番外編04話『太陽と月の明烏(1)』
アイネオス=ウォルトゥーナはエルトゥラン王国との決戦に挑むにあたり、帯同していた息子シルビス=ラランをセルアティの町へと送り帰した。
セルアティとはトラネウス王国の北端の町で、国境防衛の要所である。
戦場では万が一がある。
我が子を思っての父の気遣いだったが、シルビスには辛いものだった。
これが兄アスカニオならば、父は轡を並べて戦場に立ったはずだからだ。
自分の不甲斐なさを悔しく思いながら、シルビスは吉報を待った。
だがセルアティに帰ってきたのはぼろぼろの敗残兵たちだった。
シルビスは父アイネオスの戦死を信じなかった。
戦場でよくある勘違い、誤報に違いないと頑なに否定した。
周りの者は都に戻るよう促したが、シルビスはテコでも動かなかった。
決戦から三日後、ベルンハルト=フェルデン将軍がセルアティに辿り着く。
傷だらけで浮浪者のような姿での帰還だった。
最後まで戦場に残り、味方を逃がした後、敵の追っ手から逃れるため変装し、どうにかこうにかようやく帰ってきたのだという。
ベルンハルトは父アイネオスが軍事面で最も信頼を寄せていた将軍で、対貴族抗争時代からの十五年来の付き合いである。
シルビスも幼い頃から何度も顔を合わせたことがある好漢だった。
義に厚いことで有名なベルンハルトが父を見捨てて戻るはずがない。
彼の口から報告を聞いて、ついにシルビスは事実を否定できなくなった。
シルビスはトラネウス王国の首都エルバロンに帰ることにする。
その道中、シルビスはずっと上の空だった。
あれだけ強く聡明で立派な父が死んだ。
頼りになる兄は異種族の国に遠征中で祖国にはいない。
これからどうなってしまうのだろうと、漠然とした不安を感じていた。
父の死から十日後、シルビスは首都エルバロンに戻る。
意気消沈して屋敷に戻ると、母メロペーがシルビスを出迎えてくれた。
旅の疲れを労うよりも先に、母は満面の笑みで息子にこう言った。
「おめでとう、シルビス! これでこの国は貴方のもの! 貴方がこのトラネウスの王になるの! ラランの家の者が、ついに王の座に就く日が来たのよ……!」
若白髪を振り回し、歓喜を露わにする母の姿に、シルビスは絶句した。
母が父を嫌っていることは知っていた。
父が母の生家であるララン家を取り潰したことも知っている。
母の友人知人まで容赦なく粛清したことも知っている。
だから夫婦の不仲は仕方がないと思っていた。
だが第一声がそれなのか。
建前でもいいから、勇敢に戦って死んだ夫に弔いの言葉くらいないのか。
父の死を悲しむ自分の気持ちを慮ってはくれないのか。
そんな叫びが喉から出そうになるのを、シルビスはぐっと我慢した。
「シルビス! 貴方だけ! 貴方だけが私の全て! 立派な国王様になってくださいね……」
母メロペーはそう言い、シルビスは優しく抱擁した。
自分にだけ優しい母。母にはもう自分以外に縋るものがないのだ。
シルビスはそのことをよくわかっていた。
だからいつものように『はい』と答えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜、宰相であるライムンド=マザランが屋敷を訪ねてきた。
相変わらず神出鬼没な男である。
シルビスはライムンドを応接間に通し、卓を挟んで向かい合った。
夜分に突然やって来たにもかかわらず、ライムンドは何も言おうとしない。
ただじっと黙ってシルビスを見つめ続けた。
先に焦れてシルビスが口を開く。
「何か用があって訪ねてきたのではないのか?」
「色々と伝えたいことはあるのですが、それでは順番が違うのです」
謎かけのようなことを言うライムンドに、シルビスは眉根を寄せた。
「どういう意味だ?」
「君がどうしたいかを聞きたいんだよ、シルビス君」
薄暗い部屋を照らすロウソクの火がゆらりと揺れた。
「君にアイネオスの志を継ぐ気があるのなら、私が君の宰相になろう。だが君にその気がないのなら、私がこの国に留まる理由はなくなる。明日にでもこの町を離れて、ただの気ままな旅人に戻ることにするよ」
シルビスは少し考えてから、こう返事をした。
「お前は、私に次の王になれと言いに来たのではないのか?」
「どうしてそんなことを言う必要が?」
ライムンドは薄笑いを浮かべた。
「君も知っての通り、私はこの国の生まれではない。私は君の父に請われて、救世主を目指す友の手助けをしていただけだよ。私個人には、この国のために尽くす義務はない」
そう言ってライムンドは椅子をすっと後ろに引いた。
「最後にもう一度だけ聞こう。君はどうしたい、シルビス君?」
「……私は、父上のように立派に、王をやれるだろうか?」
ライムンドは何も答えず、椅子から腰を上げた。
そしてシルビスに背を向け、扉の方へと歩き始める。
「ライムンド?」
ライムンドは振り返りもせず応接間から出ていく。
シルビスは慌てて立ち上がると、早足で彼の後を追った。
「ライムンド! 待ってくれ!」
応接間を出て、一階への階段を駆け下りる。
玄関の前でようやくシルビスはライムンドの先に回り込んだ。
腕を広げて通せんぼする。
「待ってくれライムンド。まだ話したいことがあるんだ」
「やれやれ……」
そんなシルビスにかつての友の姿を見た気がして、ライムンドは微笑した。
足を止め、両手を腰に当ててため息をつく。
「一つだけ君のために言葉を送ろうか。君はよく自分を兄と比べるようだが、そんなことはどうでもいいことだ。どれだけ背伸びしようと君はアスカニオ=ウォルトゥーナにはなれない。アスカニオ君がシルビス=ラランになれないのと同じようにね」
その言葉にシルビスは息を止めた。
腕を下ろし、拳をぐっと握りしめる。
物心ついた頃から比べられてきたのがシルビスなのだ。
前妻の子に負けるなと何百回、何千回と言われてきた。
兄と同じようにできない自分を惨めに思い、別の道に逃げて生きてきた。
それはもう受け入れるしかないことなのだ。
それに父アイネオスも言っていた。
王は全能である必要はない。
できないことはできる者にやらせればいい。
王の務めとは決めること。そしてその責を負うことだけでいいと。
兄がいない今、立てるのは自分しかいない。
自らの道は自らの足で歩いていくしかないのだ。
シルビスはそう自分を奮い立たせ、始まりの決断をした。
「……決めたぞ、ライムンド。私はこの国の王になる」
シルビスは顔を上げ、まっすぐに強い目でライムンドを見た。
「私に仕えろライムンド。お前の力が必要だ」
「……陛下の仰せのままに」
ライムンドはにっと笑うと、足を揃えて左手を右胸に当てて敬礼した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
シルビスは住み慣れた屋敷を離れ、住処をエルバロン王城に移した。
父アイネオスが使っていた部屋をそのまま使うことにする。
仕事としてとにかく決断を迫られる日々に悪戦苦闘しながらも、良き遺臣たちに支えられて、どうにか王として歩き出すことができた。
シルビスが王城に入って十三日目。
エリッサ神国から来た船がエルバロンの港に到着した。
日に焼けた肌の異国の者たちがエルバロン王城へと大通りを行進する。
エリッサの女王ディド=メルカルートの輿入れである。
町の者たちは興味津々にその様子を眺めた。
辣腕で人気の国王アイネオスの急死は国を揺るがす大事件だった。
そんな時に発表されたシルビスとディドの結婚は明るい話題として受け入れられ、次の後継者を明確に示した国の迅速な対応に民衆は一安心したのだった。
さて日が暮れて、その日の夜。
シルビスは王城の執務室にて、燭台に火をともし、机に向かっていた。
目を通しているのはトラネウス王国の各項目の資料である。
シルビスは自分の国のことをろくに知らなかった。
そういうことは父や兄の仕事と避けてきたからだ。
画家や詩人、劇作家や舞台俳優の名前なら百人でも挙げられる。
宝石や細工の鑑定なら自分でできる。
布や糸は見て触れば産地がわかるし、どこで染めたかもわかる。
茶葉や酒も一口で産地までわかるし、香にも詳しい。
だがそれだけではただの文化人だ。
知識として社交の役には立つが、王となるにはそれだけではまずいのだ。
己の国の人口はどれだけか。
男女の比率、年齢の分布はどうなっているか。
土地ごとの生産高はどれほどか。
国庫の蓄えはどの程度あるか。
今年の収支の予定はどんなものか、ここ十年の収支はどうなっていたか。
国が抱えている兵士の数は、今動かせる戦力はどの程度か。
隣国の軍事力、経済力はいかほどか。
知るべきことは山ほどあり、時間はいくらあっても足りなかった。
真剣に勉強に励む内に時間が過ぎていく。
そんな真夜中、ふと執務室の扉がとんとんと叩かれた。
「空いている。入れ」
こんな時間に訪ねてくるのはライムンドだけだ。
そう思ってシルビスは返事をしたのだが、それは間違いだった。
そーっと扉が開き、ぱっちりとした大きな目の少女が顔を覗かせる。
「失礼いたします……」
控えめの声で部屋に入ってくるディドに、シルビスはハッとして面を上げた。
しまったとバツの悪そうな顔をする。
新しく王妃になるディドには王城の一室を用意されていた。
荷物等の運び入れを済ませた夕方頃、二人は対面をする予定だったのだ。
その対面は儀礼的な堅苦しいものではなく、もっと軽い『あとは若い二人で』というものであったため、城の者もあえて二人を呼びに行かなかった。
夕食を執務室で簡単に済ませ、集中していたシルビスはそれをすっぽかしてしまったという形である。
「す、すまない! うっかりして忘れていた!」
わたわたするシルビスの様子がおかしくて、ディドはつい頬を緩めた。
「何をされていたのですか?」
意外とディドの口調が穏やかだったことに、シルビスはほっとした。
ディドが机の前まで来るのを待ってから口を開く。
「自分の国のこともろくに知らない不良だったものでね。慌てて勉強をしている。まったく情けない話さ」
苦笑するシルビスに、ディドは不思議そうにまばたきをした。
「殿下は、以前お会いした時と印象がお変わりになりましたね」
「そうかい?」
「以前はもっと……」
ディドが言い淀んだのは、悪口にならない言葉が浮かばなかったからだろう。
その心の動きが手に取るようにわかって、シルビスは笑った。
「以前はもっと軽薄だった。だろう?」
的を射たようで、ディドがごまかすように微笑む。
シルビスは椅子から腰を上げると、部屋にもう一つある大きな卓を示した。
長方形の卓を挟んで改めて席に着く。
「ところで私も以前とは違う君に気付いた」
シルビスはわざと卓に肘をついて、お行儀よく座るディドに話しかけた。
「君は猫を被っているな?」
「どういう意味でしょう?」
聖女の微笑を浮かべるディドを前に、シルビスは卓上で指を組んだ。
「他人が求める自分を演じているのだろう? 私も同じだからわかる。素に見えるほど板についているのは、演じている人生の方が長いからだ」
「……へーえ」
ディドはよくできた笑みをやめ、やや眠そうな気だるげな顔になる。
力を抜くように背を丸めて、卓に身を乗り出すように両方の肘をつけた。
「貴方、本当に変わったんだね。前は私のこと少しも見てなかったのに」
「実現するかもわからない政略結婚の相手だと思っていたのでね。君には何の興味もなかった。その時の非礼を詫びるよ」
シルビスはぺこりと頭を下げた。
するとディドも同じように頭を下げた。
「じゃあ私も謝っとく。貴方のことチャラついた人だと思ってた。今回の結婚も気乗りしなかったし、なんなら船から飛び降りようと思った」
「……エリッサの女王が神輿というのは本当なのだな」
シルビスは同情の視線を少女に送った。
エリッサ神国は女王を頂点とする宗教国家のはずだが、実際に政治を牛耳っているのはエリッサ教団の方であると密かに言われている。
「そだね。結婚相手も選べない私はどうせ軽い神輿。自分一人ではなんにもできない、かわいそうな女の子ってわけ」
ディドは自嘲気味に笑うが、その表情にはそれほど悲壮感がない。
それを不思議に思い、シルビスは疑問を口に出した。
「その割には、君の目は前を向いているように見えるな?」
「卑屈になってどうなるものでもないでしょ? それにお母さんは私に幸せになりなさいって言った。だったら諦めるよりも先に、まずは幸せになる努力はしなきゃ。うるさいのがいない新天地の方がかえって楽しく過ごせるかもしれないし」
そう言って笑顔を浮かべるディドが、シルビスには眩しく見えた。
どうして自分にはできないのかと、卑屈に生きてきたのがシルビスなのだ。
自分にはない陽の心を持っている目の前の少女のことを、好ましく感じている自分にシルビスは気付いた。
「ディド=メルカルート。妻になるのが君のような女性で良かった。私はきっと君のことが好きになる」
「そういうの、誰にでも言ってるんじゃないの?」
疑うというよりも、からかうような口ぶりのディドに、シルビスは心外だとばかりに眉をひそめた。
「私は先程、自分を軽薄だと言ったがそういう意味ではない。火遊びが趣味の男と思われては困る」
「冗談だって、ごめんね」
ディドは手を合わせて謝るふりをし、無邪気に笑った。
「意外と仲良くなれそうだね、私たち」
「ああ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
教会での結婚式を終えても、それはただの一区切り。
新郎新婦の仕事はまだまだ続く。
宴の席でも主催者として多くの来客、賓客の対応に追われることになる。
一通りの挨拶回りを済ませ、城の自室に戻った頃にはもう真夜中だった。
「あーしんど。なんかよくわかんないけど、すっごい疲れた」
だらしなく椅子の背にもたれかかって、ディドがため息をつく。
正装から楽な格好に着替えを済ませ、二人はシルビスの寝室にいた。
二人の間にある卓の上には、湯気を立ち昇らせるお茶のカップとポットと、焼いたパンに肉と野菜を挟んだ軽食の皿が並んでいた。
「そうだな。だが無事に式が終わって良かった」
暗い部屋の中に、燭台の橙色の火が浮かんでいる。
その薄明りに照らされて、シルビスはお茶のカップを口に運んだ。
温かいお茶が疲れた体に染み入る。
一日中、張っていた気が抜けるのをシルビスは感じた。
「えっと……あのさ、シルビスくん……」
遠慮がちにディドが声をかける。
「なんだ?」
「トラネウス王国の教義的にはさ、初夜ってどういう扱いなわけ?」
「……と言うと?」
何を問われているのかわからず、シルビスは聞き返した。
「エリッサ教だとさ、初夜まで終わらせてはじめて結婚が成立するの。土地柄にもよるんだけど、致しましたって皆にお布団を見せるとこもあるし。でも正直、今日はもう疲れててそれどころじゃなくない? みたいな意味で聞いてます」
変に最後だけ敬語になったのは照れの表れだろう。
ようやく合点がいって、シルビスはなるほどと頷いた。
「トラネウスでも昔はそういうことがあったそうだ。立会人の看視のもとで初夜を行い、その完遂を公表するという形だな。ルフスの書いた舞台劇にもそういった描写があった。ま、とうの昔に廃れた仕来りだがね。私たちはもう正式に夫婦だよ」
「うん……」
ディドは両手で包みこむようにお茶のカップを持った。
まだ熱いお茶を冷ましながら、ちらちらと上目遣いにシルビスを見る。
何も言わずにいるのは言葉を待っているからだ。
そこでシルビスは、自分がずれた回答をしていたことに気付いた。
新妻は教義や慣習の話がしたかったわけではない。
今から致しますかと問うているのである。
そのことに遅れて気付いて、シルビスは目をそらし己の額に指を当てた。
以前にも自己申告した通り、シルビスは女遊びに縁のない生息子である。
年相応に浮き足立つのも自然なことと言えた。
薄明かりの部屋にいなければ、互いに顔の赤さに気付いただろう。
「あー……そのだな……」
シルビスは少しの間どうすべきか迷った。
だがどうにも頭が回らない。
落ち着かないのは男子の初々しい衝動のせいだろう。
だが疲れから来る眠さで体が重いのも確かだった。
迷った結果、夫は妻が口にした言葉をそのまま受け取ることにした。
「今日はもうお互い疲れている。だからもう休もう」
「……そっか」
ディドはほっとしたような、少し落胆したような顔をした。
カップのお茶をすすって、すっと椅子から立ち上がる。
「それじゃあ、私はもう部屋に戻るね」
「明日……!」
シルビスは咄嗟に、引き留めるように声を上げた。
「明日は昼の予定が済めば空く。その後は一緒に過ごそう」
ディドは半身で振り返って、ふふっと微笑んだ。
「シルビスくんはいい人だね。かわいい」
手をひらひらとさせて、ディドが部屋を出ていく。
かわいいを褒め言葉として受け取れるほど、シルビスは恋愛に慣れていない。
男らしさが足りなかっただろうかと、閉じた扉を渋い顔で眺め続けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
結婚式の翌日。
朝食を済ませた頃、ライムンドがシルビスの寝室を訪ねてきた。
昼から行うエルトゥラン王国との交渉に備えての相談である。
卓を挟んで二人は席に着いた。
「こちらが講和条約の草案です。確認をお願いいたします」
ライムンドが卓上に紙を置く。
シルビスは紙面を手元に寄せ、ざっと目を通した。
両国は戦争終結を合意するにあたり、以下の条件を履行することとする。
両国は脱走兵、及び捕虜を無条件に解放し帰国させる。
トラネウス王国は賠償金の半分を一括で支払い、残額は十年割賦とする。
この講和条約締結から二年の間、両国は相互不可侵を約束する。
ざっくりとそのようなことが記してあった。
「エルトゥランとは講和しなければならないか」
顔を上げてシルビスが問う。
だがこういう時、ライムンドはいつもこう答えた。
「それを決めるのは陛下です」
「言い方が悪かった。講和の是非について、宰相であるお前の助言が欲しい」
「では結論から申し上げます。講和した方が安全かと」
シルビスは思案するように、自らの額に指先を当てた。
「安全か。その理由は?」
「まず一つ。トラネウスは先の敗北で多くの兵を失いました。戦えなくはありませんが、もしまた負けるようですと国の存亡に関わります。もう一つ。陛下は代替わりしたばかりで、国内は一丸とは言えません。そういった状況での戦争は避ける方が無難かと」
ふむふむとシルビスは相槌を打った。
「ではもし仮に私が講和を望んだとして、相手は乗ってくるか?」
「はい。それは確実かと」
「なぜそう言える?」
質問攻めするシルビスに、ライムンドは顔色一つ変えず言い淀まない。
「エルトゥランは今年、獣人族とも戦争をし疲労困憊です。すでに兵はくたくた、国庫もかつかつでございましょう。そもそも普通に考えれば、先の戦いで向こうが勝てるはずなかったのです。そのくらい無理をしているのですから、講和には必ず乗ってきます」
「よくわかった」
頷いて、シルビスは再び卓上の紙面を手に取った。
講和の草案を眺めて、ため息をつく。
一方的に賠償金を支払うため、形としては敗北を認めることになる。
そのことが少々腹立たしかったのだ。
「とは言え、金で済むなら安いものか」
「左様かと」
ぱさりと草案の紙を卓に戻し、シルビスは頬杖をついた。
「ところで一つ。アスカニオ殿下の消息がわかりました」
「なに!?」
突然の報告にシルビスは目を見開いた。
「エルトゥランの捕虜になっているようです。サルハドン監獄という場所に捕らわれているとのこと」
「だったら兄上を助け出さねばならないではないか! ただちにそこに書き加えよ!」
草案の紙を指さすシルビスに、しかしライムンドは黙り込んだ。
その態度に新王はすぐ、言い辛い何かがあるなと勘付いた。
「かまわん、言え。兄上を返すよう言うのに何の問題がある?」
「問題は二つございます」
まず一つ目とばかりに、ライムンドは指を立てた。
「ティアナート=ニンアンナは殿下の解放を嫌がるでしょう。アスカニオ殿下は陛下の実兄。人質として高い価値があります。返せと言えば、おそらく法外な要求を突き付けてくるでしょう」
「……もう一つは?」
「現時点での殿下の帰還は、陛下による統治の不安定を招くものと考えます」
シルビスはぐっと奥歯を噛みしめた。
ライムンドの言葉の意味がすぐにわかったからだ。
もし兄が祖国に残っていれば、跡を継いだのは自分ではなかっただろう。
兄が今トラネウスに帰ってくれば、兄を担ぎ出す不届き者が出てくる。
そう言いたいのだとシルビスは理解した。
「いつまで我慢すればいい……?」
拳を握るシルビスの様子に、成長を喜ぶようにライムンドは頷いた。
「そのための相互不可侵二年です。二年あれば陛下と国が馴染みます。地盤が安定すれば、殿下をお迎えできるようになるかと」
「兄上……」
敬愛する兄を敵地に二年も放っておくのは心苦しいことだろう。
ライムンドはその気持ちを察し、シルビスに言葉をかけた。
「アスカニオ殿下なら、陛下のために耐え忍ぶことをお望みになるはずです」
「……そうだな。兄上はそういう人だ」
シルビスは口を一文字に結び、しみじみと頷いた。
だがすぐその頬が強張り、怒りに震えだす。
シルビスは握った拳をだんと卓に叩きつけた。
「だったら! なおのこと我慢ならないことが一つある! 父上を殺し、兄上に忍従を強いらせる下郎がいるということだ! エルトゥランの救世主を騙るあの男だけは生かしておけん!」
今度はライムンドが口をつぐんだ。
シルビスはそのことに気付いたが、噴き出した怒りは収まりがつかなかった。
「これだけは絶対に譲らん! 奴がのうのうと生きているなど許せるものか! トラネウス国王として必ず奴の首を父上の霊前に捧げてやる! ライムンド! そのことをしっかりと書き加えておけ!」
ライムンドは無言で頷き、承諾の意を示した。