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この日、娘が卒業するそうです




 ――――――――――――――――――――――――――――


 中学校の卒業式、それは何年ぶりのことだろうか。大学を出たのは7年前、高校を出たのはそれに4を足して11年前。中学の卒業は、14年も前のことになるのか。中学を出てからの14年は、長いようで、思い返してみれば短かったな。


 ……月並み過ぎる感想しか出てこないのも、その14年間を月並みにしか生きてこなかったからかな? まあいい。今更心残りなんてものも思いつかないんだ。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


  男は、どこかくたびれた風のあるパイプ椅子に深々と腰掛け、前方の大きなひな壇で延々と話をしている市議会議員の声をどこかに受け流しながら、そのようなことを考えていた。


 彼が今いる中学校の体育館では、粛々と、卒業式が執り行われていた。そして彼は、その体育館の、舞台に向かって右端の保護者席、一番在校生たちに近い席に座っていた。耳を澄まさずとも、ほとんど意味無く参加している二年在校生たちの、あくびの声や、軽く身じろぎするときに生じる、時計の秒針が動く音に似たパイプ椅子の軋みなどが、聞こえてくる一だった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 それにしても、俺は今年で30になるから、丁度、今年の卒業生の二倍生きているわけだ。それを言ったら、人の成長っつうのは変なもんだな。最初の15年は、ろくに喋れもしない赤ん坊から、一気に至る所毛が生えた大人モドキになるってのに、そっからの十五年は、何か成長するもんなんてあるのか?

 ほくろの数とかが増えたりするのか?


 なんにしても、俺は、あのときから何一つ成長してこなかった気がするな。今も未だ、何かに浮かされてて、時に無関心で、たまに情熱的だ。そういう自分を客観的に見つけることができるようになったのは、一種の成長かもしれない。でも、そんなスキルはあのころから持ち合わせていたかもしれない。ま、何にしても、今となってはどうしようもない話だ。


―――――――――――――――――――――――――――――



 男は、式前に配られた、人工的で落ち着いた感じのする、空色のプログラムを口に当て、周囲に悟られないように、大きくあくびをした。


 余りの気怠さにに、つい、いつものような、甲子園大会の試合開始音が調子を外したような声を出しそうになったが、右隣に座っていた、清潔で小ぎれいなおばさまに視線で咎められ、慌てて口を閉めた。


 男に、よもや厳粛な式典をぶちこわすような気は無かったが、それでも、式に参加している二年在校生たちのように、適当にやり過ごして、早く帰ろうという思いは抑えられなかった。



  男は、そもそもどうして自分が、年甲斐もなく卒業式なぞに参加しているのかということを考える。


 答えはすぐでた。彼の娘がこの卒業生だからだ。そして、彼は、紛れもなく、その15歳の平成っ子の親なのだ。それならば確かに、娘の新しい一つの門出を見送ってやる義務は当然あるだろう。


 しかし、彼は、そのような実感を、ついぞ持つことができなかった。先刻、卒業証書授与で、娘の名前が呼ばれて、それに合わせて、娘が威勢のいい返事をした時にようやく、そのような感覚が湧いてきていたのだが、それから数分の内に、すぐ、長編小説を読み終わった後のような興奮は冷めてしまった。一人の親としては、誠に不徳の致すところである。


 だが、彼にも、そのように、自らの娘に対しての、芸能界でもてはやされる子役たちの話題がニュースで取り沙汰されることに対しての感情に似た、一種の無関心には、一応、れっきとした理由があった。


 そのことを考える上で、彼は、一つの通らざるを得ない関門のように、現在の妻の顔を思い出した。


 彼の配偶者は、娘の歳などからしてみれば当たり前のことだが、彼よりも、だいぶ年上の女性だった。軽く四十路を越えた、分類学上は初老の女性である。そして、彼女は、今なお誇り高く職務を遂行する、優秀な看護師であった。


 結婚したのは四年前だ。詰まるところ、今卒業生として式に参加している娘と彼は、血が繋がっていない。



 今の彼に、余計なことを考える時間は腐るほどあった。そして、頭が腐り出す前に、彼には絶えず何かを考えていく必要があった。彼の顔面は、その中と上唇に強力磁石が入っていて、互いに引き合っているかのように、あくびが出れば目蓋が下がり、目蓋が下がれば口が開いた。


 彼は、この眠気を取り払うためには、とりあえず、自分と、妻との出会いを思い出さなければいけないような気がした。彼の家族のことを考える上では、やはりそれも、回り道の許されない、厳重な関門であるかのように思われた。



 まず、彼とその妻とが初めて出会ったのは、今から五年前のことだった。今思えば意外ではあったが、彼女の働く病院でではなく、彼が現在でも働いている、会社内でのことだった。


 その時の彼の旧姓は水島で、今の苗字、つまり、妻の苗字は、広林だった。別に、彼が広林姓に婿養子に入った訳ではない。ただ、干支一回り分ほど年の違う相手に対して、様々な面で強気になれなかっただけだ。


 そこら辺の話は、順序としては、もっと後の方だ。



 兎に角、彼らの出会いは、五年前、出世の希望がない小企業の平社員だった水島と、水島の働く会社の健康診断に出向いていた、当時既にアラフォー看護師だった広林が、記憶にも残らないような、文字通り無残で影薄の男性医師を介して対面したのが最初だった。


 その時の彼らの印象は、繕いようもなく、ただ、万人の行き来する交差点で、軽く方をぶつけ合った程度の、その場限りのものだった。広林の方からすれば、水島の存在というのは、数万匹と檻の中で縮こまりながら、自分の運命も知らずに、青や紫色をした液体を注射されるのをただ待っている、実験用モルモットの中の一匹程度の認識さえも無かったかもしれない。


 当時の彼女に興味があったのは、その頃から注目を集め出した、メタボリックシンドロームなる生活習慣病起爆剤と、血圧値、血糖値、中性脂肪値との関係性と、(恋愛相性など、決して興味本位なものではない)血液型と個々の性格、習慣的差異、集団的同調性ぐらいだった。


 そして、そのアカデミックなほど横文字と計算式の羅列で埋まった彼女の思考に、生理的欲求が直に介在することは不可能であった。


 そのようなわけだから、この第一の接触で、二人に生じた変化は無かったと推測された。実際、本人らの間でも、言われなければ思い出せなかったぐらいの、些細な接触だった。これだけならば、ただの偶然だった。


 しかし、その二人の出会いが一段飛ばしに運命的になったのは、彼らにとって忘れもしない、二度目の邂逅だった。これは、その後の成り行きから言えば、偶然の域を越えていた。



 水島が、社内の健康診断を終えて2ヶ月余り、次なる人間ドックを行うために、最寄りの県立病院にバイクで向かっていた途中、急に原因不明の発作が彼を襲った。胸の中で、緊縛と内爆発が交互に繰り返されるような痛みだ。


 彼は、意識が遠のいていく中でただ本能的にブレーキをかけ続けたが、それも虚しく、彼の意識が完全に飛んだ瞬間、バイクは横転して、対向車線に飛び出したところを対向車に正面衝突した。


 バイクは大破し、彼の体も、衝撃で歩道まで吹っ飛んだ。さながら、自動車の衝突実験で、暴走する車に乗せられた人体模型が、シートベルトをつけずに壁に激突して、フロントガラスを突き破って外に飛び出す時のように、彼の体は頭から中に放たれ、放物線を描いて、余りにも無造作に、そして無慈悲に歩道のアスファルトに激突した。


 周囲には、その瞬間、軽石を歯で粉砕したような鈍音が絶望的に響き、事態をいち早く飲み込んだ女性の、甲高い、空襲警報のような悲鳴が轟いた。


 普段通り歩道を行き来し、その事故に居合わせた人々は、我先にと事故現場の半径2,3メートル以内から離れようとし、また、騒ぎを駆けつけた野次馬たちが、現場を一目でも見ておこうとして、現場に近付こうとする流れも起こり、丁度その先陣をきっていた人々は、互いに押され合って、そこでもまた小さな人身事故が起きた。


 これは、彼も後で知ったことだが、事故直後の地方紙の夕刊では、「白昼の惨劇」という見出しが躍った。



 そして、この「白昼の惨事」によって、良きも悪きも、彼の人生は大きく転換される。



 彼は、その当時のことを思い出す時、必ずと言っていいほど、自分の幸運と奇跡というものに感謝した。彼が、今こうして娘の卒業式に参加しているのも、その事故で一命を取り留めたためであるし、強いて言うならば、その事故に遭遇したおかげだった。


 彼は、自分の体が目に見えぬ強力な力で地面に叩き付けられた時、運良く、比較的鍛えられていて頑丈だった腹から強打し、致命傷を避けていた。これが頭からであったら、いくらヘルメットを被っていても、致命傷は避けられなかっただろう。


 しかも、いろいろな意味で奇跡的だったのは、事故現場が救急病院の玄関前だったことだ。事故現場に居合わせたある男性が、冷静な判断ですぐに救急車を呼んだところ、丁度彼が立っていた場所が救急車出入り口で、飛び出した救急車によって、危うくけが人が一人増えるところだったという。


 兎に角、何かの天佑で、彼を乗せた救急車は、近年稀に見る最速搬送記録を更新した。そして、まさに救急の、迅速な手当によって彼は一命を取り留めた。翌日の新聞には、「白昼の惨劇 しかし 目の前に病院で一命とりとめ」という見出しが紙面を飛び跳ねた。


 そして、ようやくここで、現在の彼の妻である、広林 実世子と出会ったわけである。



 水島は、そこまでの一連の流れを、アルバムを一枚一枚めくるように、丹念に思い返した。そうして懐古してみると、彼は、自分の思い出に、ほとんど何の潤色もないことに驚いた。


 当時の記憶は、彼が丹念に呼び覚まそうとすればするほど、克明に、色彩のある光景として、目を閉じればまぶたをスクリーンにして映し出された。


 彼にとって、五年前のその記憶というのは、過去、現在、未来という時間軸ではなく、彼の心の中に広がっている次元の中で流れる(止まっているかもしれない)時間軸では、ほんの少し前のことに思える出来事だし、また、それは、彼が呼び起こせば、現在と同時進行で起こすこともできる、何か、普遍的なものだった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 「在校生 送辞」



 その典礼で、直ぐ隣に座っていた二年生たちが、ズザッと二拍子で、朝顔の芽の成長ハイライトのようにどこかか丸みを帯びた動作で立ち上がった。


 どうやらこれから、お決まりの贈る言葉が始まるらしい。……と、思わせぶりで、この中学校では、在校生総代の子が舞台に上がって送辞を贈り、その後に、在校生全員で歌を贈るのだ。少し胸が騒ぐのを感じる。この「贈る歌」も、今回俺が式に参加した一つの目的だ。



 「総代、2年3組 大平 達眞。指揮、小路 玲奈。伴奏、広林 結希」



 広林結希……俺の二人目の娘だ。いや、正確にはミヨさんの二人目の娘だ。俺の歳から考えればすぐ分かることだが、俺がミヨさんと結婚した時には、既にミヨさんは、二人の子供を抱えていた。ミヨさんはそれまで、シングルマザーだったのだ。



 在校生総代の男の子が、ゆっくりと、落ち着いた面持ちで舞台の上に登った。式場内では、その間の時間が、妙に長く感じられる。それは、静まりかえった場内で、微かな呼吸の音や、パイプ椅子のきしむ音が、不規則なリズムを作りだしているからかもしれないし、それとは別に、大勢の群衆が、寡黙で、微動だにしない状況というのを、我々があまり体験していないからかもしれない。


 総代の子が話し始めた。いやに演技がかった声をしている。彼が、それで精一杯頑張っているつもりだというのなら、心から思ってはいなくても、表情が自然にほくそ笑んでしまいそうだ。少なくとも、俺が彼の同級生なら、その場で噴き出してしまいそうだな。


 彼の声には、誰の指導も受けずに、自己流で練習を積んできたような自信が感じられる。その分、どこか独りよがりで、激情的な感傷が見え隠れするのは、恐らく若さと経験の少なさだろう。そして、一番の問題点は、マ行が上手く言えていないということだ。



 「……以上、在校生、送辞。平成22年 3月9日 在校生総代、大平達眞」


 結局、マ行の言えない総代クンの送辞は、校長の式辞以上に長い記録でフィニッシュした。多分彼も、これほど長い文章を音読したことは初めてだろう。そして、これほどマ行を言わなければならなかったのも。(彼は、自分の名前の「たつま」さえも、「たつば」と言った!)何にしても、愛着の湧く存在ではあった。


 その、マだめ総代が、ぺこりと一礼をすると、合わせて生徒全員が礼をし、続いて、お持ちかねの、次女の晴れ姿だ。普段、破天荒でトンチンカンな結希も、こうして厳粛な雰囲気の中で黙って姿勢を正していれば、それなりに清楚に見えるものだ。


 結希の姿は、結希がピアノの前に座ると、揺れ立っている二年の男子たちに隠れて見えなくなった。少し、身長の高い男子ばかりが端に集中していることを疎ましく思ったが、ピアノの伴奏は聴けるから、俺は満足だ。



 場が真に静まりかえると、指揮者が華奢な右手を高く掲げ、勢いよく、大魚を捌くように振り下ろすと、それを合図に、結希の伴奏が始まった。

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