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狭き門とロッゲンブロート(4)完

 福音ベーカリーは、朝の9時半に開店のようだった。少し早めについてしまった。


 店は、昨日と全く同じに見えたが、店の前にあるベンチに芝犬が座っていた。可愛い柴犬で、思わず脚が向いてしまう。それに店の方から、パンが焼ける良い香りが漂い、理性が乱されていた。ほのかにメープルシロップのような甘い香りもする。おそらくメロンパンなどの菓子パンも焼いているのだろう。朝ごはんは食べたはずだったが、口の中がよだれでいっぱいになりそうだった。


「私、パン屋入ってもいい?」

「わん、わん!」


 芝犬は、同意するように吠えていた。おそらく看板犬だろう。尻尾もくるくるとしシナモンロールのようだった。色合いも焼きたてのパンみたいに見える芝犬で、垂れた目も可愛らしかった。この犬だけでもファンがいそうなパン屋に見えた。多少味は微妙でも、この犬を見てたら許せそうだった。


 そういえば、昔、このあたりに弁当屋があった。おばあちゃんがやっている弁当屋で、正直不味かった。唐揚げは石のように硬く、ご飯もペチャっとしていたが、おばあちゃんの人柄で近隣住民に愛されていた。きちんとしたコンビニ弁当のような既製品だけが好まれている訳でもないのかも? 


 ふと、そんな事が頭によぎった。ネットでバズっている動画も、田舎の変な雑貨屋にYouTuberが訪問していた。変なゆるキャラが人気が出たりもしている。人々が好むものは、綺麗な既製品だけじゃないの? 


 時計を見ると、ちょうど開店時間で、店から店員が出てきた。黒板状の看板を設置していた。


「お客様いらっしゃいませ。あれ、昨日お会いしたお客様ですかね」


 店員はニコニコ笑いながら、ミサキに話しかけた。いかにも客商売的な不自然な笑顔ではなく少し不器用そうな笑顔だった。


 店員は、橋本瑠偉という名前らしい。白いコックコートの胸元にそう刺繍してあった。雰囲気は知的で落ち着いているので、白いコックコートは、あんまり似合ってはいなかったが、不思議とパン屋の店員らしさはあった。おそらく体格が良く、手も職人らしくゴツゴツと大きいからかもしれない。そう思うと、不器用そうな笑顔も、職人らしくて悪くは見えなくてなってきた。


 瑠偉が出した黒板式の看板には、なぜかパンの絵や宣伝ではなく、とある言葉が書いてあった。


「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。 マタイの福音書07章 13節より」


 そう書いてあった。おそらく聖書の言葉だろう。大学の文学史の授業でさらっと聖書の話題も出てきた。明治大正時代の文豪は、海外から入ってきた文学を理解する為、聖書研究をしている者も多かったらしい。当時の翻訳ものは、大胆な解釈もされていて、この時代の文学関係の日本人の苦労も察せられる。そんな事もあり、聖書は西洋の宗教という印象だが、なぜパン屋の黒板式の看板で引用しているのだろう。


「お店入ってもいいですか?」

「どうぞ、どうぞ。いらっしゃいませ」


 瑠偉が扉を開けてくれて、店に入る。外観の見た目通りの小さなパン屋だった。オレンジ色の照明が優しく、春のお花畑のような温かみもある。今の季節は春だが、ここはよりそれっぽい雰囲気を感じる。


 店の中央には、大きなテーブルがあり、食パンやあんぱん、クロワッサンなどの定番商品が並べられていた。平べったい煎餅のような変なパン、三つ編み状のパン、ベーグルも多く置いてあるのが、珍しい。また、昨日美嘉に見せて貰ったロッゲンブロートも置いてある。真っ黒で筒状のそれは、やたらと堂々とし、他の柔らかく人気がありそうなパンを威圧しているようにも見えた。


 普段だったら、こんな硬そうなパンはスルーしていただろうが、今は妙に惹かれてしまった。


「店員さん、このロッゲンブロートってパン、スライスして購入できますか?」

「かしこまりました」


 瑠偉は笑顔で頷き、スライスして紙袋に包んでくれた。


「このパンは、クリームチーズやいちじく、ベリー類のジャムがお似合いです。あと生ハムとオリーブオイルを垂らして食べても絶品です」


 低く落ち着いた声で説明を聞いていると、ドキドキとしてきた。確かに色気は全くない店員だが、人としての魅力は高そうに思う。美嘉が顔を赤くしていた理由も何となく分かったりもした。


 お金を払い、紙袋を受け取るとどっしりと重かった。焼きたてなのか、ほのかに熱も感じ、猫でも抱えている気分になる。


「店員さん、一つ聞いていい? 表の看板は何? 聖書?」

「ええ。僕たち店員は、てん、いやクリスチャンです。クリスチャンにとって聖書の御言葉はパンですので、チラリと匂わせてます」

「匂わせ?」

「うーん。日本人は宗教とか嫌いだし、さりげなく、です」


 そう言って瑠偉は、再び笑顔を見せた。確かに宗教は気持ちが悪いが、別に強制されなければ、特に気にはならないが。


「へー。でも狭い門ってよく聞くよね。確かにFラン大学いくより、東大入った方がいいよね」

「うん。そういう意味での解釈もあるけど、聖書の中では、イエス様を信じるのが、狭き門という意味だね。他の宗教は、全部滅びの道っていう。クリスチャンが他の宗教に寛容だとおかしいんですね」

「うえー、排他的」


 思わず顔を顰めた。普通の日本人として育ったミサキは、理解できない価値観だった。失礼だと思いつつ、驚きの声をあげてしまう。


「でも、Fラン大学行くより狭き門の東大行った方がいいっていう解釈みたいに、聖書の言葉って、日常でもあらゆる面で適応できるよ」

「そう?」

「うん。果たして皆んなと同じように就活するのは、いい事かな? 広い道だね?」

「え?」


 瑠偉はまるでミサキの今の気持ちを見透かしているようだった。深い海のような色の瑠偉の目を見ていると、見透かされている理由をツッコむのも、おかしい気がした。


「秘書なんて、そのうちAIに取られるよ」

「え、何でそんな事知ってるの?」

「妹の美嘉ちゃんが常連だからね」

「美嘉のやつ、ペラペラ喋って……」

「でも俺は、お客様の祝福を願っています。どうか、今いる道が広い道か、そうでは無いのかよく考えて」


 瑠偉の声は、自分の心にしっとりと染み込んでいくようだった。確かに、見かけだけ取り繕い、就活を乗り越えようとしていた事は、どこか浅かったかもしれない。ずっしりと重いパンを持ちながら考える。


「このロッゲンブロートは、人気ある?」

「意外とあるんですよ。糖質制限ダイエットに躓いたお客様とか、好評ですね。硬いパンの需要は、捨てきれません」

「そっかー」

「ええ。多数派が全てではないんです」


 何故か瑠偉の言葉を聞いていたら、心が軽くなってきた。


 ミサキは、家に帰ってロッゲンブロートを食べる事にした。昼前という中途半端な時間だったが、パンを見ていると、誘惑には勝てなかった。


「酸っぱい!」


 確かに最初は、硬くて酸っぱくて不味かったが、ジャムをつけて何度も噛み締めていくうちに美味しく感じてきた。フワフワの甘くて柔らかいパンには無いような奥行きのある味だった。


 何度も何度もロッゲンブロートを噛み締めながら、もう少し秘書以外の職種なども調べて良い気がしてきた。確かに応募者が多い職種よりも、ニッチな分野を探してみても悪くないかもしれない。


 硬くて酸っぱくいロッゲンブロートを噛み締める。見た目だって真っ黒で、冴えないパンだが、噛み締める度に味が舌に染み込む。


 綺麗な既製品じゃ無くても、良いのかもしれない。こんな硬くて酸っぱいパンにでも需要があるようだし。


 とりあえず、少し肩の力が抜けてきた。確かに皆んなと同じ事は、滅びの道かもしれない。違う道に逸れても大丈夫かもしれない。


 大丈夫、大丈夫。


 噛み締める度に、そんな言葉も心に芽生えていた。

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