07話『敵は海路にあり』
城の三階南側にある部屋は全てティアナートの為の部屋である。
南側廊下の西の角部屋が彼女の寝室だ。
その隣の大部屋は執務室として使われている。
ティアナートは日中、多くの時間をこの執務室で過ごしていた。
エルトゥラン王国の統治者として、上がって来た書類の決裁を行ったり、外交や内政の諸問題について担当者と協議するのである。
呼び出しを受けて、俺は普段着の作務衣姿で執務室に来ていた。
執務室の広さは俺の部屋三つ分はあるだろう。
晴天の朝だが、窓が少ないためか若干の薄暗さを感じられた。
部屋に入って左手側に大きな円卓が設置してある。
今、俺が座っているのはその席の一つだ。
部屋の右手側には、高級な木材を使ったと一目でわかる仕事机がある。
人が揃うまでの合間も惜しんで、ティアナートは書類仕事に精を出していた。
金色の長い髪が垂れる様は柳の花のようである。
今日のティアナートは桃色のドレスを着ていた。
この色合いでかわいさより綺麗が前に立つのは背の高さゆえだろう。
腕の袖は手首を隠すほど長く、手には純白の手袋をはめていた。
スカートの丈は足首まであり、肌を出しているのは首から上くらいだ。
その露出の少なさは、王族たる者の慎み深さなのだろうか。
それでも豊かな胸の膨らみは服の上からでもわかってしまうのだが。
彼女を見ていると、勤勉な王様には遊ぶ暇なんてないんだなと思う。
学校の教科書を読むと、贅沢と散財で国を傾けた歴史上の人物が出てくるが、彼らは政に情熱を持てなかったのかななどと考えてしまう。
ふいに執務室の扉が叩かれる。
扉を開けたのは侍女のベルメッタだった。
執務室に二人の男が入って来る。
白髪交じりの背の高い男はドナンである。
エルトゥラン軍をまとめる歴戦の将軍だ。
今日は鎧ではなく、動きやすそうな紫色の軍服を着ていた。
栗色の髪をした端正な顔立ちの青年はリシュリーだ。
紫色に染められた制服は彼が城の役人である証である。
すらりとした細身が映えて見えた。
「ドナン参りました」
「同じく、リシュリー参りました」
二人は右の手の平を左胸に当てて、軽い角度でお辞儀をした。
ティアナートは書類を机に戻し、椅子から腰を上げる。
「卓に着いて。さっそく始めましょう」
ティアナートは俺の一つ右の席に座った。
彼女の右隣にリシュリーが、俺の左隣にドナンが腰を下ろした。
ベルメッタは扉のそばで待機している。
「シロガネは二人と面識はありましたか?」
「ドナンさんとは先日お話を少し」
「そうでしたか」
ティアナートが視線をやると、役人服の青年は俺と目を合わせてきた。
「この者の名はリシュリー。宰相として内務を任せています」
「リシュリー=ルクレールと申します。お見知りおきを」
右の手の平を左胸に当てて、一礼してくる。
どうやらこの右手を心臓の位置に持ってくる動作が、エルトゥラン王国での礼儀作法の一つらしい。そう理解し、俺も同様に礼を返した。
「シロガネヒカルです。よろしくお願いします」
ところで宰相とは役人の頂点に立ち、国の政治を司る大役のはずである。
年齢は二十代後半ほどに見える青年だが、要職を任されるくらいだ。
よほどティアナートに信頼されているのだろう。
「ではドナン。始めましょう」
「はっ。まずはこちらをご覧ください」
ドナンは円卓の上に地図を広げた。
俺たちのいるエルトゥラン王国は領土の東西を海に面していた。
南はトラネウス王国と国境を接している。
ちなみにトラネウス王国は東南西を海に囲まれている。
両国を合わせると、ちょうど大陸から延び出た半島の形になるわけだ。
エルトゥラン北部の西側は海に沿って山岳地帯がある。
険しく切り立った崖のような山地はシバレイ山脈と呼ばれていた。
シバレイ山脈の東には北部防衛の要所サビオラ砦がある。
砦の城壁はシバレイ山脈から東海岸まで長大に繋がっている。
この大防壁はエルトゥランが獣人族の侵略に苦しんできた歴史そのものだ。
サビオラ砦を越えた北は獣人族の国チコモストである。
「先日の、エルトゥラン王城に奇襲をかけてきた獣人族の軍なのですが。やはり侵入経路は海からだったと考えざるを得ません」
ドナンはエルトゥラン王城から西の海を指さした。
デニズ海と呼ばれるこの海には二つの大きな島がある。
エルトゥランの西にあるブオナ島と、ほぼ南にあるヌラージ島である。
ドナンは指先で西のブオナ島を叩くと、そこから北に滑らせた。
海を渡ればそこは獣人族の国チコモストである。
「獣人族の軍は船でデニズ海を南に進み、まずブオナ島近海へ。そこから東に進み、エルトゥラン西部に上陸したものと思われます」
地図を見る限り、妥当な進路のように思えた。
獣人族の国チコモストから陸路でエルトゥラン北部に入るのは難しい。
険しいシバレイ山脈を大軍で越えようとするのは自殺行為だ。
かといって平地を進もうにもサビオラ砦と城壁に抑えられて通れない。
船が用意できるなら海路が一番お手軽に思える。
そんな風に考えていると、ティアナートが教えてくれた。
「ブオナ島を拠点とする鱗人族は排他的で警戒心が強い種族なのです。彼らはデニズ海を自分たちのものと考えている節がある。島の領海に近付いた船は問答無用で沈められてしまうのです。その代わり彼らもこちらの領土には踏み込んでこない。互いに不干渉でいる。それが暗黙の了解だったのです。たとえ獣人族であっても海の上では彼らに敵わないでしょう」
獣人族が海路から侵攻してくる可能性は極めて低い。
そう考えられていた理由がブオナ島の鱗人族の存在にあったというわけだ。
でも、と俺は疑問を口にする。
「デニズ海は相当の広さがあるように見えます。ブオナ島から離れた場所なら見つからずに通れるんじゃないですか? チコモストからエルトゥランまで、シバレイ山脈の沿岸を船で進めば……」
「誰しも一度はそう考える。しかし実際にはうまくいかないのです」
ティアナートは地図の上を、指で円を描くようになぞった。
俺が先程『このラインに沿って進めば』と発言した場所だ。
海岸線には険阻なシバレイ山脈が存在している。
「シバレイ山脈の沿岸はとがった岩場が多く、船を壊してしまう。それにこの辺りは一年通して渦巻が発生する危険な海域なのです。潮の流れも強く、まっすぐ進めたものではない。そのうえシバレイ山脈から吹き下ろす強風が船を沖へと押しやってしまう。この海を渡ろうとすれば自然とブオナ島に近付いていってしまうのです」
現地の知識で地図を読むとそうなるのか。
俺が納得すると、待っていたかのようにドナンが口を開いた。
「エルトゥラン国内に上陸した獣人の数はおそらく八百ほど。それほどの大人数を乗せた船を行き来させたのです。鱗人族に襲われずに済むとは考え難いのですが……」
ドナンが渋い顔で唸る。
対照的にリシュリーは落ち着いた様子で手を挙げた。
「その鱗人族なのですが、接触を図ってきています」
リシュリーはティアナートの前に書状を広げた。
それは紙面がごわごわしており、不出来な和紙のようだった。
エルトゥランで使われている紙と比べて、技術力が低いように思える。
「町の漁師が届け出たものです。あまりに真贋が疑わしかった為、開封してしまったことをお許しください。漁の途中、突然現れた鱗人から押し付けられたとのことで……」
俺はティアナートの横から書状を覗き込んだ。
やはり異種族でも同じ文字を使っているみたいだ。
ほとんど問題なく読める。
ドナンも興味が湧いたのか、卓に身を乗り出してきた。
「鱗人族が書いた手紙など、生まれてこのかた読んだことがありませぬ。何と言ってきているのです?」
「私と会談をしたいと」
「なんですと!?」
ドナンは隣の俺が驚くほどの声を上げた。
「鱗人族の長が新しい者に代わったそうです。そこで挨拶を兼ねてブオナ島に招待すると。親睦の場を設けたいと言ってきています」
ティアナートは紙面に目を落としたまま、思案しているようだった。
ドナンは困惑の表情をしている。
リシュリーは無言で、主君の言葉を待っていた。
窓の外から鳥の囀りが聞こえてくる。
俺は何もわからないので、黙って悩まれると困ってしまう。
だから素直に聞くことにした。
「どの部分を悩んでいるんですか?」
三人の視線がこちらに向いた。
「獣人族が海を渡れたのは鱗人族に襲われなかったから。それってつまり両者が手を組んだかもしれないってことですよね?」
見回すと、ドナンは相槌を打つように頷いてくれた。
「その前提で考えるなら、お誘いは罠の可能性もありますよね?」
「相手が人間ならば私もそう考えたでしょう」
ティアナートは書状の文字に指を這わせた。
「鱗人族はこれまで他国との交流を拒んできました。彼らがどういうものの考え方をするのか、よくわかっていないのです。もし悪意のない振る舞いなら、せっかくの機会を逃してしまう」
「でしたら私が代わりに参ります」
すっとリシュリーが立ち上がった。
「御身を危険に晒す必要はありません。私にお任せください」
ティアナートは少しの間、青年宰相の目を見ていた。
不意に席を立ち、仕事机に向かう。
「初めの一歩で侮られては今後ずっと足元を見られることになる。やはり私が参ります。返事をしたためましょう」
「しかし陛下……!」
「リシュリー、ドナン。貴方たちは備えをしておきなさい。たとえ罠であろうと、私は正面から踏み入って正面から帰ります」
言いながらティアナートは椅子に座り、さっそく筆を手に取った。
ドナンとリシュリーが顔を見合わせる。
少し困惑したような、だが慣れた感じのアイコンタクトだった。
「承知いたしました。鱗人族との会談を行う方向で進めます」
相談はそこまでとなった。
退室する二人の背中を見送り、俺は仕事机のティアナートの前に立った。
「本当に大丈夫なんですか?」
「何がです」
ティアナートは筆を動かしながら返事をした。
「島に着いた途端、手荒い歓迎を受けるんじゃないかと」
「そのつもりだと言ったでしょう」
「でもそれだとティアナートさんの身が危ないと言いますか……」
「そのための貴方でしょう」
ティアナートは筆を置いて、俺の顔を見上げた。
「そういう歓迎をしてくるようなら、浅はかさを思い知らせてやればよい。血祭りに上げて救世主の力を見せつけてやりなさい」
さも簡単に言ってくれる彼女に、俺は引き気味に眉を波打たせた。
「さすがにそれは……少し暴力的過ぎませんか。もちろん襲ってくるなら抵抗はしますけど……」
「鱗人族との敵対が避けられないのなら、どのみち討たねばならないのです。獣人族に海路を好きに使われては、我が国の防衛が成り立たないのですから。むしろ好機と捉えた方がよい」
王女陛下の意志は固いようだ。
まぁ理屈はわからなくもない。
話し合いでどうにかならないかと考えるのは、俺の育ちから来る価値観だ。
暴力は最後の手段だが、必要な時には使わないといけないのだ。
なにより彼女の双肩には国に生きる全ての民の命がかかっているのだから。
「シロガネ。貴方も必要なものがあれば用意しておきなさい。いざという時は貴方が頼りなのですから」
「わかりました」
ティアナートは再び筆を手に取った。
話はもうおしまいということだろう。
俺は素直に退室することにした。
今後、彼女の期待に応えていくために俺が必要とするもの。
そのためにはやっぱり、まずはアレをどうにかしないとだ。