番外編06話『太陽と月の明烏(3)』
ティアナート=ニンアンナを捕えて六日目のことである。
エルトゥラン王城から八百の軍勢が出発したとの知らせが届いた。
これを受けて、ライムンドはすぐさま船でエリッサ神国に渡った。
援軍を要請するためである。
二日後。帰国したライムンドがエルバロン王城の執務室を訪ねてきた。
会議用の長卓を挟んで、シルビスは宰相からの報告を受けた。
「援軍を断られた?」
シルビスは驚きのあまり、聞いた言葉をオウム返しした。
それを肯定するようにライムンドが頷く。
「婿殿の男ぶりを拝見させていただく、と。ハモン=メルカルートが申しております」
ハモンはディドの祖母の兄にあたる人物で、エリッサ教団の最高指導者として、エリッサ神国の政治を長年に渡り牛耳ってきた影の王である。
「骨董品が何様のつもりだ……! ライムンド、お前もそんなたわごとを聞いて帰ってきたのか?」
エルトゥラン王国の動きの早さに、シルビスは焦りを感じていた。
それがつい悪態となって口から出てしまう。
そんな新王の不安にライムンドは気付いていたが、そのことには触れずに、いつもの微笑を浮かべたまま返事をした。
「エリッサ教団内に不穏な動きがあります」
「なに?」
意外な情報にシルビスの怒気が引っ込む。
「お会いした時、ハモンは体調が良くない様子でした。あれはおそらく毒です。じわじわと体を蝕む蓄積型のものでしょう」
「ほう……」
シルビスは卓に肘をつくと、こめかみに指を当てた。
「おそらく主犯はディド様の従兄弟ピグメリオでしょう。いつまでも権力を手放さない老人に、下の者も不満を抱いているようです。ピグメリオを中心とした反ハモン勢力が大きくなっている模様です」
「なるほど。実際には老翁殿の足下が危ういということか」
「また陛下との結婚のため、エリッサの巫女であるディド様が国外に出ました。そのことで教団に対する不信の声も上がっているようです。巫女不在の教団になぜ従わなければならないのか、と」
シルビスはため息を吐いた。
「エリッサの国内事情に関与するつもりはないが、困ったことになったな」
「はい。ですので此度の戦い、エリッサは当てになりません」
途端にシルビスは頭が痛くなる。
シルビスはすでに賽を投げている。
今さらごめんなさいでは済まされないのだ。
「ライムンド。エルトゥランと戦って、トラネウスは勝てるか?」
不安を隠せない顔でシルビスが問う。
さて、とライムンドはわずかに首を傾けた。
「総合的に判断して、勝敗は五分五分といったところでしょうか。陛下が心配されているほど分は悪くありません。あとはどちらに勝利の女神が微笑むかだけです。勝てると断言できないことを申し訳なく思いますが、それはご勘弁を」
そう言って微笑むライムンドに、シルビスは少し心が軽くなった。
父がこの男を重用していた意味が、シルビスにもわかった気がした。
どんな時でも安定している者がそばにいるというのは、それ自体が安心感を与えてくれるのだろう。
「ありがとう、ライムンド」
こぼれ出た感謝の言葉に、ライムンドは不思議そうな顔をした。
「何のことでしょうか?」
「お前という柱を得たことは、父にとっても大いに助けになったことだろう。ふとそう思った」
シルビスがそう言うと、ライムンドは悲しげに微笑んだ。
「ここ最近が失態続きでなければ、大喜びしたところなのですが」
意外な表情に、この男でも落ち込むことはあるのだなとシルビスは驚いた。
そして同時に、弱さを見せてくれたことを、逆にシルビスは嬉しく思った。
なので笑顔でこう言う。
「だったら次は勝ってみせろ。最終的に勝ちさえすればいいのだ。私は今、お前を褒めたい気持ちでいっぱいだ。だから次の戦いでは吉報を持ち帰れ。必ずだぞ」
元気づけようとする若者の言葉に、ライムンドは自然と笑顔になっていた。
「ええ、必ず」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
エルトゥラン軍がトラネウス王国領内へと侵攻を始めた。
北国境の町セルアティの防衛隊は敵の奇襲を受け、守護の将が戦死。
身動きもままならなくなり、敵の素通しを許すことになった。
報告によれば、敵軍は一直線に首都エルバロンを目指しているという。
シルビスは各位と協議し『巣立ち口』にて敵を迎え撃つことを決める。
巣立ち口は天然の関所と呼べる場所で、防衛戦にもってこいの地形である。
ここを抜けるとエルバロンまでさしたる障害もなくなり、一日あれば首都まで辿り着ける。まさに最終防衛線と言えた。
シルビスはライムンドを総大将に任じ、千百七十の兵士を預けた。
己の暮らす王城をほぼ空にし、多数の傭兵を雇い入れての総力戦である。
また副将にはベルンハルト=フェルデン将軍が就いていた。
元は傭兵隊の出身で、アイネオスに取り立てられて将軍になった男である。
先のエルトゥラン国内での戦いにも参加しており、雪辱に燃えていた。
軍勢がエルバロンの町を出立する。
シルビスは王城の二階、正面バルコニーからその様子を見送った。
「自分のために人が死ぬ覚悟か……」
ため息が白く霧散する。
体が震えるのは年の瀬の寒さだけではないだろう。
全幅の信頼を置く部下を送り出したが、戦いは水物だ。
どれだけ信じていようと、不安にならずにはいられなかった。
「確かに、怖い……」
呟きは冬の風にかき消されるだけであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次の日もまた、シルビスは城のバルコニーに立っていた。
灰色の空からは粉雪がちらついている。
おそらく今頃、ライムンドたちが戦っている。
戦場の才を持たないシルビスは、ただ祈って待つしかない。
落ちてきた雪が彼の衣装を濡らし、いつしか髪から雫が滴っていた。
「シルビスくん」
バルコニーの扉兼用の両開き窓の片方を開けて、ディドが顔を覗かせる。
「お茶淹れてもらったから、一緒に飲も」
妻の優しさに、シルビスは少しの罪悪感を抱いた。
寒い中、外で突っ立っていても何の意味もないことはわかっていた。
だが兵士たちはこの寒空の下、命がけで戦っているのである。
自分だけが温かい室内でのうのうとしているのはどうにも気が咎めた。
そんな夫の心の内をディドは察し、わざと少し冷たい言い方をする。
「王様が風邪を引いたら、みんなに迷惑をかけるだけだよ」
「……そうだな」
シルビスは力なく笑い、バルコニーから廊下に戻った。
そうしてまた、いつものように日常を過ごす。
嫌な胸騒ぎを抱えたまま、シルビスは一日の業務を済ませた。
胃に重さを感じながらも妻と一緒に夕食を取る。
いつもと違い、互いに言葉を発しない静かな食卓だった。
食事の後は互いの寝室に戻った。
本音ではこの後も一緒に過ごしたいとディドは考えていた。
しかし今日のシルビスはそれを望んでいないだろう。
だから余計なことは言わず、ただ『おやすみなさい』と口にした。
夜が更けていく。
寝台で毛布をあご先までかけ、シルビスはじっと天井を眺めていた。
シルビスは戦場を体験したことがない。
父の命令で軍を伴っての移動はしたが、その時も名ばかり大将だった。
配下の将と兵士のやりとりを遠くから眺めていただけである。
必要以上に不安になるのは、この経験不足から来るものもあるだろう。
眠気がないまま、ただただ時間が過ぎていく。
あと二時間もすれば夜が明けようかという頃である。
不意にシルビスの寝室の扉が力強く叩かれた。
「陛下! ベルンハルト=フェルデンでございます! 事は急を要しますので失礼をお許しください!」
何事かとシルビスは飛び起きた。
早足で行って扉を開けると、廊下に一人の中年の将が跪いていた。
足元に置かれた角灯に照らされたベルンハルトは、鎧の胸には折れた矢が刺さり、袖とズボンは裂け、いたるところが血と土と泥で汚れていた。
その姿を前にして、シルビスはごくりと乾いた喉を鳴らした。
言葉にしなくても見たままの姿で伝わるものがあった。
しかし絶望を否定するために、シルビスは努めて平静にたずねた。
「ベルンハルト。何があったか報告せよ」
「巣立ち口にて、我が軍はエルトゥラン軍と戦闘となり……」
ぎりっとベルンハルトは奥歯を噛みしめた。
「我が軍は潰走いたしました! まもなくエルトゥランの軍勢がこのエルバロンまで押し寄せます。陛下、どうか今すぐここをお離れになってください!」
「……戻ってきたのはお前だけか? ライムンドはどうした?」
「宰相殿は……! 討ち死に、されました……!」
途端に体から力が抜けてぐらつき、シルビスは扉の縦枠に手をついた。
目の前が真っ暗になるとはこのことだろう。
発作を起こしたかのように心臓が暴れ出し、全身の毛穴から嫌な汗が出る。
震える腕で枠に縋り付くことで、シルビスはかろうじて立っていられた。
「シルビスくん」
騒ぎに気付いたのだろう。
寝巻のまま廊下に出てきたディドがシルビスに声をかけた。
「逃げよう? エリッサまで逃げたら、追ってこられないと思うから」
賛同するようにベルンハルトが頷く。
ディドは今にも倒れそうなシルビスに手を貸そうとして、腕に触れた。
蒼白の顔でシルビスが呟くように言う。
「できるわけがないだろう……そんなこと……」
「でも、逃げなきゃ死んじゃうかもしれないんだよ?」
「逃げて何になる!」
シルビスは叫びながら、ディドの手を振り払った。
「これだけの犠牲を出しておいて逃げる奴があるか! 父が言っていた。王とは決断をし、その責を負う者だと。戦いに負けたのであればその責任を取るのが王の務めだ。逃げたら……私は無能を通り越して、王ですらなくなる!」
「でも!」
なおも食い下がろうとするディドに、シルビスは首を横に振る。
「もし私が逃げれば、次はエリッサにも戦火が及ぶことになる。その意味がわかるか? エリッサの人間が死ぬということだ。君の決断で人が死ぬんだぞ!?」
このような苦しみを妻にはまで味わわせたくない。
悲愴な面持ちで言うシルビスに、ディドは気圧された。
「じゃ、じゃあ、ティアナートに頼んで、それでなんとか……」
「落とし前を付けるまで事は収まらない。彼女が言ったことだ」
夜明け前の城内の廊下は絶望的に暗い。
ある意味では楽観的に、最終的にはきっとうまくいくと信じていたディドだったが、暗澹たる現状がどんどんと理解できてきて、息が詰まりそうになる。
「でも……じゃあシルビスくんはどうするつもりなの?」
「憎たらしいことだが、ティアナート=ニンアンナは賢明な王だ。私が潔く最期を迎えれば、それで矛を収めてくれるだろう。そうすればトラネウスの民がこれ以上の犠牲を払うこともないはずだ。もちろん君の身に危害が及ぶこともないだろう」
そう言って、シルビスは微笑む。
その奥にある不穏な気配に気付いて、ディドは夫の腕にしがみついた。
「嘘だよね? 私そんなの嫌だから。嫌だからね」
泣きそうな妻の顔を見ていられず、シルビスは視線を足元の部下へと移した。
「聞いての通りだ、ベルンハルト。私は最後までこの城に残る。お前は城の門を開き、残った兵士をすべて家に帰せ」
「お断りいたします」
「なに?」
ベルンハルトは初めて面を上げ、しかみ顔のシルビスを見た。
「陛下がそう仰るのでしたら、最後までお供いたします。もとより城に戻った者は、私と想いを同じくする頑固者のみ。不肖ベルンハルト=フェルデンが冥土の先導役、仕りまする」
「……無駄死にだぞ?」
シルビスはわざと冷たく返したが、ベルンハルトは動じなかった。
「本来であれば、私はアイネオス王を守って死ぬべきだった男です。主君に二人も先立たれては立つ瀬がありません。それにもしやすると奇跡が起きて勝ってしまうかもしれません。その時はお許しくださいませ」
にかっと笑うベルンハルトに、シルビスはやれやれとため息を吐いた。
「勝手にするがいい」
「では勝手に!」
ベルンハルトは改めて頭を下げ、それから走り去っていった。
ああいう忠義者まで殺してしまうのが王の不徳なのだろう。
シルビスは苦い顔をし、自らの寝室に戻ろうとするが、腕を掴んだままのディドがそれを邪魔する。その目には涙の粒が浮かんでいた。
「君は部屋に戻るんだ。扉を固く閉め、全てが終わるまで待っていてほしい」
「やだ」
駄々っ子のようにすがるディドの手に、シルビスはそっと触れた。
「だったら正装に着替えておくんだ。私も今からそうする」
「やだっ」
「ディド。お願いだから言うことを聞いてくれ。そうでなければ、私は君を閉じ込めておかなくてはならない」
今度は強く手首を握る。
二人はどのくらい見つめ合っていただろうか。
ふとディドは腕を掴む手を離した。
それを受けてシルビスも手首を離すと、ディドは背を向けた。
暗い廊下をとぼとぼと歩いていく。
シルビスは心の中で妻への謝罪の言葉を浮かべ、寝室に戻った。
そこからは大急ぎである。
いつ敵がやって来るかわからないのだ。
いちいち使用人を呼びに行ってもいられず、自分一人で着替えをする。
白に金の差し色を入れた装束は父親と同じデザインの正装だ。
「父上、不甲斐ない息子で申し訳ございません……」
衣装を前に、シルビスは詫びの言葉を呟いた。
同時に覚悟が決まる。
不出来なら不出来なりに、最期まで王の務めを果たそう。
そうすればおそらく王が変わるだけで済む。
トラネウス王国という形は残るだろう。
シルビスはそう自分に言い聞かせた。
身繕いを終えたシルビスはすぐに机に向かった。
頼りない燭台の火を明かりに、紙に筆を走らせる。
事後の道筋をつけておくためである。
書き終えた二通の文書の内、一通を丸めて筒型の文入れに納めた。
もう一通は机の上に残しておく。
全てが終わった後、妻に読んでもらうためのものだ。
シルビスが文筒を持って部屋から出る。
早足で廊下を行くと、何やら声が漏れ聞こえてくる。
シルビスはハッとし、声の方へと走った。
扉が半開きになっているのは、ティアナートを閉じ込めた部屋である。
見張りがいないのは逃げたか、ベルンハルトについていったのだろう。
シルビスは扉を開け、部屋の中に入った。
寝巻姿のディドがティアナートを床に押し倒し、肩を掴んで揺らしている。
必死になってシルビスの助命を訴えているのだ。
「やめろディド! 見苦しいまねをするな!」
シルビスが叱ると、ディドは涙でぐずぐずになった顔を上げた。
シルビスは胸が痛んだが、その痛みを振り切ろうとして冷酷を装った。
「部屋に戻れ。これ以上されると本当に君を閉じ込めることになる」
「ごめんね、シルビスくん……でもね、私はね……」
「いいから戻れぇ!!」
叫び声が暗黒の中に響く。
ディドは顔を伏せて、部屋から走り去った。
シルビスは目をそらすことしかできなかった。
「妻が失礼をした」
「いえ……」
シルビスが差し出した手を取ることなく、ティアナートは立ち上がった。
「君の勝ちのようだ、ティアナート=ニンアンナ。もうじきエルトゥランの軍がエルバロンに来る」
「……そうですか」
「あまり嬉しそうには見えないな?」
ティアナートの表情は、およそ勝者の笑みの正反対にあった。
「友人にあんな顔をされて、悲しく思わない者はいないでしょう?」
「それはもっともだ」
シルビスは乾いた微笑を浮かべ、文入れの筒をティアナートを差し出した。
これは何かとティアナートが目でたずねる。
「遺書……というわけでもないが。こういうものがあった方が後処理が楽かと思ってね。どう使おうと君の勝手だが……」
ティアナートは黙って筒を受け取った。
するとシルビスは一歩後ろに下がり、姿勢を正してから頭を下げた。
「全ての責任は王である私にある。どうかトラネウスの民には寛大な処置をお願いしたい」
「……承りました」
ティアナートが同様に頭を下げたのは、相手への敬意の表れだった。
同じ立場にある者として、シルビスの覚悟を理解したからである。
そして顔を上げたシルビスは小さく安堵していた。
ティアナートと話をつけておくことは、残った仕事の一つだったからだ。
あとはどういう最期を迎えるかだけである。
「さて、君も身なりを整えておくといい。上に立つ者はどんな時でも偉大に見えるよう努めなければならないからね」
そう言い残して、シルビスは部屋を出た。
愚かな王と運命を共にしようとするベルンハルトたちに、労いの言葉くらいかけてやらねばと思い、城の一階へと下りることにした。