57話『落日に屍を積み上げて(2)』
空に浮かんだ太陽が少しずつ西へと高度を落としていく。
野原は戦士たちの猛る血潮で満ちていた。
戦場の中央では両軍の歩兵隊による一進一退の攻防が続いている。
問題なのはその東側だ。
左翼からトラネウス歩兵隊が上がってきていた。
このままでは味方主力の側面、さらには背中を取られる。
数で負けている現状で囲まれようものなら敗北は必至だ。
指揮を執る将軍ンディオは状況が見えているようだった。
指示を受けたオルクス隊が東へと急いでいる。
俺は横から走り込んで、彼らと合流した。
「オルクスさん! まだやれますか!」
隊の先頭を走る、縮れ毛の大男に問いかける。
オルクスは不敵な面構えで、ふんと鼻を鳴らした。
「こちとら怖いもの知らずのオルクス隊だ! 鉄火場で芋引くような腰抜けはいねえ!」
エルトゥラン軍随一の荒くれ者はそう言ってのけた。
後に続く隊の兵士たちもギラついた目をしている。
彼らは敵の騎兵隊に蹴散らされたばかりだ。
にもかかわらず、この士気の高さである。
隊長の言葉に偽りなしということだろう。
俺たちは味方本隊の裏を回って、左翼に出た。
向かってくるトラネウス歩兵の数はざっと百か。
その向こうに視線をやれば、東の林から飛び出したヒゲドラ隊長の百人隊が敵と交戦しているのがわかる。
敵の大将アイネオスが動かした歩兵隊は百人隊が二つ。
部隊の一つが伏兵の対処に動いたのだ。
残るもう一つの百人隊が左翼を上がってきている。
「あの槍……?」
敵歩兵隊の先頭を走る大男に、俺は注目した。
男の手が握るのは身長の倍はありそうな長槍である。
男が身に着けた兜、袖無しの板金鎧、手甲は他のトラネウス歩兵と同じものだが、立派な体躯から滲み出る威圧感は兵卒のそれとはかけ離れていた。
俺はこの男を知っている。
以前、俺が敵陣を夜襲した時にいち早く気付いた男だ。
ザイデンの町で、ロタンと共にアイネオスの脇を固めていた男だ。
おそらく彼はトラネウス軍屈指の猛者だろう。
潰せば敵の戦意を挫くこともできるはずだ。
「オルクスさん。あの槍の人は俺が相手をします」
顔を向けると、オルクスは目を合わせて頷いてくれた。
「好きにやんな。後の面倒は見てやる!」
「頼みます!」
仲間の頼もしさを信じて、俺は地面を強く蹴って前に出た。
対面からはトラネウス歩兵隊が雄叫びを上げながら押し寄せてくる。
その先頭に立つのは長槍の大男だ。
俺が気付いたのと同じように、向こうもこちらに気付いたのだろう。
その口の端がにやりと吊り上がったように見えた。
「見つけたぁ! 今度は逃げんな大将首!」
男は人間二人分はあろう長大な槍を振りかぶった。
そばのトラネウス兵が慌てて距離を取ったのは巻き込まれないためだろう。
あっという間に両軍の距離が詰まる。
「俺のために死ねぇ!」
風を裂いて長槍の振り回しが来る。
俺は手に持った金属槍を地面に突き刺して、強引な減速をかけた。
長槍の刃が鼻先をかすめて空を切る。
男は止まることなく、槍ごと体を回転させた。
そのわずかな間に俺は懐に飛び込む。
金属槍を縦に構えて、勢い任せの長槍を受ける。
手がしびれるほどの衝撃で鈍い音が弾けた。
「貴方は――!」
こうして向かい合うと、一回り大きな彼の体格に圧迫感を覚える。
だがなにより俺が息を呑んだのは、長槍の男の容貌に気付いたからだ。
鼻も頬も口周りも喉元も、赤茶と黒色のふさふさの体毛に覆われていた。
太い長槍を握る男の手も同様に、濃い体毛のまだら模様が肌を隠している。
「獣人族!?」
その特徴はまさに獣人族のものだった。
しかし男の顔の造形は確かに人間のそれなのだ。
獣人であれば、もっと鼻から口が前に突き出しているはずである。
俺が発した疑問の声に、長槍の男は面を怒りに歪めた。
「人を化け物扱いすんなぁ!!」
毛を逆立てて激昂を吐き出し、凄まじい剛力で槍ごと押してくる。
俺は足底をずりずりと後ろに滑らせた。
「俺は人間だっ! トトチトって名前もある! 人間の母親から生まれた正真正銘の人間なんだよっ!」
「ぐっ!」
人間離れした腕力で突き飛ばされて、俺は体勢を崩す。
トトチトと名乗った男は目を血走らせて槍を振りかぶった。
長槍の太い木製の柄がしなり、唸りを上げる。
咄嗟に俺は金属槍を持ち上げて、力任せの一撃をどうにか受け止めた。
足が地面に沈みそうな威力である。
「抵抗すんな! とっとと死んじまえ!」
トトチトは激情のまま何度も長槍を叩きつけてくる。
人体すら両断しかねない一撃を、俺は体さばきで避け、槍で受け流す。
守勢に回りながら、俺は恐怖以上に不可解さを感じていた。
「貴方は何をそんなに怒っているんです!?」
「イライラするんだよ! 今すぐ死んで罪を償えエルトゥラン人!」
俺たちの周囲を避けるように、オルクス隊とトトチトの部隊とが衝突した。
互いの兵士が雄叫びを上げて槍を突き出す。
鋼の穂先が肉を抉り、血しぶきを飛ばす。
痛々しい悲鳴と怒号が交差した。
「ぬあああっ!」
トトチトは喉をがならせて、力の限りに槍を振り回してくる。
俺は冷静に攻撃をさばきながら、相手の動きを観察していた。
いったい何が、この獣人に似た男を激情に駆り立てているのだろう。
他のトラネウス兵とはまた違う、特別な事情があるように感じられた。
そのことに興味が湧いたが、今は決死の戦闘中だ。
余計な好奇心は捨て置くべきだろう。
俺はトトチトの粗暴な攻撃を避けながら、呼吸を整えた。
破壊力は大したものだが、それは技巧をかなぐり捨てたパワーだ。
恐れず目をそらさなければ隙が大きい。
大振りの振り下ろしにタイミングを合わせて、俺は金属槍を鋭く振り上げた。
刃が長槍の太い木製の柄に食い込み、相手の力をも利用して両断する。
行き場を失った長槍の先半分がすっぽ抜けたように宙を舞う。
「んなぁ!?」
目を丸くするトトチトの前にすかさず俺は飛び込む。
槍で袈裟斬りを放つのと、トトチトがのけ反ったのは同時だった。
金属槍の刃が彼の板金鎧を切り裂くが、やや浅い。
「ちぃっ!」
トトチトは裂かれた鎧の胸を押さえながら、素早く身を翻した。
俺は咄嗟に目を左右に走らせる。
オルクス隊の皆はトラネウス兵と対等に戦えている。
今は仲間に加勢するよりも、腕自慢の部隊長を倒すべきだろう。
トトチトは敵味方でごちゃついた場から離れ、東南の方向へと駆け出した。
走りながら顔を後ろに向けて、こちらの様子をうかがってくる。
その態度が俺には誘っているように見えた。
何か罠でもあるのか。
警戒しながらも俺は草の地面を蹴った。
相手に策があるとしても、ひらけた場所の方が対処しやすいと踏んだのだ。
矢のごとく駆けてトトチトの後を追う。
槍を前に突き出し、足元で短く伸びた緑を散らして疾走する。
弾丸と化した俺の突撃に、トトチトは顔色をぎょっと変えた。
すんでの所で地面に体を投げ出し、半分残った槍で切っ先をそらせた。
たいした反射神経である。
俺は足の底で地面を削って急停止し、即座に反転した。
手をつき起き上がろうとするトトチトの眼前に槍を突き付ける。
「……ふへっ」
意外にもトトチトは笑った。
「ひひひひひ……!」
俺が槍を一押しすれば顔面に穴が空く状況なのだ。
にもかかわらず笑うのである。
その反応に俺は逆に少しの恐れを抱いた。
「何がおかしいんです?」
「いやぁ……話には聞いてたが、こんなに強いとは思ってなくてなぁ」
トトチトは短くなった長槍を手放した。
地面に爪先を立てた正座の姿勢で、両手を開いて頭の高さまで上げる。
「降参する。殺さないでくれ。かーちゃんを一人にしたくないんだ」
先程までの怒髪天はどこへやら、妙に落ち着いた調子で命乞いしてくる。
「お母さんを……?」
「お前らエルトゥラン人に村を追われて、国を追われて。それでも俺を捨てずに、たった一人で育ててくれた大切な人だ。先に死ぬなんて親不孝はしたくない」
トトチトは真剣な目をしていた。
泣き落としで、でたらめを言っているようには見えない。
「それなら何で兵士になったんですか。命を落とすかもしれない危険な仕事だって、わかっていたはずでしょう」
「俺みたいな見た目の人間がまともな仕事にありつけるとでも思うのかよ。学もつてもない、よそ者の田舎者だぜ?」
俺は答えに窮した。
エルトゥランに来たその日から、俺はティアナートに庇護されている。
雨風に震えることも、空腹で眠れぬ夜を過ごしたこともない。
そんな俺がトトチトを咎めるのは違う気がした。
俺は阿鼻叫喚の戦場へと視線をそらした。
戦いはすぐそばで続いているのだ。
道草を食っている時間はない。
「……行ってください」
俺はトトチトに突きつけていた槍の先を下ろした。
「このまま戦線には復帰しないで、お母さんの元に帰ってあげてください。それが敵前逃亡になるのなら、戦いが終わるまで適当に隠れていればいい」
「ちょっと待てよ!」
背を向けようとした俺の足を、なぜかトトチトは慌てて掴んできた。
俺は足元の彼を見下ろす。
「なんですか?」
「なんで見逃すんだよ。逆の立場なら俺はお前を殺してる」
トトチトが不審の目で見上げてくるので、俺はため息をついた。
「それは貴方にとって、俺の死に意味があるからでしょう。アイネオスに俺の首を差し出せば手柄になるからです。でも俺はそういうのに興味はないんです。命を奪わずに済むのなら、その方が絶対にいい」
トトチトはきょとんとした。
それから何度かまばたきをして、ふと彼は小さく吹き出した。
「食えない奴だな。お前、俺たちの仲間になれよ」
「は?」
思いもよらないトトチトの言葉に、俺はまぬけな声を出してしまう。
「さっきはエルトゥラン人扱いして悪かった。その強さ。お前、純血の人間族じゃないだろ。どうやってエルトゥランに取り入ったかは知らないが、たいしたもんだ」
「貴方は何を言っているんですか?」
俺は眉間にしわを寄せて聞き返す。
トトチトは立ち上がるなり、兜を脱いで草の上に放り投げた。
被り物がなくなると、人間離れした彼の異形がよくわかる。
赤茶と黒色の混ざったふさふさの体毛が青年の頭部を覆っていた。
毛むくじゃらの顔がにやりと笑う。
「俺もお前と同じ、この世界に生まれた異端者ってことだよ」
トトチトは首を傾けて、深く息を吐いた。
「どいつもこいつも、なりが少し違うってだけで人を爪弾きにしやがる。でもそれは人間族だけじゃなくて、獣人族でも魚人族でも同じことだ。あいつらには俺たちが……何か気味の悪いものに見えてるらしいからな」
そう言って、嘲るように鼻を鳴らす。
「だから仲間が必要なんだ。認めさせるためには数の力がいるからな。俺も今はまだこんなだけど、いつまでも檻の中の獣でいるつもりはない」
「……さっきから何の話をしているんですか?」
困惑したまま、俺は口を挟んだ。
「確かに俺はよそからエルトゥランに来ました。でも人間です。貧弱で未熟なただの人間です。何か勘違いされていませんか?」
「まぁ言いたくないなら言わなくてもいいさ。お前にはお前の事情があるだろうからな」
トトチトは苦笑するように、腰に手を当てた。
「シロガネ=ヒカル。これでもお前のことはずいぶん調べたんだぜ? でもまったく足取りが掴めなかった。誰もお前の過去を知らない。お前がどこで生まれたのか、どうやって生きてきたのか。痕跡のない人間なんて怪しすぎるんだよ」
「それは……」
謎の儀式で召喚されて、目が覚めたら知らない城の地下で寝ていたからです。
そんな言葉を口にしたところで信じてもらえないだろう。
俺だって、なぜそうなったかと聞かれたら答えられないのだ。
結果的に言い淀んだ俺の態度に、トトチトは微笑を浮かべた。
「ま、お前が何者でも俺にとってはどうでもいい。ロタンの奴がやたらとお前を気に入ってるみたいだったからな。友達の友達ってわけで、こっちに来るなら歓迎――」
その時だった。
夕方に近付く青い空に激しい太鼓の音が響いた。
俺はハッとして、ンディオのいる味方の軍勢最奥に目を走らせる。
がむしゃらな連打音に合わせて、連絡用の旗が振られているのが見えた。
エルトゥラン軍では旗と太鼓で大将からの命令を伝達する。
もちろん俺も合図の意味は教えられているのだが……
「決死……?」
逃げず下がらず命を投げ出して戦えという意味だが、問題はそこじゃない。
なぜ今わざわざ、このような命令が発せられたのかだ。
「おー、やったみたいだな」
トトチトは首を伸ばすように戦場を眺めて呟いた。
それから俺に流し目を送ってくる。
「勝負あったな。お前らの負けだ」
「何を根拠にそんなこと……」
俺は言い返しながらも、嫌な予感が胸に渦巻くのを感じていた。
逆にトトチトはすっきりした顔で言ってくる。
「俺の仕事は陽動と時間稼ぎだ。ロタンが大将首を取るまでのな。できれば俺も手柄を立てたかったんだけどなぁ」
「なっ!?」
俺はトトチトを置いて、すぐさま駆け出した。
敵の言葉を鵜呑みするつもりはないが、確認しないわけにはいかなかった。
左翼で奮戦するオルクス隊のそばを駆け抜ける。
その間にも遠目に味方の旗が倒れていくのがわかった。
太鼓の音が小さくなって消えていく。
味方の軍勢の背後である戦場の北側に回った時、視界に映ったその光景に俺は奥歯を噛みしめた。
連絡員の兵士たちが無残な姿で地面に伏していた。
血溜まりには鎖帷子ごと切り裂かれた胴体や、誰かの腕が転がっている。
血を流し息絶えた馬の隣には、老将軍ンディオがうつ伏せに倒れていた。
そのそばでオルクスが槍を振るい、漆黒の剣を持つ敵と交戦している。
相手は返り血で赤く染まった外套をまとう白い髪の少年ロタンだった。
「なんでっ……!」
首から血が上って熱くなる。
俺は歯を食いしばり、爆ぜるように地面を蹴って走った。
戦争をやっているんだ。
お互い殺したり殺されたりもする。
それでもこう何度も邪魔をされたら俺だって頭に来る。
「ああああっ!」
俺は感情を制御するために怒りを吐いた。
激情に支配されちゃあダメだ。
激昂したまま戦ったら負ける。
これまでどれだけ痛い目に会ってきたと思っているんだ。
俺は槍を握る手を震わせて、必死に自分を抑えこむ。
「オルクスさん! どいてください!」
俺は叫びながら全速力で突撃する。
だがオルクスはこちらに振り返ることなく、己の槍でロタンの黒星辰剣を鋭くさばきながら、その大きな声を響かせた。
「来るな兄ちゃん! お前の相手はこいつじゃねえ!」
「えっ!?」
俺はそのまま突っ込むわけにもいかず、足を緩めた。
ロタンの側面に回り込もうと動くと、オルクスはさらに声を張り上げた。
「お前は敵の親玉の首を取ってこい! もう後先考えてる余裕はねえんだ! 兄ちゃんが救世主様だってんなら、野郎をぶっ殺して戦況を変えてくれ! オヤジの代わりは俺がやる!」
防ぎきれなかった斬撃で、オルクスの腕や体は赤く濡れていた。
だがその目は死んでいない。
やけっぱちではない光を瞳に灯していた。
総大将をやられた以上、戦線の拮抗がいつまで続くかわからない。
遠くない内にトラネウス軍の数に押し負けて飲み込まれる。
だったらこちらも一点突破に賭けるしかない。
オルクスの心意気に、俺は乗ることを決めた。
「わかりました! 俺はアイネオスを取りに行きます!」
「そういうのは困るなぁ」
ロタンの漆黒の剣が刹那に弧を描き、オルクスの槍の先端を切り飛ばす。
剣を握るロタンが手首を返したその時には、俺はクナイを二本投げていた。
ロタンは外套をはためかせ、クナイの一つを剣ではじき、一つを避ける。
そのタイミングを逃さず、オルクスはただの棒になった槍を強振した。
さすがに回避が間に合わず、横殴りの一撃でロタンの体がずれる。
「てめぇの相手は俺だっつってんだろ!」
オルクスの咆哮を置き去りに、俺は駆け出した。