第28話 赤色
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━━━━赤色に染まった保管室。
━━━━むせ返るような鉄臭い香り。
━━━━明確に感じる死の気配。
さっきまで穏やかだったわたし達の透き通った日常は一瞬にして絶望の赤に染め上げられてしまった。
「な、なんだよ…………これ?」
「ジェーンちゃん、下がって!」
非戦闘員を後ろに下がらせながら警戒態勢を構え赤く染まった部屋を見渡す。
薄暗い部屋の中には、人より大きいフラスコが幾つも立ち並びその中に緑色の液体と小さな石が入っていた。その様相はまさしく実験体の保管室そのもの。
(侵入者? それとも何かのトラブル?)
だけど残念なことに今は戦える武器を携行していない。そしてサンプルに関して知識の無いわたしが何かしたところで状況を悪化させることしかできない。
こうなると外へと退避し天門台に応援を要請するのが得策だ。
「ジェーンちゃん、一旦外に出て………………ジェーンちゃん?」
「な、なぁ、あれはなんだよ…………?」
おそるおそると言った様子でジェーンちゃんが奥の方へと指差した。
目を凝らして見てみるとそこには━━━━赤く染まった手でお腹を抑えながら倒れている人の姿が見えた。
「あ、あれ助けに行った方が良くないか?」
「………………だね。ジェーンちゃんはわたしの後ろを付いて来てね」
そうしてわたし達は音を殺しながら救助者の下へと近づいて行く。
「ひっ…………」
「大丈夫、ゆっくりでいいからネ」
一歩、また一歩とねっとりとした赤い液体を踏み締める不快感はあったが、幸いなことに特に異常は無く救助者の下に近づけた。
救助者は女性だった。一眼見て分かるのはお腹を苦しそうに抑えており、そこが赤い液体に満たされていることだ。
「は、白衣を着ている…………研究者か?」
「とにかく外へ連れ出そう、まだ生きてるかも!」
そうして介抱するために女性に触れようとした時だった。
「う…………う…………ぅ………」
━━━━女性が苦しそうなうめき声を上げたのだ。
「生きてるぞ! おい、大丈夫か!?」
「あ……………ぅ………………は…………」
「喋らないで! 今すぐに助けを呼んで来るからネ!」
赤く染まったお腹を抑えて苦しむ女性。その光景はまさしく命に関わるものだと確信させた。
しかし女性は痛みに苦しみながらもわたし達に何かを伝えようと必死になって声を絞り出そうとしている。
━━━━━そうして彼女はぽつりと一言。
「…………お腹、減った」
「………………………………………………は?」
突如として呟かれた一言で生まれた痛々しい沈黙、まさしく『どうすんだよこの空気』だ。
そしてこの冷め切った空気で頭が冷えたからなのだろう。女性の周りにある物があることにわたし達は気が付いた。
それは街でよく見かける物。|ポリエチレンテレフタレ《(C10H8O4)n》ートを原料としてそれを筒状に整形、中に飲み物を注いで携帯できる石油製品━━━━つまりはペットボトルだ。それが十数本、中身がぶちまけられながら辺りに散乱していた。
そしてその周りに貼られているラベルにはコミカルなフォントでこんな文言が書いてあった。
『超濃縮!! 最強真っ赤のブラッディ・トマト!!』と。
「………………」
「………………」
さっきまでの緊張感はなんだったのか、お腹を━━━━トマトジュースで赤くなったお腹を抑えている女性をわたし達はただただ無言で見下ろしていた。
そんなわたし達の視線に気付いたのだろう。女性は再び口を開いてぽつりと呟いた。
「ねェー…………お腹、減った。何か買ってきて」
「━━━━━━━━━━」
━━━━これがトドメだった。
こんな空気を作りあげた女性にジェーンちゃんはまるでヘヴィ・ロックのライブで下手くそなオペラを聞かされたグルーピーみたいな眼差しを向けながらこう吐き捨てた。
「一生寝てろ」
「いやいやいやいや!」
流石にわたしは悲惨な女性を見ていられず、そのまま部屋の奥に行こうとするジェーンちゃんを引き留めると、大急ぎで実験場の外にあるお店へ食べ物を買いに向かうのだった。
一応ジェーンちゃんも買い物に付いてきてくれた。優しいネ。
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「もうねェ、本当に死ぬかと思ったよォー!」
そう言いながら赤く染まった白衣を着た女性は近くのお店で買った弁当を食べていた。しばらく何も食べていなかったのだろう、満面の笑みで湿った唐揚げを頬張っている。
「実験に夢中で夢中で、気が付いたら丸二日何も食べてなかったんだよねェ。それでお腹を膨らませるためにお気に入りのトマトジュースを飲もうとしたら転んでこんなことになっちゃってさァー。アハハハハ!」
「何があったらそんな量のジュースをぶちまけるんだよ…………」
その様子をわたしとジェーンちゃんは静かに、いやジェーンちゃんは冷ややかな眼差しで見つめていた。
「イヤイヤ、不っ思議だよねェー。でもこうして君たちが来てくれて助かったよォー。この弁当が口の中に沁みるゥー! ガツガツガツ!」
「あ、そんな一気に食べたら…………」
しかし遅かった。
弁当を一気に口の中にかき込んだ女性は気管を詰まらせて思いっ切り咳き込んでしまった。口から飛び出た米粒が悲しい顔をして地面へと転がる。
「ごほぉ! うー、ジュースジュースゥ!」
そして手近にあった中身の残っているトマトジュースで口の中の物を一気に胃の中に流し込むのだった。
(………………なんかもったいないナァ)
トマトジュースで赤く染まった白衣を着ながら、弁当にがっついて咳き込んでいる。
なんというか、わたしから見て彼女はちょっと変わった人だ。うん、ちょっとね。
でも長く伸ばした明るい茶髪の髪とか、くっきりとした茶色い瞳とか、鼻の高い端正で整った顔立ちとか、スッとした魅力的なプロポーションとか。
━━━━言うなればすごい美人さんなのだ。それもわたしの見た中で一番と言っていいぐらいに。
でも…………
「ゴクゴクゴクゴク。ぅ…………ごうぇっふ! トマトジュースがァー!」
「一気に飲むからだよ、ったくいちいちやかましいな」
うん、まあこれは気にしても仕方ないよネ。
そうして女性は最後まで弁当を食べ切り、満面の笑みで空の容器をポリ袋に押し入れた。
「エーラトトボーノ! とっても満足だったわァ!」
「うん、お粗末様ネ」
そんな満足そうな女性を尻目に、わたしとジェーンちゃんは辺りに散乱しているごみの掃除をしていた。
とはいえぶちまけられたトマトジュースとか掃除していてもキリがないけど。
「そいつはよかったよ。そんで、結局アンタは誰だよ?」
「あー、研究課の主任よォ」
「「は?」」
━━━━その時、ペットボトルを拾おうとした手が止まった。
今、目の前の女性はなんと言った?
「け、研究課って…………天門台の?」
「もっちろんよ!」
そう言って彼女━━━━研究課の主任は胸のポケットから一天門台のIDカードを取り出してわたし達へと見せた。
「研究課の主任『ヴェニア・サハル』。よろしくねェー、可愛いお二人さん」
「は、はぁ…………?」
「え、え…………」
そうして二人の黄色い叫びが狭い保管室内に響き渡るのだった。
おそらく天門台の関係者だと予想はしていたけどまさか研究課の主任とは思いもよらなかったのだ。
そして何かを示し合わせたように、わたしとジェーンちゃんは見つめ合うとお互いに顔を近づけて小さな声で話し始めた。
「な、なぁ、これ大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「いや、研究課の主任って言えば『天門台の影の頂点』って言われてるからさ。もしかしたらアタイ達…………」
「ねェー」
唐突に掛けられた言葉にわたし達はまるでカエルみたいに跳ね上がった。
「な、なんですか?」
「お二人さんの名前と所属を教えて欲しいなァー」
「あ、これはすみません! わたしは隊員コードJのハト。先日までは戦闘課にいましたが現在は研究課のテスターに協力しています!」
「ジェーン、工廠課の隊員だ」
「ハトちゃんに、ジェーンちゃんねェー。ウンウン、よろしくねェー!」
そう言ってヴェニアさんはわたし達の手を掴んで固い握手を交わさせた。先程からわかっていたけど結構明るい人みたいだ。
「それでェー? 二人はどうしてここにィー?」
「アンタらに貸している星物反応検査機を取りに来たんだよ。ハロルドの頭でっかちに聞いたらここにあるって言っていたからな」
「アー……………、あ、あれねェー! そういえば実験に使いたいから持って来てたわねェ。ちょっと付いて来て」
ヴェニアさんと共に保管室の中を歩き始めた。
トマトジュースが飛び散るフラスコに囲まれた保管室内を進んで行くと、膝ぐらいの高さの機械の前で立ち止まった。
「これでしょ」
「そうだそうだ、これだよ! 返してもらってもいいか?」
「いいよォー、これを使ってやりたいことはもうやったからァー」
「よっしゃあ! ハト、トラックに運ぶの手伝ってくれ!」
「はい!」
そうしてわたしとジェーンちゃんは重たい検査機を外に停めてあるトラックへと詰め込みそれぞれの席に座った。
ちなみにトラックの鍵は刺さりっぱなしだった。
「よおし! そんじゃあ後はコイツを持って帰るだけだ!」
「なんか疲れましたね…………」
時刻はもう二時半。なんだかんだで随分と長居してしまったなぁ。
そんな風に物思いに更けていると、トラックの窓がコンコンと叩かれた。
「二人ともォ」
「ヴェニアさん!」
「お弁当ありがとねェー。また会ったら色々お話ししましょー!」
━━━━それはとっても純粋な笑顔だった。
まるで母親みたいに笑うその柔らかい優しい顔を見て、わたしはついついこう言ってしまったのだ。
「はい! 今度はわたしの手作り弁当をご馳走しますヨ!」
「ウフフフ、楽しみにしてるわねェ」
「よし、そんじゃあ行くぞぉ!」
そうしてトラックは天門台へと向けて走り始めた。
ふとルームミラーを見つめると、ヴェニアさんがトラックが走り去るのを静かに見つめていた。その小さな姿が見えなくなるまで。
「………………ヴェニアさん、すごかったネ」
「ああ、まさかあの頭でっかち以上の変人を見れるとは思わなかったぜ」
「それ、ハロちゃんが聞いたら怒っちゃうよ」
道路に埋め込まれた線路を走る路面鉄道に、ふと一台のトラックがすれ違った。
その車窓を覗いてみると二人の女性が、朗らかな笑顔で笑い合っているのだった。




