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76話『真人間もどきの憂鬱』

 喉に何かが引っかかるような渇きに俺は目を覚ました。

 腕をぐーっと伸ばしてあくびをする。

 寝覚めは悪くない

 寝台からむくりと体を起こす。


「あー……?」


 見慣れない木造の部屋に少しの間、寝ぼけた頭が現在地を喪失する。

 ああそうだった。

 ベルクの砦を出た俺はエルトゥラン王城に深夜到着した。

 城内でまだ仕事をしていたリシュリーにドナンからの手紙を渡す。

 その後、俺は自室には戻らなかった。

 ティアナートやベルメッタのいない城の三階に上がりたくなかったからだ。

 町の方に足を向け、いつぞやのように真夜中に旧アルメリア邸の戸を叩く。

 嫌そうな顔をするシトリに出迎えられて、ようやく眠りについたのだった。


「寂しがり屋かよ……」


 俺は自嘲して、寝台から床に足を下した。

 いま着ているのは真新しい作務衣である。

 血塗れのまま帰ってきたので、着替えろとシトリに言われたんだったか。


 俺は少し気になって、服の前を開けた。

 生肌の胴体をまじまじと見つめる。

 傷はだいぶ治ってきていた。

 見た目はまだえぐいが、傷口はちゃんとくっついたようだ。

 変な引き攣れというか硬さはあるが、痛みはそれほど感じない。

 死なずに済んで本当に良かったと、俺はほっと一息する。


 服を整え、靴を履き、俺は部屋を出た。

 廊下の窓から差し込む日の光が暖かい。

 窓に映る自分の姿を見るも髪の毛は白いままだった。

 青い空を見上げると太陽の位置が高い。もう昼のようだ。

 板張りの廊下を歩き、俺は階段を下りた。


 おなかが空いたのだが、シトリかギルタはどこだろう。

 玄関から廊下を右左と確認するが人影はない。

 とりあえず行けば何かあるだろうと、俺は食堂に向かうことにした。


 食堂の扉を押し開けると、使用人服の二人が食卓についていた。

 ちょうど食事の時間だったようだ。

 俺に気付いて、シトリとギルタが同時に顔を向けてくる。


「あー! やっと起きたー?」


 シトリは声を上げるなり席を立ち、早足で近付いてきた。

 俺の顔と胸とをじろじろ見てくる。


「もう痛くないの? 歩く時ふらついたりしなかった?」

「うん、大丈夫。だいぶましになったみたいだから。それよりさ」

「おなか空いたんでしょ? 用意するから座ってて」


 言うが早いか調理場の方へと歩いていく。

 まだ頼んでもいないのに、そんなに飢えた顔をしていたのだろうか。

 俺は自分が思っているよりも顔に出るタイプなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺はシトリの席の隣に腰を下ろした。

 斜め向かいのギルタと目が合う。


「おはようございます、主殿」

「あっ、おはようございます、ギルタさん」


 俺が軽く頭を下げると、ギルタは呆れたような目を向けてきた。


「シロガネ。お前は自愛という言葉を知っているか?」

「……みなまで言わないでください」


 自覚があるので苦笑いするしかない俺に、ギルタはふっと小さく笑った。


「ならいい」


 そうこうする内にシトリが木の深皿を持って戻ってくる。

 はいと俺の前に並べてくれる。

 かたまり肉と芋を香味野菜で煮込んだもののようだ。

 酢を使ったのか、つんとした匂いが鼻腔を刺激する。

 酸っぱいものは疲れに効くという。

 今の俺にはちょうどいい食事だ。


「いただきます」


 肉は脂身が多めだが、酸味がいい具合に中和してくれている。

 無限に唾液が湧いてきてずっと食べていられる。

 とてもおいしい。ご飯がおいしく食べられて嬉しい。


「……」


 その時、心の暗いところから湧き出した感覚に俺はふと右手を止めた。

 ちょっぴり元気が出たせいで気付いてしまった。

 俺は今、現実逃避をしかけている。

 ティアナートもベルメッタもマクールたちの安否もわからない。

 多くの命が散る戦いを俺は自発的に始めようとしている。

 たまたま致命傷にならずに済んだが体はどんどん蝕まれていく。

 次はご飯をおいしいと感じられなくなるかもしれない。

 苦しみから逃げたい。死ぬのが怖い。


「どしたの? あんまりおいしくなかった?」


 隣の席のシトリが顔を覗き込んでくる。

 俺は力なく首を横に振る。


「いや、そうじゃなくて。むしろ逆なんだけど……」


 俺は木の匙を皿の縁にひっかけるように置いた。


「なんか、急に弱気になった……」


 空気が抜けた風船みたいな自分に愕然とする。

 体にガタが来たとかそういう感じじゃない。

 心が燃料切れを起こしたような感覚だった。

 ただただ何もしたくない。

 のんきしてる暇など一秒もないはずなのに。


 ひとまず食べ終えてから悩もう。

 食事に集中しないのは作ってくれた人に失礼だ。

 俺は黙々と匙を動かし、汁まですべて飲み干した。

 いつもと違うおなかの重たさを感じながら席を立つ。


「ごちそうさま。ありがとう、おいしかった。なんかちょっと調子悪いから部屋に戻るよ。悪いんだけど、今日はしばらくいていいかな?」


 俺がそう言うと、シトリは妙に心配そうに顔をする。


「ここはあんたの家なんだから、好きなだけいればいいでしょ。ていうか、あんたほんとに大丈夫? お医者さん呼ぶ?」

「いやいいよ。ちょっと横になってる」


 俺は重い足取りで食堂を後にした。

 階段を上がり、自分の部屋に戻る。

 靴を脱ぎ、寝台に横になり、あごまで毛布をかぶった。

 おかしい。驚くほど何もしたくない。


 きっと少し疲れが出たのだろう。

 軍隊が戦支度を整えて、王城を出発するまで早くても数日はかかる。

 次の戦いに備えて体調を整えるのも戦士の務めだ。

 自分を正当化する言葉を頭の中に並べて、俺はひとまず目を閉じた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 窓から入る光の色が白から朱に変わっていく。

 その間、俺は一度も寝台から下りなかった。

 かといって寝ていたわけでもない。

 うとうとしてくると、胸に渦巻く焦燥感が意識を引きずり戻してくるのだ。

 寝返りを打って、ため息を吐いて、それを何度も繰り返した。


 冬の日暮れは一気に来る。

 夕方だと思っていたら、もう部屋が薄暗くなってきた。

 そんな頃、ふと部屋の扉がこんこんと叩かれる。


「あたしだけど。入っていい?」


 シトリの声だ。

 俺は毛布にくるまったまま、どうぞと答えた。

 扉がそっと押し開かれ、使用人服のシトリが部屋に入ってくる。


「もうすぐ夕ご飯できるんだけど、どうする? 持ってこよっか?」


 おなかは減っていたが、どうにも気力がない。


「後でいいよ……気が向いたら下りるから。ありがとう」


 俺はなぜかいたたまれない気持ちになって、彼女に背を向けた。

 シトリは数えて十秒ほどそのままいたが、何も言わず部屋を出ていった。

 扉が閉じると、また室内は孤独になる。


 静かに虚無な時間が流れていく。

 俺は天井をただぼーっと眺めていた。

 まれに吹く寒風が窓をきしきしと鳴らした。


 何もしなくても夜は来る。

 太陽は地平線に隠れてしまい、部屋はすっかり暗くなった。

 俺は今日なにをしていたんだろう。

 何もしていない。

 心が空回りしているみたいで、気は急くのに活力が湧かない。

 自分という人間の歯車が外れてしまっているようにすら感じる。

 本当にどうしたんだろう。

 成果の出ない思考がぐるぐると頭を回る。

 そんな静寂を破るように、ふと扉が叩かれる。


「入るよー」


 扉を体の横で押して、シトリが部屋に入ってくる。

 何かをのせたおぼんを両手で持っている。

 シトリは窓辺の机から椅子を寝台のそばへと動かした。

 腰を下ろして、太ももの上におぼんを置く。


「どう、調子?」

「よくわからない……体はだいぶ良くなったはずなんだけど……」

「ふーん、そう」


 シトリはおぼんのお皿から何かを指でつまむと、俺の口元に持ってきた。


「はい、口開けて」


 言われるまま口を開くと、クッキーのようなものが放り込まれる。


「はい、噛んで」


 サクサクの歯ごたえで口の中に香ばしい味が広がる。

 それに加えてこの甘みは果物のジャムだろうか。


「これ、もしかして」

「食べたいって言ってたでしょ?」


 アイネオスから王城を奪還した後だったか。

 館にたくさん贈り物が届いて、それを砂糖煮にすると言っていた。

 覚えていてくれたのか。

 俺は寝台に右肘をついて体を起こす。


「やっぱりシトリは料理が上手だよな。幸せな味がする」

「そう? じゃあもっと幸せ補充したら」


 シトリがまたジャムクッキーを俺の口に持ってくる。

 まるでエサをもらう雛鳥だ。

 男子たる者がこんなにも甘やかされていいのだろうか。

 俺は気恥ずかしさを覚えて、はっと気付いた。


 俺が腑抜けていた理由、それはきっとこの家の温かさだろう。

 俺は誰かに甘えたかったんだ。

 目の前の現実があまりに苦しくて、楽できそうな場所に逃げてきたんだ。


「もう一個食べる?」

「いや……」


 俺は寝台の上で正座をして、姿勢を正してシトリと向かい合った。


「ごめん。俺、シトリに甘えてた」

「……それって何かだめなことなの?」


 窓から差す薄い月明かりに照らされて、シトリが微笑む。


「そうやっていっつも自分を追い込んでさ。人間って限界超えると心も体も動かなくなるんだよ。あんた、もうちょっとそうなりかけてるんじゃないの?」

「そんなこと……!」


 言い返そうとしたが、そこで言葉が止まった。

 たぶんそれは正解だ。

 ムキになって言い返す方が情けないだろう。


「……そうだな。正直けっこうきついかも……」

「そりゃそうでしょ」


 シトリは皮肉っぽい笑みを浮かべて、またクッキーを俺に食べさせた。


「あたしがあんたと出会って……ええと、今日で百三十七日目くらい? あたしだって、ようやく今の生活に慣れてきたってとこだもん。その間にあんたはあれもやってこれもやって働き過ぎでしょ。まともな人間ならおかしくなるのが普通なの」


 俺は今まで望んで苦しみに首を突っ込んできた。

 それは苦しんでいる方が楽だったからだ。

 のうのうと普通の生活をしている自分が許せない。

 余裕があるとすぐ罪悪感で押し潰されそうになる。

 だから必死になって自分を追い込んで生きてきた。


 でも今の俺はそうじゃなくなってきているんだと思う。

 エルトゥランに来て、俺は自分の存在意義を見つけた。

 出会いにも恵まれて、自分の居場所ができた。

 自分のことを想ってくれる人までいる。

 そのおかげで俺はちゃんとした普通の人間に戻りかけているんだと思う。


 でもいま俺が置かれている状況は普通からは程遠い非日常だ。

 正気で向かい合うには辛すぎる現実がある。

 だから普通の人がそうなるように、苦しさから逃げたくなったんだろう。


「前にも言ったけどさ。人間、無理なことは無理なんだよ。どこかで諦めて受け入れなくちゃいけない。もうダメって思うなら逃げちゃいなよ。あたしが付いてってあげるから」


 シトリは細めた目で穏やかに、ほんのりと妖しく微笑んだ。

 俺は彼女のその笑顔に亡き幼馴染の面影を見た気がした。

 だから俺は悲しい笑顔で首を横に振る。


「それは……できないかな……」


 彼女の優しさを嬉しく思う。

 それはきっと一つの救いなのだろう。

 でもその道を選んだら、たとえその先が幸せでも俺はきっと後悔する。

 今を手放したことを後悔する。

 そんな後悔はしたくない。


「今の俺があるのはこれまでの積み重ねだから。この手に掴んだものを投げ出したくない」

「あんたってほんと、わがままよね」


 シトリは呆れた顔でため息を吐いた。

 おぼんを押し付けるように俺に持たせると、椅子から立ち上がる。

 前屈みになって顔を近付けてくると、両手で俺の頬をむにっとつまんだ。


「だったら頑張れ。最後まで意地通しなさい」

「シトリ……」


 シトリはふふっと笑うと、俺の頬から指を離した。


「じゃあさっさと起きて、ご飯食べに来て。後片付けできないでしょ」


 言うが早いかシトリは部屋を出ていこうとする。

 俺は急いで毛布をどけて、下ろした足を靴に突っ込んだ。


「行くから、ちょっと待ってよ!」


 慌てて彼女の後を追う。

 足取りはすでに軽くなっていた。

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