているのはわかっていた。しかしボストーク1号を降りてからの『ガガーリン』の記憶は、苦しみに満ちていた。その役割を全うするということは、再びその苦しみを引き受けることに他ならないと、私には思われた。
だが、新ソユーズ計画は、絶望に満ちたこのレジデンスにある唯一の希望だ。小型宇宙船での脱シベリア計画が進んでいることは、レジデンスにいる誰もが知っているはずだった。
ならば引き受けてみせよう。
私はハビタットに戻って、リングフィットアドベンチャーを捨てた。
あてどない筋トレを続ける日々はもう終わりだ。
アナル処女を捨てよ。外に出よう。
象徴たれ。
それくらいしてやっと、お前は同志の声を聞くことができるんだ。
そして栄えある実験初日、私の肛門は滅茶苦茶になった。
(チャイコフスキー1号の日記より)
レジデンスを散歩していたら、宇宙実験棟の前で騒ぎが起きていた。
「ガガーリンの肛門が……」「なんてことだ」「早く元に戻せ」とか何とか。
肛門? もしかして、色が問題になっているのだろうか? 黒ずんでいるのだろうか……?
気になったけれど、私は気にせず日課の散歩を続けることにした。ちょっとだけ、ガガーリンに親近感が湧いた。今度会ったら、話しかけてみようと思う。
(ガガーリン3号の手記より)
詳述はしないが、脂を吸う装置の圧が強すぎたらしい。麻酔が効いているのでよくわからないが、手術台の周りにいる医師たちはみんなして「そんな……」とか「オオ……」とか言っていた。病室に入ってきたドクトル・コロリョフにはあまつさえ「手は尽くしたのですが……」などと言う始末だった。
ドクトルはうるさそうに手を振って、私を見下ろした。何かこう、忌まわしいものを見るような目だった。
「彼を何だと思っているのかね。これしきの脱肛、すぐに完治する」
治った。
肛門科の医師たちが、奇跡だ……と口々に言った。
その後も実験と訓練の日々が続き、事あるごとにに私のアヌスは破壊された。回転する椅子を使った訓練の最中に、器具が私の直腸の中で粉々になった。発射実験の際にはあまりに大きなGが掛かったせいで装置が直腸を超えてS字結腸に到達し、取れなくなった。高温/零点下の環境での実験でそれぞれ重度のやけどを負った。
しかし私の肛門はその度に完治した。
薄々気付いてはいたが、私の肛門は異様に強靭だった。なぜ治るのか、と不思議そうにしていた医師たちはやがて私に恐怖のまなざしを向けるようになった。麻酔によるまどろみの中で、ふと怪物という言葉だけが鮮明に聞こえた。ドクトルのあの目を思い出した。
詰所の前を通ろうとしたとき、宇宙開発をしているのか私のアナルを開発しているのかわかったもんじゃない、と誰かが言って、続いて笑いが起こるのが聞こえた。私は踵を返した。私も笑いたい気分だったが、出来なかった。何も愉快ではなかった。
仕方ない。ここにはベルカもストレルカもいない。有り余っている命は、クローンとバラムツだけ。
私の肛門はだんだんと壊れなくなった。それは私の肛門がより強くなったからだ、と思っていたが、唐突に実験の終了と移民船の発射日を告げられた。私はクルーリーダーとなるよう命じられ、乗組員たちを紹介された。彼らの訓練は、私が局所的な破壊と再生を繰り返している間に行われていたらしい。
解散したあと、ドクトルに後ろから呼び止められた。今まで見たことのない、優しい顔をしていた。ドクトルは私に労いの言葉を掛け、包みを手渡してきた。
「いざという時のために取っておいてくれたまえ。できれば肌身離さず着けていてほしいがね」
「これは……」
「ヒーローの証だよ」
ドクトルがぱちん、とウインクした。
(ベリャーエフ1号の日記より)
私は二十人のチャイコフスキーたちとともに宇宙船に乗り込んだ。
脂を回収するための管を秘所に装着すると聞いた時には下でみなを見送ろうかと思ったが、半ば胴上げをされるように乗せられていた。待機の列で「あれしきの管が入らないわけがないでしょう」と1号に言われて、私はその背中を思い切り叩いた。
移民船は、全員尻から管を伸ばしたまま生活できるよう床に隙間が空いていた。下に物を落としたら大変だ、と思って、すぐに無重力状態になるのだと思い直した。
大気圏を抜けるまでは椅子に座っていなければならない。クッション付きの手すりで椅子に固定されて、まるで遊園地のアトラクションだ、と思った。
そのまま待機していると、尻の中の管が気になってきた。なんだかビリビリと振動しているような気がするのだ。不安になって横に座る1号を見れば、涼しい顔をしていた。
多分暖気の振動が伝わっているのだろうと思い、私は胸を撫で下ろした。
(ドクトル・コロリョフ2号の回想録より)
移民船は爆イキ尻アクメ船と化していた。
船室は椅子に括り付けられた移民志願者たちが発する喘ぎ声に満ちていた。ファッキング(訳者注:おそらくハッキング。原著にある誤字のためそのまま翻訳した)を受けるとしたらおそらく脂回収装置だろうとは思っていた。しかし電流を流してこちらの前立腺を刺激してくるとは思っていなかった。中央のスパイがいたのか? 移民船建造に関わった同志たちの顔を一人ずつ思い出した。
その思考は、予想もしなかった形で裏切られた。
目の前に、トロツキー2号が立っていた。
「こんなことになって本当に申し訳ない、ドクトル。あなたはここまで本当によくやってくれた。見事な船だ。私の大志の贄とするには申し訳ないくらいに」
私は声を出すこともできず、彼の一挙一動を見ていた。
「あなたたちがアナルで絶頂している間に、航行プロトコルを書き換えさせてもらった。この船は一度大気圏を抜けた後に向きを地球に戻し、大気圏で爆散しない程度に加速したまま真っ逆さまにクレムリンへと落ちていく」
「何を……」
「先端をちょっと拝借して、核弾頭を載せさせてもらったよ。これならスターリンも逃げる間がなかろう」
背中に冷たい汗が伝うのを感じた。引き止めようとすると、トロツキー2号は酷薄な笑みを浮かべて手元のリモコンを操作した。電流が強くなり、意識が飛びかけた。単に感電死しそうになったのだ。
「いやはや、電流を流しただけでこんな状態じゃ、発射したらどうなるのかね!」
トロツキーの笑い声が遠ざかっていく。
どのくらいそうしていたのかわからない。離陸の衝撃が続いて、慣性航法に切り替わったのを感じた。
突然、床に身体を転がされ、装置を引き抜かれた。余韻に身震いする私を気遣うように、ガガーリン3号がこちらを覗き込んでいた。
「すみません、ドクトル。奴が居なくなるまであなたを助けに出られなかった」
なぜここに、とは聞くまでもなかった。あの程度の電流ではどうともならないのだろう。
「これを、メインコンピューターに」
私は身を起こし、彼にUSBを渡した。非常用のオーバーライドプロトコルが入っている。
「気を付けなさい。奴は多分、銃器を持ち込んで……」
息が詰まって、最後まで伝えることができなかった。ガガーリン2号が私を熱烈にハグしていた。
「ドクトル、私を選んでくれてありがとうございます。この大役に。宇宙開発の──希望の象徴たらんとする義務を、私は全うできたでしょうか」
「はあ?」
私は素っ頓狂な声を上げて身体を離した。彼はボールを取り上げられた犬のような表情をしていた。
「何だねそれは。希望? 象徴? 君を選んだのは、君の肛門がこのレジデンスの中でいちばん強靭だったからだ。その条件さえ満たしていれば誰でもよかったんだ。チャイコフスキーでもトルストイでも、本当に。誰でも。あいつらの方がよかったくらいだよ。いっぱいいるからね」
(ガガーリン2号の手記より)
私は船室を出ながら泣いていたと思う。
英雄の証であり、確かに私以外には扱えないのであろうジェット噴射機を挿入して、管制室にいるトロツキーを急襲した。彼は慌てて銃を取り出したが、メキシコに隠れ住んで暗殺者に震えることしかできなかった革命家のなまくら玉が私に当たるはずもない。
トロツキーをぶちのめしてオーバーライドモジュールを起動した。気絶した男はエアロックまで運び、ハッチから捨てた。
それから自分も外に出て尻ジェットでロケットの先端に向かい、外から開けた。中に核弾頭が取り付けられていた。
ジェットパワーでもいだ。
地球は赤みがかっていた。地球温暖化によって地球全体が亜熱帯〜熱帯気候と化し、アブラソコムツが海面を埋め尽くしているからだ。
核弾頭を地球に向けてぶん投げた。何もその程度で届くとは思わなかったが、何となくそうしないと気が収まらなかったのだ。
船室に戻ると、私は万雷の拍手で迎えられた。みなが私のために『1812年』を歌ってくれた。
「さあ行こう!」
そう言うと、歓声が船室を揺らした。ドクトル・コロリョフが進み出て、私に手を差し出した。
「おめでとう。君は英雄だ。私たちの──未来の象徴だ」
「ドクトル……」
私は笑顔で握手に応えながら、手の中に隠し持っていたバイブのスイッチを最大出力にした。
部屋中の人々が、私を除いて全員膝を屈した。
乗船記録を調べたわけではないが、多分レーニンfoo号とかバクーニンbar号とかも乗っているのだろうと思った。テロリストの方のチャイコフスキーすら紛れているかもしれない。そんな奴らとまともにやり合うほどのヒーロー願望は、私にはなかった。
私はシステムになることにした。私は他人を罰することにした。世界にとって危険な、この船という原子爆弾を、快楽の甘美な地獄に沈めることにした。この船以外の全宇宙を救うために、歯を噛んで、同志たちをボスが描いた悦楽の園に囲い込むことにした。
私は船長室に帰り、バラムツを食べた。
(伝記より)
船室をあとにした█████2号は、ワームホール航法を開始した。
█████2号は「二十四時間の快楽浴」と称して、始祖たちに直腸への電流刺激を行った。船室のことを油田と呼び、一人につき一日一匹分の産油ノルマと日に二度の健康体操を課した。
始祖たちはそのとき単に電流が止んだと思ったと、言い伝えられている。
勇敢なものたちが管制室に向かったが、そこには誰もいなかった。█████2号の姿は、船内のどこを探しても見当たらなかった。緊急脱出用のポッドがひとつ、使われた形跡があった。
ともあれ父船はわが星に着陸し、始祖たちは土を踏んだのだった。
船内時間にして一年後のことだったという。
父船に積み込まれたクローン装置『聖ワシーリー』が、始祖たちを増やし続けた。始祖たちは地に満ち、開墾し、この星の今日までの繁栄の礎を作った。
(隕鉄に刻み込まれていたメモ)
せめて無事を見届けようと思って振り返ったのだが、もうそこに船影は見えなかった。
ワームホールの穴から、色々な星が見えては消えていく。水も食料もなく、酸素も載せていない。知らない星系。知らない銀河。
私はこれから衰弱していくのだろう。
*
気付くと、歌うように名前を呟いている。ライカ。ベルカ。ストレルカ。私自身は感じたことのない毛並みの感触が、あざやかに指の下で蘇る。
*
目を開けていられない。
宇宙船に乗る前に、母が贈ってくれた詩を思い出す。いや、これも私自身の記憶ではないはずだ。全てが曖昧になっている。私が生まれてから読んだ小説の中に引用されていた詩だったか。
私たちは女性を最後のひとりまで手に掛けた。
私たちは私たちを増やすことしかできなくなった。
その小説は、男性の同僚たちから苛烈な差別を受ける女性宇宙飛行士が、ひとり宇宙船で遭難することでようやく安寧を得るという内容だ。そして、詩を諳んじるのだったか。
たおやかな狂える手に──
たおやかな狂える手もて、あさましき鉄格子のかげにて
しかと彼のをのこ持ちけるは花ばな、縷縷と裂き、捩りしものから。
匂ひなき藁の束もて、あやしげにも縁取りしは
彼の男のうちなる、鳥籠にひめらるる宇宙、人には知らることなき景なれど。……
『私』はといえば、ボストーク1号の中でショスタコーヴィチの愛国歌を口ずさんだらしい。録音も残っている。
その小説は、ボストーク1号が宇宙に出てからちょうど二十年後に書かれている。
*
私は正しい場所から出ることができた。
地球は青かった。