プロローグ 閉講式と教師の歌
浄朋剣道教室閉講に際して、閉講式での、嶺師範による挨拶
「この度は、皆さん、浄朋剣道教室の閉講式にお集まりいただき、ありがとうございました。閉講式ということで、今日を以て、浄朋ストアの一室を借り、二十五年間、楽しく、或いは厳しく、そして最近では細々と続いて参りましたこの剣道教室も、終わりということです。
この浄朋剣道教室の二十五年間を、師範として満了し、そして共に生きてきた私としても、また、師範代の藤堂先生、東先生、細山先生も、等しく、この日が来たことが信じられないという気持ちで一杯です。ただ、明日になればまた、いつものように教室の板張りの床の上で竹刀を振るっているのではないかと思えるほどです。でも、それをしたら、不法侵入で捕まっちゃいますね。
そうですねぇ、今思い返せば、この二十五年間というのは、長かったようでもあり、短かったようでもあり、今ではとても複雑な心境です。もっとも、私が初めてここで竹刀を振るったのは、もう四十路を過ぎた頃でしたから、私自身に大きな変化というのは無かったかもしれません。
だけど、藤堂先生なんかはね、ここに初めて来てから二十年、小学一年生の頃からでしたから、その時から休まずに毎日毎日稽古を重ねられて、今では立派に、この剣道教室の師範代をこなせるようになりました。私も歳が歳ですから、藤堂先生が丁度自分の息子のように思えて、年を重ねるごとに、自分が教える中で成長していく姿を見ていると、とても、嬉しいものがありました。
勿論、それは皆さんでも同じことですよ。
本当にこの二十五年間はたくさんのことがありました。
教室を開いて直ぐ、大変な好景気があって、その間に、生徒さんはどんどん増えました。そのころは、本当にこの教室に人が溢れそうなぐらいで、市の体育館や、ある時は炎天下の広場を使っても練習をしました。藤堂先生はその中頃に入ってこられたんでしたね。
それから、すぐに物凄い不景気になって、その年だけで、生徒さんの数が半分ぐらいに減ってしまった時もありました。といっても、今の人数よりも結構多かったと思いますよ。それで、そんな中でも、多くの人たちのおかげで、この教室を続けることができて。
今思えば、あの時ここが終わっていたとしても不思議ではないぐらいなのに、本当に、この教室に携わって頂いた皆さんのおかげで、私も、藤堂先生も、多くの生徒さんたちも、剣道を続けることができました。
残念ながら、この教室からは、日本中に名前を轟かすような人は、私たちの力不足のせいで、出すことができませんでした。でも、それを言っても詮のないことです。そんなことを言ったら、今まで頑張り通してきた生徒さんたちに失礼ですね。剣道は、ただ剣の道ではないのですから。
もう一度、これで最後になりますが、剣道の理念を復唱しましょう。
「剣道は、剣の理法の修練による、人間形成の道である」
皆さんは覚えていましたか? もう段審査を受けた人なら、いつでも諳んじられますよね。ねぇ、林君? フフフ、まあいいでしょう。でも、これからも剣道の稽古を続けて、段を取ろうってひとは、絶対に覚えていなきゃいけませんよ。
勿論、剣道の理念は、段審査で筆記試験があります。それに、「剣道修練の心構え」も本当は覚えなくちゃいけないんですけど、でも、勘違いはしないで下さい。剣道の理念は、段審査で受かるために覚えるんじゃありません。これは、剣道を以て人生を貫き通すための理念なんです。
私はそう思っています。
だから、これからも剣道を続けるっていう人も、もう続けないかもしれないっていう人も、片時もこの言葉を忘れないようにして欲しいです。もし、この言葉を忘れてしまっても、その時は、こんな言葉がなくても、剣道の理念を生活の一部にして、自分の習慣にして、生きていけるようにして下さい。
ええ、少し話が長くなってしまいましたが、私の話はここまでにして。藤堂先生、東先生、細山先生、何かお話はありませんか?
細山先生、ありがとうございました。さあ、それでは早速、浄朋剣道教室最後の稽古を始めましょう。他の剣道教室に行く人も、学校の部活で続ける人も、今までにいろんな人たちから教わったことを全部思い出して、全力で、有終の美を飾りましょう」
稽古後の、浄朋剣道教室生、長野(一級)と川口(初段)の会話
先生方四人に、時間をかけて挨拶をし終えた長野は、この剣道教室において、やるべきことをすべて終わらせてしまったような気がして、宙を滑るような送り足で自分の面が置いてある所まで行った。
皆の面が一列に並べられて置かれている下座には、既に二、三人、先生方への挨拶を終えて、胴を外しにかかっている人がいた。皆、肩の荷が下りたような、若しくはこれからやるべきことにうんざりしているような表情で、自分の面に視線を向けていた。
長野が座るべき場所の右隣でも、一つ年上の、川口が既に正座をして、胴を外していた。
長野は、何かを遠慮する訳でもなく、バサバサと揺れる袴を右手で制しながら、左足、右足と順に膝をついて正座した。
足の裏とつま先に、突き刺さるような痛みを感じた。長野は、足の裏にできた血豆と、足の小指か薬指あたりにできているであろう爪のはがれを想像した。
長野には、もはや稽古をする上で、足の裏に痛みがあることは当たり前のことになっていた。ひいては、稽古と関係のない日常でも、痛みを感じていた。彼は今更ながら、吹奏楽部に入っていて丁度よかった、と考えた。
長野は左側の胴紐に手をかけながら、右の川口に目を向けた。すると、気配を感じたのか、川口も長野に目を向ける。二人の間に、微妙な空気が流れた。
「川口、結局、ここやめたらどこいくの? やっぱり剣朋会? それとも県警?」
必然的に、長野が口を開いた。だいたい、何人かが集まって顔を向き合わせた時に、何となく話し出すのは長野の役目だった。彼は、同期や後輩からも「オッサン」とか「ヒカシボウ」とか渾名をつけられていても、それなりに如才のない人間だった。彼の周りには、いつでも、少なくとも一人か二人、彼のことを「オッサン」とか「ヒカシボウ」とか呼ぶ仲間がいた。
そして、剣道教室以外で顔を合わせる機会が皆無に等しい彼らにとっては、話題に困った時にとりあえず話せるタイムリーなものは、これからの身の振り方についてしかなかった。
「ん、俺は、受験もあるし、もし高校に入れたら、剣道部に入るけど」
川口の答えは、前もって用意されていたものだった。
川口は、長野から視線を外して、右膝の横に置かれた竹刀を軽く揺らし、小さく溜息をついた。その後は、竹刀の鍔のあたりに書かれた「武修」という文字が行ったり来たりするのを眺めているようだった。
川口は、今自分が答えたことに対して、疑問を感じていた。
川口は、確かに来年の春、約三ヶ月後には高校受験を控えていた。差し当たって、ここが無くなることが分かる前から、受験勉強という理由で、冬からはここを休もうと思っていた。それには正統な理由があるのだし、現に、この時期になると顔を出さなくなって、春からは、部活で剣道をやってるからと言ってめっきり来なくなる先輩も毎年いた。
だが、本当のことを言えば、受験勉強なんてものが、剣道教室を休む理由になんてなるはずがなかった。
学力、体力共に人一倍秀でた物がある訳でもなく、少しだけ器用なことが彼の自信の依り場だったために、もともと彼はそれほどの高みを目指してはいなかった。高校受験にしてもそうだ。
標準レベルの公立に受かれば儲けもの、それがだめだとしても、はなから、親にせがんで誰でも入れるような私立に入るつもりだったのだから、特に切迫した問題はない。
それに、週に一度や二度、二時間弱ずつの稽古で、今まで日常生活に支障が出たためしもない。
そのことを考える度に、川口は頭痛に悩まされた。自らのもやもやを振り払うために、話の矛先を変えることに打って出た。
「で、長野は?」
長野は、それが言葉を紡ぎ出す時の癖であるかのように、両目の瞳を半円を描くように動かし、一度自分に頷いてから答えた。
「俺は、剣朋会に行くけど。初段取るまでやめられないだろうし。あと半年ぐらいだから」
長野の剣道に対する考えは、とても建設的なものだった。
私立中学の二年であった長野は、時期的にも、体力的にもまだまだ余裕があった。というのも、彼の進路に対する認識は、いくらか甘さの見え隠れする物だった。
彼の学業での成績は、良かった。定期テストでは、毎回上位一割に入っていた。これは、入試の倍率が十倍という人気難関校の中でのことであるから、のほほんと義務教育漬けされている公立中学の同学年の中で比較すれば、確実に上位一パーセントを狙えるぐらいだ。だから、彼は、川口とは違う理由で進路に心配はなかった。
また、つい数週間前に一級を取ったばかりの彼にしてみれば、次の初段は、絶対に取るべき、取りたい、取れるであろう大きなワンステップだった。
そんな彼に、ここらで休止などという考えは、少数派でしかなかった。
「そうか……」
自分とは正反対の、少なくとも同じ結末にはたどり着かないであろう考えをひしひしと感じた川口は、自分自身が今、限りなく卑屈で小さな考えをこの頭に宿らせてしまっているのではないかと思わざるをえなかった。そして、自分にはまだ、後数週間の考える猶予があると思い直した。剣朋会への引き継ぎ締め切りは、年明け、一月末だった。
川口が、苦い溜息を一つすると、その分の重さが本当に頭の中から流れ出たかのように、少しだけ、気分が軽くなった。彼の表情が微かに和んだことを確認すると、長野は、待ってましたと言うように、話を続けた。
「ところでさ、佐倉って、もう止めると思う?」
「佐倉? ああ、お前とおっさん同士仲が良かった?」
「ああ。別にそれほどまでじゃなかったけど。でもあいつ、最近殆ど毎週稽古休んでたし、なんかやる気無さそうだったし」
「そういえばそうだったな……」
言われて、川口は、長野の言う「佐倉」を思い出してみた。確か、「佐倉」は長野と同じ中学二年生だったはずだ。といっても、こちらは公立だったが。
川口は、この剣道教室に「佐倉」は確か五年前ぐらいからいただろうと推定した。川口は七年前からいたから、もしかしたらその時も竹刀を交えて稽古していたかもしれない。その時から「佐倉」は背が高くて、成長が止まったと自嘲する今でも、170はあったと思われた。
そういえば、奴と親しく会話を交わしたことは殆ど無かったな、と、川口は思った。
「佐倉」はもともと、剣道教室の誰とも、積極的に会話することを望んでいないような風があった。
もちろん、こちらが話しかければ、真剣に、或いはにこやかに言葉を返してはきたが、それ以上、言葉のボールを投げ返してくるようなことは、余程のことがなければない人間だった。それ故か、彼のことを詳しく知る道場生はいなかった。師範たちでさえ怪しいかもしれない。
そんなことだから、川口が佐倉について殊更言及できるようなことは無かった。それでも、長野が言うように、佐倉が剣道を止めそうな雰囲気を醸し出していたと言うことは、分からないことは無かった。
「今日も、紅白戦が終わったら、その後すぐに帰ってなかったっけ?」
「ああ、部活があるとか言ってた」
「部活なんて俺もあるけど、こっち優先して来てるのになぁ」
言いながら川口は、そんなことは俺が言えたことじゃない、と、内心では思っていた。しかし、ためらいもなく同じような立場の相手を非難できるのは、相手が自分とつながりの薄い奴だからだろうとも、同時に考えた。
「ま、やめるんならやめるで、こっちとしてはいいんだけど」
比較的佐倉と親しくしていた長野から出た投げやりな言葉に、川口は多少驚いて見せて、意外そうに言葉の真意を確かめた。
「おいおい、あんまりな言い方だな。お前、あいつとはそれなりに仲良かっただろう」
それに対して長野は、全然、というように首を横に振った。
「だから、あいつとはそこまで仲良かった訳じゃないって。偶然学年とここに来た時期が同じなだけで、あいつとの関わりは殆どねぇよ。向こうはどう思ってたかしんないけど」
「そうかよ………」
川口は、今改めて、人間の多面性についてそれに直面したような感覚を持った。
長野は、明らかに佐倉を見下していた。それはきっと佐倉が後ろ向きな考えを持ち始めた時からだろう。その時から、佐倉に対する接し方は変えなかったものの、長野は内心、彼を軽んじていたのだ。そしてまた、佐倉自身も、そのように扱われても文句が言えないぐらいの自覚はあったのだ。
きっと、長野のように、自分よりも劣等な立場や考えを持った知り合いを、そのことを理由に見下し、軽蔑し、そしていつかは自分から完全に切り離すような人間は、この世界にごまんといるだろうと、川口は直感した。恐らく、川口自身もそのような人間に分類されるのだろうと言うことも。
また、もし川口が今以上に考えを下降修正した場合は、容赦のない代償を、そのような人間たちから強いられるだろうと言うことも。
これ以上長野と顔を合わせて会話していれば、きっと互いの本性を知られるだろうし、知ってしまいそうな気がして、川口は話を切り上げ、腰から垂れを外し、紐を結び終わった胴を抱えて立ち上がった。そして、逃げ出すようにその場からそそくさと立ち去った。
長野は、その後を追おうとはせずに、音を立てず小さな溜息を吐き、道場の壁一方向だけに張られた鏡を見つめた。見えたのは、余りにもふてぶてしくおっさんのように各所がたるんだ、自分の顔だけだった。
とある学校の昼休みに流れた歌 教員作品
だれにでもある そんな瞬間
どこにでもある そんな空間
完璧なオリジナルを求めても そんなものは産まれてきやしない
明日へすすめと言うけれど 希望をもてと言うけれど
ミカンセイな僕らは ただみんなに流されるだけ
“生きてりゃいいこともあるさ” ただ言い訳のように思えてしまう
答えをさがして 自分をさがして 今僕はきみといる
ここまできた道のりも これからゆく道のりも 何も教えてはくれないさ
だけど 僕は きみと歩けて 気付けそうな気がする
分かりそうな気がする
ときどき感じる あの絶望感
ときどき感じる 血の暖かさ
自分なんてものはもともと無かった そんなものは虚像でしかなかった
既視感の上に成り立つ影 名もないだれかの落とし物
でもきみに出会ったことで 世界はうごきだす
答えが見つかれば ゴールにたどり着けば 僕はとまるだろうか
だけど 君は 言うのだろうな
“これがあなたの スタートだよ”と
ここまできた道のりも これからゆく道のりも 何も教えてはくれないさ
だけど 僕は きみと歩けて 気付けそうな気がする
分かりそうな気がする
君が涙をこぼすとき 僕が涙をぬぐうとき 世界はうごきだす