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82話『舞い散る雪に紅を差し(3)』

 東西の山に放たれた火は延焼が進み、大きな炎へと育っていた。

 火矢を撃ち込んだところなどは木が燃え上がり火の粉を吹いている。


 ドナンを襲った黒い剣の持ち主は東の山へと逃げた。

 急傾斜の麓から木々の間に入っていく。

 後を追って俺も山林の中へと駆け込んだ。


 茂った枝葉に遮られて山中は薄暗い。

 俺はまず辺りを見渡したが敵の姿が消えている。

 そう遠くには行っていないはずだが、どこに隠れたのか。


 俺は五感を研ぎ澄まし、慎重に奥へと進んだ。

 歩くごとに足元で枝と枯れ葉が音を立てる。

 南の方角からはパチパチと林が燃える音が響いてくる。

 煙こそ来ていないものの、焦げた臭いが漂っている。

 ここに火が回るまで、そう時間はかからないかもしれない。


 不意に前方で、ガサガサと葉っぱが擦れる音がする。

 その瞬間、後頭部に感じた冷たい悪寒に、俺は正面に飛び込もうとした。

 コンマ数秒遅れて、背中を引っかかれるような感覚が走る。

 落ち葉の地面を前転して、すぐさま振り返った俺が見たのは、漆黒の剣を振り下ろして着地したところのライムンドだった。


 木の上に隠れて様子をうかがっていたようだ。

 いつもの白い宰相服ではなく、エルトゥラン兵士と同じ鎖帷子と兜を身に着けていた。下に着ているのも一般兵用の厚手の服だ。

 おそらくドナンに近付く際に変装していたのだろう。


 ライムンドはすくっと立ち上がると、兜を脱いで枯れ葉の上に落とした。

 左手の黒星辰剣を地面に突き立てて、鎖帷子と服も脱ぎ捨てる。 

 あまりに自然にそんなことをするので、俺は逆に気圧されて動けなかった。

 白い役人服になったライムンドは黒い髪をかきあげて、嘆息した。


「友を失ってから、私らしくない失態ばかりだ。あの夜に君を仕留められなかったことも、今し方もそうだ。のこのこと戦場にまで出てきておいて、これではねえ……」


 ライムンドは自嘲するように呟いて、黒星辰剣を左手で握り直した。


「過ぎた好奇心は身を滅ぼす。子供の頃、嫌になるほど聞かされた言葉だ。若き日の私はそれに反発して故郷を離れたが、なかなかどうして。年を取らないとわからないこともあるものだ」


 ライムンドは頬を緩めて笑う。

 だがすぐ次の瞬間には、その目に底冷えするような殺気が灯っていた。


「残念だが君との縁もこれまでだ。きっちりここで始末させてもらう」

「その前に一つだけ聞かせてください。ティアナートさんは無事なんですか?」

「もうとっくに処刑されているよ」


 微笑を浮かべながら答えるライムンドに、俺は反応が遅れた。

 脳が言葉を咀嚼できなかったと言ってもいい。


「えっ!?」

「と言ったら君の動揺を誘えるのかな?」


 言いながら、ライムンドが近づいてくる。

 俺は慌てふためく己の心臓の音を聞きながら、槍を構えた。


 落ち着くんだ。

 本当にそうなら、そんな致命的な情報を後出しになどしない。

 これは彼の言葉通り、ただの揺さぶりだ。

 尋ねるという弱みを見せた俺への揺さぶりに過ぎない。

 俺は腹から息を吐いて気を引き締める。


「……意地悪な人だ」

「相手の嫌がることをするのが勝負事の鉄則だからね」


 待ち構える俺に対し、ライムンドは一歩一歩間合いを詰めてくる。

 山林だけあって周りはそこら中に木が生えている。

 槍を振り回して戦える場所ではない。

 そこまで考えて彼は俺を山の中へと誘い出したのだろうか。


 ふとライムンドの足がぴたりと止まる。

 槍の間合いぎりぎりの距離だ。

 彼の目が俺の一挙手一投足を観察しているのがわかる。

 隙を見せれば一瞬でばっさりだ。

 こちらとしても迂闊に動けない静かな立ち合いとなった。


 平原で戦う兵士たちの阿鼻叫喚の声が山の中まで響いてくる。

 仲間の状況は気になるが、今は自分の役割を全うすべきだろう。

 不意に吹いた風が木々を揺らし、枝葉がざわめく。

 それから少しして凪のような静寂が訪れた時、ライムンドがゆらりと動いた。

 距離を維持したまま、ゆっくりと横へと動く。

 剣を握った左腕側をこちらに向けて、俺の目から見て左方向へと動いていく。


 俺は静かに呼吸を整え、心の準備をしていた。

 この人との勝負は派手な打ち合いにはならない。

 やるかやられるか一瞬の勝負だ。


 一本伸びた太い樹の陰にライムンドの姿が隠れる。

 俺は口の渇きと喉の痛みを感じていた。

 それは漂う煙のせいか、はたまた一度負けた相手と対峙する恐怖からか。

 樹の陰からライムンドの左足が出てきて一歩、姿を現した二歩目――その右足が抉るように地面を蹴り、急加速でライムンドが突っ込んでくる。


 今度こそ先手を取って仕留める。

 俺が槍を突き出そうとしたその時、全く予想外のことが起こった。

 カツン、と音を立てて兜に何かが当たったのだ。

 俺は反射的に目を左右に走らせる。

 そして見つけたものは、弾かれて落ちるところの小石だった。


 それは僅かな隙だったが、一流の暗殺者にとって十分な隙だった。

 右斜め下に黒星辰剣を構えたライムンドがもう剣の間合いに入っている。

 おそらく樹の陰に入った時、後ろに隠した右手で石を投げていたのだろう。

 俺に隙を作らせるための仕掛けはすでに発動していたのだ。


「くっ!」


 今から焦っても敵の攻撃の方が速い。

 俺は後ろに跳び退りながら、槍を斜めに構えて防御の体勢を取った。

 完璧な間合いに入ったライムンドが必殺の逆袈裟を繰り出してくる。


 全てを断ち切る一閃が来る。

 だが俺は見開いた目でしっかりとその黒い刃を見ていた。

 俺の槍はその太刀筋を防ぐ位置にある。

 だが剣と槍がぶつかろうとする瞬間、黒星辰剣の刀身がおぼろげに霞んだ。

 そして何の感触もなく、剣が槍の柄をすり抜ける。


 これがトリックの正体か。

 ライムンドは瞬間的に黒星辰剣の刀身を解除し、光の粒子に戻したのだ。

 そして即座に剣を再構成する。

 それが防御をすり抜ける斬撃の正体だ。


 漆黒の刃が俺の体を包む銀色の鎧を逆袈裟に切り裂く。

 しかし以前とは違う点が一つだけあった。


「むっ!?」


 左腕を振り抜いたライムンドはその違和感にすぐに気付いたのだろう。

 剣は確かに鎧を切り裂いたが、俺の体を浅くしか斬っていない。

 その理由は簡単だ。

 斬られる瞬間、俺が救聖装光の装甲を太刀筋に沿って厚くしたからだ。

 イカサマも種が想定できていれば対処のしようはある。


 ライムンドは振り切った左腕で二の太刀を繰り出そうとするが、もう遅い。

 その時にはすでに俺が攻撃動作に入っていた。

 鋭く振り抜いた金属槍の刃がライムンドの左腕を断ち切る。

 黒星辰剣を握ったままの左前腕が宙を舞い、どさりと落ち葉の上に落ちた。


「な……?」


 これにはさすがのライムンドも絶句した。

 肘から少し先の断面から血が断続的に吹き出しているにもかかわらず、地面に転がった自分の左腕を呆然と見つめている。

 それから数秒、ふと自分の負傷に気付いたのか、ライムンドは左の脇の下に右手を当てて、ぎゅっと強く握るようにして簡易的な止血をした。

 近くの樹に、ふらつくように背中を預ける。


「まさか、君に後れを取るとはねえ……」


 ライムンドは薄笑いを浮かべて、俺の顔を見てきた。

 その傷で話ができるあたりタフな人だと思う。


「二度も同じ負け方をするつもりはありません。これでもそれなりに戦いの場数は踏んできたつもりです」

「なるほど……見立てを間違えていたのは私の方だったわけか……君は私のような暗殺者ではなく、戦士だったと……」


 力なく笑いながらも、ライムンドは落ちた己の腕をちらりと見やる。

 どうやら、この人はまだ闘志が萎えていないようだ。

 余計な長話は不測の事態を招きかねない。

 今すぐとどめを刺すべきだろう。

 そう思った時、落ち葉を踏み鳴らして走ってくる音が耳に届いた。


「やめろぉー!!」


 叫び声を上げて向かって来たのはトトチトだった。

 ライムンドがもたれた木よりも奥の方から猛進してくる。

 重たい鎧は置いてきたのか着ておらず、服と長槍だけの軽装だ。

 赤茶色の体毛に覆われた左腕がむき出しなのは袖布をちぎったからだろう。

 右の太ももに巻き付けた布は血で真っ赤に染まっていた。


 あのケガでよく走ってこられたものだ。

 いや、どうして来てしまったのか。

 ライムンドと違ってトトチトはあくまで末端だ。

 出てこなければ、これ以上はもう刃を向けずに済んだってのに。


 俺は救聖装光を瞬間的に部分解除し、腹帯からクナイを左手で引き抜いた。

 向かってくるトトチトに、先手を取って投げつける。

 咄嗟に避けられなかったのは足の負傷のためだろう。

 クナイが腹に刺さり、トトチトの顔が苦痛にゆがむ。

 だがそれでも彼は足を止めなかった。

 トトチトは胸襟を開くように、長槍を握る右手を後ろに引いた。

 いっそう強く雄叫びを上げて金属槍を投げつけてくる。


 手を離す瞬間に合わせて、俺は横へと跳んだ。

 トトチトの槍が先程まで俺のいた場所を貫き、後ろの木を割って刺さる。

 すかさず俺はさらに追加のクナイでトトチトを撃つ。

 尖った先端が彼の胸に食い込んだ。


 度重なる負傷にトトチトの巨体がぐらりと揺れる。

 出血する毛深い胸元を手で押さえながらも、彼はにやりと笑った。


「これで十分だろ……あんたならよぉ……」


 トトチトは微かにそう呟いて、膝から崩れるように地面に伏した。

 倒れ方から判断して、少なくとも気を失ったのだろう。

 それはいいのだが……俺は恐る恐る目を横へと動かす。

 そして兜の下で苦虫を噛み潰したような顔をした。


 視線の先には、黒星辰剣を左手に握るライムンドがいた。

 切断したはずの左腕が元通りくっついている。

 いや、より正確に言えば『妙な何か』が腕をくっつけているように見える。

 傷口をぐるりと輪のように覆う凸凹は黒い結晶体だ。

 さながらそれは水晶や鉱石の原石塊めいた形状をしていた。


 俺にはその黒結晶の正体が直観的に理解できた。

 あれは黒星辰剣の刀身と同じものだ。

 俺が救聖装光の形をいくらかコントロールできるのと同じように、ライムンドも己の武器の使い方を熟知しているということだろう。


「その者、不死鳥の如くあり……立ちふさがる者全て灰燼に帰す……」


 ライムンドが独り言のように呟く。

 その顔は血の気が抜けた死人のような色をしていた。

 またその身に纏う幽鬼めいた異様な迫力に、俺は息を呑む。


「天に太陽は二つ昇らない。シロガネ君。君との出会いもまた、私にとって運命だったのかもしれないな」


 ライムンドはわずかに口角を上げ、そして地面を蹴った。

 無防備なほど、まっすぐに突っ込んでくる。

 ならばと俺は構えた槍を突き出した。

 ライムンドの体がわずかにぶれるが、槍が右の脇腹を抉った。

 十分な手応えだ。


 だがライムンドは止まらなかった。

 一文字の斬撃を俺は屈んでかわし、そのまま跳ねる勢いで前へと出る。

 手をついて振り返ると、早くもライムンドが剣を振りかざしてきている。

 咄嗟に後ろに飛び退いて斬撃をかわすも、さらにすかさず詰めてくる。

 俺は足元の落ち葉をまき散らして、敵の連撃から下がり続けた。


「くっ……!」


 息をもつかせぬ攻めに俺は反撃できない。

 鋭い連撃もきついのだが、まずおかしいのはライムンドの脇腹だ。

 肉ごと抉ったはずのところから例の黒結晶が生えている。

 俺の見間違いでなければ、傷口から噴き出した血が即座に固まるようにして結晶化したように見えた。

 それで出血を止めるのはいいにしろ、ダメージは有るのか無いのか。

 ともかく敵の攻撃速度はむしろ上がってさえいた。


「うっ!?」


 勢いに押されて、俺は背中を木の幹に打ちつけてしまった。

 ライムンドはすでに剣を振りかぶっている。

 受けようとしても、すり抜ける斬撃が来るだけだ。

 俺は逆に思い切って、抱きつくように前に飛び出した。

 ぎりぎりで腕の下に入れて、斬られずに済んだ。

 タックルのような形になり、密着したままライムンドが背中から倒れる。


 俺は右手の槍を手放し、剣を持つ彼の左腕を押さえにかかった。

 だが読まれていたのか、合わせるようにライムンドが右半身を跳ね上げる。

 力の向きを利用され、俺たちは揉み合ったまま横方向に回転した。

 マウントを取られてなるものかと、俺も勢いを増すように体を回す。

 騒がしい落ち葉を敷物にして、ぐるぐると上下が入れ替わる。


 三回転目の途中、また俺が背を木にぶつけて止まる。

 それでもちゃんと俺の右手はライムンドの左手首を掴んでいた。

 いまなら攻撃できる。

 俺は左手で素早くクナイを抜き、結晶化したライムンドの右脇腹を狙った。

 それとほぼ同時に、ライムンドの右拳が俺の顔面を狙う。


 軽く握った彼の右拳の、指の隙間が煌めいた気がした。

 嫌な予感がして俺は必死に顔をのけぞらせる。

 ギャリっと不快な音を立てて、釘のような暗器が兜を突き破ってきた。

 左の頬骨からこめかみにかけての皮膚を抉られる。


 顔面に熱が走るのと同時に、クナイを持つ左手に硬い感触が伝わった。

 クナイの尖端は黒結晶にわずかな引っかき傷をつけただけだった。

 思った以上に硬度があるのか、小道具では貫けそうにない。

 傷口への追撃は失敗だ。


 のけ反った時に、俺とライムンドとの間に隙間ができていた。

 ライムンドがすかさず膝を入れてくる。

 逃がすものかと俺が右手に力を込めると、敵は意外な行動に出た。

 どこからか取り出した小袋を俺の顔の前で振るったのだ。

 緩んだ小袋の口から飛び出した謎の黒い粉が兜に降りかかる。


 もし毒なら非常にまずい。

 咄嗟に俺は目を閉じ息を止め、ライムンドを突き飛ばした。

 背後の木の後ろに回り込み、さらに木を盾にして後ろに下がる。

 それから兜を部分解除して顔を振り、俺は薄っすらと目を開いた。


 ライムンドも距離を取っていた。

 その足元には俺が手放した槍が転がっている。

 鎧がある分、組み合いは有利だと思ったのだが、まずい状況になった。

 ひとまず俺は右手にもクナイを握ることにする。


 さてどうしたものか。

 相手の様子をうかがうが、ライムンドは立ったまま動かない。

 向こうもこちらの出方をうかがっているようだ。

 俺は呼吸を整えながら考えることにする。


 客観的に見て、実はライムンドもそれほど余裕ではないと思う。

 片腕をぶった切って脇腹を抉ったのだ。

 黒星辰剣の力でごまかしているが、だいぶ無理をしている気がする。

 俺もチコモストで腕を斬られたが、あの時は本当に限界ぎりぎりだった。

 ケガと出血は体力を根っこから奪う。

 ライムンドが同じ人間である限り、そこから逃れられないはずだ。


 山の延焼が進んできたのか、煙のにおいが強くなってきた。

 戦いに負ければ、ここがそのまま火葬場になるのだろう。

 こんな土地勘もない場所で死にたくない。

 俺はまだ十七歳なんだ。

 今はまだ、いつどこで死ぬかよりも、明日どう生きるかを考えていたい。


「やるかぁ……!」


 俺は気合を吐いて、前に踏み出すことを選んだ。

 この人を超えて、俺はティアナートを迎えに行く。 

 胸に滾るこの気持ちは若さゆえの軽率な万能感じゃあない。

 光差す未来を歩いていきたいという、生への渇望と決意だ。


 俺は一時的に解除していた兜を元に戻した。

 一歩一歩と足を前に出し、さきほど背をぶつけた木の横を通り抜ける。

 俺は右手のクナイを逆手に持ち直した。

 俺のクナイと向こうの剣では届く範囲がまるで違う。

 今度はこちらが決死の覚悟で飛び込んでいかなくてはならない。


 俺はいつもこういう時、とりあえずの牽制クナイに頼ってきた。

 だが今回はやめておく。

 相手の対応任せよりも、己の持てる最高の集中力で挑んだ方がいい。

 その方がうまくいく気がしたからだ。

 ゆっくりと息を吐いて、気を研ぎ澄ます。


 足先が剣の間合いに入る。

 次の一歩をと後ろ足を地面から離した瞬間、ライムンドが動いた。

 右方向から来る斬撃に対し、俺はあえて防御を選んだ。

 鎧の右脇に、右手のクナイと左手のクナイを重ねる三重の防御である。

 すり抜ける斬撃だろうと、斬る瞬間は必ず刃を当てなければならないはずだ。


 耳障りな引っかき音を立てて、剣が一文字の線を描く。

 今だ、と俺が前に出るのに合わせて、ライムンドも同様に後ろに跳んだ。

 袈裟斬りが来るが俺は退かない。

 腕で振っただけの一撃では骨を断てやしない。

 ライムンドもそれがわかったのだろう。

 構えた左手のクナイへの軽い衝撃は、咄嗟に彼が力を抜いたからだ。

 衝突の反発で黒い刀身が上段の位置に戻る。

 そしてライムンドの靴底が地面に着いた時、彼の黒い瞳がギラリと輝いた。


 両手で剣を握って大きく振りかぶってくる。

 すでに前のめりの体勢になっていた俺に取れる選択肢は限られていた。

 引いたら負ける。前に出て勝ち取れ。

 俺は強い気持ちで右手のクナイを繰り出す。

 わずかに早く、逆手に握ったクナイがライムンドの左胸を切り裂いた。

 間を置かず渾身の斬撃が来る。


「づぅっ……!」


 防ごうとした左手のクナイを力尽くで押し切って、黒い刃が鎧を縦に裂く。

 装甲を咄嗟に厚くしたが、それごと切り裂かれ胸骨をゴリッと削られた。

 斬られた胴体に灼熱が走る。

 だが致命傷にならなかったのは先に攻撃が通ったからだろう。

 ようするにダメージで敵が怯んだということだ。

 ならばこのまま押し通す。


 俺は両手のクナイで相手の首を狙う。

 ライムンドは右のクナイを避けながら、左のクナイを右手で受け止めた。

 血が出るのもかまわず素手でクナイを握り込み、剣で俺の足を刈ろうとする。

 だがもう短剣の間合いだ。

 剣を振るう左腕を、俺は膝で蹴り止める。

 そして心臓めがけて右手のクナイを振り下ろす。

 だが手に伝わったのは鉱物を叩いたような硬い感触だった。

 ライムンドの裂けた服の胸から黒結晶が覗いている。

 まずったと思う間もなく、ライムンドの下段蹴りが軸足を襲う。

 体勢的にどうにもできず、俺は体の横から地べたに倒された。


 ライムンドはすかさず剣を逆手に持ち替え、刺しにくる。

 俺は寝返りを打つようになんとか避けるが、二度目はもう間に合わない。

 迫りくる黒い剣先から、ぎりぎりで腕を十字に重ねて心臓を守る。

 両腕を串刺しにされるが、胸の装甲で剣先が止まった。

 俺は痛みに歯を食いしばりながら、ライムンドの腹を蹴り飛ばす。

 すかさず両手のクナイを投げて追撃するが、一本は血を結晶化させた右の手のひらで防がれ、もう一本は剣で打ち落とされた。


 だがそれでもいい。

 俺はすでに目的の場所に到着している。

 落ち葉の地面でブレイクダンスでも踊るかのように、体勢を立て直した俺の手の中には相棒の金属槍があった。

 穂先を相手に向けて、俺は再び槍を構える。


 薄っすらと煙が漂い始めた山林で、俺とライムンドは三度向かい合った。

 さすがに俺も息が上がってきた。

 槍の重さが傷付いた腕に堪える。

 それになぜだか妙に頭がふらつく。

 出血のせいか、気が昂っているだけで意外と傷が深いのか。

 あるいは先程の黒い粉のせいなのか。

 どうあれ一瞬の反応の遅れが致命傷になる。

 集中力だけは保たなければならない。


 とは言え、きついのはライムンドも同じだろう。

 無言で無表情の仮面を被ってはいるが、呼吸のたびに肩が揺れている。

 いつまでもその態度は続かないはずだ。

 このままへとへとになるまで持久戦を続けるか、その前に決めに来るのか。

 警戒していると、ふとライムンドはすり足で右の足をわずかに下げた。


 まさか逃げるつもりなのか。

 俺が驚くのと同時に、なぜかライムンドも驚いた顔をした。

 そのあとの彼の表情の変化は不思議なものだった。

 歯を食いしばるように顔を歪めたかと思うと、はっとして微笑を浮かべる。


「ありがとう、シロガネ君」


 そう言うライムンドの顔付きはさっぱりとしたものだった。


「君のおかげで友の心をより深くまで理解できた。アイネオスもきっとこんな気持ちで戦っていたんだろうな」


 何を目的としたお喋りなのだろうか。

 俺は油断なく槍を構えたまま、彼の言葉に耳を傾ける。


「生き物というのは死に瀕して本質を知る……と言うのは言い過ぎか。他人に暴力で圧倒されるというのは初めてなものでね。価値観に響くものがあると思ったよ。死というものが実感を持って迫ってくるこの感覚、実に恐ろしい。今必要でもないだろうに色々なことが頭を巡る。私が死んだ後、息子はどうするのか。亡き友の子はどうなるのか。友と共に築き上げたものも全て壊されてしまうのだろうか、とね」


 俺は話を聞きながらも、周囲の様子を探っていた。

 隙を作らせるため、時間を稼ぐためではないのか。

 俺はライムンドを疑っていたが、どうやらそうではないらしい。

 己の気持ちを口に出したい、誰かに伝えたい。

 彼の声には生の感情が乗っているように思えた。


「本当に怖い。愛する者を失う苦しみ、悲しみ。愛する者を残して死を迎える無念と後悔。現実というものはおぞましいほどに醜悪で困難だ。我が友はかつて一度それに屈した。だが再び立ち上がり、救世主になることを望んだ。震えるほどの恐怖を前にしても、強い意志で懸命に立ち向かう心。救世主に資格があるとしたら、きっとそういう心の持ち主なんだろう。そんな生き方ができるなら、人は幸福なのかもしれないねえ」


 ライムンドは左手に握った黒星辰剣を右斜め下へとやった。

 そして黒結晶で覆われた右手を盾のように胸の前に構える。

 これまでとは違うその雰囲気に、俺の背中にぞくりと悪寒が走った。


 ライムンドの目が変わった。

 刺し違えてでも絶対に勝つという覇気で溢れている。

 困難な試練を乗り越えようとする者の目をしていた。


 俺も彼も根っこは似たようなものなんだろう。

 少し離れたところで戦っている兵士の皆もそうだ。

 大切な人との明日を望む気持ちに違いなんてない。

 そのために命を燃やす時、人は限界を超えた力が出せるのだろう。


 おそらくライムンドは次に決死の攻撃を仕掛けてくる。

 生半可な対応では負ける。

 俺はへその下に力を込め、全身に流れる血液から力を引き出す意識をする。

 俺の意志に応えるように鎧の左腕が焼けるように熱くなった。

 銀色の装甲が黒く変わり、焦げた臭いのする黒煙を立ち昇らせる。

 余力は残さない。次の打ち合いで決着をつける。


 薄暗く凍えそうな山林の中、兵士たちの狂騒が遠く響く。

 じっと睨み合う俺たちを木の葉がざわざわと見守っていた。

 ふとどこかで火が爆ぜる音がする。

 それを合図にライムンドが動いた。


 迷いのないまっすぐな突っ込みだ。

 対して俺が放った最速の突きが敵の胸を穿たんと伸びる。

 速度と力が乗った槍がライムンドの右の手のひらを結晶ごとを貫く。

 その刹那、ライムンドは予定通りとばかりに微笑した。

 右腕を外に払うよう強引に、ぐいっと槍の軌道を変えてくる。

 こちらの懐まで左足で大きく踏み込んできて、光芒一閃の逆袈裟がくる。


 ――だがそれは俺にとっても想定内だ。


 俺は槍を手放し、黒装甲と化した左手で黒星辰剣を受け止めにいく。

 手の平とぶつかった漆黒の剣はその圧倒的な鋭さで装甲を斬る。

 親指と人差し指の間から刃が切り込み、手首から前腕へと切り裂いていく。

 装甲ごと腕を縦に斬り上った刃は、しかし肘の所で勢いを止めた。


 脳が痛みを認識してしまう前に俺は動く。

 すかさず右手で握ったクナイで、剣を握るライムンドの左手首を斬る。

 いくら傷を黒結晶で塞げても、人体反応で持ち物を手放してしまうものだ。

 俺は左腕装甲に刃が引っかかった黒星辰剣を引き寄せ、右手に掴んだ。


 漆黒の斬撃がライムンドの白い役人服に血の襷をかける。

 黒い髪の宰相は崩れ落ちるように、落ち葉の地面に仰向けに倒れた。


「ぎっ……!」


 途端に左腕に走った常軌を逸した痛みに、俺は視界が真っ暗になった。

 平衡感覚がなくなり体が傾く。

 このままだと意識を持っていかれる。

 何でもいいから気をしっかりと保つんだ。

 首を刎ねて確実にとどめを刺さないと全てがぶち壊しになる。

 何でもいいからしがみつくんだ。

 俺はこぶしを強く握り締めながら、必死に皆の顔を思い浮かべる。


 ティアナート、ベルメッタさん、リシュリーさん。シトリ、ギルタさん。オグ、ドナンさん、ルーくん、タルタさん、サムニーさん、ムルミロさん、レティさん。ミスミスさん、マウラさん。ライネスさん、ダンキーさん、ゴブリックさん、ピリオさん、ポルトーさん、ンディオさん、オルクスさん、ヒゲドラさん、マクールさん、ミューンさん。


 今まで一緒に戦ってきた皆、縁あって巡り合えた皆。

 ここで挫けたら皆に会わす顔がないじゃないか。


「……君の勝ちだ、シロガネ君」


 ライムンドの呟く声がした。

 気付くと俺は出来損ないの正座の姿勢でうなだれていた。

 目を開けて顔を上げると、すぐ前にライムンドが倒れている。

 傷口を塞いでいた黒結晶が解除されたためか、服が真っ赤に染まっている。


「黒星辰剣は救世主の手にあるべきものだ。君に返そう……」


 消え入りそうな声である。

 もう戦う意思はないようだ。

 いやそれ以前に、力が抜けきった彼の表情と体を見れば、もう。


「すまないアイネオス……君の息子を守ってやれず……」


 俺は這うようにしてライムンドのそばに寄った。

 最期の声を聞き取るべきだと思ったからだ。

 俺の意図を察したのか、ライムンドがわずかに目をこちらに動かした。


「ロタンに……人生は楽しめと……」


 その言葉を最期にライムンドは呼吸を止めた。

 果たし合いは俺の勝ちとなる。

 だが俺の胸中には達成感よりも安堵した気持ち、そして哀しみがあった。


 望んで他人の命を奪いたい人なんて、世の中にほとんどいないのだ。

 もし別の出会い方をしていたら、何のしがらみもない出会い方をしていたら、俺たちは皆、仲良くなれたのではなかろうか。

 そんな風に思わずにいられなかった。


「……ごめんなさい」


 つい俺の口から漏れ出た言葉は、誰に何を謝る言葉なんだろう。

 特定の個人に対する感情だけではない気がした。

 しいて言えばもっと漠然とした、殺生に対する謝罪だろうか。

 それが救世主として俺に求められていることだとわかっていても、自分が無欲無私でないとわかっているからこそ、許しが欲しくなったのかもしれない。


 流れてくる煙が濃くなってきた。

 そう遠くない内に、ここにも火が回るだろう。

 その前になすべきことを済ませて山林を出なければならない。


 ともあれ迅速に必要なのは傷の応急措置か。

 俺は右手に握った黒星辰剣をじっと見つめて、一つ試してみる。

 やりたいこと、そうなってほしいことを明確にイメージして強く念じる。

 俺の意思に応えるかのように、左腕の傷口から流れ出す血が結晶化する。

 ライムンドがやって見せたように、黒い結晶体が傷口を塞いでくれた。


 期待していた通り、基本的な使い方はどうやら救聖装光と同じみたいだ。

 救聖装光と黒星辰剣は同じ鍛冶師による兄弟作なのだから、さもありなんだ。

 予後がどうなるかはわからないが、とりあえずはこれで動ける。


「……終わらせよう」


 自分自身に言い聞かせて、俺は黒星辰剣をライムンドに向けた。

 しっかりと務めを果たす。

 それから彼の亡骸に背を向けて、俺は山を下りた。

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