73話『闇夜に詫びて露と消えろ(2)』
闇夜の包囲網を俺が単騎で突破し、ベルクの町でドナンと合流する。
その後、エルトゥラン軍の総力を挙げてトラネウス王国に攻め入る。
そうしてシルビスを打倒し、囚われのティアナートと再会を果たす。
おそらくそれがティアナートの考えた最善の未来だろう。
だが俺にはそんなつもりは毛頭なかった。
ティアナートが比較的安全でいられるのは今この場面だけなのだ。
シルビスの所まで引っ立てられたら、どう扱われるかは不確かだ。
すぐに命を取られることはないと理屈では思うのだが、あくまで推論だ。
相手が損得を捨てて感情的になればそれで全てが終わってしまう。
そんな決定権を相手に委ねるような悠長なことはしていられない。
だから今ここで戦うのだ。
俺一人でこの場の敵を蹴散らして、包囲網に活路を開く。
それが俺の選ぶ最善の未来だ。
でなければ残ってくれたベルメッタやマクールたちに申し訳が立たない。
「北だ! 救世主は北に逃げるつもりだ! 北に兵を集めろぉ!」
俺は己の言葉通り北方向に駆けながら、トラネウス兵に再度呼びかけた。
万が一にもティアナートに流れ弾が行くようなことがあってはならない。
だからあえて敵を誘い、戦場を離れた場所にしようというのだ。
俺は闇に揺らめく灯火の一つに標的を定めた。
槍を前後反対にして構え、凍えそうな風を切って疾走する。
闇の中を駆ける俺の姿を、敵はほとんど見えていなかっただろう。
あっという間に距離が詰まり、騎兵並の突撃をお見舞いする。
「ごぽっ――」
槍の石突きがトラネウス兵の板金鎧ごと胴体にめり込む。
たいまつを持ったその敵兵は悲鳴すら上げられずに吹っ飛んだ。
一緒に飛んだたいまつが色のある空間ごと地面を転がる。
闇の中で俺は素早く槍を持ち直し、周囲の敵に振るった。
一撃で二人を薙ぎ倒し、反転してさらに二人を転がす。
どうやら一つのたいまつに五人の組み分けのようだ。
残る灯火は十九。すなわち敵の兵士は九十五人。
これがもし昼間で百対一なら俺も苦しかっただろう。
だが今宵は二日月の闇討ち日和だ。
五対一の繰り返しなら十分に勝機はある。
敵の呻き声を置き去りに、俺は東に揺れる次のたいまつに襲いかかった。
相手は俺の姿どころか、少し離れた味方すら見えていないのだろう。
連携が取れていない板金鎧の五人組を俺は無慈悲に打ち倒した。
「ざけんな、お前ぇー!」
叫び声を上げてトトチトが追いかけてきた。
強い奴を相手にするのは後でいい。
俺はトトチトを無視し、また次のたいまつの火へと駆け出した。
「なんで逃げてんだよ! 大事だって言っただろうがぁ!」
感情的な言葉を投げてくるが、問答に付き合っている暇はない。
さすがに二組をやられて他のトラネウス兵も臨戦態勢に入ったようだ。
五人が横並びになって正面に槍を突き出す陣形を取ってくる。
そういう時は一手奇襲だ。
俺は鎧の装甲を部分解除して腹帯のクナイを左手で抜き、素早く投擲した。
端の一人が詰まらせた悲鳴を上げて崩れ落ちる。
仲間をやられて意識がそれた隙に、加速のまま俺は跳んだ。
真ん中の板金鎧をへこませて蹴り飛ばし、着地から体ごと槍を振り回す。
骨をも砕く威力で三人のトラネウス兵を打ちのめした。
またすぐ次の標的を探すと同時に、俺は槍を縦にして側面に構えた。
トトチトの長槍が風を唸らせて俺の槍にぶつかる。
その得物なら仲間を巻き込む。混戦は不向きだろう。
闇の中に揺らぐ次の炎を目がけて俺は走り出した。
「ロタァーン! 手ぇ貸せぇ!」
トトチトが声を上げながら後を追ってくる。
俺は足を止めることなくクナイを抜き、手首を利かせて放った。
五人組の端に位置するトラネウス兵が太ももを抑えて膝をつく。
俺はその脇を通り抜ける際、その兵士のあごを掴んだ。
大人一人分の体重を借りての急停止である。
俺は足の底で地面を削り、その兵士は尻で摩擦を生む。
他の四人が振り向くより早く、俺は敵の背中に襲いかかった。
槍の強打で敵兵二人が顔から地面に倒れる。
それから間を置かず、正面から来たトトチトが長槍を縦に振り下ろしてくる。
仲間を気遣った攻撃を俺は一歩横にそれて避けた。
そのステップを踏み込みとして、残りのトラネウス兵二人も槍で殴り倒す。
これで北側から北東に展開した敵部隊を倒したことになる。
このまま東側の敵を倒しに行くか、反転して北に戻って残りを潰すか。
ゆっくり頭で考えている暇はない。
俺は直感に任せて北側へと地面を蹴って駆け出した。
二拍遅れてトトチトが追ってくる。
「大概にしとけよ! このや――」
言いかけてやめたかと思うと、トトチトは走る速度をやや落とした。
なぜだと俺は振り返ろうとして、左前方から俺の進行方向に回り込むように動いてくる存在に気付いた。
獣人の血を引くトトチトよりも軽やかで速い。ロタンが来たのか。
トトチトが彼に助けを求めた時、俺は東側へと攻勢に出ていた。
だからロタンが来るなら東からと思って反転したのだが、先を読まれたか。
このまま挟み撃ちされてはまずい。
俺は敵兵のいない北方向へと進路を変えようとする。
「シロガネェ!」
トトチトの叫び声に、俺は危険を察知して首だけ振り返る。
何かを投げる動作に入っていた。
対処のため俺は足を緩める。
それからわずか一秒、闇を貫くように鋭く長槍が飛んできた。
咄嗟に俺が踏ん張って急停止すると、二歩先の地面に槍が突き刺さる。
「くっ……!」
足を止められた。
追跡の足音がすぐそこまで迫って来ている。
向き直って槍を構えると、外套の前を空けたロタンが突っ込んできた。
闇に紛れて黒星辰剣の刃が見えない。
ロタンの腕の振りで剣の軌跡を推察し、俺は払い抜けの一撃を防いだ。
背中を取らせてはならないと、すぐさま俺は体の向きを回す。
ロタンは右手に持つ剣を下げて、左手でトトチトの槍を拾おうとしていた。
その間も油断なく、その目をしっかりと俺の方に向いている。
「こんばんは、シロガネお兄さん」
およそ戦場にはふさわしくない笑顔で言ってくる。
ロタンは拾った長槍をひょいと高めに放り投げた。
槍は俺の頭上を飛び越えて、反対側に到着したトトチトの手に戻る。
しんどいな。
俺はため息をつきながら体を横に向けた。
俺を挟むように位置する二人のどちらにも背中を見せないためである。
「おいシロガネ。一つだけ質問するから答えろ」
トトチトは長槍を肩に担いで、こちらをにらみつけてきた。
「お前、あの女を世界で一番大切な人だって言ったよなぁ? だったらなんで置いて逃げてんだよ、あぁ!? 自分がどうなろうと大事なもんのために命を張るのが男だろうが!」
何を言っているのだろう、と俺は顔をしかめた。
彼には俺が、ティアナートを捨てて逃げたように見えたのだろうか。
だとしたら勘違いも甚だしい。
冷静でいようと努めていた心に怒りの感情が湧き出してくる。
「何を寝ぼけたこと言ってんだか」
「あぁ!?」
「どこをどう見たら、そんな寝言を吐けるのかって言ってるんですよ! 闇討ちみたいな汚いやり方しておいて、よくもそんなこと言えますね。貴方風に答えるなら、どのツラ下げて出てきたクソ野郎ですよ」
トトチトは舌打ちをして、顔をそらした。
ここで怒鳴り返してこないのは彼の心根の良さだろうか。
文句を言って少し落ち着いた気持ちで考えてみるに、大切な人を置いて逃げるという行為に、トトチトは特別な感情を抱いているのかもしれない。
あいにく今の俺に、敵対者の心に寄り添う余裕などないのだが。
「俺は大切な人たちと、これから先も生きていくために戦っているんです。俺の気持ちをわかってもらえるのなら、周りの兵隊を下げてください」
「……お前には同情するが、そこまでやってやる義理はねえ。お前は仲間でも友達でもないからな」
トトチトは長槍を両手で構えた。
俺はいつでも反応できるよう気を張りながら、最後の確認をする。
「ロタンさんも同じ意見ですか?」
「お父さんには、お姉さんだけは生かして連れて来いって言われてるんだ。お兄さんのことはどちらでも構わないって言われてる。でも降参してくれるなら危ないことはしないよ」
「それはライムンドさんの考えですよね。俺はロタンさんの気持ちを聞きたいんです」
するとロタンは不思議そうに小首を傾げた。
「お兄さんはお姉さんのことが大好きだから、こんなことしてるんだよね? 僕もお父さんのことが好きなんだ。僕とお兄さんと、どこか違うのかな?」
同じか。だったらお互い退けないってことだ。
俺はへその下に意識を集めて、ゆっくりと息を吐く。
この二人は強い。同時に相手をするのは苦しい。
だったらここは最大の攻撃力で速攻に賭けるべきだ。
それで命を縮めるとしても、俺には勝つ以外の選択肢がないのだから。
俺の覚悟に応えるように、全身を覆う救聖装光が変化を始めた。
特に左腕は骨も肉も燃えているのかと錯覚するほど熱くなる。
アカマピと戦ったあの時と同じく、左腕装甲が銀色から黒に変わっていく。
漆黒の装甲がぶすぶすと黒煙を上げ、鼻につくにおいを漂わせる。
「……あん? シロガネお前、何やって――!?」
異常を察したトトチトが声を上げた時には、俺は地面を蹴っていた。
トトチトに急接近し、筋肉が千切れそうなほどの力で金属槍を振り下ろす。
「うおおっ!?」
トトチトは槍の柄で俺の打ち込みを防ごうとした。
だがその威力は長槍をへし折り、金属槍の刃が外套に覆われたトトチトの体を袈裟に斬る。
だが浅い。下に着た板金鎧を切り裂いただけだ。
すかさず俺はウィツィのように体を捻り、必殺の第二撃の動作に移る。
トトチトはすでに体勢を崩して倒れかかっている。
次の一撃で確実に真っ二つだ。
――そういう誘い方を俺はした。
背後から迫る気配に、俺はぐるりと反転する。
飛び込んできたロタンは黒星辰剣を下段左に構えていた。
超高速の逆袈裟の斬り上げがくる――その瞬間を待っていた!
その剣を標的に俺は渾身の横薙ぎを打ち込む。
甲高い衝撃音が闇夜に響き渡る。
ロタンの手を離れた黒星辰剣が宙を舞った。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
間髪入れず、俺は槍を腰だめに構えて決死の突撃をする。
「ごぱっ……」
確かな手応えと共に、槍の尖端がロタンの右胸を貫いた。
「ロタンッ!」
半分に折れた槍を振り上げてトトチトが襲いかかってくる。
だが気が動転しているのか大振りだ。
俺は咄嗟に槍を手放す。
雑な振り下ろしを俺は左腕で外に受け流し、毛深い顔面に右拳を叩き込む。
潰れた呻き声をこぼして、トトチトは背中から倒れた。
よし、うまくいった。
この二人を倒せたなら先が見える。
あとは彼女を取り返して、包囲が崩れたこの場から立ち去るだけだ。
俺は振り返り、仰向けに倒れたロタンを見下ろした。
その致命的ショックのせいか幼顔の少年は目を見開いていた。
半開きになった唇が震えているように見える。
とどめを刺さないと。
首の骨を折っても襲ってきた相手だ。
悪いが今度はその首を落とさせてもらう。
俺はロタンの胸に刺さったままの槍を容赦なく引き抜いた
右胸からあふれ出した血が外套の色を染めていく。
「そこまでにしてもらおう」
ロタンでもトトチトでもない突然の声に、俺は驚いて飛び退る。
横手に振り向くと、背の高い白い役人服の男がいつの間にかそこにいた。
その左手には黒星辰剣が握られている。
ライムンド=マザラン、まさか現場にまで出てきていたのか。
「トトチト君、王女陛下を連れて先に帰りたまえ。さぁ立ってすぐに!」
ライムンドは初めて見せる厳しい顔付きで、強い口調で言った。
トトチトは顔を歪めて立ち上がると、ふらつきながらも走り出す。
追いたいが、ライムンドに背中を見せるわけにはいかない。
それに冷静に考えればこれはむしろ好機だ。
敵国の主柱である宰相を潰せたなら状況はきっと好転する。
だったら取るべき手段は一つだ。
俺は槍の先をライムンドに向けて構える。
「それでいい。私も今回ばかりは急ぎたい」
白服の宰相は言うが早いか足早に近付いてくる。
すかさず俺は突きを放つも、ライムンドはするりと半歩ずれて避けた。
俺は距離を保って突きを連続で仕掛ける。
だがライムンドは剣で槍の切っ先を触れるようにずらし、巧みな足さばきで的を散らして、羽毛のようにひらりと避けてくる。
この動き、ロタンと瓜二つだがより洗練された滑らかさを感じる。
おそらく彼が剣の師なのだろう。
だが流派が同じなら、戦い方もおおよそ同じはずだ。
相手の圧に負けるな。慌てずに集中すればきっと勝てる。
俺は鋭く、最短で突きを繰り返す。
次第に避ける動作が追い付かなくなり、槍の刃が白服の端々を切り散らす。
さすがに分が悪いと感じたのか、ライムンドは後ろに大きく下がった。
黒星辰剣を右斜め下に構え、両手で柄を握る。
闇の中、ライムンドの気配が変わったように思えた。
その目が研ぎ澄まされた刃のように鋭くなる。
勝負に出るつもりか。
俺は呼吸を整え、緊張でひりつく心を落ち着かせようとした。
いつでも反応できるように視界を開いて相手の全身をとらえる。
凍えそうな夜に風が鳴く。
俺は熱い息を吐き、その瞬間を待った。
ライムンドが地面を蹴る。
槍の射程に入ったその瞬間に俺は閃光の突きを放った。
刹那にライムンドの体がずれるが、避けられるよりも速く槍の尖端が敵の右上腕を抉った。十分な手応えだ。
だがそれでもライムンドは止まらない。
紫電一閃の逆袈裟が来る。
俺は咄嗟に腕を引き、身をのけぞらすように槍を盾にした。
捨て身の一撃を受けきって、今宵の狂騒劇にケリをつけてやる。
ライムンドが黒星辰剣を振り抜き、闇より暗い漆黒の刃が煌めいた。
その時、俺が感じたのはあり得ないはずの違和感だった。
剣を受け止めたはずの槍に何の衝撃もない。
まもなく訪れたのは胴体に走る熱の線、そして身が裂ける痛みだった。
「あぐっ!?」
逆袈裟に斬られた俺は立っていられず膝から崩れ落ちる。
焼けるような熱さは斬られた体からあふれる血の温度だ。
何が起こった?
俺は確かに剣の軌跡を槍で止めたはずだ。
なのになんで斬られている?
わからない。
それより何よりこの傷の深さはまずい。
気を失いそうなくらい強い痛みに声も出ない。
うまく息ができない。めまいがする。
だめだ、指に力が入らない。
「ロタン! いま助ける!」
ライムンドの焦った声がした。
だが俺は振り返って確かめることすらできない。
痛さと苦しさと気持ち悪さで意識が千切れる寸前だ。
冷や汗が噴き出し、体が震えてくる。
倒れたら最期、たぶんもう立ち上がれない。
「かっ……はぁはぁ……んくぅ……!」
俺はまぶたをぎゅっと閉じ、歯を食いしばる。
いま俺がしなきゃいけないことは何だ。
まずは生きることだ。
その第一が応急処置だ。
傷の深さは内臓まで届いているのか、わからない。
どのみち外科手術的治療なんてできないから考えないことにする。
俺は体を包む救聖装光に意識を集中させた。
当然だが傷は裂かれた装甲の同線上にある。
その装甲の内側に牙を生やし、傷口に噛みつかせた。
医療用ステイプラーで切開部を縫合するイメージだ。
「んぎっ……!」
痛みはあるが、傷のダメージに比べれば知れている。
あとは以前にやったように装甲をぴったり密着させて圧迫止血とする。
問題はこの後だ。
体力が尽きるまでに俺は何ができる。
思考を邪魔するかのように、闇夜に笛の音が響いた。
ライムンドが兵士を呼ぼうとしている。
囲まれたら捕まる。捕まれば俺に待つのは死だけだ。
俺が今できることは……弱い俺にできることは……
「ティアナート……」
彼女の声が聞きたい。
こうしろと命令してほしい。
そんな風に思うのは未だに変わらない俺の弱さなんだろう。
すがるな。決断から逃げようとするな。
調子が良い時じゃない。
追い詰められた今だからこそ、俺は過去を乗り越えなくちゃいけないんだ。
強い心で苦しい決断をするんだ。
「……っ!!」
俺は歯を食いしばり、槍を強く握った。
そして地面を蹴って北の方角へと走り出した。
――逃走である。
敵に背を向けての逃走。
守るべき女性を置き去りにしての逃走である。
「ぐぅぅ……! くそぉぉ!!」
身を裂く痛みよりも痛烈に心を抉る悔しさに涙が出た。
今は逃げるしかない。
意地を張ってこの場に留まっても無駄死にするだけだ。
今できる最適解はこの一件をいち早く仲間に知らせることだ。
エルトゥランまで逃げ帰って、仲間と共にトラネウスと戦うしかない。
そうしてティアナートを取り戻すのだ。
シルビスは彼女を殺したりしない。
人質にしておけば俺が戻ってくるのはわかるはずだ。
そう信じるしかない。
結局はティアナートが最初に考えたままのことをするわけだ。
彼女は俺よりもずっと頭がいい。
だから事の推移はきっとそうなる。
そう信じるしかない。
身も凍える冬の夜、俺は一人惨めに敗走した。
トラネウス兵の何組かが追ってくるのがわかる。
少なくとも彼らを振り切るまでは気を失うことすら許されない。