勇者の一分 上
夜、穏やかで、慢性的な生活を自ら意図して離れた廣士たちは、困惑していた。
彼らが、中世的で、封建社会の闇がはびこる世界に足を踏み入れたのは、およそ三ヶ月前のことだった。
この世界は、一見両側を軽く引けば容易く解けてしまう結び目のように簡潔で素朴な秩序によって統括されているかのように思われた。
だが、その実、封建が支配する秩序の中枢を操る、所謂王族や貴族、軍務卿などといったごく限られた世界では、それぞれの国益、利害、それに伴う合従連衡。はたまた、国家の転覆を狙い、革命派の魁首にならんとする革新論の拡大など、様々な意図の渦巻く混沌とした情勢が続いていた。
そして、このたび廣士たちが現世の地球よりはるばる召喚されたのは、まさにその情勢を抑えるためである。そして、まだ個々の少年として、抗う術を持たなかった彼らは、ただ時流に身を任せるかの如く、混沌の支配する世界を仰ぎ見た。
廣士たちに与えられた情報は、彼らを召喚した異星の大国、南の王国が、産業、財政ともに乏しい隣国のクーデターによって成立した新政権に宣戦布告を言い渡され、それに同調して、同盟関係にあった小国家どももその勢力に加担したこと。更には、南の王国と様々な面々で力の伯仲している、西の王国も、虎視眈々と、その情勢を吟味しているということだ。
未だ中学生の彼らにも、一つの世界で、一時は二大勢力によって思惑という盛り土の土台に築かれた鍔迫り合いの秩序が、地面から突き抜けて、土台にまで到達した虫によって足下から崩されていくのが垣間見られた。この世界では、今まさに、歴史は一つの方向性を持った濁流に飲み込まれようとしていたのだ。
しかし、それに逆比例するかのように、廣士たちが召喚された南の王国はもとより、この異星に浮かぶ巨大な石亀のような大陸の上では、いつになく不安定な均衡が続いていた。
彼らの耳に、この大陸で争いがひとつでも、どこかで巻き起こったなどと言う情報は、まったく入ってはこなかった。そしてそのような状況が三ヶ月続いていた。
廣士たちが、決戦を目の前に、それまでの猶予に、雨風をしのぎ最良のもてなしを受けさせるために、提供された王宮の一室から窓を通して眺める景色にしても、全くと言っていいほど変化がない。見えるのは、幾何学的に配置された深緑の針葉がしげるスギと、その間からのぞく、どこか、手に入りそうで遠く及ばない終の棲家を発見した時の安堵と焦燥に似た、ばんやりとほの白い空。
それが、窓の外に写真が貼られているのではないかと思うほど、日によっても変化することなく、ただ朝夕の明暗の移り変わりだけを、変化として受け止めているだけだった。そのような空模様が三ヶ月続いていた。
宮廷を歩く使用人、貴族、王家の顔にしても、同じだった。
優雅と高貴が行き交い、中心地ならではの活気が溢れることがもっともその場に似合っている、街道のように長く広く続く廊下でも、ぽつりぽつりとした下級の使用人の孤独な通行があるのみである。
仮にも国が戦時体制にあるというのだから、どこからともなくとも、ぴしっと決め込んだ、上げ底長靴の曲げ髭軍人が隊列を組んでゴツゴツとそこら辺を行進していてもおかしくはない時節柄だというのに。
時には、廊下を通る人々が、ロールプレイングゲームで、主人公たちにヒントを与えるためだけに配置され、一定の距離、方向を徘徊することを一生の使命とされた名も無き村人たちと同じような、誰か、人間の手の届かない何かによって意図的に配置されたポイントでしかないのではないかと思われた。
更には、その人々自体も、同じ時間、同じ場所で、同じ愚痴をぼやきながら生きる、必然的なデジャビュに不覚を感じながらも、このようなものなのだろうという妥協と認知バイアス的効果によって、腫れ物を避けるように看過しているようだった。
これまで、大きく、早く、止めどなく渦巻いていた世界は今、朧なとぐろの模様だけをとどめた、巨大な、石化した蛇となって、人々の心の中に重くのしかかっていた。
「どうなってるってんだ? この世界は」
廣士は、自らに用意された豪華な個室の中、深い闇に飲み込まれていくような錯覚を覚えさせるほど柔らかなベッドの上、寝そべりながら呟いた。
まさに彼の心は、果てしなく広がる渦潮に吸い込まれていくようであった。そして、そのまま、彼は深い眠りに就いた。
そのベッドの中で、彼は夢を見た。
自分が、鷲か、梟のような、狡賢い猛禽類になりはてて、全く明度のない世界を、ただ一人飛んでいる夢だ。そこでは、自分一人という訳ではない。
地上には、黒く不透明な川のほとりで羽を休めている、自分と同じようでまったく違う鳥たちがいて、自分より上空でも、はるかに大きな翼をもった鳥が、けだるそうにゆっくりと翼を動かし、どこかを目指している。
この世界では、彼の体は彼のものではなかった。翼を思い通りに動かそうとしても、決して翼は、それまでの平均的な揺らぎを中断したりはしなかった。目線でさえも、正面以外を見ることは許されなかった。
廣士には、この世界が、夢によって構成されているとはまったく思えなかった。なぜなら、夢に支配され、意志の届かぬところで体を制御されている、檻の中のカラスのような、虚弱で狡獪な自分の姿を更に客観的に見透かしている、自分の視点が他にあったからだ。
その視点だけは、地下深く潜り込むことも、空高く舞い上がることも、自由に自らの意志が決定できた。
そして、改めて、今の自らの姿を見る。
しかし、いくらそれを眺めても、それに対して、何ら感情を湧き起こすことはできなかった。無限に不可能なことと思われた。もし、それが本来の姿の自分であるとしても、理性が、それを否定し、拒絶した。
ただ、どこかへ向かって進行する姿を、その視点からは見られることのないはるか遠いところで、一方的に見守ることが、今の自分に与えられた、最良の選択だと考えられた。
鳥の姿をした自分が、何かを口にした。誰かの意志によって、だ。見守っていた自分には、それがどういった言葉なのか、まったく分からない。
それが、鳥の姿の自分と、それを見守る自分との距離が限りなく遠いためなのか、それとも、もともとこの世界に音が存在していないことによるものなのか、それさえも判明しなかった。ただ、何かを口にしたと感じるのだ。
次第に世界は狭まって、鳥の姿の自分の進行方向に一直線に伸びる道になった。もはや、自分以外に影は無い。
世界は澄み渡っていた。それでいて、視界には何も移ってこなかった。この世界には何も存在していないのか? その問いに答えるものも何もなかった。
そして、その問いは何かに引かれるようにこの世界を彷徨い、自分はそれを追いかけた。そうしている内に、自分と、世界と、問いは一つに混ざり合い、まったく違う何かに変化して、それでもなお、何かの引力がはたらきかけ、最後には、終わりのない砂の渦となった。自分の意識は、そこから独りでにはなれ、それでもなお、世界の有様を見守った。
すると、砂の渦は、前触れ無く崩壊した。最初の崩壊は、根底の、はるか見えないほど下で始まり、それから間もなく、完全に乾いてしまった砂の城が、つむじ風に巻き込まれて、方々に飛び散る時のように、あっけなく、即座にそれは粉砕された。
舞い上がる砂が、自分の意識を覆い隠すように、こちらに迫ってくる。それに対して、自分は驚くこともなく、危機感を感じることもなく、ただ、徒労に溢れた砂の味を咀嚼している。
そこで、廣士の目は覚まされた。だが、それでもまだ夢の中にいるのかと思われるほど、辺りは暗かった。どうやら、夜はまだ更けていないようだった。
そこへ、コンコン、と二回、ドアを叩く音がした。廣士は、意識もせずに、そちらを向く。口の中には、未だ、あの無味で噛みごたえのない砂の味が残っていた。
「廣士、起きてる?」
「ああ」
声は、弓美のものだった。彼女もまた、廣士らと共に、この世界に召喚された一人だった。そして、廣士の、中学の同級生でもあった。それ以上に、彼女は、廣士に何らかの好意を寄せているようだった。
彼女は、艶やかなロングの黒髪と、スラリとした長身が魅力的な、所謂清純のかたまりだった。
このような夜も更けない時間に、自分に何のようだろうかと訝りつつも、廣士は、これから起こるであろう小さな変化に期待した。
「入ってもいい?」
「ああ。暗いから気をつけろよ」
真鍮の装飾がされた、重厚な扉が、ゆっくりと外側に開いた。そこから見える廊下は、更に暗く、冷たい空気が押し込められているようだった。その、逃げ場を見つけた空気は、廣士の部屋の中へ流れ込んで、小さな冷たい気流を作った。
弓美の体は、それに吸い込まれるように、部屋の中へと入り込んだ。彼女は、しなやかに、そして豊かに肉の付いた肌を露わにする、短パンとタンクトップという、ラフな格好をしていた。
それから彼女は、宇宙のように膨らむ闇が後ろから入り込んでしまわぬように、素早く、繊細に、扉を閉めた。それでも、扉と壁の小さな隙間からは、刻々と、微量の闇が入り込んできているようだった。
廣士は、立ち上がって、足下につまずかないようにして窓辺までいくと、勢いよく、引かれたカーテンを開いた。微弱な白光が、室内にぼんやりとした滲んだ明るさを作り出した。
窓から見える空には、あまりにも巨大な月が、遠くから、集まったの町の灯りを眺めた時のような、青白い痘痕顔をこちらに向けて浮かんでいた。月は、世界中の孤独と無機質を、堂々と、象徴するかの如く、世界の面前に存在していた。
「変だよな」
「え?」
廣士は、誰にともなく、独り言のように、病人のような月を見つめながら言った。彼自身、どうしてそのような言葉が出てきたのかは分からなかったが、この、おとぎ話めいた世界に浮かぶ、おとぎ話のような月を見ていると、今まで押し込められていた、積み重ねられた衝動を、一気に吐き出したくなった。
「こんなおとぎ話の世界に来て、多分、もうこれで三ヶ月と四日。来たばっかん時は、見る物全部に驚いてたけど、今じゃ、もうみんな慣れた。ここでの生活は、ご飯もうまいし、使えるものは豪華だし、何より学校がないから楽でいいけど、それでも、俺たちはこんなマンネリがまってるとは思ってなかったのにな」
「うん。私もそのことを考えてたの。戦争だのなんだのっていって、連れてこられたのに、いつまで経っても何も起こらないしね。別に、戦争が起こって欲しいなんて思ってないんだけど。でも、このまま何も起こらなかったら、私たちどうなるんだろうって」
弓美の顔は、明らかに、解決の糸口が見つからない不安で覆われていた。日頃の少女らしい快活さが失われた彼女の表情を見ると、廣士はあからさまに、運命とか、成り行きとかいうものに嫌悪を抱いた。
そもそも、どうして自分たちはこの世界へと足を踏み入れたのだろうか。
どうやらこの世界で争いが起こりそうだというのは分かる。それを収めるために自分たちが呼ばれたと言うことも噂には聞いている。
しかし、それがこの世界にやってきた直接の理由になるとは限らない。なぜなら、争いなどどこにもないからだ。
それならば、なぜ今、自分たちはそこにいるのか
「ねえ、私、夢を見たの」
弓美の言葉に、廣士はピクリと反応した。崩れゆく渦のイメージが、頭の中をよぎった。
「俺も、さっきまで夢を見てた。鳥になって飛んでいる自分を、遠くから見てる夢だった」
廣士は、それを、つい先刻見た夢をありありと思い出しながら言った。すると、弓美の顔色は、ただでさえ薄白い光と地を這う闇に支配された部屋の中で、更に蒼白さを増していった。
「ほんとにおとぎ話みたい。私もさっきまで、自分が鳥になって飛んでいる夢を見てたの」
窓の外で、大きなつむじ風が巻き起こった。それを合図にして、二人をも結びつける巨大な渦が、再び動き出したように思われた。