65話『アスカニオ捕囚』
次のトラネウス王国国王シルビス=ラランの結婚式まで一か月。
式の後は当然、首脳会談することになる。
その日に向けて、こちらも手札を増やしておくべきだろう。
そこで俺が任されたのがシルビスの兄アスカニオの確保だった。
アスカニオは先王アイネオスの息子である。
つまり王位継承権があるということだ。
捕まえて手元に置いておけば外交カードとして使えるだろう。
アスカニオの所在だが、おそらくまだ獣人族の国チコモストにいるはずだ。
最後に彼と会った日からおよそ一か月が経過したが、彼の部隊が何か行動を取ったという報告はない。
エルトゥランとチコモストの国境にあるサビオラ砦を経由せずに、彼らがトラネウス王国に帰還することはほぼ不可能だ。
生存しているのなら、テスコ地域に築造した砦に留まっているだろう。
サビオラ砦へは騎兵隊長であるダンキーと共に向かうことになった。
配下から精鋭を十人選び、小部隊でエルトゥラン王城を出立する。
以前と同じように俺はダンキーの後ろに乗せてもらった。
秋の風を肌に受けながら、色を変えつつある野原を騎馬が行く。
一日目は途中の村で一泊し、二日目にサビオラ砦に到着した。
「よぉ救世主の兄ちゃん。お勤めご苦労さん」
砦の広場で出迎えてくれた大男は元百人隊長のオルクスである。
強めに縮れた長い毛が印象的なエルトゥラン軍いちの暴れん坊だ。
老将軍ンディオの後任として、今ではサビオラ砦の責任者を任されている。
「お疲れ様です。オルクスさん、もう動いても大丈夫なんですか」
先の戦いでオルクスの部隊は大きな被害を出した。
隊長である彼も戦闘終了後は血塗れだったと記憶している。
「体だけは頑丈なのが取り柄だからな。それにオヤジの代わりは俺がやるって言っちまったしな」
オルクスはへっと頬を吊り上げた。
この人は心まで強い人だなと思う。
ンディオは規律に厳しく、まじめな軍人だった。
務めを果たそうとするオルクスの姿にきっと喜んでいることだろう。
「むしろ兄ちゃんこそ大丈夫なのか。けっこうケガしてただろ」
「それならもう治りましたから」
笑顔で答えると、オルクスは疑わしげに俺の体を上から下から眺めた。
「……何本か矢が刺さってなかったか?」
「刺さってましたけど?」
しばし無言で見つめ合う。
俺が小首を傾けると、オルクスは片方の眉を下げ、肩をすくめた。
「まぁいいか。人は見た目に寄らないって言うしな」
オルクスは息を吐いて、にっと笑った。
「あらためて、ありがとうな。兄ちゃんがいてくれて助かった。あーいや、救世主様とお呼びした方がよろしいですかな?」
まじめな顔でそんなことを言うので、つい俺は苦笑する。
「やめてくださいよ、もー。公式行事の時はその方がいいかもですけど。普段は今まで通り、ざっくばらんにしてもらえた方が俺は嬉しいです」
笑いながら言うと、オルクスは笑顔で俺の腕をぺちぺちと叩いてきた。
「もっと偉そうにしてもいいだろうに。謙虚だなぁ兄ちゃんは」
そして差し出された大きな手を、俺はしっかりと握り返した。
戦友として認めてもらえたということだろうか。
俺は自然と顔をほころばせていた。
その日はそのまま砦で一泊する。
次の日の早朝、俺たちは砦の北側城門前で見送りを受けた。
砦の人員を所狭しと広場に整列させての仰々しさである。
「すみません。こんな朝早くから皆さんを起こしてしまって」
俺が恐縮して言うと、先頭に立つオルクスが違う違うと手を振った。
「いや、俺もそんなつもりじゃなかったんだけどな。でもこいつらがどうしてもって言うもんだからよぉ」
オルクスが後ろの兵士たちに向き直ると、皆がピンと姿勢を正した。
何やら熱い視線が俺に向かって注がれているのがわかる。
「ま、そんなわけだ。総員、救世主様に敬礼!」
張りのある声が響き、整列した兵士が一斉に右の手の平を左胸に当てる。
エルトゥラン式の敬礼である。
俺も姿勢を正し、同じように敬礼を返した。
言葉はなくても、こうやって仲間として気持ちを交わすことができる。
それは素晴らしいことだろうと俺は思った。
「んじゃ気をつけてな。チコモストは今けっこう騒がしい。獣人族の間で小競り合いがちょこちょこ起こってるみたいだ。巻き込まれてぽっくりとか笑えねえからな?」
「気をつけます。ありがとうございます」
暖かい見送りを受けて、俺たちはサビオラ砦を出た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ダンキーの騎兵隊と共にチコモストの荒野を北上する。
また風がひんやりしてきたなと感じた。
空を仰ぐと、羽毛のような巻雲が流れていくのが見える。
この様子なら野宿で雨の心配をしなくて済みそうだ。
「しかし不思議なものですね、人生っていうのは」
同じ馬に同乗し、俺の前で手綱を握るダンキーがふと呟いた。
「チコモストには行きそびれたと思っていました。初めての場所を行くのは少しどきどきします」
馬に揺られながら、軽い調子で喋ってくる。
なので俺も軽口を返す。
「ここは平たい地面が続くから走りやすくていいですよ。目をつむっても走れるくらいです」
「そうでしたか。それならもしもの時も安心です。いえ、安心したいと言いますか……私たち襲われたりするんですかね?」
ダンキーは少し不安げに顔を後ろにちらりと向けてくる。
俺たちは総勢十二名の少人数で武装も最低限だ。
数で襲われたら逃げるしかない。
「テスコ地域の獣人族はそこまで好戦的じゃない印象ですね。俺たちを見つけても、わざわざ大軍で潰しに来たりはしないと思いますよ」
中央のチノチ族ならアカマピの仇と全力を出してくるかもしれない。
だが東部のテスコ族にアカマピに対する忠誠心はないだろう。
コヨルゥの言った通りなら、俺たち人間の相手をしている暇はないはずだ。
実際、道中で問題は起きなかった。
水汲みか採取の途中だろう獣人と遭遇したが、それだけだ。
互いに一瞥するだけで、何もなかったかのように別の道を行く。
野生の動物がむだな争いを避けるようにだ。
そうしてチコモスト一日目の夜を迎える。
大きな岩の影で俺たちは野営をした。
静かな夜空に三日月が浮かんでいる。
たき火の弾ける音を聞きながら、俺はぼんやりと星の海を眺めた。
一つ終わったと思ったらまた次の問題が生えてくる。
救世主の暮らしは本当に忙しいなと思う。
だけどこれはこれで悪くない。
誰かの為に何かをやれるってことが心に充足感を与えてくれている。
何の希望もなく生きていた頃よりも、生を実感できている気がした。
夜明けと共に食事を取り、移動を再開する。
十一騎の馬が荒野を進んだ。
太陽が昇り、そして傾いていく。
夕焼け空の下、ようやく堀と土塁でできた砦が見えてきた。
やぐらに上った見張りの兵士は俺たちの姿をすでに認識しているだろう。
「ダンキーさん。ここで止めてください」
どう頑張っても矢が届かない距離で俺はダンキーの馬から降りた。
騎兵隊員たちの視線が馬上から俺に注がれる。
「砦には俺一人で行きます。皆さんはここで待っていてください。もし相手が攻撃をしてくるようなら、すぐに逃げてください。その場合、合流場所は昨日の野営したところ……でいいですか?」
「了解しました!」
ダンキーのはきはきした返事に、俺は安心感を覚えた。
仲間に背を向けて、警戒しながら砦に歩いていく。
土塁の城壁の上にも兵士の姿があるが、弓を構えてはいない。
深い堀の前、上がったままの跳ね橋の正面で俺は足を止めた。
跳ね橋のそばのやぐらを見上げて、俺は声を上げる。
「エルトゥラン王国の使者としてシロガネが参りました! アスカニオ=ウォルトゥーナ殿に取り次いでいただきたい!」
さてどう出てくるか。
密かに身構えながら待つことしばらく。
思ったよりもあっさりと跳ね橋が下ろされる。
袖無しの板金鎧と兜を被った兵士が小走りでやってきた。
「どうぞ中へ。ご案内いたします」
跳ね橋で堀を渡り、土塁の壁に囲まれた砦の敷地に入る。
久しぶりの砦は広々として空地が目立っていた。
ここを築造した時は連合軍の兵士が千五百人もいたのだ。
それが今ではアスカニオ配下の三百騎足らずと残していったケガ人だけだ。
贅沢に空間を使っても持て余す。
並んだ天幕を横目に奥へと歩いていく。
見れば空き地で腰を下ろして、だべっている兵士がいる。
異国での滞在も長くなり、さすがにダレてきているのだろう。
少し痩せているようにも思えるが、まだ飢えに苦しんでいる様子ではない。
「救世主様!」
不意に普段着の一団が駆け寄ってきた。
まったく武装をしていない身軽な格好だ。
「エルトゥランは! 私たちの祖国はどうなったのですか!?」
獣人族との決戦で負傷をし、砦に留まったエルトゥラン軍の兵士のようだ。
急変した状況にさぞ不安な思いをしていたことだろう。
彼らを安心させるために、俺はにっこりと笑顔を作った。
「心配いりません。俺たちは勝ちました。エルトゥラン王国は健在です」
「あぁ……!」
安堵して肩を落とす者もいれば、ぐっと拳を握る者もいる。
ともあれ元気になってもらえたようだ。
彼らとはそこで別れ、俺は案内の兵士の後に続いた。
一番大きな幕舎の前に辿り着く。
案内の兵士はどうぞと入り口を示した。
俺はお邪魔しますと幕を開いて中に入った。
幕舎内の両脇に椅子が多数、並べられている。
正面奥に指揮官の机があり、そのそばに青年が一人で立っていた。
亡きトラネウス国王アイネオスの息子にして若き将軍アスカニオである。
着ているのは軽装に近い軍服だが、腰帯には短剣を差している。
「ご無沙汰しております、シロガネ殿。どうぞお掛けになってください」
アスカニオは幕際の椅子を一つ持ち上げ、机の前に置いた。
素直に俺が席に着くと、彼は机を挟んだ対面の椅子に腰を下ろした。
アスカニオの表情はどこか覇気が欠けているように見えた。
何か不安を隠しきれていないというべきだろうか。
「お変わりがないようで良かったです。獣人族の間で内戦が起こって、巻き込まれていないかと思っていたので」
「何度か攻撃を受けましたので巻き込まれてはいます」
アスカニオは軽く苦笑してみせた。
「ですので外に出ることを控え、獣人族と接触しないよう努めました。そのおかげか最近は大がかりな襲撃はないですね。居座られて邪魔だが害はそれほどないと認識されたのではないでしょうか」
なるほどと俺は頷いた。
孤立した砦を維持できている手並みはさすがである。
「…………」
お互いに次の言葉を続けられず無言になる。
おそらくアスカニオは予感が当たることを恐れて、俺は事実を告げることの心の重たさからの沈黙だった。
だがここは俺から切り出すべきなのだろう。
俺はひとつ深呼吸をして、アスカニオの顔を正面から見た。
「本題に入っていいですか?」
「……どうぞ」
「投降してください。俺は降伏勧告をしに来ました」
アスカニオは頬を強張らせ、息を呑んだ。
唇を引き結び、瞳を揺らす。
「父は……敗れた……ということですね」
「アイネオスさんの亡骸はライムンドさんにお渡ししました。今頃は懇ろに弔われていると思います」
「……父を討ち取ったのは、貴殿ですか?」
目を合わせられて、俺は心臓が震えるのを感じた。
だが目はそらさない。
「はい。俺です」
アスカニオは深く長い息を吐いて、うなだれた。
俺は事務的に言葉を続ける。
「俺の任務はアスカニオさん、貴方の身柄の確保です。従ってくれるなら兵士の皆さんの安全は保障します」
アスカニオは答えない。
今、彼の頭の中では様々な想いが錯綜していることだろう。
急かすべきではない。
俺はただ静かに待った。
二人しかいない幕舎の中で空気が重たく淀む。
もう肌寒い時期だというのに、俺は額に汗がにじんだ。
「……トラネウス王国は今どういう状況なのでしょうか?」
下を向いたまま、アスカニオは呟くように聞いてきた。
「シルビスさんが次の国王になると、ライムンドさんから聞きました。来月、結婚式をされるとのことです」
「そうですか……」
アスカニオは少しの沈黙の後、何かに納得したように数度頷いた。
そうして顔を上げたアスカニオはさっぱりとした表情をしていた。
すっと両方の手を前に出してくる。
「投降します。縄をかけるならどうぞ」
「そんなことしませんよ」
見せしめにする必要などないのだ。
そんな命令は受けていないし、俺は彼に対して悪い感情を持っていない。
素直に従ってくれるならむしろ歓迎したいくらいだ。
「速やかに砦から撤退し、全軍でサビオラ砦に向かってください。準備にはどのくらいかかりますか?」
「砦の物資も残り少ない。準備はすぐに済みます。明日、朝食を取って出発でよろしいでしょうか?」
「よろしくお願いします」
穏やかに事が済みそうで俺は安堵した。
アスカニオも微笑を浮かべてくれている。
「シロガネ殿も長旅でお疲れでしょう。天幕を用意いたします。今日はお連れの方とそちらでお休みになってください」
「ありがとうございます。あぁでも……」
俺が躊躇したのは、俺がアスカニオにとって肉親の仇だからだ。
彼の配下のトラネウス兵からしてもそうだろう。
同じ場所で和気藹々とはいかない。
「えーと、実はもう仲間に野営の準備をしてもらっているんです。ですから、ご厚意だけいただいておきます」
俺は笑顔ではぐらかして、ぺこりと頭を下げた。
そうして腰を上げると、アスカニオもすぐに席を立った。
「それではまた、明日の朝に」
「はい」
俺はアスカニオに背を向けて、幕舎の入り口へと足を踏み出した。
一歩、二歩、その三歩目――
ひりついた殺気が稲妻のように空気を伝わり、背筋に寒気が走った。
咄嗟に俺は前に大きく飛び出しながら、体を捻って振り返る。
短剣を腰だめに構えたアスカニオが突進してきていた。
間に合うか。
俺は心の中でアウレオラの合言葉を唱える。
首から下げたペンダントの透明結晶が服の下から閃光を放った。
瞬時に白色に塗りつぶされた世界で金属の擦れる音がする。
「うっ……!」
銀色の全身鎧に包まれた俺に、アスカニオは目を見開いた。
腹部装甲のひっかき傷は紙一重の証だ。
俺は素早くアスカニオの手首に手刀を打ち込み、短剣を落とさせた。
短剣を蹴飛ばすと同時に、彼の手首をどちらも掴む。
救聖装光をまとった俺の力は獣人戦士の剛腕に匹敵する。
アスカニオは振りほどこうとするが、どうにもならない。
「俺のこと、やっぱり憎いですか」
俺は胸を刺すような感情を堪えて、たずねる。
しかしアスカニオの瞳は澄んでいた。
「時間が経てばそう思うのかもしれません。私はただ、弟のためにしてやれることをしようとしただけです」
その堂々とした態度には、自棄や癇癪ではない確かな意志が感じられた。
俺は口を閉ざし、どうしたものかと考えを巡らせる。
この人は冷静な思考で俺を刺そうとした。
だとすればきっともう己の命を捨てる覚悟もしている。
自分はここで死ぬ方が弟シルビスのためになると判断したのだろう。
だが俺は彼を連れて帰らないといけない。
アスカニオは暴力で態度を変える相手ではないだろう。
だとしたら心苦しい手段になるが、やるしかない。
エルトゥラン王国の行く末はいまだ不明瞭なのだ。
俺は覚悟を決めて口を開く。
「死んで楽になるつもりですか」
「……? ……今なんと?」
アスカニオは困惑の表情で聞き返してきた。
その反応は聞き取れなかったというよりも、来るはずのない言葉を投げかけられて、頭が理解を拒んだもののように思えた。
「自分だけ死んで楽になるつもりですか、と言いました」
これにはアスカニオも奥歯を噛みしめ、面を歪ませた。
その顔が怒りに染まっていくのがわかる。
だがこちらも怯むわけにはいかない。
「貴方が死んだら、残された人たちがどう思うかよく考えてください。尊敬するお兄さんを失って、シルビスさんは平気でいられる人ですか。貴方を慕っているトラネウス国民もエルトゥランを恨むでしょう。それでは憎しみと憎しみで泥沼の戦争が続くだけだ。貴方はそうなることを望んで死のうとしているんですか!」
「そ、それは……!」
ここで言葉に詰まって拳を握るのがアスカニオの清廉なところだろう。
感情のまま全てを俺やティアナートのせいにしてもいいのだ。
そうしないのは彼が事の経緯を俯瞰的に理解できているからだろう。
父の所業に負い目があるからこそ、アスカニオは答えに窮したのだ。
「ティアナートさんはこれ以上、トラネウス王国と戦争する気はありません。貴方が今死んだら、まとまるものもまとまらなくなる。これからの平和には貴方の存在が必要なんです、アスカニオさん!」
「シロガネ殿……」
アスカニオが俺の顔をじっと見てくる。
今一度、真意を見極めようというのだろうか。
俺はアスカニオの腕を離し、身を守る救聖装光を解除した。
彼の目を正面からしっかりと見つめ返す。
俺が願うのは平穏であること、ただそれだけだ。
血生臭いことはもう十分だろう。
親愛なる人たちとの変わらない日常。
それがどれだけ素晴らしいことかは俺も骨身に染みている。
俺の気持ちはどのくらい伝わったのだろうか。
アスカニオは眉尻を下げ、深々と頭を下げた。
「貴殿の命令に謹んで従います」
「……信じますよ、アスカニオさん」
頭を下げたままの彼の前で、俺は背を向けた。
ゆっくりと幕舎の出入り口へと歩く。
幕を開いて外に出るまで、アスカニオが姿勢を崩すことはなかった。