番外編05話『太陽と月の明烏(2)』
一日目の和平交渉は物別れに終わった。
ララン家の屋敷の玄関先でティアナートらを見送った後、シルビスは晴れと曇りの境目ほどの空を見上げて、隣に立つライムンドに呟いた。
「父上の仇を取りたいと願う……私は間違っているのか?」
「事の正誤は結果が決めることです。勝利は全てを肯定します」
「それでは父上が間違っていたことになるではないか……」
冬の冷たい風が肌から温度を奪う。
熱くなった頭を冷ますにはちょうどいいと、シルビスは白い息を吐いた。
「いや、そうではないな。真の敗北は私が負けを認めた時だ。跡を継いだ私が屈しなければ、父上が負けたわけではない。そうだろう?」
シルビスが隣に顔を向けると、ライムンドは微笑んだ。
「良い心構えかと」
シルビスはゆっくりと深呼吸した。
少し落ち着いた頭で先程の会談を思い返す。
「しかしだ。ティアナートはよほどあの男を気に入っているようだな」
「シロガネ=ヒカルの身柄を陛下が求める限り、交渉は停滞するでしょう」
「講和がまとまらなければどうなる? それで何か問題はあるのか?」
また質問を始めたシルビスに、ライムンドはあえて目を合わせなかった。
「そういう時は相手の立場になって考えてみることです」
シルビスは俯きがちに腕組みして、ぶつぶつと呟きながら考える。
「向こうもこれ以上の戦争は望んでいない。では自然消滅的に休戦となるか? ならないな。あれだけの戦争をして成果なしでは国民が不満を言う。トラネウスにけじめをつけさせ、何かしらの手土産を持って帰りたい。交渉が進まなければ……次は武力行使もあり得るのか?」
採点を求めるように、シルビスはちらりとライムンドの方を見た。
及第点かなとばかりに宰相は微笑んだ。
「まとまらないと思えば、次に相手は武力行使するぞと脅してくるでしょう。あの王女のことですから、実際に国境に兵を集めるくらいはするでしょう。そうなってしまうと双方の現場で兵士が事故を起こす可能性が出てきます。上の意向を勘違いして、あるいは無視して戦いを始めることもあり得る。そうやって起こる戦もございますので、それは避けるべきでしょう」
シルビスは目を閉じ、ぐぬぬと眉根を寄せた。
「仇を諦めるしかないのか……また我慢か……」
シルビスは肩を落として、ため息を吐いた。
頭を振り、悩ましげに空を仰ぐ。
「本当にそれが正解か? 父上ならもっと違う答えを出すのではないのか? 何かもっとこう……父上ならこの局面でどう考える……?」
「陛下」
思考の渦に入って行こうとするシルビスを一言が呼び戻す。
真剣に悩む友の息子の姿に、ライムンドは微笑ましくなった。
「王妃様がお待ちではないのですか。馬車を呼んでまいります」
「ああ、ありがとう」
ライムンドが背を向けて歩いていく。
待つ間、シルビスは前庭を眺めながら、うろうろとした。
何気なしに屋敷を正面から見上げて、ふとあることを思い出す。
子供の頃、地方巡行に出た父が久しぶりに帰ってきた日のことである。
ライムンドと初めて出会った日、その日にどんな事件があったのか。
不意にシルビスは一つの着想を得た。
交渉でも戦争でもない第三の方法。
だがそれは安易に選ぶべきではない道にも思えた。
「……だが、父上ならおそらく……」
シルビスはひとまず、その選択肢を胸の奥にしまっておくことにした。
今すぐに決める必要はない。
明日もう一度、交渉に臨み、改めて考え直そうと思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜、シルビスとディドはしとねを同じくしていた。
一つの寝台の上で、互いの体温を感じられる距離で睦言を交わす。
その中でディドはこんな疑問を口にした。
「シルビスくんって、おでこにケガの痕があるんだね」
「ん、ああ。昔、落馬した時にね」
シルビスは額にかかった髪をかきあげる。
左眉の上、生え際の近くに傷の痕が残っていた。
「兄上は馬が好きな人でね。馬に乗って駆ける様がとても楽しそうだった。それが羨ましくてね。兄上に頼み込んで、一緒に馬に乗せてもらったんだ。私が四歳の頃だったかな。その時、はしゃぎすぎて馬から落ちてしまった」
ディドが手の伸ばして、その傷痕にそっと触れる。
シルビスは幼い頃に思いを馳せて、表情を曇らせた。
「兄上には本当に悪いことをしたと思っている。私のせいで酷い叱責を……いや、あれは叱責だけではないな。父上が兄上を連れて屋敷を出たのも、思えば私の責任だったのかもしれない」
「何かあったの?」
シルビスは仰向けになり、自らの寝室の天井をじっと見つめた。
「その日から屋敷の者の態度が変わった。私を兄上に会わせないようにしたり、遠ざけようとしてきた。兄上の馬が急に亡くなったり、兄上が妙なケガをすることが増えた。兄上の食事にだけ、おかしなものが入っていたこともあったな。あれはおそらくララン家の者がやったことだろう」
思い出を語る夫の横顔を、ディドは黙って見つめている。
「母上は後妻でね。私と兄上は、父は同じだが母が違う。母上の実家であるララン家は私をどうしても王にしたかった。私の落馬は兄上が仕掛けてきた暗殺だと、そう受け取ったらしい」
「……でもそんな人じゃないんだよね、お兄さんは」
問いかけに、シルビスはもちろんだと頷いた。
「兄上は実直で男らしくて、腹違いの私にも優しくしてくれた理想の兄上だ。そのような卑劣なまねをする人ではない。ララン家はあの手この手で政治の実権を我がものとしてきた名家だ。日頃から陰謀ばかり考えているから、相手もそうだと思ったのだろう」
ふぅとシルビスがため息を吐く。
「ララン家がそういう家だったから、父上と対立したのも当然だろう。父上の前に国王だった父上の兄上は貴族勢力に謀殺されたと聞いている。父上の行った粛清で親族を亡くされた母上は不憫だが、因果と言えば因果だ」
ディドは眉根を寄せて、げんなりした顔をした。
「そういう権謀術数って、いやーな気持ちになるよね」
「そうだな。その点で私は恵まれている。私程度が王をやれているのも、父上が道を整備してくれたおかげだ。引き続き仕えてくれているライムンドたちには感謝してもし足りない」
シルビスはしみじみと微笑む。
ディドはそんな夫の腕を抱き込むようにひっついた。
「シルビスくんはきっといい王様になれるね」
「そうかな?」
「ただのお飾りだった私とは違って、シルビスくんの手には舵がある。シルビスくんが舵取りする国はみんなが優しく生きられる国になるよ。王様のお仕事って口で言うほど簡単じゃないのはわかってるけど、きっとうまくいくと思う」
腕を包む妻の体温は温かく柔らかかった。
シルビスは空いた方の手で、ディドの頭をなでる。
卑劣な手段を思いついた自分はラランの血をよく引いている。
こんなにも明るい太陽がそばにいても心の激情が鎮まらない自分は、本質的に優しい人間ではないのではなかろうか。
シルビスはそんな風に思いながら、妻をなでる手の陰に自分の顔を隠して、自らの奥にある暗い淀みを見られまいとした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
二日目の和平交渉も物別れに終わった。
ララン家の屋敷を出ていく馬車を、シルビスはため息がちに見送った。
見送りを終えるやすぐ、シルビスはライムンドを連れて応接間に戻った。
扉が閉じたのを確認してから、シルビスはライムンドの耳元に顔を寄せた。
「今から一つ質問をする。間違っているなら言ってくれ」
小声で囁くシルビスを、ライムンドはちらりと横目に見た。
「どうぞ」
「迎賓館を襲撃し、ティアナートたちの身柄を拘束する。その後、王位継承権次点の……サリトラとかいう名だったか? ティアナートの伯母と手を結び、迅速に講和を締結させる。エルトゥランを経済的に支援することを約束し、同盟を結び直す。場合によってはその証として、兄上にはサリトラの娘と結婚してもらう。父上ならそうすると思うのだが、どう思う?」
前日から考えていたことを言い切って、シルビスは一歩後ろに下がった。
ライムンドはシルビスを正面に姿勢を正す。
「アイネオス王でしたら、もっと簡単に講和を結ばれたでしょうね」
否定されるとは思っていなくて、シルビスは怯んだ。
とまどう若者に、ライムンドは言葉を続けた。
「アイネオス王が陛下の立場なら、とにかく講和を優先したでしょう。仇のことは見て見ぬふりをして、人質も喜んで差し出したでしょう。必要なら土下座さえしてみせたかもしれない。今は急場を凌ぐのか肝要。どれも後から取り返しがつく、と」
シルビスは俯いて額に拳を当てて、ため息を吐いた。
「……忘れてくれ。私が浅慮だった」
「そうでもありませんよ」
また逆を行く返事をされて、シルビスは訝しげに顔を上げた。
ライムンドは楽しそうに微笑んでいた。
「私はあくまでも、御父上ならばこうしただろうと申し上げただけです。アイネオス王でもきっと、陛下と同じ案を考えるまではされたはずです。案はいくらあってもいい。その上でどの案を用いるか。その決断を下すのが王の務めなのです。つまり陛下はまだ何も間違えてはおられない」
「……回りくどい言い方をする」
シルビスは疲れたとばかりに息を吐いた。
交渉に使った卓を指さし、共に席に着くことにする。
「で、先程の案なのだが」
シルビスは卓の上に肘をつき、ライムンドに問いかけた。
「お前は賛成なのか、反対なのか?」
「私個人としては賛成いたしかねます。やれと命じられればやりますが」
「そうか……」
シルビスは肘をついた手で額を抑えるようにして、うなだれた。
何度も考えたことが頭の中を巡っては、またため息に変わる。
「だが私には母上を人質に出すことなどできない。かと言って、私個人の都合で国を切り売りするなどあってはならないこと。しかしこのままでは交渉が進まないこともわかっている。私はどうすればいい? 他に何か良い案があるのなら教えてくれ……」
悩みを湛えたその表情は、彼の性根のまじめさを物語っていた。
その真剣な若さが、ライムンドにはいじらしく思えた。
「命じられればやりますと、私は先程申し上げましたが?」
シルビスは『えっ?』と面を上げた。
「お前は反対だと言ったではないか」
「確かに言いました。陛下が母親を差し出すのが一番と考えているからです。ですが陛下はそれができないと仰る。であれば次善の策を用いるのが務め。陛下の案は次善として採用できるものの一つかと」
いざ肯定されると不安になり、シルビスは息を呑んだ。
「できるのか?」
「ご命令くだされば今夜にでも」
「それは勝算があると思っていいのだな?」
「あります。ただ……」
そこで初めてライムンドは言い淀んだ。
「今なら三百の兵を動かせます。事を秘密裏に遂行できれば、まずもって成功するでしょう。ただし一つだけ、不確定要素と呼べる人間が相手におります」
「……あの下郎のことか」
眉を歪めるシルビスに、ライムンドは頷いた。
「平時の姿からは想像し難いですが、シロガネ=ヒカルは普通ではありません。同じ戦場に立ったことのある兵士たちは、あの者を鎧の悪魔と呼んで恐れているほどです。あの者一人のために百人隊をぶつけても不足かもしれません。あれほどの逸脱者が敵にいては、成功の確約はできません」
憎たらしいことこの上ないが、敵はあの父を討った男なのだ。
シルビスも過小評価するつもりはなかった。
「ならばどうするのだ?」
「私がじかに参ります」
「お前が?」
つい不安が口から漏れるが、その心配は無用だったなとシルビスは思い直す。
ライムンドは亡き父が唯一絶対の信頼を置いていた男なのだ。
その男が自ら出向いて事を行うと言っている。
ならば信じて託すのが王の器だろうと、シルビスは思った。
「わかった。やってくれ、ライムンド。お前に任せる」
承知とばかりに、ライムンドは左手を右胸に添えて敬礼のしぐさをする。
「ティアナート=ニンアンナだけは生け捕りにいたします。その方が後の外交がやりやすいでしょうから。殺して恨みを買って、エルトゥラン国内が意固地になっても困ります。他の者の生死は現場の裁量に任せていただけますでしょうか?」
「任せる」
シルビスが頷くと、早速とばかりにライムンドは椅子から立ち上がった。
「それでは、先に失礼させていただきます」
「ああ、頼む」
ライムンドが応接間を出ていく。
扉が閉じると、一人残った部屋がシルビスには妙に冷えて感じられた。
「ディドは怒るだろうな……」
シルビスは卓の上で指を組み、そっと呟いた。
自分が命じたことは妻の望むところではないだろう。
しかし最善の未来を掴むため知恵を絞った選択でもある。
受け入れてくれるだろうとシルビスは思った。
「頼むぞライムンド。勝利は全てを肯定する……」
信を置いた家臣の言葉を反芻しながら、シルビスは組んだ指に力を込めた。
後は結果を待つしかない。
シルビスは今日、何度目かもわからないため息を吐き、席を立った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝のエルバロン王城。
白に金の差し色を入れた国王の正装に身を包んで、シルビスは寝室を出た。
すると廊下のどこからか妻の声が響いてくる。
声のする方へとシルビスが歩いていくと、ある部屋の扉の前に、不機嫌そうなディドと困った様子の見張り番の兵士を見つけた。
「何をしているんだ?」
シルビスがたずねると、すかさず兵士はトラネウス式の敬礼をした。
ディドが早足で夫に詰め寄る。
「ちょっとシルビスくん! どういうことなの!? ティアナートがここにいるって聞いたんだけど!」
シルビスが視線をやると、兵士は申し訳なさそうに身を縮めている。
部屋に誰がいるのか喋ってしまったのだろう。
王城の三階は国王と王妃の部屋がある特別な階層だ。
それが朝起きてみると、昨日まで空き部屋だった部屋の扉の前に、鎧兜で槍を持った兵士が仰々しくも見張りに立っているのだ。
ディドが疑問に思うのも当然だろう。
「話をする。君も同席するか?」
「あたりまえでしょ!」
ディドが食い気味に返事をする。
見張りの兵士は空気を読んで、そそくさと扉の横へと動いた。
シルビスは木製の扉を拳で軽く叩き、それから扉を押し開いた。
「失礼する」
部屋に入ると、窓辺に薄桃色の寝巻きで身を包んだ女性が立っていた。
振り返った拍子に長く伸びた金色の髪がさらりと流れる。
シルビスが想定していたよりも、その表情は平然としていた。
「ティアナート!」
ディドが駆け寄り、ティアナートの右手を握る。
「ごめんね。私も何がどうなってるのか全然わかってないんだけど」
「私は大丈夫ですから」
昨夜、囚われの身になったばかりとは思えない、落ち着いた笑みだった。
敵に命運を握られた状況でよくもこう平然としていられるものだ。
シルビスは不思議に思いながら、二人に近付いた。
「昨夜は失礼をした、ティアナート王女。貴方にはしばらくの間、この部屋の中で過ごしていただくことになる。何か生活に必要なものがあれば申し出ていただきたい」
女子二人の視線がシルビスの方に向いた。
ティアナートはさも普通に返答をする。
「私の侍女にベルメッタ=ルクレールという者がおります。もし生きて捕まっているようでしたら、こちらに。身の回りの世話は信頼のおける彼女に頼みたい」
「……善処しましょう」
どうにもやりにくいな、とシルビスは思った。
戦争中の敵に捕まったのだ。部屋の隅でぶるぶる震えて神にでも祈っていろとまでは思わないが、ここまで堂々とされると調子が狂う。
いったいその余裕はどこからくるのか。
そんな風にシルビスが考えていると、ふとティアナートは個室用の丸卓に備え付けられた二つある椅子の一つに腰かけた。
「これが貴方の選択ですか、シルビス=ララン」
まっすぐにシルビスの目を見て、ティアナートが言う。
シルビスは苦笑いしながら、彼女の対面の椅子に手をかけた。
「野蛮なやり口だと非難されるかな?」
「いいえ。ですが……残念に思います」
ティアナートは哀れむような目をしていた。
どうして国王たる自分が、捕虜にそんな目で見られなければならないのか。
シルビスは率直な疑問を覚えて、椅子を引き、対面の席に着いた。
「残念とはどういう意味で?」
「こうなってしまった以上、落とし前をつけるまで事は収まらない。トラネウス国王シルビス=ララン、貴方の命運はもう尽きた」
「強がりにしては過激な言い草だ」
ティアナートの言葉を、シルビスは負け惜しみだと受け取った。
だから余裕の笑みで言葉を返した。
しかし対するティアナートは不敵な笑みを浮かべるのである。
「貴方はシロガネに逃げられましたね? それが結果です。貴方の破滅はもう避けられない」
昨夜の迎賓館襲撃は九割方、成功だった。
王女を生け捕りにし、その護衛や使用人も残さず捕縛している。
だがたった一人、父の仇である男だけが逃走中だった。
「しかし君の頼りの救世主は昨夜のいざこざで重傷を負っている。信頼できる部下からの報告だ。そう遠くには逃げられまい。あるいは今頃、もうどこかで冷たくなっているんじゃあないかな?」
「あいにくですが、私の救世主はそれほど柔ではない」
ティアナートは自信たっぷりに言い切った。
その目には絶対の信頼が宿っている。
そこでシルビスは理解した。
あの忌まわしい父の仇の存在が、目の前の少女の心の支えなのだと。
途端に不快な気持ちが溢れてきて、シルビスは席を立った。
「ここでの暮らしは退屈なものになるでしょう。ディド。しばらくの間、君が話し相手になってやるといい。ほどほどにね」
何か言いたげな妻を残して、シルビスは部屋を出た。
扉のそばで待機していた兵士に、監視を怠らないようにとやんわり注意する。
それから若き王は執務室へと足を向けた。