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ネットの向こうにるものは



 喧噪とした空気が体育館の中にたちこめる。あちらこちらで、嵐の雨がトタン屋根を打ちつけるような、ボールが弾む音が聞こえる。滝原は、すべての対向する衝撃を許容し、時の流れに身を委ねる心を整えた。


 彼が集中するためには、特に変わった声を出す必要もなければ、その場で二度三度跳躍してみせる必要もなかった。ただ、しゃがんだ自分の顔の位置よりも遙かに高い、ネットの一番上、白帯と呼ばれる部分を見つめるだけでよかった。


 「サーブカット!」


 そうやって、チームメンバーが口々に、相手のサーブを上手く返球しようという趣旨のかけ声をあげる。そうすることで、自分たちのボルテージを徐々に上げていくのだ。このかけ声は、ほとんどどこのバレーボール部でも使われているようだが、それぞれの学校によって、イントネーションが微妙に変わる。


 そして、チームのボルテージが最高潮に達する頃になると、このかけ声はピタリと止む。ゲームキャプテンである滝原が、その場を制して、「いくぞ!」と怒鳴るのだ。そうすることによって、チーム内には一瞬、最高の研ぎ澄まされた集中が起こり、すべてのメンバーの心が一つになる、気がするのだ。


 虎視眈々と相手のサーブを待つ間の、滝原以下、朝日中バレーボール部は、まさに、獲物を遠くで見定める猛虎のように、鋭い目つきをしている。この威圧感こそが、この、朝日中バレーボール部の最大の強みだった。



 その視線の中で、ネットの向こうから、サーブが放たれる。ジャンプサーブだ。


 そのジャンプサーブを放ったのは、相手チームの裏エースと思われる、長身で肉付きのいい選手だ。彼は、これまでにもこの試合の中でジャンプサーブに挑み、何度か成功させていた。


 彼のそのサーブは、まず、手のスナップで高速回転するトスが体育館二階席の手摺りぐらいまで高く上がり、少し落ち始めたところで、助走を付けて空を駆けるように跳躍した彼の右手の平にはじかれ、空気をえぐるような回転を保ったまま相手コートに突き刺さる。彼のサーブが調子よく決まり出せば、並みのレシーバでは上向きにボールをレシーブすることすら難しいほどだった。



 今回も彼は、そのジャンプサーブを成功させた。どこで成功か失敗かを決めるのかと言えば、放たれたボールが、ネットのギリギリ上辺りを通過するか、それともかなりネットの上を水平移動していくか、はたまたネットに衝突して下に落ちるかの違いだが、今回のサーブは、ネットのギリギリ上を通過し、回転の影響でさらに空気を広く巻き込んで、いわば最高の気道を描いていた。


 サーブを放った本人は勿論、それを見守っていた相手チーム、レシーブをするために身構えていた朝日中メンバーも、誰もがそのサーブが決まったかと思った。


 しかし、それはただの早とちりだった。そのボールは、意外にもあっさりと、それでいてそのことが最初から約束されていたかのように、丁度落下点の真下にいたエースレシーバーによって、易々とセッターの手元に向かって上げられた。



 「ナイスレシーブ!」



 ベンチから、歓喜の声が湧き起こった。この時点で朝日中バレーボール部の思考はフル回転する。



 ―――よし、相手はまだ、サーブが決まったと思って緊張が緩んでいる。これを逆に強打アタックで決めることができれば、確実に流れはこっちに来る。それには、できるだけ、相手がレシーブ体型に入る前にボールを返さなければいけない。それには、速攻しかない!―――



 瞬間的に、作戦は決定された。「試合の中での状況判断とは、頭でするのではなく体でするのだ」とは、朝日中バレーボール部顧問の言葉だ。その通り、試合中の即時対応を一から百まで体に叩き込まれた朝日中メンバーの動きは速かった。


 まず、エースアタッカーでもある滝原が、「ビークイック!」と叫ぶ。クイック攻撃とは、ネットすれすれの高さに上げられたトスを、疾風の如く飛び上がったアタッカーが即座に地面に叩き付ける攻撃であり、ビークイックとは、そのクイック攻撃のトスを、高さはそのままで、距離を長めにしたものだ。


 滝原の「ビークイック」という声を聞くか聞かないかのうちに、セッターは滝原のいるレフト方向に体を向け、レシーバーは相手のブロックでボールが跳ね返ってきた時のために滝原の近くに詰め寄り、ベンチでは勝利の歌を歌い出すために大きく息を吸った。



 セッターの手から、まさにネットすれすれの、弓から離れた矢のように直進するトスが上げられる。そのトスが上げられる時には、既に滝原の足は床から離れて、体は宙に飛び出していた。


 ほんの刹那のことではあったが、水平に飛んできたボールが顔の前まで来ると、滝原の体はバネが圧力から解放されたように、体の反りが一掃され、元に戻ろうとする力によって、ボールは床へとたたき落とされた。


 これは、明らかに決まりである。主審は、笛を鳴らすまでも無かったが、それでも、試合を進行する上での形式的なルールのために、一度だけ笛を吹いた。


 地面に柔らかく着地した滝原の足に、凝りから解き放たれた快感のような、ビリビリと来る衝撃が走った。それは、客観的に見れば、彼の痛点を何かが刺激したために感じた痛みだったが、彼の主観では、それは心の底から湧いてくる歓喜に似たものに変換された。そのため、彼はしばらく、足がしびれたように鈍痛を感じていることに気付かなかった。


 彼がこのように、相手の攻撃から、綺麗な形でクイック攻撃をすることができたのは、これが初めてだった。だから彼は、自分のバレーセンスが今ようやく一段成長したのではないかという達成感を得、更には、実は今までにも偉大なるバレーセンスが自分の中には備わっていたのではないかという錯覚を起こすぐらいに、自分の叩き込んだアタックにほれぼれした。


 だからこそ、しばらく、彼はネットの向こう側の異変に気付かなかった。



 「タイム、タイム!」


 野太い男の声がした。滝原がそちらを見ると、相手チームの顧問が、顔を真っ赤にし、足をグッタリとぶら下げている選手を抱えて、特に焦る様子もなく審判に手で「T」の文字を作って見せていた。


 滝原には、すぐに、何となく現在の状況が見えた。顧問に抱えられた彼は恐らく、滝原のビークイックに何とか反応して、滝原が打ち終わった後にブロックをし、その着地をする時に、既に着地していた滝原の足にぶつかるか乗っかったかして、着地を失敗したのだろう。バレーをする上では、よくある事故だった。


 滝原はしばらく、ネットの向こう側で、足を引きずりながらコートを退場する彼の姿を眺めていた。彼は、やっちまったよとでも言うように、ベンチの仲間に向かってはにかみ、一瞬不甲斐なさそうに何度も瞬きをした。彼はそのまま、会場の奥まったところへと退いていく。


 本来なら、滝原は、怪我を負わせてしまった彼に対して、「ごめんなさい、大丈夫ですか」などと、言葉をかけに行くのがマナーだった。が、彼は、どうしてもわざわざ彼に頭を下げる気にはなれなかった。



 一つは、自分がまさしく今、初めて大技を決めたことで、心が浮き足立っていることもあった。調子に乗っている間は、気分の盛り下がるような行為はしたがらないものだ。例えそれが理性に反することでも。


 二つ目には、彼の怪我は彼が勝手に自分の足を踏んづけて、勝手に転けただけだという思いが急に募ったこともあった。

 実際、滝原の足は着地した時、相手コート側に大きく飛び出していたわけではなく、強いて言うなら、ブロックをしに跳んだ相手の足が滝原の足めがけて飛び出していたのだ。



 滝原は、心の中で、自業自得、と呟いた。


 そして、よっぽど酷い怪我ならば、後で謝っておけばいいか、と自分を納得させた。


 でも、タイムが終わって主審が笛を鳴らすと、急に滝原に嫌な感覚が芽生えた。生暖かい、もそっとした液体が、食道をゆっくりと上昇していくような感触だ。それは、喉の近くまで来ると、小さなゲップになって体外に排出された。


 滝原は大きく一度深呼吸をする。彼らにもたもたとしている暇はなかった。背後からサーブが打たれ、再び試合は動き出した




 ピィーと、主審が笛を鳴らし、両手を水平に広げる動作をして選手たちをさがらせる。試合は終わった。結局、25対16で、滝原の率いた朝日中バレー部が圧し勝った。


 両チームの選手が、それぞれのコート端のラインに整列し、主審がもう一つ笛を鳴らすと、威勢良く、あるいは萎え気味に声を出して礼をした。



 「集合!」


 滝原の声とともに、チームメンバーが顧問の前に集合する。普段は、なかなか試合後に甘い顔を見せないその顧問だったが、今回は、いきなり怒鳴りつけるような素振りもなく、ただ、充実感のある視線を部員たちに投げかけていた。


 「まあ、今回はあれだな、練習試合らしい試合ができたな。滝原、一本いいのあっただろ。あーいうのが今まで練習してきたやつだから、試合でできたってことで、まあ、そのうち身につくだろ。あと飯島も今回はトスが乱れてなかったからな」


 滝原は、セッターの飯島とともに、顧問の話に間の手を入れる度に、どこか照れくさいような気分になった。自分らの放った一本が、試合の流れを作ったのだ。


 「でも、滝原、一応あの怪我した子には謝ってこいよ。お前は悪くないかもしれないけど、どっちにしろ、お前の足にぶつかって怪我したのには変わりないんだから」


 顧問は、滝原にだけそう付け加えた。それを言われると、滝原は、また、あのもそっとした感触が戻ってきたような気分になって、照れるどころではなくなってしまった。



 滝原は、面倒な話だと思った。自分がいくら褒められるようなすごいプレーをしても、相手の単純なミスで、何故か、自分が悪者のように扱われてしまうのだ。


 これは自分の意志とは全く関係のないことだ。そう、他人の意志と、自分の意志が、互いに不調和し、反発し合った末に起こったことだ。どうしようもなかったといえばそうだが、しかし、これはもっとも双方にわだかまりを作るケースだ。



 心の中では投げ出してやりたい気持ちを抑えて、その怪我人の姿を探した。あれからそれほど動いていないはずだ。そう思って見てみると、彼の姿はすぐに見つかった。


 思い切って彼に駆け寄った。彼は、氷の入った袋を、靴下で縛り付けるようにして右足の足首に当てがい、やや右足を上に釣り上げて、安静にしていた。彼は、しばらく滝原が近寄ったことに気付かなかったようで、その姿勢のまま、滝原が声をかけるまで、漠然と自分の足首を眺めていた。


 「あのぉ」


 滝原は、険悪な表情で、彼に声をかけた。声をかけられた相手は、特にこれと言った動揺もなく、ただ、こくりと頭を擡げて、滝原の顔を仰ぎ見た。彼もまた、剣呑な表情を顔に表していた。どうやら、相当足は痛むらしい。


 そこでようやく滝原は自制を効かせて、何とか自分のできる最良の笑顔を取り繕った。相手もまた、自分と同じく、バレーボールを現在自分が生きていく上での存在理由レーゾンデートルとして奮闘している一人だと言うことを思い出したからだ。


 「さっきはすいませんでした。足は、大丈夫ですか?」


 自然に、言葉遣いが丁寧になる。相手は恐らく同じ年、同じ学年の中学生だ。それでも、彼にはその実年齢を凌駕する大人っぽさがあったし、滝原自身にも、そのオーラを解析できるだけの容量があった。


 怪我をした彼も、それが当たり前だというように、丁寧な敬語を使って返事をした。


 「あ、はい、大丈夫ですよ。それに、着地を失敗したのは僕の方でしたから、こちらこそすいません」


 そう言うと彼は、所在なさげに目を泳がせて、それを隠すように、口元を引き上げて笑顔を作った。



 滝原が推測するに、この大人びた丁寧な怪我人は、自分の怪我に対して、相当負い目を感じているようだった。彼の体格は、見た目滝原よりも一回りでかい。それに、筋肉も相当付いている。多分彼の所属しているチームでは、エース候補の一人なのだろうと滝原は直感する。


 だが、彼の欠点は恐ろしく不器用だということのようだ。見た目からして分かる。見れば分かる。どちらかと言えば、筋肉のよく付いた体は、偉丈夫というよりも筋肉馬鹿という感じを覚えさせるし、顔つきにしたって、一見丹誠なようで、よく見れば微妙にずれていたりする。


 要するに、彼は不安定な人間だった。


 滝原は、すぐにそのことを結論づけた。なぜそのような判断ができたかと言えば、滝原はこれまでにも、彼のような、不安定で、不器用な、それでいて、それを隠すためにひたすら丁寧と調和を演じる人間を、何度か見たことがあった。そして、それらの人物と、今回の彼の印象は、悉く符合していた。



 そう思うと、滝原は、彼に対して、愛着ににた感情を抱いた。できれば、もう少しとりとめのない話をしていたいと思った。滝原は、自分と合う相性に関しては、不安定という項目は絶対に外さなかった。


 しかし、滝原の望むようにはいかないようではあった。このあとにも、朝日中バレー部の試合を控えている。試合と試合の間のインターバルは十分間だ。滝原は、適当に彼から離れ、急いで水分補給でもして、次の試合に備えようと決めた。



 滝原が一回ペコリと頭を下げて、その場を立ち去ろうとすると、相手は、最後に一つ付け加えるように言った。



 「でも、すごいアタックだったよ。抜かれた僕が、悔しいとも思えないぐらい」



 「……心にもないことは言わないでくださいよ」 滝原は口が腐りそうであった。何をやっているんだろうと正気に返る。できるだけ振り返らないようにして、その場から立ち去った。まだ、嫌な感触は喉に残っていた。どちらかといえば、前よりも強く感じるようになっていた。



 滝原は、チームの輪の中で、水分を補給しながら、なんとかこの妙な感触を消し去ることに勤めた。しかし、その感触は、取り払えば取り払おうとするほど、酷くなっていくようだった。そして、それはついに吐き出してしまいそうになるが、滝原の口から漏れるのは、ただ、甘苦い臭いを漂わせる息だけだった。





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