青春、降臨
広林が、快活に、時としてよく磨かれた曲玉のような白い歯を見せながら話すのに、岸本は親しみを覚えた。岸本に対して、口の中の赤みを見せるほど親身に会話をする相手というのは、この世界にごく限られていて、彼は、久々に会話をすることの楽しみを発見できたような気分になった。
「本当に去年は、娘がお世話になりました」
と、広林がお世辞がましく頭を下げれば、
「いえいえこちらこそ、結希さんの明るさと行動力で、何度も助けられました」
このように、歯の浮くような台詞を返すのだった。
それでも、彼が「何度も助けられました」と言うのは、社交辞令としてではなく、本心のつもりだった。実際、後期のクラス委員になるように、岸本から熱烈にオファーを受けていた彼女は、公にクラス委員に立候補することは拒んだけれども、もう一人の、岸本がオファーを出し、それを呑んだ男子のクラス委員を全面的に補佐した。
彼らは、もともと仲の睦まじかったらしく、様々な場面で、気の利いた連携を見せた。そこで岸本も彼らに全面的な信頼をし、彼らも、その信頼に答えようと、精一杯の努力をしていたはずだ。たとえその苦心が、クラスに報われることがなくとも。
そして、その広林結希の父親が、今岸本の目の前にいる男だった。
岸本は、広林と、直接的に何度か対面したことがあった。それは、二学期の終わりに行われた懇談会と、三学期の中頃にあった、授業参観日の時だ。父兄の参加する行事などには、必ずといっていいほど、この男が広林結希の保護者として学校に赴いていた。
そのことで、岸本には彼の家族構成がある程度想像できたが、それ以上の詮索は決してしなかった。
岸本が、彼と、懇談会などで直に対話をし、一人の人間について話し合った時の印象では、広林は、特によい風采をしているわけでもなく、随所に奇抜を重んじているわけでもなく、また、妙に世間擦れした感じもなければ、殊更に疎いというわけでもなさそうな、どうにも掴みづらい感じがあった。
それは彼の、視線を一定に定めない癖や、言葉に人それぞれのの抑揚が無いことや、年の割には情熱の冷めた、熟し切った葡萄の種のような瞳が与えるものかもしれないが、それよりも、彼の話す内容には、例えそれが実の娘のことであっても、いやに他人事のような無関心を装った口ぶりが多く含まれるからのように思われた。
岸本が、そのようなことを思い出してから現在の彼をもう一度見ると、すべてに対して冷ややかに見えた当時の面影は全くなく、今は、情熱にあふれた闊達さと、すべての関心事に対して真っ正面から向き合おうという、ある種の若さが表情の大半を占めていた。少なくとも、何かに対して、熱狂的な関心を寄せていることが、容易に窺えた。
広林の快活ぶりを見て、岸本は、些かの不安を感じた。なぜ彼は、こんな場所にいるのだろうかと。よもや、岸本を追いかけてやってきたわけではあるまいが、どちらにしても、彼が宮崎にいる理由が見つからない。若しかしたら、彼の実家がここらにあって、この春休みに帰省しているのかもしれないが、それなら、彼の妻や、娘たちが近くにいてもよさそうなものだ。しかし、彼以外にこの場に居合わせている者はいない。
なぜ彼がここにいるのか、直接彼に問いただすのが最も確実で手っ取り早い方法だったが、そうすることで何か大変なことが巻き起こりそうな予感が、彼の口を重くさせた。そこへ助け船を出したのは、広林の方だった。
「ところで、先生はどうしてここにいらっしゃったんですか?」
「え? ……いえ、えーと、出張です」
岸本は、不意に先を越されて、咄嗟にそのような嘘を吐いてしまった。考えてみれば、岸本がこんな場所にいるわけも、相手はかなり気になっていただろうが、それに対して、正直に答えられるほど、公明正大な理由を岸本は持ち合わせていなかった。まさか、「インスピレーションを求めに」とは言えない。
広林は、それは大変ですね、と、頭を低くして、上目遣いに少し顔を動かした。ここが最大のチャンスだと感じ取った岸本は、相手もそのことを聞かれたがっているのだという希望だけを頼りに聞き返した。
「ところで、広林さんは、どうして宮崎に?」
すると一瞬、広林はとても不吉な顔になって、岸本のノミのような心を脅かしたが、すぐに彼は明朗さを取り戻し、大事なことを打ち明けるように、岸本の目を見て答えた。
「実は、人を探しに来ているんです。それも、大切な人を」
広林は、そう言うとすかさずズボンのポケットから一枚の写真をとりだした。緑一面の草原と青空を背景に、一人の白いセーラ-服を着た少女が撮られた写真だった。
岸本がその写真を手にとって、ピントが合うように間近で見ると、彼の背筋に迸るような衝撃が走った。昔無くしたゲームのカセットが、何の前触れもなく、ひょっこり引き出しの角から見つかったような感動だ。
その写真に写っていたのは、その当時、岸本が色のない大学生活で唯一心のよりどころとしていた。片思いの相手だった。
岸本が広林と対面して感じた不安は、大きく全貌を変えて、いかがわしい現実となって姿を現した。
岸本の脳裡に、瞬時にしてモノトーンの大学生時代が思い起こされた。
それはそれは、何の収穫も感じられなかった、県立教育大学の四年間だった。岸本は、その中でも理工系の学部に入り、どことなく陰湿な学友たちとともに、湿った研究室、喧噪さえもどこか遠くの出来事のように去ってしまった不毛な講義室で単位を取るためにもがいていた。
そこには学友との熱い友情や、助教らとの心のこもった講義は存在しなかったし、研究を通して得られる達成感も、それを得た瞬間に、次への挑戦意欲が萎えてしまうような、不手際きわまりない古びた器具の山にかき消された。
自らの不遇さを悉く呪った彼だったが、その中にあって、唯、一つだけの僥倖であったと思われたのが、今、一枚の写真の中で、眩しそうにはにかんでいる少女との出会いだった。
いや、正確に言うならば、それは出会いではなく、目撃だった。
そもそも彼の通った大学は、教員を育成するための学部を取りそろえた大学だったため、彼のような、電気工学部を希望する新入生は殆どいなかった。とりわけ人気が高かったのは、教育科学部や、家庭科教育学部で、大半の女生徒は、その家庭科教育学部に入っていた。そして、その写真の少女も、そこに所属していた。
電気工学部の入った棟と、家庭科教育学部の入った棟は、隣同士だった。そして、両棟の玄関は、横に並ぶような配置になっていた。
そこで岸本は、ある意味必然的に彼女と対面した。
そのとき彼は、助教が誤ってアンモニアをぶちまけてしまった講義室と、元からアンモニアくさい実験室と、なぜかアンモニアくさい休憩室を避けて、その棟の玄関先で焼そばパンを頬張っていた。よく晴れた、近くで鳥の囀りが聞こえる春の昼下がりだった。
そこへ現れたのが、岸本の一つ後の期生である、沖田理絵だった。彼女はその日、前日の夜更かしがたたって、普段よりも五時間余り遅く家を出ていた。
岸本は、向こう側から肩を弾ませ、汗を飛び散らせて駆けてくる彼女を視界に捕らえたとき、持っていた焼そばパンを手から落としてしまうほど、幻想的な衝撃を受けた。幸い、実際に落ちたのは口からこぼれた焼そばの一本のみだったが。
岸本は、彼女のような、背が低くて、おっとりした丸顔の、ショートヘアの女性が、どストライクだった。初回先頭打者バックスクリーン直撃だった。
そのまま、自分の方に向かって駆けてくる彼女に、岸本は、目がくらむほど急激に恋に落ちた。そしてこのまま、彼女が自分の目の前に来たときに、むりやりにでも抱きついてしまおうかとも思った。彼は、ある種動物的な求愛行為に憧れていた。
しかし彼女は、特急電車が田んぼの中の田舎駅を無視して全力で通過していくように、一瞥もすることなく彼の前を過ぎ、後ろの玄関に駆け込んでいった。
岸本は、彼女が通り過ぎたときの、汗と体臭の無添加な匂いを乗せた風を受けて、自らの魂も、その風に乗せられて、どこか遠く、シロツメグサの咲いた草原に飛ばされるような感傷に浸った。
岸本は、そうして、写真の少女との最初の出会いを思い出した。そしてその後、一度も言葉を交わすことなく、彼女の挙動を、隣の棟から見守り続けてきたと言うことも。
その当時は、彼はまだ、体重は70キロ台で、ギリギリ醜くはなかった。そのために、彼は、まさに不幸な、あらぬ期待をしたこともあったが、それでも、自制心によるものか、途中で目が覚めたことによるものか、唯の一度も彼女に接近することはなかった。彼に言わせれば、遅れてやってきたほろ苦い青春だった。
岸本は戦慄した。こうして、一枚の写真を通して、青春の過ぎ去った日々を思い出し、股間の勃然とする違和感を感じ、そして更にまた、目の前の広林という男は、写真の中の岸本の恋慕した相手を探しており、酔狂にも、その女性が自分の大切な人だと言い放ったのだ。
これは、ただの偶然ではない、と、岸本は直感した。これは決して、何もない青空から、青魚の一段が降ってくることのような、自分とは全く関係ないところで起こっている、見過ごすべき出来事ではないのだと思った。
この出会いこそが、天からの啓示だ、インスピレーションの飛躍だと、岸本は信じることにした。
はるか遠く、天人の住む世界まで透き通すようだった青空は俄にかげり、飛竜舞い狂うが如き春の嵐の前兆を西の空に予感させた。北からの強風が、二人の間を、そして両脇を何の感情も見せずに吹き去り、近くの木立にぶつかって異様な進行方向の変化を見せ、渦を巻くように上昇していった。
風に枝を軋ませ、多くの葉をむしり取られた不幸な木立は、世界のすべての摂理に呪いをかけるかのように、婆裟と不吉なざわめきを立てた。
クリエーター魂
誰かが僕を呼ぶ声がする 世界が僕を呼ぶ声がする
明日はどこ 未来はどこ 始まりはいつ
答えのない問い もともと期待はしてない
僕が信じるのは自分だけ そう この心だけ
Ah… 創りだそう 答えは自分の中にある
Ah… 走りだそう 道は僕の後ろにできる
そこに望みがないなら 自分を信じればいい
夢を捨てたとき 世界は自分の中にある
晴れた日ばかりじゃない 雨もそう続きはしない
君はどこ 理由はなぜ 僕はここにいる
うまくいかない朝 二度寝してしまえばいい
僕を起こすのは目覚ましじゃない この声だけ
Ah… 想像しよう 邪魔のない世界を
Ah… 逃げだそう 味方のないこの世界を
ここに馴染めないのなら 自分を突き通せばいい
世界を捨てたとき 自由は夢の中にある
世界を動かすのは神じゃない 世界を創るのは神じゃない
そう
神なんかじゃない