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紅い世界 薄れ行く





 日は暮れようとしていた。空は紅い。その中で、ぽつりぽつりと置き去りにされたような積雲が、夜の闇から逃げるように、どこか遠くを目指して飛んでいく。


 家の玄関先で自転車から降りた。足は休ませれば休ませるほど痛みを増す。ふと自分の影を見つけると、それは細長く、本体の足から少しでも遠くへ離れようと伸びている。これからこの影は、呪縛から解き放たれて、夜の闇に遊び踊るんじゃないかと思える。


 自転車の鍵をかけ、バスケットから荷物を取り出し、雨避けのシートを自転車に被せる。これだけの作業にも、一つ一つ自分の足に注意を払って行った。それだけ、自分の足は今デリケートで、叩けば崩れそうなほどに脆くなっていた。



 これまでに経験したことのない痛みだ。これは、ただ単に筋肉痛の局所的な痛痒つうようではないと思う。経験したことがないために、それを言い表すことができないけれど、無理に例えるとすれば、それは、血管の中を動き回った虫が、突然血管を破って、薄皮を食いちぎったような痛みだ。


 いや、それほど痛くはないかもしれない。とにかく自分のやる気をへし折るような痛みがあった。



 それ以上足が瞬間的に回復することを諦めて、ジャージのポケットから鍵を取り出した。改めて、その鍵をまじまじと見る。自分には、時間的余裕が必要だ。


 その鍵は、全国で見ても相違ないと思われる、四角い持ち手から、平らでギザギザの棒が長く突き出ている形だ。この鍵の形こそが、最も自分の感覚に合った形だと思う。この鍵こそが、すべての自分に課せられた難題を解くための鍵なのだと思えてならないのだ。


 ふと、妙な考えを思いついた。この鍵は、折れてしまうことがあるのだろうか、と。



 これまで、「滝原悠斗」で生きてきた14年間の人生で、鍵が折れていたり、変形したりしている姿を見たことが一度もなかった。強いて言えば、錆が付いている姿も身に覚えがなかった。


 これだけ細くて、よく使うのだから、普通は、一定の期間が経てば折れてしまうのが普通だと思うが、それでも、鍵が折れる瞬間というのを、全く想像することができなかった。今、自分の中で、鍵のみが、普遍であることの象徴のように思われた。



 このような間を経て、ようやく玄関の扉の鍵を開けるに至った。自分にとって、それまでの帰路は、家の中に入ってしまうまでがその道のりで、家の前から玄関までが、全区間の中で最も前に進みづらいと言うことは、始めから予見されていたことだ。



 ついぞ手にした鍵を、玄関の鍵穴に差し込み、一思いに回してみせる。ガチャリという開放感を含んだ響きは、頭の隅々まで行きわたるようだった。


 今日、この瞬間を夢みたがために、俺は数里の道のりを走破してきたのだ!



 玄関を開けると、その向こう側は、まるで今まで孤立して時間が流れていたのかと思えるほど、しっとりとした、うすら闇と生活感が均衡を保つ空間が存在していたようで、その世界は、玄関の扉が開かれ、夕焼けの紅い光が入り込んだことで、融点を超し密度が上昇したようになった。



 「ゆうちゃん、帰ったの?」


 玄関から始まる廊下を右に曲がった方から、今朝目を擦りながら我が子見送った時とは別人のような母の声が聞こえてきた。丁度、夕食を作り終えて、まどろんでいる頃だろう。


 「うん、ただいま」


 と、返事をしたかったが、それはままならない。何故なら、喉がパンパンに腫れていて、声が出ないからだ。


 本来なら、こんな異常に対しては、もっと真剣に向き合うか、パニックになるかが通常だが、身も心も疲弊して帰宅した自分にとって、声が思うままに出すことができないというのは非常に切ない。出したと思った声が、ただの空気の塊として世界に何の問いかけもなく放出されるのは、余りにも虚しい。


 すべてが面倒に感じる衝動を、久しぶりに見た気がした。



 返事をしないまま、靴を脱ぎ、廊下に上がる。と、突然、胸が爆発するような衝撃が体中に走った。痛いどころではない。四股すべてが放心されたような状態に陥り、足がガクガクと震え、終いには床に倒れ込んでしまった。


 意味不明だ。自分でも何が起こったのか分からない。五感すべてが非常線を作りだしている。第六感に至っては凄まじいほどの警笛を頭の中でかき鳴らしている。全身が痺れて動けない。それどころか、脳さえも作動することを諦観しているようだ。



 だめだ、意識が保てない。視界が真っ白になっていく………



 死が、紛れもない死が、滝原の脳裏を掠め、そしてそれさえも、何処か遠くへ遠のいて、彼の意識は零になった。最早何も感じず、何も思惟せず、ただ、意識の入れ物であった肉体と、意志の欠片のみが、彼を、「滝原悠斗」を証明する唯一の遺品となった。


 彼が、意識の消える前に見た物は、どこか暗い世界から流れる、紅い血液と、窓からのぞく、紅い夕暮れのみだった。





 エデンの園



  静寂の彼方 意識の森の奥


  赤くかがやく禁断の木の実 


  今宵裂かれるこの思い 聖土に刻み込めば


  ただわたしに残るのは 無職の世界だけ



     何も望まない 何も願わない 何も感じない


     世界は今 動き出そうとしている 


     あの日の思い出は今 薄れつつある



  どこにあるの 聖知エデンの園


  世界はどこから生まれたというの


  今宵夢を見れば 明日は変わるだろうか


  それを知る者は アダムとイブだけ



      何も怖れない 何も信じない 何も叶わない


      聖櫃パンドラの蓋を今 両手で開け放ち


      世界の軸はほら 傾きつつある



    何も望まない 内も願わない 感じない


    コワレユク明日 過去へ巻き戻る


    あの日の思い出が 今手にあふれだす



  何も怖れない 何も信じない 何も叶わない


     世界の軸はほら 回転を始める  



  

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