09話『鱗を持つ者たち』
その日の天候はやや曇りだった。
早朝、俺たちは鱗人族の待つブオナ島に向けて出港した。
王女ティアナートを乗せた王国船と同型の随伴船の計二隻である。
海原を進む船の甲板には太い帆柱があり、大きな白い帆が張られていた。
帆にはエルトゥラン王国の紋章が描かれている。
船は甲板と船内の二層構造になっていた。
甲板及び船腹の左右舷には漕ぎ座があり、櫂が二十本ずつ備えてある。
漕ぎ手は兵士の仕事で、戦闘員との兼任だった。
船一隻におよそ百名の兵士が乗員して運用される。
作務衣の俺は王国船の甲板の上で、頬に潮風を感じていた。
波は意外と穏やかで、おかげで揺れも少ない。
海鳥の群れが風の向こう側を飛んでいる。
ブオナ島までは丸一日かかるそうだ。
とは言え二十四時間ずっと船を動かすわけではない。
夜間の航海は危険なので、無理をせず途中にある小島で船を係留する。
そこで一泊し、日の出を待って船旅を再開する予定だ。
鱗人族とは事前にやり取りをしてあるが、前置きなく彼らが海上で攻撃を仕掛けてくる可能性もゼロではない。
なのであまりのんきせずに、警戒を怠らずにいなければならない。
「シロガネ殿」
声に振り返ると、白髪交じりの中年の男と少年がいた。
厳つい顔立ちの紫色の軍服の男は将軍のドナンだ。
船の総指揮は彼に任されている。
ドナンの後ろに控えている少年は誰だろうか。
船に乗っているのだから、彼も兵士ではあるのだろう。
他の乗組員と同じく、布を縫い合わせた簡素な長袖と長ズボンを着ている。
ぱっと見の年齢は俺と同じくらいで、身長もほとんど同じだ。
短く切った髪がつんつん尖がっている。
顔に見覚えがある気がするのだが、どこかで会っていただろうか。
「ドナンさん。そちらの方は?」
「私の息子のオグです。せっかくなので紹介したいと思いましてな」
ドナンに背中を押されて、少年は『へへっ』と笑った。
ざっと踵を合わせ、右の手の平を左胸に当てる。
「十人隊長のオグ=ダングリヌスです。よろしく!」
「おい! 言葉遣いには気を付けんか!」
「えー、だってさぁ」
オグはがばっと俺の肩に腕を回してきた。
「救世主様って言っても俺と同い年なんだろ? それに俺はこいつの命の恩人的なあれだし?」
「……あっ」
至近距離で見るこの横顔はもしや。
俺はエルトゥラン王城で獣人戦士に襲われた時のことを思い出した。
「俺をかばって背中を斬られた人ですか?」
オグはニカッと笑うと、俺の頭部を腕で締め上げてきた。
「なんだよぉ! 忘れてるとか酷いだろぉ?」
「す、すみません。こっちも切羽詰まっていたのででで」
痛がると、オグは腕を緩めてくれた。
解放された俺は少年と向かい合う。
「あの時はありがとうございました。ケガは大丈夫なんですか?」
「平気平気。やわな鍛え方してないからさ!」
胸板を拳でどんと叩く。
この人はドナンの血を引いているなと思った。
「シロガネヒカルと申します。よろしくお願いします、オグさん」
「つれない言い方はよせって。一緒にやばい戦いを乗り越えたんだ。俺たちはもう仲間だろ?」
オグが差し出した手を、俺はしっかりと握り返した。
友情の握手である。
ドナンはやれやれとため息をついた。
「仲良くするのは結構だが、公私の区別は忘れるな」
「わかってるって」
紹介が済んだからか、将軍は仕事に戻っていった。
その後ろ姿にオグはひらひらと手を振る。
「オグはさ、何で兵士になったの。まだ若いのに」
「んー……」
オグは何かを思うように、視線を空にそらした。
「何もできないで守られてるだけなのが嫌になったから……かな。兵役は成人してからなんだけど、特別に早く入れてもらったんだよ。どのみち俺は将軍の息子だから、どう転んでも軍には入るんだし」
「戦うのは怖くない?」
「いざって時に戦えない方が怖いかな、俺は」
「そっか……」
俺が生まれ育った日本はとても平和な国だ。
普通に生きていれば命のやりとりをする機会などほとんどない。
良い意味で暴力を振るうことに慣れていないのだ。
頭では覚悟したつもりでも、正直なところまだ抵抗がある。
「なんか、お前って不思議な奴だよな」
「なにが?」
「こうやって話してても、全然強そうに見えねんだもん」
オグの率直な物言いに、俺はふふっと笑う。
救世主様扱いされるよりも、こうやって軽口を言われる方が気が楽だ。
「なら帰ったら槍で勝負しよっか」
「おっいいぜ! でも勝っちゃったらどうすっかなー?」
「その時は一緒に救世主やればいいだけだろ?」
「あー、別に何人いてもいいのか。俺が真の救世主様だぜー的な?」
おばかな高校生みたいに、俺たちは笑い合うのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
日が変わって朝が来る。
水平線にブオナ島の輪郭が見えてきた頃だった。
船を包囲するように、海面に多数の暗い影が集まってきた。
空を舞う海鳥のものではない。
海中から影がすーっと浮かび上がり、波間から異形が顔を出した。
その顔つきを俺の知識で例えるなら、ワニもしくはトカゲだろうか。
前方に突き出た大きな口を開けると鋭い牙が並んでいた。
体の表面は濃紺色の鱗で覆われている。
ただし喉から下腹部にかけては鱗が生えておらず、ゴムのような質感の白い肌があらわになっていた。
太い尻尾をそよそよと動かして泳いでいる。
指と指の間にはヒレがあり、手には銛のようなものを握っていた。
彼らが鱗人族なのだろう。
船を囲う数はざっと五十といったところか。
王国船の正面を遮るように浮かんだ鱗人が大きな声で叫んだ。
「エルトゥランから来た人間族に告ぐ! 島に近付いていいのは一隻のみだ! 繰り返す! 島に近付いていいのは一隻のみだ!」
彼が指揮官的存在なのだろうか。
その体躯も握っている銛も他の鱗人と比べて一回り大きく見えた。
船内から甲板に上がってきたティアナートがドナンと相談を始めた。
漕ぎ座の兵士たちは緊張した面持ちで弓に矢をつがえて備えている。
俺は海からの攻撃に警戒しながら、ティアナートのそばに駆け寄った。
「陛下。いかがなさいますか?」
「この場で慌てて何とする。堂々として従ってやればよい」
「御意」
ドナンは副官の百人隊長らに指示を出した。
王国船から随伴船に縄をかけて伝令が走る。
随伴船はしばらくこの場に留まる。
王国船の上陸を遠方より視認した後、昨晩の係留地に移動して待機する。
島での予定終了日にまた迎えに来ることとなった。
俺たちを乗せた王国船は鱗人たちの誘導のまま進んだ。
彼らは船を囲んだまま一定の距離を保っている。
こちらに危害を加えて来る様子は今のところ見られない。
ティアナートは押し黙ったまま、ブオナ島を見つめていた。
固く握った右手を豊満な胸の上に置いている。
彼女が身にまとっているのは晩餐会の時と同じ紫色のドレスだ。
他国の要人と会う時はこのドレスに決めているのかもしれない。
頭の上には黄金のティアラを載せていた。
ブオナ島は面積の半分以上を山が占める断崖絶壁の島である。
上陸できる砂浜があるのは島の東側だけだ。
他の方向からは険しい岩肌が見えるだろう。
ブオナ島は火山活動によってできた島なのだ。
では岩だらけの裸島なのかというと、まるで違う。
ブオナ島は緑の島だ。
地面には草が生い茂り、森と呼んで遜色ないほど木も多い。
海の色、崖の岩肌、芽吹く緑の色彩は遠目にも迫力のある景観だ。
真夏のバカンスとして遊びに来たいと思う場所である。
海を進み、ついにブオナ島に王国船が到着した。
浜辺に木製杭を打って造られた桟橋に船が停泊する。
兵士が船の甲板から桟橋に渡し板を下ろそうとすると、鱗人の指揮官は桟橋の上に二本の足で立ち塞がり、待てのポーズをとった。
「島に上陸していいのは人間族の王だけだ! 他の者は船から降りてはならない!」
「なんと!?」
ドナンは険しい表情で声を上げた。
そりゃあそうだ。いくらなんでも一人では行かせられない。
反論しようとするドナンに、ティアナートは手の平で下がれと示した。
それから船端に立ち、桟橋の鱗人指揮官を見下ろす。
「私の手足となる者も連れていく」
「大王からは、人間族の王を案内するよう言われている」
「鱗人族は勇敢なる海の戦士だと聞いていた。だがお前たちの王はそうではないようだな」
ティアナートはよく通る声で挑発的な言葉を投げかけた。
鱗人の指揮官は二メートルはありそうな巨体をわなわなと震わせた。
吊り上げた目でティアナートをにらみ返してくる。
しかし彼女は怯むことなく、むしろ力強く言葉を投げた。
「女を一人にしなければ迎えることもできない臆病者なのかと聞いている! 黙っていないで答えてみよ!」
俺は緊張しながら事態を見守っていた。
鱗人の指揮官は細い目をくわっと見開いた。
「それ以上の侮辱は許さない!」
「よかろう! ならば今の言葉は撤回する!」
ティアナートは兵士に渡し板を下ろすように命じた。
鱗人の指揮官は渋い表情でその様子を見守った。
まずドナンが桟橋に降り立つ。
次にベルメッタに支えられながらティアナートが下りた。
最後に俺が続く。
残りの兵士たちは船上にて待機することとなった。
ドナンの部下である百人隊長ライネスとダンキーが留守を預かる。
結局、鱗人たちは俺たちの上陸を許した。
付き人の帯同を認めなければ、自分たちの王を貶めることになるのだ。
これは俺の勝手な想像だが、面子が立つかどうかというのは、バイオレンスな世界においては本当に優先度の高い問題なのだろう。
桟橋の上で俺たちは向かい合う。
指揮官の男は鱗人たちを整列させると、一歩前に出てきた。
「あらためて挨拶させていただく。私の名はガッリ。我らが大王クルガラの招きに応じていただいたこと、感謝申し上げる」
ガッリと名乗った指揮官は銛を脇に抱え、胸の前で勢いよく手を合わせた。
後ろの鱗人たちも同じ動作をして、手の平で音を鳴らした。
鱗人族流の挨拶なのだろうか。
返礼として、ティアナートは右の手の平を左胸に当てた。
これはエルトゥラン王国での敬礼の動作である。
「エルトゥラン王国王女ティアナート=ニンアンナである。出迎え大儀である」
「大王の宮殿へ案内いたす」
ガッリを先頭に、銛を持った鱗人に挟まれた状態で俺たちは歩き出した。
緑豊かな山の高い位置に、何やら木造の巨大な建造物が見える。
あれがクルガラ大王の住む宮殿なのだろうか。
しかし奇妙なことに、島には他に建物らしい建物は見当たらなかった。
鱗人族は人間と違って、家を建てて住まないのだろうか。
砂浜があるのは桟橋の近くだけで、そこから先は草木の生い茂る山だ。
日常的に踏まれてか、草が抜けて土が露出した山道を進む。
斜面が急なため、目的地まで一直線にとはいかない。
坂道を右に左にと折り返しながら、一団は山を登った。
湧き水が出ているのか、途中に小さな川があった。
山登りで汗をかいたのもあって、水の流れる音に涼しさを感じる。
木組みの橋を渡って進む。
ふと木陰で何かが動いた気がした。
風か小動物のいたずらだろうか。
そう思って目を向けると、よく伸びた草の枝がわずかに揺れていた。
さらに木々の向こう側、山の斜面に大きな穴があいていることに気付く。
枝葉に隠れているが、よく見ると洞穴が点在していた。
もしかすると鱗人族は洞窟の中で暮らしているのかもしれない。
住民の姿がまるで見られないのは隠れているからだろうか。
森を抜けて、不自然に開けた場所に出る。
周りの木を刈り取って整地したのだろう。
広場の真ん中に木造の大宮殿が堂々と存在していた。
そばから見上げるとさすがの迫力だ。
動物は相手を威嚇する際、腕を広げて体を大きく見せるという。
そういった意図がこの宮殿にあるのなら、それは成功していると言えた。
「エルトゥラン王国より人間族の王がお越しである!」
ガッリが大きな声を響かせると、巨大な玄関引き戸が内側から動かされた。
一行は宮殿の中へと足を踏み入れる。
建物としては一階建てなのだが、空間の使い方が実に贅沢だ。
巨人の家かと思うほど通路が広く、天井も高い。
また印象的なのは飾りっ気のなさだ。
こうも広いと壁に絵を飾ったり、通路にツボや彫刻を配置したくなりそうなものだが、そういった不純物がない。
まるで大きな木の中に飲み込まれたような気持ちになった。
玄関広間を抜けて、十字路をまっすぐ進む。
その先の奥行きのある広間に、これまた大きな玉座に腰かける者がいた。
玉座はやはり木製で、品のある焦げ茶の色合いである。
人が三人は座れそうなほど幅に余裕があった。
玉座に座る男はフード付きの外套で頭頂部から足元まで体を覆っていた。
目の部分に穴の空いたフードを深く被って顔を隠している。
銛を持った鱗人たちは玉座の前で、左右に分かれて整列した。
玉座の鱗人の正面にティアナートが立つ。
その後ろでドナンとベルメッタが膝をついたので、俺もまねする。
玉座の鱗人は胸の前で両手を合わせて音を鳴らした。
「鱗人族の王クルガラである。人間族の王よ、よくぞ参られた」
がさがさのしゃがれ声だった。
喉を痛めているのだろうか。
「エルトゥラン王国王女ティアナート=ニンアンナである。お会いできて光栄です、クルガラ王」
ティアナートは左胸に右手を当てて一礼した。
クルガラは微動だにせず、フードに空いた穴から彼女を見ていた。
玉座の間に奇妙な静寂が訪れる。
二人とも目と目で探り合いをしているのだろうか。
後ろに控えている身としては何とも気まずい。
先に沈黙を破ったのは鱗人族の王だった。
「我が諸君を島に招いたのは言葉を交わしたかったからだ。我は人間族を敬愛している。腹の探り合いはやめようではないか」
「ならばまず、王のお顔を拝見したいものです」
「……そう望むのならば」
クルガラは立ち上がると、ばさっと勢いよく外套を脱ぎ捨てた。
そのあまりの姿に息をのむ。
白いはずの胸と腹は皮膚のところどころがケロイド状に腫れていた。
爛れた顔には本来あるべき濃紺色の鱗が生えていない。
手足や背中の鱗もおかしかった。
体表に滑らかに生えているはずの鱗は歪で、大きさもまちまちで不揃いだ。
二メートルに迫る身長と相まって、思わずのけぞりそうな迫力がある。
「気分を害すかと思ったのでな。隠していたわけではない」
クルガラはかすれた声で笑った。
その表情に怒りや恥じらいの色は見られない。
「若気の至り……の対価と言ったところか。だが今の我があるのも、この痛みあればこそだ」
「寛大なお心遣い感謝いたします」
ティアナートはちらりと、後ろに控えているベルメッタに目配せした。
以心伝心の王女と侍女である。
ベルメッタは王女の左の手袋を脱がせ、ドレスの袖をせり上げた。
クルガラが目を大きく開く。
ティアナートの左腕が露わになる。
その腕は燃え尽きた灰の色をしていた。
今は動かすことはおろか感触すらない腕。
それはかつて彼女が救聖装光の力を振るった代償である。
「クルガラ王とは腹を割ったお話ができそうですね」
「そのようだ」
二人が微笑み合う。
外交用の作り笑顔ではないと思いたい。
「歓迎の用意がある。続きは食卓を挟んでとしよう」