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番外編03話『無力な王と黒い髪の旅人』

 アイネオス=ウォルトゥーナは生まれながらの王ではなかった。

 彼には五つ上の兄ギリウスがいた。

 ギリウスは愛馬と風を切って駆けることを趣味とする男だった。

 気の向くまま走った先で景観を絵にして帰ってくる。

 誰よりも祖国を愛する、若くして志高い第一王子だった。


 アイネオスはそんな兄が好きで、誰よりも尊敬していた。

 国民の誰もがそう言うように、兄こそが将来の王だと思っていた。

 若き日のアイネオスには野心がなかった。

 兄の治世を補佐することこそ自分の天命だと考えていたくらいである。


 アイネオスが十歳の頃、ギリウスは一つのおとぎ話を弟に聞かせた。

 トラネウス王国では廃れて久しい救世主伝説である。


「異空より来たりし者。光の鎧を身にまとい、千の兵にも勝りけり。その者、不死鳥の如くあり、立ちふさがる者全て灰燼に帰す。百の勝利を天に積み、万魔の豊地を平定す」


 少年アイネオスはそのおとぎ話にときめきを覚えた。

 トラネウス王国は外敵の少ない平和な国であり、戦など非日常。

 せいぜい船が魚人族に攫われたとか、辺境で野盗が出たとかである。

 力によって世界を塗り替えるなど考えたこともなかった。


「すごいです! 僕も救世主様と一緒に戦いたいです!」

「自分でなろうとは思わないのか、救世主に?」


 兄の問いかけに、アイネオスは笑顔で答えた。


「救世主になるのはお兄様です。僕はお兄様をそばで支えるんですから」


 その時、憧れの兄はなぜ悲しそうに笑ったのか。

 アイネオスがその意味を知るのは十年後のことである。


 兄ギリウスは二十五歳で父から王位を譲られ、トラネウス国王となった。

 成人したアイネオスも当然、兄の補佐をする気でいた。

 だが政治の世界に入ったアイネオスが見たのは腐敗した宮廷政治であった。


 トラネウス王国は元々、古の大国エルトゥランから枝分かれした国である。

 第一次後継者戦争に敗れた者の国なのだ。

 それが何を意味するかと言うと、正当性の問題である。

 古エルトゥランにおける王権の正当性とは救世主の末裔であることだ。

 敗者に正当性を名乗る権利などない。


 半島の南に落ち延びた敗者は考えた。

 もはや正当性など必要ない。

 権威がないのなら、自分は己の力で国を興してやると。


 敗者は面子をかなぐり捨てて、這いずり回って人を集めた。

 出自を一切問わず、極端なまでの能力主義で組織を再結成した。

 その結果、第二次後継者戦争に勝利する。

 半島の南半分を勝ち取り、トラネウス王国を建国したのである。


 権威ではなく、実力による政治。

 この方針は大いに国を発展させたが、尊い志も時と共に薄れていく。

 恒常的な外敵がいなくなった人間が始めたのは内部抗争だった。

 二十歳のアイネオスが見たのは醜い権力闘争の世界だったのだ。


 当時のトラネウス王国は政治の決定権が王の手になかった。

 政策は各大臣の談合によって決定され、王はその追認を行うだけである。

 父が若くして禅譲したのもそういった背景があった。

 必要なのは権威としての王であり、王その人は誰でもよかったからだ。


 各大臣は門閥を作り、要職を一族で独占している。

 宮廷では根回し、口利きのための賄賂が平然と行われていた。

 為政者が国益よりも私欲を優先するため、民の声が政治に反映されていない。

 そんな現状に兄ギリウスは強い危機意識を抱いていた。

 密かに志ある者を集め、実権を取り戻すべく機をうかがっていた。


 戴冠から五年。王ギリウスはついに決行する。

 王によって起こされたこの前代未聞の反乱は……失敗した。

 計画が事前に相手側に漏れていたためである。

 だが何より残酷なのは密告者が誰であったかだ。

 密告者の名はマイア=ララン。ギリウスの妻である。


 ララン家はトラネウス王国でも指折りの有力貴族だ。

 なれそめこそ政略結婚ではあったが、ギリウスは妻を愛していた。

 しかし妻は夫ではなく家を選んだ。


 その後ギリウスは幽閉され、三か月後に病死したとされる。

 兄がどのような最期を迎えたのかアイネオスは知らない。

 彼もまた拘束され、別の場所で軟禁されていたからだ。


 ギリウスの死後、アイネオスは新たなるトラネウス国王となった。

 くしくも兄と同じ二十五歳の戴冠である。

 しかし尊敬する兄とは違い、アイネオスの目は死んでいた。

 あの優秀な兄ですら現状を変えられなかったのだ。

 自分ごときにできることなどない。

 政治には一切関与せず、怨敵の用意した館で日々を過ごすことになる。


 若き王の無気力に拍車をかけたのが離婚である。

 当時アイネオスは結婚しており、五歳になる息子アスカニオがいた。

 問題になったのは妻の生家だ。

 乱心王ギリウスの起こした騒乱に協力した一族は国家の敵である。

 新王の妻がそのような血筋の者では示しがつかない。

 そんな一方的な理由で大臣たちから離縁を強要されたのだ。


 アイネオスは従うしかなかった。

 断れば妻を亡き者にされるのが見えていたからだ。


「生きてさえいれば運命が変わる日も来るかもしれません。その時は三人でまた、花を見て歌を歌いましょう」


 去り際に言葉を残し、妻は都を離れていった。

 アイネオスは乾いた笑いを浮かべるので精一杯だった。


 入れ替わるように用意された後妻が館にやってくる。

 後妻の名はメロペー=ララン。

 兄を売った女の妹である。

 その第一印象は作り笑顔が上手な、見た目は美しい女だった。


 初夜。寝室にやってきたメロペーをアイネオスは拒絶した。

 別の部屋で休むよう告げると、メロペーは鼻で笑って夫を見下ろした。


「貴方の息子は、不義の子なのですか?」


 お飾りの王に課せられた唯一の使命は跡取りを作ること。

 それができないと言うならお前は不能者だ。

 遠回しにそう言われたのである。


 アイネオスは生まれて初めて心の底から煮えたぎるような殺意を抱いた。 

 自分を侮辱するのはかまわない。

 しかし目の前の女はあろうことか別れた妻と息子を侮辱したのだ。

 気付いた時にはメロペーの首を絞めていた。

 苦しみ歪む女の顔に、アイネオスは正気に戻った。

 手を離した途端、突き飛ばされる。

 床に仰向けに倒れたアイネオスに跨り、メロペーは艶美かつ醜悪に笑った。


「怒るくらいの甲斐性があって安心しました。それでは子作りをいたしましょうか。お、う、さ、ま」


 それから一年後。後妻メロペーはシルビスを産んだ。

 シルビスにはウォルトゥーナではなくラランの家名が与えられた。

 ララン家はこの子を次の王にするのだろう。

 アイネオスにとっては王位など最早どうでもいいことだった。


 メロペーはシルビスを大層かわいがった。

 端正な顔立ちも艶のある綺麗な髪も母親に似たのだろう。

 愛なく生まれた子であっても、子に罪はない。

 アイネオスは努めて対等に息子たちに接した。

 シルビスは素直な子で、腹違いの兄アスカニオにもよくなついた。

 年の離れた息子たちにアイネオスは亡き兄との面影を見ていた。


 子供の頃が一番楽しかった。

 兄ギリウスの背中を追いかけているだけで日々が充実していた。

 息子たちも兄弟仲良く、大きくなってほしいと願っていた。


 しかしアイネオスの思いはいつも踏みにじられる。

 アスカニオは十歳にして馬を乗りこなし、槍を使えば大人顔負けの腕前。兵法に対する理解も早く、将来有望な王子として評判になっていた。

 後妻メロペーとその生家ララン家はこれに不安を抱いた。

 シルビスはあまり体が強くなかった。

 幼くして始めた勉学にもあまり手ごたえを感じていない。

 どちらが次の王に相応しいかと問えば、誰もが口を揃えるだろう。


 メロペーは前妻の子に冷たく当たるようになった。

 使用人にもシルビスとアスカニオを遠ざけるよう仕向けていた。

 それだけならまだいい。

 アスカニオの身辺で不審な出来事が起こるようになったのだ。

 お気に入りの馬が急に体調を崩して息を引き取ったり、練習用の槍の刃が真剣と入れ替わっていたりと、日常がきな臭くなってきていた。


 アイネオスは息子のために一計を案じる。

 民心の慰撫を目的とした王による国内の視察というていで地方巡行を行い、それにアスカニオを同行させることにしたのだ。

 権力闘争は所詮、都と宮廷での狭い範囲の小競り合いである。

 先王ギリウスのように政治にやる気を出されるよりは、民草の相手でもしてもらっていた方が捗ると、大臣たちはこれを了承した。


 アイネオス三十歳。兄が人生を終えたのと同じ年で都を離れる。

 お供は息子アスカニオと側用人が二人だけであった。


 馬に乗って町から町へ。

 辺境の農村や片田舎の山村まで、一つ一つ丁寧に訪問をする。

 都を離れるためだけの巡行は意外な充実感をアイネオスに与えていた。

 中央ではお飾りの王も、地方に生きる民からすれば雲上人である。

 金銭的にはみすぼらしくあっても、熱意ある歓迎に若き王は胸を打たれた。


 アイネオスは行く先々で目にした地方の実情や風土を書き記し、日常への不満や国に望むことなど民の言葉にも熱心に耳を傾けた。

 己は一国の王なのだと、はじめて実感を覚えた。


 地方巡行を始めて一年が過ぎ、アイネオスはついに運命と出会う。

 訪れた先はわずか八戸の世帯が暮らすだけの山奥の小さな村だった。


 この頃、アイネオスは旅先の絵を描くことを日課としていた。

 村の者にいい場所はないかと聞くと、谷に降りると滝があると言う。

 紙と炭と軽食を皮袋に詰め込んで、アイネオスは風光明媚を目指した。


 とても道とは呼べない山道を進み、滝を見つけるとそこには先客がいた。

 フード付き外套をまとった何者かが切り株に腰かけている。

 腕に抱えた木の板を下敷きに、紙に滝を描いているようだった。


「奇遇ですな。貴方も絵を?」


 アイネオスが声をかけると、先客は手を止めた。

 被っていたフードを上げて振り返ったのは黒い髪の青年だった。

 年の頃は二十歳かそこら。

 アイネオスよりも一回り背が高いので、身長は百八十五センチほどか。

 吸い込まれるような黒い瞳を持つ、端正な顔立ちの青年だった


 アイネオスが皮袋から紙と炭を取り出すと、青年はにこりと笑った。

 それから自分の絵描きセットを地面に置くと、右の手で外套の前をめくる。

 晒されたのは腰横に帯びた漆黒の長剣だ。

 アイネオスがぎょっとした時には、青年は剣を一閃していた。

 何をしたのかと思う間もなく、目の前の木が傾き始める。

 斬られた木が音を立てて倒れて、ちょうどいい切り株が残った。


「どうぞ」


 青年はいつの間にか剣を鞘に納めていた。

 切り株に再び腰を下ろし、絵を再開する。

 アイネオスは出来立ての切り株の表面をなでて、その断面に驚いた。

 少しのささくれもない見事な断面である。


「君はいったい何者なのだ?」


 問いかけると、青年は滝に顔を向けたまま言葉を返してきた。


「己はいったい何者なのか。その答えを探すために旅をしています」


 風変わりな男である。

 ともあれアイネオスは切り株に尻を置いた。


「名乗るのが遅れて失礼した。私の名はアイネオス=ウォルトゥーナ。トラネウス王国の王をやらせてもらっている」


 男は手を止めると、体の正面を向けてきた。

 だがアイネオスが期待したほどには驚いていないようだった。


「私はライムンド=マザラン。ルコテキアから来た、ただの旅人です」

「ルコテキア?」


 この一年の巡行でアイネオスは自国の地名には詳しくなったつもりだった。

 そんな自分が聞き覚えのない地名となると、きっと他国だろう。

 隣国エルトゥランにもそのような町はなかったはずである。


「初めて聞く地名だ。エリッサ神国だろうか?」


 消去法での選択だが、ライムンド青年は首を横に振った。


「ここからはずいぶん遠いところです。チコモストの西にある、鳥人族の住む山を越えた先にある場所です」

「チコモストの!?」


 エルトゥラン王国の北には獣人族の住む国チコモストがある。

 その向こうがどうなっているかを知る人間などいなかった。


「そんなところにも人間の国があったのか!? もっと聞かせてくれ!」


 興奮するアイネオスに、ライムンドは微笑みながら語った。

 チコモストは西から北東までを険しいヌウア山脈に囲まれている。

 その冠雪を越えた先にはまた別の生存圏があると言うのだ。

 そこでは人間族、竜人族、蟻人族などが暮らしているそうだ。


「実に興味深い。君はいつまでここに滞在する予定だ? 君の知識をもっともっと私に分けてくれ。頼む!」


 アイネオスが頭を下げると、ライムンドはしばし押し黙った。

 流れる滝の青白い音が深緑の枝葉を揺らす。

 ライムンドは密かに薄笑いを浮かべて、こう返事をした。


「絵を描き終わるまで……でよろしければ」



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 アイネオスは毎日、滝に通い、ライムンドの話に耳を傾けた。

 かつて樹魔族がいたリブリナの大森林。

 ヌウア山脈のどこかにあるという、地人族の暮らす洞窟温泉。

 人を攫うと噂される魚人族が生息するヌラージ島の真実。

 青年の語る冒険譚はどれも未知に溢れていて心が躍った。


 アイネオスが村に滞在して二週間が経とうという頃である。

 いつものように滝に向かうも、そこにライムンドの姿がない。

 アイネオスはいつもの切り株に座り、絵を描き、夕暮れと共に宿に戻った。


 次の日もまた次の日もライムンドは来なかった。

 そうして一週間が過ぎる。

 村の者にたずねても、誰もライムンドの姿を見ていないと言う。


 いつもの場所で落ちて弾ける滝を眺めながら、アイネオスは肩を落とした。

 行ってしまったのか。

 せめて別れの挨拶くらいしていけばいいだろうに。

 アイネオスは空が赤くなるまで切り株に座って待っていたが、待ち人が来ることはなかった。

 アイネオスは宿に戻り、側用人に荷支度を命じた。


 翌日。村人に感謝を告げて別れ、アイネオス一行は山を下りる。

 その道半ば、走って山道を上ってくるフード付き外套の男を見つける。

 アイネオスは慌てて馬を止め、必死に声をかけた。

 外套の男はまっすぐにアイネオスの下へとやって来た。


「ライムンド! どこへ行っていたのだ!? 旅立ったのかと思って帰るところだったぞ!」


 アイネオスが馬を降りて詰め寄ると、ライムンドはいつものように微笑んだ。

 山を駆け上がってきたというのに全く息が上がっていない。


「心配していただいてありがとうございます。ですがこれは貴方のせいでもあるんですよ、アイネオスさん」

「どういうことだ?」


 アイネオスが眉根を寄せると、ライムンドは膨らんだ皮袋を前に出した。

 何だと思いつつ受け取ると妙に重たい。


「どうぞ。開けてください」


 言われるまま袋の口を開いて、アイネオスは震え上がって皮袋を手放した。

 地面に落ちた皮袋から転がり出たのはあろうことか人間の生首であった。


「な、なんなのだ、いったいこれは?」

「王様の貴方と仲良くしているのが気に入らなかったんでしょうねえ。程度の低い暗殺者だったので、締め上げて元締めにお礼参りをしてきました」


 ライムンドはぬけぬけと言う。

 アイネオスは深呼吸して心臓を落ち着かせ、皮袋の中身を検分した。

 首は五つ。その内の一つには見覚えがあった。

 大臣どもの腰巾着の一人で、裏仕事を任されていた男である。


「これを……一人でやったのか?」

「結果的には殺人罪になってしまうのでしょうか。正当防衛ということで勘弁してもらえませんか」


 ライムンドは微笑みを崩さない。

 およそ許しを請う態度ではないが、それが逆にアイネオスをときめかせた。

 なんと自由なのだろう。

 自分の意思を通せず、がんじがらめの人生を送ってきたアイネオスにとって、目の前の男はあまりに自由過ぎた。輝かしく見えた。


 自分は今、運命の分岐点にいる。

 稲妻のような天啓が自身を貫くのをアイネオスは感じた。

 この男は絶対に手放してはならない。

 衝動に動かされたアイネオスはライムンドに抱きついていた。


「ど、どうなさったのです?」


 さすがのライムンドも戸惑った声を出す。

 アイネオスは妻にすらしたことのない強さで黒い髪の青年を抱きしめた。


「私と共に来てくれ」

「はい?」

「君の力を私に貸してくれ! 頼む! 君の助けがあれば私は己の人生を、この国の未来を変えられる!」


 熱くなるアイネオスとは対照的に、ライムンドはため息をついた。


「どこの馬の骨かもわからない根無し草に何を夢見ているんですか? 私はよそからきた旅人です。貴方を助ける義務も義理もない」

「そんなことは百も承知で頼んでいる!」

「だったら諦めてください」

「嫌だ!」


 アイネオスは必死だった。

 なりふりかまっている余裕などない。

 この一筋の流れ星を逃したら、運命は二度と自分に微笑まない。

 アイネオスは希望にしがみついていた。


「王様ともあろう人がこんな年下の馬の骨に縋り付いて。まるで遊女に振られた勘違い男そのものだ。こんな醜態を晒して恥ずかしくないんですか?」

「いまさら知ったことか! お飾りの王に恥などあるものか!」

「はぁ……」


 ライムンドは面倒くさそうにため息をついた。


「強情な人だ。仮に私が力を貸したとして、貴方は何がしたいんです?」

「救世主だ!」


 その言葉を聞いた瞬間、ライムンドは息を止めた。


「救世主とは世界を塗り替える力! 兄が成し遂げられなかった夢を私が実現する! 王として腐敗を駆逐し、我が祖国トラネウスの過ちを正してみせる!」


 子供の頃、兄ギリウスから聞かされた救世主伝説。

 あの時は兄が救世主で、自分は脇でいいと思っていた。

 だが今は違う。

 亡き兄に代わって、自分が救世主となる。

 民が日々を幸せに過ごせる国を、民に愛されるトラネウスをつくるのだ。

 それがアイネオスがこの地方巡行で胸に抱いた想いだった。


「救世主ねえ……」


 ライムンドは声を出して笑った。

 くっくっく、あっはっは、と。

 ばかにしたいならすればいい。

 腕の力を強めたアイネオスに、ライムンドは意外な返事をした。


「面白い……! お前の口からそんな言葉が聞けるなんてな!」


 笑い声が山に響く。

 アイネオスが腕を離すと、ライムンドは歪んだ笑みを浮かべていた。

 喜怒哀楽がないまぜになったような奇妙な笑顔だった。


「この出会いは運命かもしれないな、アイネオス=ウォルトゥーナ! いいだろう! 俺の力を貸してやる、好きに使え! お前が本物の救世主になれるかどうか、俺がこの目で見届けてやる!」


 この出会いは希望か、はたまた悪魔との契約か。

 どちらにしろアイネオスにとって運命の分岐点だった。

 この日、ライムンド=マザランはアイネオスの片腕となった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 一年と二か月ぶりに、アイネオスはトラネウス王国の都に戻った。

 手土産を馬に乗せ、後妻と息子の暮らす館に帰る。


 館に着くと、シルビスが庭で長棒を握り、木の人形と向かい合っていた。

 どうやら槍の練習をしているようだ。

 小さな体が得物に振り回されていて、まるでなっていない。

 その姿にアイネオスは微笑ましい気持ちになった。


「シルビス! 帰ったぞ!」


 アイネオスが声をかけると、息子はぱっと振り返った。

 その場に棒を置いて、嬉しそうな顔で駆け寄ってくる。


「父上! 兄上も! おかえりなさい!」


 抱きついてきた息子の頭をアイネオスはなでてやる。


「少し見ない間に大きくなったな。父は嬉しいぞ」

「えへへ」


 騒ぎに気付いたのか、玄関から後妻メロペーが姿を見せる。

 アイネオスは膝を曲げて、シルビスと目線を合わせた。


「私はメロペーと話がある。アスカニオと館の中で遊んでいなさい」

「はい!」


 シルビスは兄の手を掴むと、引っ張って館に戻っていった。

 すれ違いにメロペーがやってくる。


「おかえりなさいませ。ずいぶんと急なお帰りですね」

「お前に会いたくてな」


 知らない者が聞けば歯の浮くような返事に、メロペーは眉をひそめた。

 アイネオスはライムンドに目で合図をする。

 ライムンドは馬に積んでいた木箱を下ろし、メロペーの前に置いた。

 メロペーは初対面の青年をじろじろと見た後、木箱を見下ろした。


「これは?」

「お前のために用意した土産だ。開けてみろ、驚くぞ」


 らしからぬ夫の態度を訝しがりながらも、メロペーは木箱に手を伸ばした。

 蓋を外すや、驚きのあまり蓋をはねのけて尻もちをつく。


 木箱の中身は人間の首の塩漬けだった。

 メロペーの父にしてララン家の当主の首、母の首、姉マイアの首もあった。

 メロペーは顔を青くし、声も出せずに口をぱくぱくと動かす。

 アイネオスは地面に膝をつき、後妻に顔を寄せた。

 真顔のまま問いかける。


「何か言葉はないのか? お前のために用意したのだぞ?」

「こっ、こっ、こんなことをして、どうなるのか……」


 メロペーは息が乱れていた。

 目が泳ぎ、体が震えている。 

 そんな後妻の肩にアイネオスは優しく手を置いた。


「私が乱心したとでも思っているのか? 私は正常だよ。私はこれから王として国内の腐敗を駆逐する。これはその第一歩だ」

「そ、そんなこと……できるわけが……」

「できなければ死ぬだけよ」


 アイネオスは立ち上がり、足元の後妻を見下ろした。


「ララン家だけでは済まさん。甘い汁を吸ってきた寄生虫は全て駆逐する。お前も身の振り方をよく考えることだ。もう後ろ盾はない。ラランの女ではなく、シルビスの母として慎ましく生きるのだな」


 アイネオス=ウォルトゥーナ、三十一歳。

 この年、彼は真の意味でトラネウス国王となった。

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