67話『国境線を越えて』
エルトゥラン王国とトラネウス王国の国境の近くにベルクという町がある。
両国はかつての大国、古エルトゥランが分裂してできた国だ。
そういった経緯なので幾度となく争ってきた歴史がある。
ゆえに両国ともに国境には防衛を意識した町を置いていた。
エルトゥラン王国南端の町ベルクはそういう役割を持った町なのである。
広い町を囲う高いコンクリートの壁はベルクの特徴だ。
敵が攻めてきた時に住民を守るための防壁である。
そんな町のそばには年季の入った砦があった。
王国南部の防衛を担当する軍はここに駐留して任務に当たっている。
王女陛下ご一行がベルクに到着したのは曇り空の昼下がりだった。
俺たちが来た時には、すでにベルクの砦は門が開け放たれていた。
外には上役と思われる軍人と役人が整列している。
陛下のご来訪だ。出迎えは当然の義務だろう。
砦の前で陛下の馬車が止まる。
御者をしていたベルメッタが車体の扉を開けた。
先に俺が外に出て、次に俺の手を取ってティアナートが馬車を下りる。
出迎えの列へと向かうティアナートに、俺は一歩下がった左側をついていく。
三歩下がった右側にはドナンが続き、他の者はその場にて一時待機である。
「陛下に敬礼!」
砦の前に並んだ者たちは一斉に、直立の姿勢から右の手を左胸に当てた。
エルトゥラン式の敬礼である。
俺とドナンは同様に礼を返す。
ティアナートは右手を顔の高さまで上げて応じた。
「出迎えご苦労である」
そう言って彼女は目を右に左にと動かし、整列者の姿を確かめた。
「バウシム=ガラルの顔が見られないようだが?」
彼女の問いかけに、砦の者たちはぎくりと目を泳がせた。
バウシム=ガラルはこのベルクにて南部防衛を任されている将軍である。
年齢は四十歳。忠義者として評判だったはずの男だ。
バウシムは元々、マリージャ一門の軍人だった。
先王バニパルが暗殺された一年前の反乱の時、一門の頭領マグウ=マリージャの挙兵に協力せず、王家への忠誠を示したことで知られている。
その結果としてバウシムはマリージャ一門排除の粛清を免れ、南部防衛を任されることとなった経緯があった。
そんな男が王女陛下の出迎えに出てこないなどありえないことである。
バウシムの配下である整列者たちに、ティアナートは微笑んで問いかける。
「私の言葉が聞こえなかったか? ベルク防衛の重責を担う将軍バウシムはどこにいるのかと聞いている。誰でもよい。前に出て答えよ」
少しの沈黙の後、最前列にいた役人服の男が前に出た。
年齢はおそらく三十代後半。背は低く、やや小太り。
人の良さそうな丸い顔をしていた。
「その方の名は?」
「ポイトン=ガラルでございます」
「ほう……」
名字からして親族なのだろうか。
身内の不祥事に対応するのは気が重かろう。
「申し上げます。バウシム将軍は只今ベルクを離れております」
「国土防衛を任された将軍が上の了解も得ずにその地を離れたと。よほどの理由があるのだろうな?」
「それは……」
丸顔の男ポイトンはどうにも答え辛そうに、額にしわを寄せた。
「簡潔に報告せよ。できないなら別の者と代われ」
ティアナートは声音こそ普段通りだが、それが逆に圧の強さを感じさせた。
ポイトンが額に汗をにじませる。
手の甲で拭い、それから覚悟を決めたように息を吸った。
「バウシムは出奔いたしました。正確な行方はわかっておりません。ですがおそらく、ヌラージ島に向かったものと思われます」
ヌラージ島というのはトラネウス王国の西海に浮かぶ魚人族の島だ。
なぜバウシムがそんな場所に向かったのか。
ともかく重要なのはバウシムが逃げたという事実だろう。
「よくわかった」
ティアナートはちらりと後ろを向き、ドナンに指で合図をした。
ドナンが早足で前に出て、ティアナートの隣に並ぶ。
それを待って、ティアナートは砦の者たちに告げた。
「今この時をもってバウシム=ガラルを将軍の任から解く! 同時にドナン=ダングリヌスを臨時のベルク守護とする。以降、ベルクに在する軍人役人はドナン将軍の指揮下に入れ。よいな!」
ティアナートの宣言は冷たい風に乗ってよく響いた。
整列した砦の者たちが改めて敬礼する。
よしとティアナートは頷き、隣のドナンに向き直る。
「ドナン。休む間もやれず心苦しく思うが……」
「お心遣い痛み入ります。後のことは私にお任せください。旅程はまだ長うございます。陛下は先にお休みになられてください」
ドナンは握り拳で自分の胸をどんと叩いた。
疲れを感じさせない男ぶりである。
ティアナートは安堵したように頬を緩めた。
「任せる」
ここでドナンたちとは別れることとなる。
俺はオグ隊の皆に声をかけに行き、お互いの健闘を励まし合った。
ドナンたちは砦に入っていき、俺たちは明日に備えて町で休むことにする。
さて、ティアナートはドナンにいったい何を任せたのか。
一つは今後のために国境に戦力を用意しておくこと。
そしてもう一つがベルクに駐在する南部防衛軍の調査と処置である。
少し遡った話になるが、アイネオスはトラネウス軍の兵士を密かにエルトゥラン国内に送り込み、電撃的にエルトゥラン王城を陥落させた。
なぜそのようなことができたのか。
それは国境を管理する南部防衛軍がアイネオスに協力したからではないのか。
そんな疑惑が持ち上がったのである。
ベルクは南国境の町である。
ゆえに出入国者の監視も南部防衛軍の責務だ。
バウシムは責任者として、その務めを怠った嫌疑をかけられた。
実際、王城奪還後すぐに詰問の使者がベルクに送られている。
バウシムはこれに事実無根と手紙を返したが、自ら弁明には出向かなかった。
当時はアイネオスが再戦の用意を急いでいるのがわかっていたため、ティアナートもバウシムと南部防衛軍の処置を後回しにするしかなかった。
なおアイネオスとの再戦時、南部防衛軍はまったく動いていない。
エルトゥラン王城を目指して北上するトラネウス軍を止めようとはせず、決戦に向けて兵を集めるエルトゥラン軍にも合流しなかった。
これによりバウシムは謀反の意思ありとみなされたのである。
その後、アイネオス率いるトラネウス軍との決戦にエルトゥランは勝利した。
戦後処理の一環として、ティアナートはバウシムに出頭を命じる。
だが今度は返事すら帰ってこない。
そこで本格的な調査を行うため、今回ドナンを送り込むことにしたのである。
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ベルクの砦から数百メートルほど南に進んだところに国境がある。
その境界を示す目印が草原の中で存在感を放つ大岩だ。
高さが三メートルはあるだろう半円型の丸い大岩なのだが、その頂点の部分は切り込みが入ったみたいに割れていて少しへこんでいる。
その形が尻に似ていることから、地元民はおしり岩と呼んでいるそうだ。
この岩を越えればそこから先はトラネウス王国となる。
おしり岩からまた数百メートルほど進むと、もう次の町がある。
トラネウスの北国境の町セルアティだ。
壁に囲まれた町とそばに建つ砦はベルクの鏡合わせである。
それでも一目見れば雰囲気の違いが感じられた。
それは建築物にトラネウスの気風が表れているからだろう。
セルアティの町を囲うコンクリート壁は滑らかな表面処理がされている上、壁面にはトラネウス王国の紋章が大きく描かれ、彫刻されていた。
砦の門や建物にも同様の彫刻が見られる。
こういう実用性とは別の所に力を入れるところがトラネウスらしさなのだ。
比較するとベルクの防壁は実に無骨だ。
防水性を高める塗装は施されているが装飾には手間をかけていない。
防壁も砦も必要となる時は壊れる時なのだから、見た目に力を入れて何の意味があるのかと考えるのがエルトゥラン人なのである。
北を獣人族の国と接するエルトゥランは戦いが身近にあった。
ゆえに何より機能美を貴ぶようになった。
対してトラネウスはこれという天敵もおらず、穏やかに経済を発展させた。
その余裕が芸術を愛する土壌となった。
元を同じとする人間族の国だが、時の流れが文化の違いを育んでいた。
王女陛下ご一行がおしり岩を越えると、すぐにセルアティの砦から兵士が走ってきた。袖無しの板金鎧に兜と槍はトラネウス軍の基本装備である。
俺たちはしばし足を止めて検査を受けることになった。
いかにこちらが国家元首とはいえ、歩兵を百名も引き連れての移動である。
防衛の観点から確認は当然だろう。
検査は特に問題なく済んだ。
セルアティの兵士たちは整列して、俺たちを見送ってくれた。
指揮官らしき男の号令で一斉に敬礼してくる。
直立の姿勢から、左手を右の胸に当てるトラネウス式である。
セルアティを通り過ぎた一行は道路を南へと進む。
野原の景観はトラネウスもエルトゥランとさして変わらない。
馬車の窓からは藪や低木、大きな葉の樹木を所々に見つけることができる。
もっとも季節はもう冬の目の前だ。
木の枝葉には緑と紅葉の色が混じり合い、それもまた、いとおかしである。
町から町を経由して、トラネウスの国土を奥へと進んでいく。
太陽が昇り、月が浮かび、雨雲に濡れる日もあった。
そして次期国王シルビス=ラランの結婚式の前日、ついに俺たちは目的地であるトラネウス王国の首都エルバロンに到着した。