77話『わがままな信念』
俺はむくりと寝台から起き出し、窓越しに朝の光を浴びた。
体から太陽ビタミンが生成されるのを感じる。
いい目覚めだ。
人間、やると決めてしまえば、かえってすっきりするものである。
俺は朝のあれこれを済ませ、食堂に足を運んだ。
食堂の扉を開けると、ギルタが食卓を布巾で拭き清めていた。
シトリは奥の調理場で朝食の支度をしているようだった。
「おはようございます」
挨拶を交わし、俺は昨日と同じ席に着いた。
何か手伝ったりはしない。
家の雑事は使用人の仕事。その領分は主であっても侵してはならない。
シトリもギルタもその辺きっちりしているので、逆に嫌がられるのだ。
食卓に朝ご飯がやってくる。
今日はワンプレート。焼いたパンのスライスに目玉焼きをのせたものに、鍋でとろとろに溶かした熱々チーズを被せたものである。
付け合わせに果物の切り身を添えたモーニング満足セットだ。
もはや、おいしい以外の感想が必要だろうか。
ごきげんな朝食の途中、俺は斜め向かいの席のギルタに話しかけた。
「ギルタさんって、トラネウス王国の地理とか詳しいですか?」
するとギルタは食事の手を止めて、俺と目を合わせてきた。
「それは軍事的な意味でか?」
「話が早くて助かります」
王城での支度が済み次第、軍はドナンのいるベルクへ向かうだろう。
シルビス打倒を目指してトラネウス王国に攻め入ることになる。
そこで大切なのが敵をどれだけ知っているかだ。
ギルタはライムンドを長とするトラネウス暗部に所属していた経歴がある。
「いちおうは一年ほどいたからな……だが私が知る程度の情報を持つ者なら軍にいくらでもいるだろう」
「今回の敵の大将はライムンドさんだと俺は見ています。その人のやり方や癖、性格を知っている人の助けがほしいんです」
「なるほど」
ギルタは納得したように頷いた。
それに慌てて待ったをかけたのがシトリだ。
「ちょっとちょっと! あんた、ギルタを戦わせるつもりなの!?」
そう言って身を乗り出してくるので、俺は押され気味に否定する。
「あっいや、俺のそばに付いて助言してもらいたいだけだよ。それだけでも大仕事ではあるけど……」
俺の補佐として従軍しろと言っているのだ。
最前線に立つ兵士ほどではないにしろ危険はついて回る。
シトリが心配する気持ちももっともだろう。
だから断られても仕方ないと俺は思っていた。
しかしギルタの反応は意外なほどあっさりしていた。
「問題ない。主殿に付き従おう」
咄嗟にシトリは口を挟もうとしたが、それよりも早く、ギルタは待てばかりにと義理の妹に手の平を見せた。
その手は五指に爪がなく、指自体もやや短くなってしまっていた。
傷自体は治っているが、指先の肉が不自然に膨らんでいる。
彼女が敵に捕まった時に受けた拷問の痕だ。
「エルトゥランの兵士は強い。まともに槍も握れない私を前線に立たせはしないさ。他の兵士の邪魔になるだけだからな」
ギルタはふふと笑い、お茶の入った木製コップを口に運んだ。
「それにシロガネに勝ってもらわないと私たちの生活もおしまいだ。ただ待っているよりも、そばで助力できる方がよっぽど気が楽だ。そうだろう?」
どこか軽さのある言い方はシトリを安心させるためだろう。
たぶんシトリもそれをわかっていて、しぶしぶ頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝食を終えた後、俺はギルタに連れられて屋敷の外に出た。
玄関前から家屋の周りに沿ってぐるりと裏に回る。
すると見覚えのない木造の長屋のような建物が増えていた。
ほのかに動物的な香りと草の匂いがする。
「あれ? こんなのありましたっけ?」
先を歩くギルタに俺は問いかける。
ギルタは足を止めず、ちらりと後ろに振り向いた。
「お前が乗っていた馬が届いたのでな。町の大工に建ててもらった。お前も一角の伯爵様だ。馬の一頭や二頭、いた方が様になる」
「うま?」
ギルタが馬小屋の戸を開ける。
建物の中は横並びに四頭分の馬房に分けられていた。
馬がいるのはその内の一番手前の房、そして一つ飛ばした三番目だ。
俺は入り口から三番目の馬房の前に来て、望外の再会に目を大きくする。
「スイ……!」
懐かしい芦毛の馬が飼葉を食べていた。
チコモスト遠征の際、コヨルゥと戦った集落で出会った馬である。
獣人族の都チノチトラまで一緒だったのだが、あのあと俺はエルトゥラン王城まで駆け戻ることになったため、離れ離れになってしまったのだ。
チコモストから軍を引き上げる際、馬もちゃんと連れ帰ってくれたのか。
俺が静かに柵のそばに立つと、スイは食べるのをやめてこっちを見た。
むしゃむしゃしながら近付いてきたかと思うと、そっと鼻を寄せてくる。
たしかこれは親愛の表現だったと思う。
「……お前も帰ってきてたんだな。よかった。嬉しいよ」
首のところをなでてやると、スイは穏やかに目を細めた。
かわいいやつである。
「賢くて良い馬だよ、その子は」
ギルタが俺のそばに来ると、スイは同じように彼女に鼻を寄せた。
ギルタは微笑みながら、芦毛の首筋をぽんぽんと軽く叩く。
「こんなに人懐っこいやつは珍しい。それでいて肝も座っている。少し大食らいなところはあるが、別に太ってはいないしな。それで体が丈夫なら結構なことだ。内臓の強さは才能だからな」
俺は自分が褒められたみたいに嬉しくなる。
「馬は世話した分だけ懐く生き物だ。普段は私が面倒を見るが、お前もたまにはちゃんと世話をしに来い。あまり放っておくと愛想を尽かされるぞ?」
からかうみたいに言ってくる。
ただし言っていることは正論に思えたので、俺はまじめに頷いた。
「そうですね。嫌われないようにしないと」
「やれやれ……」
どうしてかギルタは呆れたようにため息をついた。
その意味はわからなかったが、ともあれ実践あるのみ。
さっそく俺はギルタの指導を受けて、スイの世話に精を出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝のお世話を終えた後、俺はスイに乗って王城へと向かった。
時間は有限だ。援軍がベルクに行く前にやっておきたいことがある。
そう考え、俺は城の一階西側にある大部屋に足を運んだ。
紫色の役人服を着た人たちが机に向かい、書類仕事に精を出している。
俺は机と机の間を通り抜け、さらに奥の部屋へと案内された。
宰相の執務室である。
ノックして扉を開けると、仕事机のリシュリーと目が合った。
「シロガネ様。良いところにおいでくださいました。どうぞそちらに」
部屋の真ん中にある四人掛けの卓を勧められる。
向かい合って席に着くと、まずリシュリーは一通の手紙を俺の前に置いた。
「朝一番で城に届いたものです。送り主のところに陛下の名が記されていますが、おそらくは偽手紙でしょう」
つまり本当の送り主はシルビスだということだ。
俺は親書を広げて、内容に目を通した。
まとめるとこうなる。
ティアナートはシルビスの提案した講和条約を全面的に受諾した。
戦支度を取り止め、講和に向けた実作業を開始せよとある。
「この文書の内容を知っているのは現在、私とシロガネ様のみです。ですが困ったことにもう町中で噂になり始めている。おそらく敵の手の者が触れ回っているのでしょう。我が国の人心を惑わそうとする奸計です。今は騒ぎを大きくしたくないのですが、嫌な所を突いてくる」
そう言って、リシュリーは眉根を寄せる。
だがそんな彼とは対照的に俺は笑顔だった。
頬が自然と吊り上がって、にやにやしてしまう。
俺の態度に、リシュリーはいぶかるような表情を見せた。
「何かおかしなことを申し上げましたでしょうか?」
「えっ? ああいえ、すみません。だって……!」
返事しながらも、俺は心の中に光が差すのを感じていた。
だってそうだろう。
こんな偽手紙をでっち上げてまで、まだるっこしい裏工作をしてきたのは、ティアナートを殺すつもりがないからだ。
処刑する気があるのなら、先王の仇として派手な出し物としてやる。
シルビスはそういうタイプのはずだからだ。
「こんな裏工作をするのはティアナートさんが生きているからですよね。俺はそれが嬉しいんです。正直ずっと不安でしょうがなかった。もし彼女が生きていなかったら、俺は何のために生きているんだってなる。良くない状況なのはわかっていますけど、俺はそれが嬉しいんです」
笑顔の俺を前にして、リシュリーはどこか気が抜けたように微笑んだ。
「そうですね。まずは陛下の御存命を喜ぶべきでした。申し訳ございません」
リシュリーは軽く頭を下げて、またすぐまじめな顔に戻る。
「しかし現状の問題として、あまりのんびりしていられないのも確かです。ドナン将軍もお考えの通り、陛下の不在は由々しき問題です。陛下が敵に捕らわれたことに気付く者も出てくるでしょう。そうなれば伯母であるサリトラ様を推す者が出てくるのも時間の問題。そうなっては戦えません。私もいつまで周囲を抑えていられるか……」
「そのことでちょっと気になっていたんですけど」
俺は軽く手を上げて口を挟む。
「それって要するにエルトゥラン国内での権力争いなんですか? ティアナートさん派とサリトラさん派で派閥が分かれていて。正直ぴんと来ないんです。今はそれどころじゃない亡国の危機ですよね?」
するとリシュリーは表情を渋くした。
「派閥による権力闘争の側面があることは否定しません。ですが国を思う心で、我々とは異なる動きをする者もいるのです」
「異なるというのは?」
俺が問い返すと、リシュリーは右の手を心臓の位置に当てた。
「忠誠心をどこに置いているかという話になります。シロガネ様は陛下に一身を捧げて尽くされておいでだ。私や妹、ドナン将軍やポルトー殿も同じ気持ちでしょう。陛下をお救いするために命を賭す覚悟がある。ですがそうではない愛国者もおります」
リシュリーは難しい表情で息を吐いた。
「その者たちはエルトゥラン王家や王国そのものに忠誠を誓っているのです。王家の存続、王国の存続のためならば王が変わることを良しとできる。それが最善だと考えれば、彼らは陛下を見捨てる選択をするでしょう。私とて陛下に大恩がなければそう考えていたかもしれません」
なるほどと俺は相槌を打った。
俺はティアナート個人に執着がある。
でもそれはある意味では狭いものの見方だ。
個人ではなく国という大きな拠り所を第一に考える。
それはそれで間違いではないだろう。
どちらが正しいという話ではなく、思想信条の違いなのだ。
「サリトラさんが臨時でも国王になれば、ティアナートさんを見捨てると?」
俺の問いかけに、リシュリーは物憂げに頷いた。
「あの方が主権を握れば、おそらくこの国はトラネウスとの講和を目指します。戦争を終結しようとする時、人は誰かに物事の責任を押し付けるものです。今その生贄にもっとも適しているのは……」
リシュリーは言い淀んだが、その先は俺でもわかる。
ティアナートは全ての責任を背負わされ、排除されるのだろう。
その時は俺にも似たような処遇が待っていると思う。
「今後の政治を考えれば、サリトラ様は間違いなく陛下を悪者にします。先王は誤った判断で王国を滅ぼそうとした暴君である。私はそれを正し、王国を救うために立ち上がったのだと。そういった美談を作り上げて民衆を納得させようとするはずです」
俺はぐっと奥歯を噛みしめる。
それはあまりにあんまりではないか。
心を押し殺して国に尽くした結末がそんな報われないものだなんて。
「俺はそんな未来は認めない」
ティアナートが目指した未来はそんなものではないはずだ。
光差す道を歩いていく彼女を支えること、それが俺の救世主の誓いなんだ。
「俺は絶対にティアナートさんを取り戻します。それが俺の信念だから。わがままでも貫き通してみせる」
「そうでなければ困ります」
リシュリーは好意的に鼻を鳴らして笑みを浮かべた。
「明日、エルトゥラン王城より八百の兵が出陣いたします。どうか勝利を。それまでは私が国内の動揺を抑えてみせます」
はいと俺は頷いた。
俺が戦いに集中できるのも、彼のように支えてくれる人がいるからだ。
本当に頼もしい。その存在をありがたく思う。
さて、話も一段落という空気になる。
はたとリシュリーは何かに気付いた顔をした。
「申し訳ございません。何か用件があって私をお訪ねになったのですか?」
「ブオナ島に行きたいので至急、船を出してもらえませんか?」