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仰げば愛しき



 前奏から、旋律の綺麗な曲だった。


 確か、今年か去年かの全国音楽コンクールの課題曲で、最近人気を博している男性歌手の別れの歌だ。聞くところだと、かなりリズムが速い。最近の歌が大抵そうであるように、この曲も、高音と低音の移り変わりが激しい。この曲を、合唱用に作り替えた編曲者は、かなりのお手並みだ。



 しかし、やはり歌い手は普通の中学生だった。二年だけで、二百人ほどはいるようだが、まだ声の出が甘い。本物の歌手を一人呼んでこれば、マイクなしでも、歌声の大きさでは十分勝てるだろうと思う。それに、女性パートと男声パートでは、かなりリズムのズレが感じられた。まるで輪唱をしているようだ。


 曲の一番が終わって、結希のピアノソロになる。自分がその場で弾いているかのように、緊張して、手の平にじんわり汗が滲む。確かこの間奏の部分は、家で練習していた時も、何度もつまずいて、やり直していたところだ。きっと、本人も不安に違いない。



 結希は、その後、予想通りに手を滑らせて、一つ二つ音を外した。


 まさか本人の前では言えないが、これでは式の雰囲気が台無しである。いや、もとから、この曲を歌った時点で雰囲気は軽くなっていたかもしれないが、それでも、結希がそのミスをしたことで、確実にその後も二年生の合唱はずれていったし、場内に、無言のざわめきで、小さな震動が起こったようだった。


 ふう、まったく、相変わらず安心して事を任せられない奴だな。と、娘の成長率の伸び悩みを憂いつつ、それでもやっぱり、トンチンカンなところも結希の長所ではあるな。と、いつもと変わらない娘の性格に安心した。このさい式の雰囲気なんてどうでもいい。



 最近、俺自身、前と比べて子煩悩になってきたと思う、最近、ようやく父としての自覚ができてきたのかもしれない。ミヨさんと結婚したばかりの時、俺は、ミヨさんの娘の事なんて考えている余裕がなかったから。それに、突然、思春期に入りかけた女の子の世話を見ろと言われても、無理な話だった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 半ばおろそかに式が進行していく中、様々な思いが彼の頭に浮かび、再び沈んでいった。


 大人になるということは、時間をうまく使うようになると言うことである、と、彼は、いつか読んだ人生本の一節を思い出した。確かにそうなのだろうな、と彼は思う。そして同時に、それが本当であれば、自分はまだ子供のままだなとも思った。時間は彼にとって、変わらず自分とは違った世界を流れるものであって、彼は、時間を使いこなすどころか、それに触れることさえもできなかった。



 五年の内に、たった五年だけの間に、人は大きく変わる。五年の間に、水島は広林になり、二人の思春期の娘を持つ父となった。そして、その娘たちも、五年の間に、小学生から中学生になり、一人は、今まさにその中学とも別れを告げようとしている。


 劇的な変化がそこにはあった。その場に立ち会わせた元水島は、それを、ひどく客観的に眺めた。



  娘たちの中で、自分とは何なのだろうと彼は考えた。



 もし、彼が実世子と結婚していなくても、実世子の娘たちは生まれていたし、中学も卒業したのだ。そして恐らくは、高校に進学し、大学を出て、仕事を見つけた頃にはパートナーもでき、その次の世代にも、同じような人生を歩ませていったのだろう。


 ならば、彼が実世子と結婚したことによって、この娘たちにはどのような変化がもたらされたのか。彼は、必死になって考えた。それは、今、娘の卒業式に立ち会っているからという一過性の理由からではなく、もっと昔から、考え続けていた一つの研究課題のように思えた。


 が、いくら考えても、彼女らの運命を変えるようなきっかけは、彼の中には備わっていなかったとしか考えられなかった。これには、彼は打ちのめされるかのような絶望感を覚え、逆に、大きな責任から解放されたという安堵も感じられた。或いは、それを得るために、勝手な妄想をしていただけかもしれないとも思われた。



 兎に角、結論としては、彼は、彼の血の繋がらない娘たちにとって、空気のような存在であった。それも、立場としては、窒素。



 彼は、いつでも娘たちのそばにいて、何かしらのアクションを起こしているけれど、別に、それによって彼が何か娘たちに干渉するわけでもないし、娘たちもまた、殊更に意を込めたリアクションをするわけでもない。


 それに、彼がいても娘たちは何の違和感も感じないし、むせ返ることもないが、彼がいないと、それはそれで多少落ち着かない程度。彼なしでも娘たちは生きていけるけど、彼だけでは味気なくて退屈してしまう。


 そんな立場の中で、彼が父親としての意識を持つことは、考える以上に稀なことだった。



 彼はふと、中学生時代を思い出す。あらゆることに対しての向上心が冷めてしまった彼にも、思春期とか青春とかいう時代はあった。大人はみんな、かつては子供だった。 


 彼の中学生時代は、現在のように、自分の行く末に見当をつけることなどはできなかった。自分の未来など、ほとんど考えてさえいなかった。だからこそ、そこには明るい毎日があったし、だこらこそ、ここに今の自分がいる。


 彼が懐かしい中学校の、接着剤の匂いが立ちこめていた技術室、どことなく鼻につくような、そわそわする感覚を思い出すと、それとともに、今はもう顔を合わせることもない異性の幼なじみの声を思い出した。



 家が隣同士、小中高と同じ学校で、中学では三年間同じクラス。キャンプや修学旅行でも同じ班で、文化祭ではそれぞれロミオとジュリエットの役をした。周囲からは運命のカップルと呼ばれ、相手からは腐れ縁と言われた。



 そんな彼らが、互いに惹かれ合うのは、説明する必要もなかった。



 水島は、そんな頃の自分を考える。その頃は、すべてのことに無関心を装い、それでいて、実は、すべてのことに大きく影響を受けていた。大きな情熱に対して、クールを全面に出す自分がいたが、本心では、誰よりも突飛な答えを求めていた。


 しかし、どちらにしても、不安定な恋慕の後先など考えてはいなかった。考えることはできなかった。考えていたら何もできなかった。彼は、中学での恋愛行為が、何にも発展しないということを知っていた。彼は、自分の柔な情熱を庇うために、すべてにおいて無関心でいて、思惟しないことを決め込んだ。



 彼女は今、どこにいるのだろうかと、水島は急に、揺れうごく水の中で、一滴の油が赤々と燃えるような情熱を感じた。久しく感じ得なかったエネルギーだ。


 彼女に会いたい。その思いが込み上げた。今や、炎は浜辺に打ち消える荒波となって、闇の浸透した世界を、果てまで淡く照らした。彼には、この感覚をまだ忘れてはいなかった。中学の時に突然訪れ、青春の終わりを知ると、それとなく、そして心の奥底に捨ててきた思いだ。



 彼女に会いたい。彼女が何をしているのか知りたい。彼女と会って話がしたい。彼女と会って、そして、あの後のことを聞きたい。高校を卒業し、二人それぞれ、共に歩むことの叶わぬ路を進み出したあとのことを。教えて欲しい。あの後も、自分をどう思っていたのかを。


 彼の心は、大きく震え上がった。情熱という名の希望が、音を立てて、何か今までそれを封じ込めていた栓を押し飛ばして、激しく噴き出したのだ。



 もしかしたら、自分には、かつて他の生き方も用意されていたのかもしれない。しかもそれは、現在の、不安定で、成り行きに任せるしかない人生とは違った、もっと堅固なものだったかもしれない。この人生をやり直すというのは虚しい希望だが、しかし、今からその人生を変えることもできるかもしれない。



 そのような希望を持つことが、現在の人生を裏切ることだというのは、彼自身、よく分かっていた。けれど、彼は、情熱的で、破滅的な希望に賭けたかった。今の自分に満足していないと言うことを彼は躊躇いもなく認めた。



 彼は最早、思春期の、あの、何も予期せずに猛進する、余りにも無頓着で、仮面の清潔をかぶった情熱に身を任せていた。それは大いなる逆成長であり、そしてまた、自分に用意されていた、正しい一歩を踏み出すための覚悟であった。



 彼は、一日でも早く、あのころの希望に再会したいがために、今、こうして他人のように思える娘の卒業式を眺めている自分を、焦る気持ちでむち打った。


 彼は今すぐにでも、こんな長々とした、形ばかりの儀式をぶちこわして、それよりももっと有意義なことがあると言うことをここにいるすべての少年少女たちに教えてやりたかった。



 卒業生の総代が、答辞を贈った。総代は、目に大粒の涙を浮かべ、迫り来る感情にむせびながら、最後まで、用意された文章を読み切った。総代が顔を上げる。その目には、まだ涙が溢れるように浮かんでいた。


 総代が一礼をし、それに合わせて、会場全体が礼をする。


 「卒業式歌 仰げば尊し」


 典礼と共に、指揮者が、場内中央に置かれた式台に登る。その顔にも、つい先刻の涙の後が残っていた。


 一瞬、音という音がすべて消えてしまったかのように、静寂が訪れる。指揮者が両手を振り上げた。卒業生たちが足を開く音が響く




 仰げば尊し 我が師の恩


 教えの庭にも はや幾年


 思えばいと疾し この年月


 今こそ別れめ いざさらば



 朝夕なれにし まなびの窓


 蛍のともし火 つむ白雪


 忘るる間ぞなき この年月


 今こそ別れめ いざさらば 



 

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