第107話 水曜日、血が騒ぐ
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深い深い闇の中。一度潜れば二度と抜け出すことのできない深淵の奥底。
そこへ囚われた哀れな犠牲者は両手足を拘束され、ただただ怯えることしか許されなかった。
「ウーフッフッフッフッ…………」
その時、深淵の奥底から犠牲者を嘲笑う声が聞こえて来た。
それはこの闇の中の主。背筋が凍るように冷たく、しかし子供のように愉しげな笑い声が犠牲者の鼓膜を震わせた。
そしてこつん、コツンと。まるでカウントダウンをするかのようにして、乾いた足音が近づいて来る。
もうダメだ。今から深淵の主の魔の手によって、犠牲者はその儚い命を散らすことになるのだろう。
助けて、帰りたいよ、ごめんなさい。胸の内で綴られる言葉を話すことも許されない。
そんな犠牲者の儚い願いは叶えられることはなく、深淵の主が姿を現した。
「さァー! 楽しい楽しい特別検査をやろうねェー! ハトちャーン!」
深淵の主は血に――――トマトジュースのシミに塗れた白衣を着たヴェニアさんが注射器を片手に語りかける。
――――まあ、その哀れな犠牲者ってわたしのことなんだけどネ。
「…………なんでこうなったんだろうネ」
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水曜日。週の真ん中でそろそろ気分が滅入り始める今日この頃。
わたしは薬品の香りが漂う医療課の診察室の椅子に座りながらボーッと呆けていた。
紫星との戦いの傷はほとんど治った。だけど左腕の骨折は完治していなければ、紫星の因子を埋め込まれたことによる後遺症もまだまだ未知数だ。
故に定期的な検査が必要ということで、わたしは天門台の医療課へと訪れる。
そうして血液検査から心電図、エコー検査、そして星物反応検査を含めた粗方の検査が終わり現在は担当医が結果を伝えに来るのを診察室で待っていたのだ。
「お待たせ。検査結果が出たわ」
しばらく待っていると、手術衣を着た赤髪の女性が診察室に入って来た。
彼女はマキ・アサナミ。天門台医療課の主任でありわたしの担当医さんだ。
「ありがとうアサナミさん。それで結果はどうだった?」
「ほとんどの数値で平常、後遺症も特に無し。星物反応も特に反応していないわ。このまま順調に行けばすぐに元の状態に戻れると思うわ」
「そっか、よかった…………」
どうやら、わたしの身体に異常は無かったらしい。
そんな風に安堵のため息をこぼしていると、アサナミさんが詰め寄るようにして顔を近づけて来た。
「でもこれ以上の無茶はしないで欲しいわ。これまでの貴女は何回も死んでいてもおかしくないぐらいの怪我をあっているの。本当にお願いするわ」
「…………はい」
確かに金星の時も紫星の時も――――戦いの後でわたしは大怪我をして戻って来ていた。
十芒星という恐ろしい存在との戦いだから仕方ないとも言える。だけどそれでも気を付けないとならない。
――――死に急ぐことに、慣れてしまうから。
「でも、骨折の方も順調に治って来てるわ。これなら包帯を取ってサポーターだけにしても良さそうね」
「本当!」
「もちろん。でもちゃんと固定されるまで動かさないようにして欲しいわ」
「わかった。これで料理の時に変な態勢にならずに…………」
「チャーオー!」
その時。わたしの言葉をぶった斬るように背後の扉が勢いよく開かれた。
振り返るとそこには、研究課の主任ヴェニア・サハルさんが元気そうな笑顔を浮かべてわたし達を見下ろしていた。
――――何故かその手に大きな布の袋を持ちながら。
「ヴェニア…………さん?」
「ヴェニア主任、今はハトさんとの診察中です。さっさと出て行ってもらいたいわ」
「スィー。奇遇なことにこっちもハトちゃん用があるんだァー」
悲しいことに。この時のわたしはヴェニアさんがいきなり現れたことに驚いて頭が真っ白になっていた。
だから、彼女が取った行動に対して何一つの抵抗ができなかった。
「だからちょっと彼女を借りてくねェー!」
「…………え?」
――――バフンッ
そうしてわたしは、ヴェニアさんの持っていた大きな布の袋になす術もなく包み込まれると。まるで米俵を担ぐようにして持ってかれた。
――――そんな出来事があり、現在わたしはヴェニアさんの自室の椅子に拘束されているのだった。
目の前には謎の器具を片手に子供のような無邪気な笑顔を浮かべているヴェニアさん――――その姿は誇張抜きでマッドサイエンティストそのものだった。
「あの、これから何をやるんです…………」
「ペルケ? 何って特別検査よ。ハトちゃんの今の身体を隅々まで、余すことなく調べてあげるのよォー。ま、痛くないから安心してねェー」
こうして特別検査が始まったのだけど――――ヴェニアさんの言う通り、特におかしなことはなかった。
されたのは少しの血液を採られ、脳と腹部のエコー検査だけ。
変な薬を飲まされることもなければ、真っ二つに解剖される事もない。ただただよくある普通の検査だった。
「はーい、これで終わりねェー」
「え、う、うん?」
そうして検査が終わると、手足の拘束も解かれた。
――――なんか、拍子抜けだネ。と、呆気に取られままわたしは椅子から降りた。
一方のヴェニアさんはというと、わたしから採血した血液に変な液体を入れながら興味深そうに眺めている。
「なるほど。こう反応するんだねェー」
「ねえ、この検査って何の意味があるの? 検査するぐらいなら、アサナミさんから資料もらえばよかったのに」
「んー? 教えなァーい」
「………………」
流石に言葉を失ったが。『まあ研究者なんでこんなものか』と無理矢理自分を納得させた。
――――というよりも、検査以上にわたしには看過できないものが目の前に広がっている方が気になって仕方ないのだ。
チカチカと薄く瞬く蛍光灯。乱雑にばら撒かれた実験機器。何本も並べられた飲み掛けのトマトジュースのペットボトル。仕舞いには放るようにばら撒かれた弁当のゴミの数々。
「酷すぎるよネ…………これ」
おおよそ実験室とは思えない惨状がそこには広がっていたのだ。
ハロちゃんの部屋と比較してもその差は歴然――――いや、もはや比較することすらも各方面に失礼なレベルだろう。
嵐が過ぎ去った通り。いや、もはや廃墟のそれである。
こんなものを見せられてはわたしが拐われたことなぞ些細なこと――――身体の奥に秘めた血が騒ぐものだ。
「ヴェニアさん」
「どうしたのォー」
「掃除、するヨ」
「えー、そんなことよりハトちゃんの検査を――――」
「そ、う、じ、す、る、ヨ!!」
「え…………ぎにゃああああ!」
こうしてわたしの熱い思いが見事に伝わり、ヴェニアさんは掃除をすることを決意してくれた。
――――久しぶりのお掃除、頑張ろうかネ。