表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/91

58話『落日に屍を積み上げて(3)』

 こちらの異変を察知したのか、トラネウス軍が次の手を打ってきた。

 数を頼りに歩兵隊をさらに横に広げ、側面を取りに来る。

 鶴が両翼を広げるように、エルトゥラン軍を包囲しようと動いた。


 エルトゥラン歩兵の反応は明らかに鈍い。

 総大将のンディオが倒れたため、全体を見て指揮を執る者がいないのだ。

 各部隊長が独自に判断するしかない状況だった。


 戦場の北側では、ダンキーの騎兵隊がトラネウス騎兵を追いかけている。

 散らばったトラネウス騎兵は合流し、また一塊の隊になっていた。

 ダンキー隊の活躍で、敵騎兵の数は同数ほどまで減っている。

 それでもまだ無視できる戦力ではない。

 ダンキーが歩兵隊の状況に気付いているかはわからないが、気付いていても敵の騎兵隊を放置するわけにもいかず、味方を助けに行けない状況だった。

 行けば一転攻勢、尻を追い回されるはめになる。


 俺は右翼に回り、戦場の西側を南へと突き進む。

 遠く視界の先から、トラネウス兵がぞろぞろと前に出てきた。

 その数は何人だ。百かそれ以上か。

 いちいち相手をしていられない。

 俺は大きく迂回するように進路を膨らませた。


 敵の部隊もわざわざ俺一人を相手にはせず、作戦を優先するようだ。

 トラネウス兵に対応して、エルトゥラン歩兵の右翼が動いた。

 囲まれないよう隊を斜めに下げて、歩兵の層を薄く引き伸ばす。

 だがそれも苦し紛れだ。どこまで持つかわからない。


 俺は野原を駆け抜けて、敵勢の背後に回ろうとした。

 だがその行動は当然、相手にも見えている。

 馬に乗ったアイネオスを守るように、歩兵隊が分厚い壁を作っていた。


「マーロー隊、射撃用意!」


 アイネオスの号令で、盾か槍を持った歩兵隊が地面に片膝をつく。

 その後ろには弦を引き絞った弓兵が並んでいた。


「弓、放て!」


 アイネオスは不敵な笑みを浮かべて命令を下した。

 一斉に弓の弦が鳴り、何十本もの矢が襲いかかってくる。

 俺は慌てて地面に飛び込むようにして、かろうじてそれを避けた。

 だが敵の弓兵はすぐさま矢筒に手を伸ばす。

 やむなく俺は敵に背を向けて距離を取った。

 飛来する第二射を避けるべく、俺は野原の上を転がった。

 あわや、すぐそばに矢の針山ができる。


「見よっ! 救世主殿が踊っておられるぞ!」


 アイネオスは馬上からこちらを指さし、嘲笑うようにのたまった。


「兎か蛙か! 見事な舞である! 笑って差し上げろ!」

「あっはっはっはっは!」


 アイネオスに煽られて、前列のトラネウス兵たちが大笑いした。

 大げさに手を叩き鳴らし、大勢でげらげらと囃し立ててくる。


「……?」


 あからさまな嘲笑を前にして、俺は逆にきょとんとしていた。

 そうする意味がすぐには分からなかったのだ。


 人は相手を傷付けたい時、自分の嫌がることをするという。

 こういう侮辱はプライドの高い人にはよく効くのだろう。

 あいにくだが俺は傷付くような誇りなんか初めから持っちゃいない。

 バカにされて、かえって頭を冷却できた。


 草の上に手をついて、俺は立ち上がった。

 金属槍の柄を右の肩に乗せ、冷静に敵を観察する。


 馬上のアイネオスはほとんど全身鎧のような重装備だ。

 狙えそうなのは、くくりつけた装甲の隙間である肘の内側と腋の下。あとは兜の隙間から覗く目と鼻と口の部分くらいしかない。

 襟を立てたような作りの鎧は首元をしっかりと守っている。

 遠くから仕留めるのは難しそうだ。


 アイネオスを守るのは盾歩兵が十人に、槍歩兵が六十人ほど。

 その後ろの弓兵がざっと三十人か。

 おそらく先程の挑発は俺を罠にかける誘いだったのだろう。

 かっかして猪になったところを矢で蜂の巣にするつもりと見た。


 だったら。

 俺は手を腰を回し、装甲を部分解除した。

 腹帯のクナイを左手で抜き、すぐに装甲を戻す。

 そして鞭のように手首を利かせてクナイを鋭く投射した。


「ごぼっ!?」


 超高速のクナイが笑い顔のトラネウス弓兵の喉を突き破る。

 ぐらついたその弓兵に、隣の仲間が顔を向けたところにもう一投。

 弓兵が立て続けに地面に崩れ落ちる。

 周囲がその状況を認識するよりも早く、俺は仕掛けた。

 一人、二人、三人、四人。

 クナイが風を泣かせて、的確に弓兵の喉元に食らいつく。

 次々と倒れていく仲間に、トラネウス兵は顔色を変えてざわついた。


「トラネウスの兵士の皆さん!」


 俺は左手に掴んだクナイを顔の横に掲げて、対面の兵士たちに声をかける。

 それは警告であり脅しでもあった。


「俺の敵はアイネオスだけです! 道を空けてくれるなら、貴方たちの命までは奪いません!」


 兵士たちの動揺を見て取るや、アイネオスは馬上から喝を飛ばす。


「敵の戯言に耳を貸すな! 射殺せ!」


 俺は素早く左の腕を振り下ろした。

 王の号令で矢筒に手を伸ばした弓兵の首元にクナイが突き刺さる。

 血を吹き倒れる同僚の姿に、引きつった悲鳴が上がった。

 俺が狙い撃ちしていることはもう伝わっているはずだ。

 震え上がる弓兵らに、アイネオスは苛立ち眉を歪ませた。


「ええい! マーロー隊、前に出ろ! 奴を黙らせろ!」


 盾兵と弓兵を残して、槍を握った歩兵たちがわっと向かってくる。

 俺はほんの少しだけ、ほっとしていた。

 歩兵が来てくれるなら、弓兵も誤射を恐れて撃てなくなるだろう。

 クナイはもう三本しか残っていない。

 遠距離から矢の的にされるのが一番苦しかった。


 とはいえまだ何も解決していない。

 歩兵に囲まれたら終わりなのは同じだ。

 だから大切なのは初手だ。

 真っ先に敵の戦意を挫いて、足がすくむほどの恐怖を与えるんだ。

 ウィツィがそうしたように――

 俺は両手で槍を上段に構え、トラネウス歩兵に向かって地面を蹴った。


「なぁぁぁっ!!」


 俺は負傷覚悟で思い切り踏み込む。

 敵の槍が鎧の腹に突き刺さるのもかまわず、金属槍を全力で振り下ろした。

 槍の刃がトラネウス兵の兜をかち割り、股の下まで両断する。

 真っ二つになった敵兵の断面から血煙があがり、内臓がこぼれた。


「ひぃ!?」


 返り血を浴びた全身鎧の俺がどんな風に見えたのかは、相対するトラネウス兵たちの青ざめた顔を見れば明らかだった。

 腰が引けており、こちらを拒絶するように槍を前に出してくる。

 その隙を逃すわけにはいかない。

 俺は心を鬼にして飛び込み、金属槍で敵歩兵を薙ぎ払う。

 袖無し板金鎧ごと胴体を裂き、槍を握った腕を斬り飛ばした。


 悲鳴と怒声の不協和音の中、俺は鎧を真っ赤に染めて猛る。

 金属槍を振るうたびに血が飛び散り、トラネウス歩兵が悲痛に叫んだ。

 槍を握る手に伝わる重たさは生命を破壊する嫌な手応えだ。

 浅く刺された腹の痛みよりもとげとげしく心に刺さる。


「アイネオスゥゥー!」


 俺は馬に乗った敵の親玉をにらみつけ、不快な気持ちを怒りに挿げ替えた。

 立ち塞がるトラネウス歩兵たちは蹴散らして押し通る。

 ついに歩兵隊の防壁に穴が空き、前が開けた。

 俺はそばにいた敵兵の喉を左腕で抱き込み、抵抗できないよう首を固めた。

 悪いが盾とさせてもらい、盾兵と弓兵とアイネオスに向かっていく。


「撃て! 撃て!」


 アイネオスもさすがに気圧されたか、声が慌てている。

 背後の国王様に急かされるも、トラネウス弓兵はためらいを見せた。

 仲間を盾にされているのだ。

 そのうえ矢が後ろに逸れれば仲間の歩兵隊に当たってしまう。


「かまうな! いいから撃てぇ!」


 王の声に背中を押されて、何人かの弓兵が意を決して矢筒に手を伸ばす。

 だがもうその間に距離は詰まっている。

 俺は人質にした兵士を離してやり、弓兵を守る盾兵に迫った。

 体をひねるようにして金属槍を振りかざす。


「――!」


 その時、俺の聴覚がとらえたのは横手から駆け込んでくる足音だった。

 鋭く走った漆黒の剣閃を、俺は体を半回転させながら金属槍で打ち弾く。

 すれ違った瞬間に白い髪の少年ロタンと視線が交差した。


「いい加減しつこいんだよっ!」

「そう言われても」


 ロタンは屈託のない笑顔を浮かべたまま身を翻した。

 赤く染まり、ところどころが裂けた外套がはためく。


 俺は咄嗟の判断を迫られた。

 前方には盾兵と弓兵とアイネオス、そばにはロタン、後方には槍兵がいる。

 留まれば包囲されて死ぬ。さりとて逃げれば勝利がただ遠のくのみ。

 俺は横並びの盾兵に向かって駆け出した。


 敵の中に紛れ込んでロタンの攻撃を妨げ、アイネオスを取りに行く。

 俺が踏み出すのに一拍遅れて、ロタンも地面を蹴った。

 漆黒の剣、黒星辰剣を下段に構えて突っ込んでくる。

 仲間のトラネウス兵ごと斬りかかってくることも考慮して、俺は右手の槍ですぐに防御できるよう気を置いていた。


 ――それがミスだった。


 ロタンが無防備に両腕を広げて飛びかかってきたのだ。

 受けの意識だった俺は虚を突かれてしまう。

 抱きつかれて、俺は押し倒されずに踏ん張るので精一杯だった。


「今だ! 撃てぇー!」


 アイネオスの切羽詰まった声を引き金に、弓兵が矢を放つ。 

 二十を超える殺意の矢が密着した俺とロタンに襲いかかる。

 反射的に俺は左腕で顔を覆った。


「ぐっあっ……!」


 矢が連続して体に刺さる嫌な音がし、強烈な痛みと熱が弾けた。

 左上腕に一本、左脇腹に二本、太ももに一本。

 銀色の装甲を突き破り、尖った矢じりが肉に食い込んでいる。

 目の前が真っ暗になるほどの痛苦に喉の奥が詰まり、呼吸もままならない。

 うねるような吐き気に立っていられず、俺は崩れるように膝をついた。


 同様に音を立てて、ロタンが草の上に倒れる。

 四本の矢が赤黒く変色した外套に突き刺さっていた。


 味方もろとも容赦なしか。

 俺は震える手で槍を握り、かろうじて倒れずに耐えていた。

 思ったよりも傷が深い。

 滲み出る血と一緒に力まで抜けていく気がした。

 絶え絶えな息をどうにか整えないとと思う間に、敵の槍兵が来る。

 取り囲んで何十本もの槍を突き付けてきた。


「先程の非礼を詫びよう」


 ゆっくりと馬をこちらへ歩かせて、アイネオスは言ってきた。


「大したものだよ君は。君ほど私の計算を狂わせたものはいない。誇りたまえ。君は救世主の名に不足ない勇者だった」


 槍兵の囲いの向こうから、地面の俺を見下ろすその目は何を思うのか。

 焦りの色は消え、勝利を確信した余裕があるように感じられた。


「先に私と出会っていれば財を惜しまず召し抱えたものを。だが残念だ。もはや君を生かしておくわけにはいかない。君はエルトゥランの新たな象徴だ。ティアナート=ニンアンナ以上にな」


 俺は浅い息を繰り返す苦悶の中で、言葉の半分以上が耳から抜けていた。

 それでもその名前に心臓が反応する。

 あぁそうだ。俺はまだ死ねない。

 生きて一緒に、明日に歩いていかなくちゃいけないんだ。


 俺は目を閉じて、呼吸に集中する。

 ウィツィやアカマピと戦った時のあの感覚を思い出すんだ。

 骨の芯から体表を通して、鎧にエネルギーを放出するようにイメージする。

 あの時に比べれば、まだ体に燃料は残っているはずだ。

 それを引き出すんだ。


「どうした? 遺言があるなら聞くくらいの慈悲はあるつもりだが?」


 アイネオスの声がする。

 だが俺は目を閉じたまま答えない。

 一心に集中を研ぎ澄ませていた。


「……潔く散るを選ぶか。その気概もまた見事。ならば君の名を我が栄光の歴史に残すことを約束しよう。マーロー隊! この者にトドメを――」


 その時、アイネオスの声を追い越して太鼓の音が響いた。

 音の発生源は遠い。

 両軍の兵士がぶつかる戦場の向こう側、エルトゥラン軍の後方からだ。

 おそらく反射的にアイネオスやトラネウス兵の気がそれる。


 ――動け!


 機を逃さず、俺はバッタのように飛び上がった。

 さらに槍で地面を突き飛ばして、トラネウス槍兵の頭上を越えていく。

 その時、視界に映った戦場の変化に、俺は兜の中で自然と笑った。


 赤く染まり始めた空の下、エルトゥラン軍の戦太鼓が鳴り響く。

 音の意味は『援軍』来り。

 北方向から猛然と走ってくる三百人のエルトゥラン歩兵が見えた。


 俺は草の上に着地し、しっかりと二本の足で立った。

 トラネウス槍兵とその後ろの盾兵、弓兵、アイネオスを正面に見据える。


「ありがとう、みんな……」


 最高の知らせに疲れも吹っ飛び元気が湧いてくる。

 帰国したドナンたちが駆けつけてくれたのだ。

 チコモストで苦難を共にした仲間の顔が脳裏に浮かぶ。


「みんなが俺の救世主だ……!」


 戦場の中央において、トラネウス軍は数の力でエルトゥラン軍の側面を取ろうと動いていた。鶴が翼を広げるように、その包囲は完成間近だった。

 だがドナンの軍、三百の兵士が参戦すれば話は変わってくる。

 ドナンは部隊を二つに分けるや、逆に鶴の翼を包むように、トラネウス軍の側面攻撃隊の外側から攻めかかった。

 こうなってしまえば屈強なエルトゥラン歩兵たちが、調子に乗った翼から羽をむしり取るだけである。数の優劣はもうないのだ。


「ばかな……」


 その光景にアイネオスは呆然と呟いた。

 彼は軍を指揮する将としても優秀な国王だ。

 この後、戦いがどういう流れになるか想像できたのだろう。


「ぬぅぅ……!」


 アイネオスが唸りながら、こちらに向き直る。

 彼には今、俺の存在が邪魔でしかたなく見えているだろう。

 対応が遅れれば遅れるほど、形勢はエルトゥラン側に傾いていく。

 できるなら手元の護衛部隊をすぐに前線に出し、指揮に専念したいはずだ。

 だが俺の存在がそれを許さない。

 そして俺が立つ場所は戦場にいる全ての兵士の最南端だ。

 逃げることは絶対に許さない。


「今度は貴方の番だ」


 俺は右手に握った金属槍の先端をアイネオスに向けた。

 肺に大きく息を吸い込んで、救世主として勧告する。


「勝敗は決した! 選べ、アイネオス! ひざまずいて配下の命を救うか、己の保身のためにむだな血を流すか!」

「なめるな若造ぉ!!」


 アイネオスは初めて見せる荒々しさで、腰に帯びた剣を鞘から抜き放った。


「貴様らがいくらあがこうと、我がトラネウスの勝利に変わりはない! かかれ! 奴を抹殺せよ!」


 叫ぶと共に、頭上に掲げた剣の先を勢いよく俺に向けた。

 しかし槍兵たちは動かない。

 ちらちらと仲間の様子をうかがい、まごついている。


 彼らは怖いのだ。

 目の前にいる、矢が刺さってもなお戦おうとする全身鎧の戦士が。

 そして俺の後ろには血の池に沈んだ仲間の兵士だったものの姿がある。

 そんな風にはなりたくないと足がすくむのも当然だ。 

 だから俺は穏やかに脅迫する。


「トラネウスの兵士の皆さん。家族の顔を思い出してください。大切な人と二度と会えなくなってもいいんですか?」


 首を垂れるように、歩兵たちが手に持った槍の先が下を向く。

 彼らの背中にアイネオスは激昂した。


「何をしている! さっさとそいつを片付けろ! 敗者に帰る場所などない! かかれぇ!」

「攻撃命令だ! 突撃せ――」


 隊長らしき男の喉にクナイが突き刺さる。

 男は言葉を言い切ることなく、潰れた声を漏らして崩れた。

 兵士たちが息を呑んで青ざめる。


 これが最後の恫喝だ。

 俺はクナイを投げた手を伸ばしたまま、一歩前に踏み出した。

 ゆっくりと槍兵たちに近付いていく。


「ううっ嫌だ! 死にたくない!」


 槍兵の一人が飛び出した。

 誰もいない平原をがむしゃらに逃げていく。


「うわぁぁぁぁ!!」


 それを皮切りに槍兵たちはばらばらに散らばった。

 とにかく目の前の恐怖から逃れようとする、なりふり構わぬ脱走だった。

 邪魔をしないなら相手にはしない。

 俺は盾兵と弓兵、アイネオスに向かって駆け出した。


「撃て! 撃て!」


 急かされて弓兵がまばらに矢を放ってくる。

 すかさず俺は進路を斜めにとり、矢を避けながら走った。

 無理して突っ込まなければそうそう当たるものではない。

 圧をかけてくる槍兵はもう周囲にはいないのだ。

 迂回ぎみに盾兵弓兵の隊列の横手から攻め入る。


 俺は加速を乗せて金属槍を敵兵に振るった。

 強振を受けた盾が割れ、胴鎧がへこみ、そのまま三人まとめて薙ぎ倒す。

 ここまで接近してしまえば矢は脅威ではない。

 慌てて腰に下げた短剣を抜く者もいたが俺には届かない。

 次々と倒れていく仲間に、盾兵弓兵も恐慌をきたし逃げ出そうとする。


「くっ……!」


 アイネオスは馬の手綱を左手で握り直すや、足で馬の腹に合図した。

 右手で剣を振りかざして、勇敢にも馬で向かってくる。

 俺は馬の突撃を横に避けながら、すれ違いざまに槍で剣を叩き落した。


「ええい……!」


 アイネオスの切り替えは早かった。

 馬を止めることなく、そのまま走り出した方角は南。

 両軍の兵士がぶつかり合う戦場に背を向けての逃走だった。


 俺は即座に周囲の状況を確認する。

 アイネオスは単騎で逃げた。

 追随するトラネウス兵はいない。

 ロタンは矢を受けて倒れたままだ。

 エルトゥラン軍は勢いを取り戻しており、トラネウス軍は戦線を維持するのに精一杯で、後ろを気にする余裕もないようだった。

 旗と太鼓のトラネウス連絡員は状況に戸惑って動けずにいる。


 俺は地面を強く蹴り、アイネオスを乗せた馬を追った。

 足元の草を蹴散らして、茜色に照らされた野原を駆ける。

 ちらちらと後ろを振り返るアイネオスは顔が強張っていた。

 あり得ない。こんなはずがない。これは何かの間違いだ。

 表情がそう物語っていた。


 風を浴びて、馬の蹄が力強い音を立てて走る。

 だが足の速さは俺の方が上だ。

 少しずつ距離が詰まっていく。


 あと少しで馬の尻尾に手が届く。

 俺は湧き上がる昂揚感に息が乱れた。

 槍を握る手に自然と力がこもる。

 今度こそ決着を付ける。


 俺は馬の隣に並ぶや、槍で馬の横腹を突いた。

 奇声を上げて暴れる馬に、重たい鎧を着込んだアイネオスは体を傾かせる。

 背中から地面に落ちて呻くアイネオスを置いて、馬が離れていく。

 俺は素早くアイネオスの腹を片膝で押さえ、兜をはぎ取った。

 逆手に握った槍の先端を鎧の左胸に突き付ける。


「……遺言があるなら聞きます」


 アイネオスは落馬の痛みに顔を歪めながらも、俺をにらみ返してきた。

 なで上げて綺麗に整えてあったはずの髪が乱れている。


「私の戦略に失策も間違いもなかったはずだ……! 分かたれていた王国は我が手で統一され、黄金の時代を迎えるはずだった! 古の栄光を取り戻し、人間が世界の覇者となる! それこそが救世! 後の世に救世主と謳われてしかるべき王の偉業! それがなぜだ!? なぜ貴様ごとき若造一人にっ……!」


 アイネオスは感情を爆発させて喉をがならせる。

 腹を押さえつける俺の膝をどかそうとするが、並の腕力では無理な体勢だ。

 俺は黙ってアイネオスを見下ろし続ける。

 息を荒げる彼の目に怯えの影がにじみ始めた。


「よぉく考えろ……! いまさら貴様らが勝利してどうなる? 度重なる戦で多くの兵が死に、国庫も火の車だろう。死に体のエルトゥランを小娘が救えると思うのか!? 導けるのは私だけだ! 私のトラネウスの力が必要なのだ!」


 その言葉は崇高な志から生まれたものなのか、我欲による詭弁なのか。

 どちらだとしても、いまさら俺には関係ないことだった。


「仕組んだのは貴方でしょうに」


 俺は冷ややかに言葉を返し、槍を持つ手を振りかざした。

 アイネオスは驚き恐れた様子で必死に俺を押し退けようとする。


「ま、待て早まるな! 私はまだ――」


 振り下ろした槍の先が鎧の左胸を貫く。

 刃が心臓に達した確かな手応えに、俺は急速に心が凍えるのを感じた。

 アイネオスは目を見開き、声にならない悲鳴で喉を詰まらせる。

 その全身が硬直して震えること数秒、がくりと頭部が脱力した。


「……さようなら。アイネオス=ウォルトゥーナ」


 俺は槍を抜き、心を無にしてアイネオスの首を切り落とした。

 血を浴びた手がさらに赤く染まる。

 おそるおそる首を持ち上げると、その重たさに戦慄を覚えた。

 目が合わないよう顔の向きを変える。


 やり遂げた――

 そう思って息を吐いた途端、体から疲労が噴き出した。

 肩や背中にずっしりとのしかかってくる。

 体の痛みまでがぶり返してきて、脳みその奥がキリキリと痛み、眩暈がした。


「帰りたい……」


 小さく震える槍を支えに、俺は焼けた空を仰いだ。

 あと少し。もうひと踏ん張りだ。仲間が待っている。

 戦いに幕を下ろして、みんなでエルトゥランの町に帰ろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ