勇者の一分 下
勇者の一分 下
『セイントの占い師』数日間、その言葉が廣士を始め、その仲間たちの脳内を巡っていた。
『セイントの占い師』……いかにも、うらぶれた街のうらぶれた路地、その一角で、細々と通行人を呼び止めては話術を使って無理矢理占い金をむしり取る、実は当代随一の実力を持った占術士像を想像させる響きだ。
そもそもこの『セイントの占い師』と言うのは、廣士の親友であり、端から見ればガールフレンドである弓美が、ひどく寓意的な夢の中で告知された、『答えはセイントの占い師だけが知っている』というお告げによるものだったが、それを彼女から聞かされた廣士は、待ってましたと言わんばかりに行動を起こすことを決意した。
廣士を始め、その親友一同、弓美、暁、叉織は、どこか軽躁で恍惚とした『セイントの占い師』の存在を一心に切望し、信じた。今の彼らには、どれほどファンタスティックな出来事が目の前で起ころうとも、そのすべてを許容することができるだろうという自信があった。
なぜなら彼らは今、真に常識を逸した、現世の地球とは異なる世界にいたからだ。
この世界では、一見封鎖的な中世のヨーロッパを彷彿とさせる臭いを漂わせながら、人々の生活する世界では、様々な術を持った能力者たちが人々を支配し、そして支配されていた。そして様々な肌の色、体の形をした人々が、原色で彩られた多種多様な珍品の飛び交う市に屯し、農奴階級は牛や馬に似た三本足の動物を操って畑を耕す。
更に、この世界では戦争もよく起こった。広漠とした一つの大陸の上では、主に南の王国と西の王国の勢力に分かれて、互いの国力を伯仲させていた。
その中で、廣士たち四人は、南の王国に、半ば拉致されて連れてこられた。そして突き付けられたのが、「勇者徴用」の四文字だった。廣士たちは、突然の急展開に、金縛りにあって微動だにできない胸元へ、何者かにほくそ笑まれながら灼熱の焼け石を乗せられたような理不尽さを感じた。
廣士らをこの世界へと導いたのは、ヘルメスという、タキシードを常に纏った男だった。彼はまた、自らの役職を「国王直属の工作員」と言った。彼は、同じ口で、「君らを英雄にするために護送する」とも言った。深い森の中でだ。
廣士たちは当然、その申し入れ(いや、強制命令)に対して、この上ない訝しみをもって対応した。第一、彼らは勇者ではなかった。彼ら四人の中で、誰一人として空を飛べる者はいなかったし、ほうれん草を食べると筋肉が盛り上がるような者もいない。
勇気がある者すべてを勇者と呼ぶのなら彼らはギリギリ勇者と言えなくもなかったが、蛮勇よ言えるほどのものもなかったし、ましてや、自分が死なないために人を斬った時代など、露にも知らない現代っ子、都会っ子四人組だった。
『勇者』などという、常に憧れ、よく聞き慣れていながら存在することさえ疑わしい、崇高な概念に対してたじろいでいる少年らに対して、工作員ヘルメスはこう言って彼らを戦場へと誘った。
「―君たちには、まだ君たち自身でさえ知らない、未知なる力が眠っている。君たちは選ばれし者だ。これは私個人の憶測ではなく、世界の確信が保証している。そして、私たちが、君たちの力を最大限引き出せるように、手助けする。是非、君たちに力を貸してもらいたい。その、眠りし世界をも凌駕する力を」
廣士たちは、催眠術にでもかけられたかのように、易々と、軽率にその懇願を了承した。これは、少年漫画を読んで育った彼ら特有の、「あなたは特別だ」という言葉に身も心も陶酔してしまう衝動によるものであり、ヘルメスの、彼らのような若者を操る話術の巧みさによるものだった。
「眠っている力」 「未知なる力」
思春期もうららかな、彼らの心変わりしやすい心には、この二言を認めさせるだけで十分だった。彼らは、自分が自分としての形を繕いながら生きていく上での、存在理由に、心の片隅では、希望を求めていたのだ。
その希望は、或いはこの世で最も絶望的な願いかもしれない。彼らも、このようなことが起こるまでは、理性によってそのことを理解しようとしてきた。どこかでそれだけを頼りにしている自分を無視してだ。
しかし、ここにきて、ヘルメスの余りにも挑発的な通告によって、切望することを食い止めようとする絶望の枷ははずれ、今まで歪みに歪んできた希望が、心のすべて、無意識を支配する名もない最奥の神経に至るまでを、もとの形に戻ろうとするエネルギーで揺さぶり、足下がぐらつくほどの地震を起こした。
何も入居物のないまま膨れあがり、硬化の始まっていた白色透明の心の床から、壁面から、稲妻が劈いたような亀裂が生じ、そこへ精神世界を濁らせていた白濁した液体が流れ出て、逆に今度は他の亀裂から、赤と黄色が混ざったような、決して橙では無い色の液体が、間欠泉のように吹き出してくるのを、廣士たちは感じた。
こうして彼らは、見ず知らずの世界に足を踏み入れ、今、『セイントの占い師』を一心に探している。
その『セイントの占い師』を探す上で、廣士たちをこの世界に呼びつけた老境の国王陛下は、とても役に立った。
何故なら彼は、質問に対する答えは持ち合わせていなかったけれども、この世の(少なくともこの世界の)すべての答えを導き出すための方法を知っていた。いわゆるファンタジー世界で、その場その場に居合わせ、次へ進むための有用な情報を話してくれる村人や町人を集約したような存在が彼だった。
それでいて彼は、その数えきれぬ方法を使って、答えを導こうとはしなかった。彼は、答えを求めることに興味がなかったのではなく、その必要がなかったのだ。或いは、彼は昔、それらの方法を使って世界の心理を究明しようとし、途中でその深淵さを知って頓挫したのかもしれない。
国王陛下は、謁見の間で恭しく神聖なる教えを乞うた廣士たちに、こう答えた。
「『セイントの占い師』か……懐かしい名ぞの。確かにあの姥殿ならば、お主らの求むる答えさえも知悉しとるやもしれん。よかろう、彼奴の居所を口伝してしんぜよう」
どうやら国王陛下は、『セイントの占い師』と、古くに面識があるようだった。彼は、色の抜けた、白い眉に大半を隠された目を細め、どこか遠くを眺めて、脳裡では、その『セイントの占い師』との邂逅を果たしているようだった。
ひとしきり感傷に浸った国王は、目を閉じて、呪文のような地名をつらつらと諳んじた。
「アイヤロ郡、ゲッポ村、イゴミ通り終点。シヤルマ飯店二階」
国王の付け加えでは、その場所はこの王宮からさほど離れた場所ではないらしい。
廣士たちが、先端の尖った物を所持してはいけないこの謁見の間において、メモをとることができないために、今聞いた地名を全力で頭にたたき込んでいる間、国王は、別のことについて思いを巡らせているようだった。そして、考えがまとまると、廣士たちの様子を無視して話し出した。
「……じゃが、彼奴の占うことは、決してすべてを信じてはならん。お主らは、彼奴を信ずるべきではない」
廣士が、何故? と訊こうとして、相手を考え自重すると、国王は自ら、その理由を語った。
「これは、決して彼奴が嘘偽りを宣告するという意味ではあらぬ。彼奴はこの世の真実しか占わん。だからこそ、彼奴は危険なのだ
彼奴と向き合うと言うことは、真実と向き合うこととも同等ぞ。さりとて、真実と向き合うには、相当の覚悟が必要ぞ。これは脅しなぞではあらん。彼奴の宣告を乞うて、気が障れてしもうた物も少なくはない。儂も、自らの国王という自負がなければ、たちまち頽れていたことじゃろうて」
国王の示した場所へ向かう途中、廣士らの心は限りなく沸騰していた。これが真実の持つエネルギーだった。
あれだけ国王に脅されたのにも関わらず、廣士たちの心は、真実に対して希望的な予測を立てていた。彼らの考えている真実とは、人々の文化、習慣、時代に関わらず、普遍に存在し続ける道理であり、何が正しく、何が間違っているのかを決める絶対的なものさしであり、螺旋型に渦を巻いて進行する歴史を伴った時間軸の出所と行く末だった。
廣士は、洋式の水洗便所で水を流したときにできる渦を想像した。
便所の水は、紛れもなく上水道から水を流して、下水道へと汚物とともに葬り去られている。しかし、それは果たして、完全な事実だろうか。果たして、数千回、数万回と蛇口をひねる度に、水が流れ出る先の、真っ黒な光のない世界へと吸い込まれるとき、ほんの数滴だけでも、全く別の、真新しい白壁の世界に漏れ出したりはしないのだろうか。
若し、自分がその渦の中に吸い込まれ(うまく想像はできないが)、運良くその白壁の世界に辿り着くことができたなら、果たして自分は、自分としての原型をとどめることができるのだろうか。
目的地までの道のりは、すべて凸凹の泥道か、石がごろごろと転がった砂利道だったために、危険な妄想に取り憑かれそうになっていた廣士は、何度も足下につかえて転びそうになった。その都度彼はその妄想を心中から取り払うことに専念し、そして再び、真実について思いを募らせた。
彼らの通り過ぎる村々では、王宮内では日々迫っていると噂される戦争の影は微塵も感じられず、ただ、それぞれの村人たちが、典型的な村仕事をこなしていた。少し景気の悪そうな村では、至る所で中毒症状のように発狂した目つきをして、賭博に精を出す者たちの姿が見受けられた。
この世界の空は、薄くにじんだ青紫をしている。空を見上げれば、白いままの雲との対照で、妙に安心感をもたらす落ち着いた気分にさせる。この紫は、別に誰かの心情がつぶさに表現されたものではなくて、ただ、空自体が初めから薄紫なのだ。だから、きっとこの世界の海も、薄紫色をしている。
この世界の草は、大概橙色をしていて、その上に乗っかっている花は、物静かな若葉色だ。そのために、一面の草原というものは、決まってオレンジと緑のツートンカラーでできている。若しかしたら、葉の部分が本当は花で、花に見えるものが本当は葉なのかもしれないが、それは推測の域を越えない。
急に、廣士は、この風変わりな世界の様相を、自分に対して改めて認識させたくなった。彼らにとって、遠い昔の話のようになってしまった地球での道理は、まったくこの世界では通用しない。視覚で認識し得るものだけをとってみてもだ。
つまり、彼らが地球で、毎日培ってきた道理や常識というものは、この世界の事象を包括することのできない「井の中の蛙」の道理だったのだ。
ならば、地球を、この世界を、そしてすべての異世界をも包括する道理とはどこにあるのか。
結局、廣士の疑問は同じことの繰り返しだった。そしてそれはまた、彼に同行する仲間たちにも同じことだった。
そしてついに彼らは、『セイントの占い師』の住む場所へと到着した。