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51話『お見舞いと雇用契約』

 鍜治場でミスミス姉弟との話を終えた俺は、城の中に戻った。

 役人や使用人の皆さんが働く姿を横目に階段を上る。

 城三階の西側廊下を歩いていると、不意に俺の部屋の扉が開いた。

 中から栗色の髪をした侍女が廊下に出てくる。


「ベルメッタ」


 呼びかけると、ベルメッタはへその上に手を重ねて頭を下げた。

 彼女のそばに俺は駆け寄る。


「シロガネ様。見舞いの品を部屋に用意しておきました」

「ありがとう」


 俺はベルメッタの表情を確かめる。

 目元のくまも消えて、顔にも生気が戻ったように思えた。


「今からお出かけですか? でしたら荷物持ちの者を用意いたしますが」

「自分で持っていくからいいよ。すぐに出るから」

「あっ、シロガネ様」


 部屋の扉に手をかけた俺を呼び止めてくる。

 振り返ると、ベルメッタは柔らかい笑顔を浮かべていた。


「ありがとうございました。シロガネ様は本物の救世主様です」


 先日の王城奪還戦でのお礼だろうか。

 ともあれ感謝してもらえるのは嬉しいことだ。

 変に否定せず、素直に受け取るのが正解だろう。


「役に立てたなら良かったよ」

「私、このご恩は一生忘れません」

「大袈裟だなぁ」


 ちゃかすように返すと、ベルメッタは愛らしく唇をとがらせた。


「むー、ほんとなんですからね。殿下にお子様ができたら、ぜひお世話したいと思っているんですから」

「え?」


 会話をえらく段飛ばしされた気がして、俺は聞き返す。


「殿下? お子様?」

「あっ、まだ早かったですね」


 ベルメッタは手で口元を隠した。

 しかし隠しきれていない部分がみるみる満面の笑みへと変わっていく。


「でも私、ほんとぉぉぉぉに嬉しいんです。ティア様にもようやくそういう時間が来たんだなって。苦労なさった分、ティア様にはいっぱい幸せになってほしいんです。そのために私にできることがあれば何でもしますから……!」


 ベルメッタはぐっと両手を握った。

 その姿がとてもかわいらしく思えて、俺は笑顔になった。


「ベルメッタは本当にいい人だよな」


 すると彼女は意外そうにまばたきした。

 急激にその表情が曇る。


「そんなことないです。私は悪い子ですから」

「えっ……」


 突然の変化に俺は戸惑う。


「俺の目から見て、ベルメッタはできた侍女だと思うけど。どうしてそんな風に思うの?」

「それは……」


 ベルメッタは素早く廊下の前後を確かめると、俺を部屋の中に押しやった。

 素早く扉を閉め、かんぬきをかける。

 何か人に聞かれたくないことなんだろうか。

 俺は彼女が口を開くのを待つことにした。


 机の上に黒塗りの木箱が置いてある。

 これが見舞いの品一式なのだろう。

 思っていたよりも大きいが、頑張れば腕に抱えられそうだ。

 そのそばに置いてある白手袋の束はなんだろう。

 ティアナートが使っているものと同じ品に見える。


「私のせいなんです……」


 ベルメッタはうつむいたまま、強張った声で呟いた。


「あの日、私たちの屋敷に反逆者の部隊が押しかけてきました。屋敷の奥でティア様を匿っていました。父も母も兄も、どんな仕打ちを受けても口を割らなかった。私が白状したんです。暴力に負けて、ティア様を裏切ったんです」


 ベルメッタは目を見開いて、頬を痙攣したみたいに震わせていた。


「私が泣き叫んで助けを求めたからティア様は……禁忌を破って救世主様の力をお使いになって、お体を……」


 トラネウス王国が裏で糸を引いていたという、一年前の反乱の話だろう。

 追い詰められたティアナートは救聖装光を身にまとって戦った。

 首謀者を討ち取り、乱を鎮圧したが、その代償として左腕が灰化した。


「でもティアナートさんは、ベルメッタを恨んだりしていないと思う」

「だから辛いんじゃないですか」


 ベルメッタの目に涙が浮かぶ。


「ティア様はおっしゃいました。辛い思いをさせてごめんなさいって。私は責めてほしかった。私こそが罰を受けるべきだったのに」


 ティアナートはベルメッタの家族を巻き込んだことを悔いていた。

 傷を負った二人が罪悪感まで背負わされている。

 それはひどく理不尽なことに思えた。


「ティアナートさんは俺に言ったよ。私のために俺も幸せになれって。それってベルメッタにも言えるんじゃないかな?」

「どういう意味ですか?」


 ベルメッタの赤くなった目を、俺は正面から見つめた。


「ティアナートさんはさ、ベルメッタを牢屋から助けたいって言ったんだ。すぐに逃げた方がいい状況だってわかっていたはずなのに。たまたまうまく事が運んだけど、命取りになる可能性だってあった」


 あらためて考えると、あれはかなりリスクのある行動だった。

 占拠された王城にエルトゥラン国民が押し寄せることを、あの時のティアナートが事前に察知していたとは考え難い。

 つまり危険を冒してでも連れていきたいと願ったことになる。


「それだけベルメッタのことを特別に思っているんだよ。何でもするって言うなら、ベルメッタも自分の幸せを目指せばいい。そうじゃないとティアナートさんが安心して幸せになれないだろ?」


 ベルメッタは困ったように眉根を寄せた。


「そんなの……すぐにはできません」

「そりゃそうだ。俺だって困ってるし」


 はははと俺は笑う。


「まぁでも、目標に据えて意識するっていうのが大事なんだろうな。心掛けていれば、少しずつは近付いていくだろうから」


 重い過去を忘れ去ることなどできるわけがない。

 だから無理はせず、心の向きだけ前に向けていればいいんだと思う。

 前さえ向いていれば、その気になった一瞬を逃さずに踏み出せるから。


 ベルメッタは自身を抱くように、両方の肘に手を当てて黙り込む。

 別にすぐに答えを出す必要などないのだ。

 そう思い、俺は机の上の黒塗りの木箱に右手を置いた。


「それじゃあ俺は出かけてくるから。ところでこの手袋はなに? これもお見舞いの?」

「あっいえ、それはティア様からシロガネ様にと」


 ベルメッタは侍女の顔に戻り、純白の手袋を手に取った。

 慣れた手つきで俺の両手にはめてくれる。


「いつまでも有り物のままでは不格好だろうと気にしておられました。おそろいでお似合いかと存じます」

「へーえ」


 俺は新品の手袋に包まれた自分の手を見つめた。

 自分を想ってくれる人と同じものを身につける。

 少し気恥しくはあるが、それ以上にときめくものがあると思った。

 

「ありがとう。使わせてもらうよ。じゃあいってくる」

「はい。いってらっしゃいませ」


 部屋の扉を開けてもらって、俺は城下町に出かけることにした。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 青い空に鳥が翼を広げて舞っている。

 季節も秋になり、過ごしやすい気候になっていた。

 それでも今日は天気の良さもあって、城下町の南通りを行った先の屋敷に到着した頃には、額に汗が浮かんでいた。


 屋敷の玄関扉の前で、俺は抱えていた木箱を慎重に地面に降ろした。

 作務衣の袖で汗を拭って、呼び出し用の釣り鐘をがらんがらんと鳴らす。

 ようやく一息つけた。


 右腕一本だけで物を運ぶのは大変だなと思う。

 一度抱えたら持ち方を変えようとするだけで四苦八苦だ。

 左右の手を使う贅沢さが身に染みる。


「どちら様でしょうか……?」


 扉越しに警戒した少女の声がする。


「シロガネです。ただいま」


 答えると、がたがたと玄関扉のかんぬきが外される音がする。

 両開きの扉の片方が開いて、使用人服のシトリが顔を出した。


「あ、おかえりー」


 シトリは迎えてくれるなり、目ざとく俺の足下にお土産を見つけた。


「何それ?」

「ティアナートさんがお見舞いにって」

「へー、王女様が」


 シトリは黒塗りの木箱を両手で持ち上げた。

 一緒に屋敷の中に入る。


「閉めといてくれるー?」


 左手側の廊下を先に歩きながらシトリが言う。

 俺は扉を閉じ、かんぬきの横木を通した。

 早足で追いかける。


 いつもの食堂に入る。

 大部屋の真ん中を占領する縦長の食卓に、シトリは黒塗りの木箱を置いた。

 とりあえず話す時はこの食堂になる。

 複数人で椅子に座れる場所がここしかないからだ。

 そろそろ空っぽの応接間にも家具を揃えた方がいい気がする。


「これ開けていいの?」

「もちろん」


 シトリが木箱の蓋を開けて、中身を卓の上に並べていく。

 まずは茶器のセットに茶葉の詰め合わせだ。

 こちらの大葉や根っこ、種は薬用植物だろうか。


「さすが王女様。高価な贈り物だねー」

「シトリ。使い方わかるの?」


 俺が薬用植物を指さすと、シトリは当たり前でしょと鼻を鳴らした。


「こっちの葉っぱはすりつぶして傷に塗るやつ。こっちの根っこは煎じて飲むと熱が下がったりするやつね。で、こっちの種は砕いて飲むと痛み止めになるやつ。でも量を間違えると幻覚とか見えるから、ほんとに辛い時用。どれも買うと結構するよ」

「へぇー」


 素直に感心する。

 俺も爺ちゃんからニンジャ流サバイバル術を教わった身だ。

 この手の薬効のある植物知識は日常でも戦場でも絶対に役に立つ。

 近い内に時間を作って教えてもらおう。


「さっそく使わせてもらお」


 シトリは根っこを一つ摘まんで、調理場の方に歩いていった。

 土瓶に根っこを入れて、水瓶から水を注ぐ。

 手際よく火打ち石でかまどに火を起こして、土瓶の水を沸かす。


「ギルタさんの具合はどう?」


 俺はシトリの背中に問いかけた。

 彼女はかまどの火加減を見ながら答えてくる。


「ぼちぼちかなぁ。まだ体が辛そうだけど、ちゃんと日常生活はできてるし」


 シトリは手を止めると、安堵の息を吐いた。


「生きて帰ってきてくれて本当によかった。それだけで嬉しい」

「……そうだな」


 しんみりとした空気の中に、生薬の癖のある香りが漂う。

 俺たちはしばらくの間、ぐつぐつと土瓶が煮える音を聞いていた。


 三十分ほど経っただろうか。

 シトリは土瓶の中を確認して、かまどの火を消した。

 丸盆に土瓶と湯飲み茶碗をのせる。


「会ってく?」

「あぁ。ギルタさんには話があるし」


 二人して食堂を出る。

 廊下を歩いて玄関に戻り、折り返し階段で二階に上がる。

 右側廊下を進んで最奥の部屋がシトリの部屋で、その隣がギルタの部屋だ。

 シトリは丸盆を片手に、ギルタの部屋の扉を叩いた。


「ギルタ、入るよ」


 シトリが扉を開ける。

 部屋の奥の壁には窓があり、そよ風と共に午前の陽気が差し込んでいた。

 そばには木製の机があり、机の上には花瓶が飾られている。

 花びらを広げた黄色の一輪挿しが簡素な部屋に彩りを与えていた。

 机の隣にある寝台には、短髪の女性が毛布をかけて仰向けになっている。

 俺たちに気付いて、ギルタはのそのそと体を起こした。


「お邪魔します」


 シトリの後に続いて、俺も部屋に入る。

 シトリは机の上に丸盆を置き、湯呑み茶碗に土瓶の煮汁を注いだ。


「シロガネが持ってきてくれたの。まだ熱いから冷ましてからね」

「そうか、ありがとう」


 ギルタは穏やかな表情をしていた。

 ぼこぼこだった顔の腫れもだいぶ引いたように見える。

 拷問を受けた両手の指先には包帯が巻かれており、実に痛々しい。


「ギルタさん、お加減はいかがですか」


 寝台に寄って声をかけると、ギルタは微笑みを返してくれた。


「見ての通りぼろぼろだ。生きているだけましというやつだな」


 自虐を言えるくらいには元気になったようだ。

 俺はとりあえず一安心する。


「ティアナートさんから言付けを頼まれているんです。今、伝えてもいいですか?」

「なんだ?」

「今回の功績を鑑みて、ギルタさんの罪を正式に免除することになりました」


 シトリが表情をぱっと明るくする。

 しかしギルタは納得がいかなそうな顔をした。


「私は私欲から王女の逃走に手を貸しただけだ。しかもそれは失敗した。功績などどこにも存在しないはずだが?」


 思わぬ抵抗だった。

 だが気持ちはわからなくない。

 謂れのないものは受け取りたくないと思っているのだろう。


「ギルタさんは火急の事態の中で、いち早く手助けをしたじゃないですか。それは評価されるべきことだと思いますけど?」

「成果を出せなかった以上、過程を評価することはできない」

「成果なら出たじゃないですか」


 俺はにっと笑った。


「俺たちは城を奪還して、ティアナートさんも自由を取り戻した。それが結果です。だったら過程を評価しないとだめですよね?」


 ギルタは面倒臭そうに顔をしかめる。


「どうしてお前はそういちいち私を言いくるめようとするんだ?」

「素直に受け取ればいいのに、変に意地を張るからですよ」


 すると、そばで聞いていたシトリが小さく笑った。


「シロガネもそう言ってるんだし、お言葉に甘えたらいいんじゃない? こっちだって酷い目に遭わされたんだし」

「そうは言うがな……」

「それにあの人のことだから、同情とか憐れみだけじゃないよきっと。お互い打算があるんだから、その上で乗っちゃえばいいでしょ?」


 押し切られるように、ギルタはしぶしぶ頷いた。

 机の湯呑みに手を伸ばしかけると、シトリが待ったをかけた。

 湯気を立てる湯呑みを手渡しする。

 ギルタは煎じ薬に息を吹きかけて冷ますと、ずずずとすすった。


「……苦いな。何か甘いものが欲しい」

「あ、ちょっと待ってて」


 シトリは小走りで部屋を出ていった。

 部屋の扉が閉まると、ギルタは湯呑みを机の上に戻した。

 そして寝台から足を下ろす。


「シロガネ……いや、救世主様に一つお願いごとがあります」


 神妙な顔をして言ってくるので、何事かと俺は姿勢を正した。


「何でしょうか?」


 ギルタは板張りの床に両方の膝をついた。

 包帯で覆われた手を床につき、頭を下げてくる。


「どうかもうしばらく、私をこの屋敷に置いてください」


 俺はびっくりしてわたわたする。


「えっあの、ギルタさん?」

「自分のような身の上の者がいては迷惑とは存じております。ですがどうか、どのような仕事もいたしますので、どうかお情けを」


 そう言って、ギルタは床に額をつけた。

 どうしてそんなことをと言いたくなったが、すぐに俺は思い直した。

 これはきっと彼女なりの筋の通し方なのだ。


 俺はこの屋敷をシトリとギルタ二人のための家だと思っている。

 だから気にせず、ずっといてくれればいいと思っている。

 だが今のギルタからすれば、それは受け取る謂れのない施しなのだろう。

 シトリがそう感じたように、ギルタも同じなのだ。

 客観的に見れば、今のギルタは他人の家にいる無職の居候だ。

 だったら俺にできるのは筋道を立ててやることだろう。


「この屋敷って、一人で管理するには広いと思いませんか?」


 俺は床に膝をついて、ギルタの短髪の後頭部に声をかけた。


「シトリさん一人じゃ手も足りてないし、防犯面でも不安なんですよね。用心棒代わりのことができる使用人を雇いたいと思っていたんです」


 ギルタはそっと顔を上げた。

 俺は彼女に微笑みかける。


「今日から住み込みで働いてください。お給金はシトリさんと同額です。日常の業務は家令であるシトリさんに従うこと。以上です。何か不服な点はありますか?」

「……ありがとうございます」


 ギルタはもう一度、額を床につけた。

 俺は苦笑しながら、彼女の肩に手を置いた。


「顔を上げてくださいよ。こんなとこ見られたら怒られるじゃないですか」

「……承知いたしました」


 ギルタは体を起こして、また寝台に腰かけた。

 とその時、廊下を走る音が響いてくる。


「あ、あと急に態度を変えたりしないで、今まで通りに接してくださいよね。シトリさんにもそうしてもらってますから」


 早口で俺が言うと、ギルタはふふっと笑った。


「雇い主の命令なら従おう」


 勢いよく扉を開けて、シトリが部屋に戻ってきた。

 手に持った木皿には食べやすいように切り分けた果物が盛ってある。


「おまたせー」

「シトリ。はしたないから廊下は静かに歩け」


 ギルタに叱られるも、シトリは悪びれる素振りも見せなかった。


「ごめんごめん。はいどーぞ」


 シトリは果物の木皿と突き匙をギルタに渡した。

 ギルタはややぎこちないながらも突き匙を握った。

 果物を刺して、口に運ぶ。


「これ、救世主様にって屋敷に届いたやつなんだ。いっぱいあるから砂糖煮にでもしようかなーって思うんだけど」


 シトリは是非を問うように俺に目を向けてくる。


「いいんじゃない? 余らせるのはもったいないし。俺も食べてみたい」

「そう? じゃあいっぱい作っとくね」


 シトリはにぱっと笑う。

 ギルタはそんな義妹を見て、頬を緩めた。

 湯呑みの少し冷めた煮出し汁を口に運んで、苦みにまた顔をしかめる。


「それともう一つ、ギルタさんに尋ねたいことがあったんですけど」

「なんだ?」


 ギルタは空になった湯呑み茶碗を机に戻した。

 シトリは机の椅子を『座る?』と俺の前に出してくる。

 俺が遠慮すると、シトリはその椅子に腰を下ろした。


「ギルタさん。ロタン=マザランという少年を知っていますよね?」


 ギルタはああと頷いた。


「白い髪のあの子のことだろう。お前をさらった時にも一緒だったな。ロタンのことで何か気になることでもあるのか?」

「城を取り戻すときに色々ありまして。この先またロタンさんとは顔を合わせると思うんです。だから彼のこと詳しく教えてもらえませんか?」


 ギルタはなるほどと再度頷く。

 シトリは俺たちの顔を見比べるも、黙って聞くことにしたようだ。


「トラネウス暗部の中でもロタンは特別な奴だったな。妙にライムンドに気に入られているようだった。マザランの名を勝手に名乗って咎められないくらいだからな。ライムンドの隠し子かなんて噂もあるが、さすがにそれは眉唾だろう」


 ライムンド=マザランはトラネウス王国の宰相である。

 トラネウス暗部を仕切っており、国王アイネオスの片腕を務める男だ。

 ギルタは記憶を呼び起こすように視線を斜め上にそらした。


「ロタンは捨て子だったと本人から聞いたことがある。生まれてすぐの頃、海岸でぐったりしていたところを拾われたそうだ。それから近くの教会に引き取られたんだが……」


 ギルタは表情を曇らせて、息を吐いた。


「十四歳の時に、教会の司祭ら四人を殺害した罪で投獄されたらしい」

「どうしてそんなことを?」

「詳しくは教えてくれなかったが……そんな決断してしまうような暮らしだったんだろう」


 ギルタは言い辛そうに口をつぐんだ。

 トラネウス王国では身寄りのない孤児を教会が養護しているという。

 この手の施設は崇高な志によって運営されるものだが、養護施設に携わる者全てが気高い志を持っているとは限らない。

 そこ以外に居場所のない弱者に対して、施設職員が立場を笠に着て横暴に振る舞うといった事案は、残念ながらいつの時代どこの国でも見られることだ。


 もちろんほとんどの従事者は慈愛の精神で仕事に臨んでいるだろう。

 善良な同業者のためにも、何より行き場のない子供のためにも、養護を生業とする者は人の道を外れることが許されないのだ。


「それからどうなったんですか?」

「死刑になるはずだったが、直前で刑の執行が停止された。偶然かどうかはわからないが、ライムンドの目に留まったらしい。ロタンは暗部の訓練所送りになって、今じゃ指折りの暗殺者だ」


 喋って喉が渇いたのか、ギルタは机の土瓶に手を伸ばした。

 だがシトリがそれを制して、空の湯呑みに煎じ薬を注ぐ。

 ギルタは感謝の言葉を口にして、湯呑みの苦い汁を飲んだ。


「ロタンは今でもその教会に顔を出しているという話だ。一人だけ優しくしてくれた女性がいたらしい。その人が自分のお母さんなんだと言っていたよ」


 生みの親に捨てられたとしても、母親と呼べる人がいるのか。

 俺は何とも不思議な気持ちになった。


 俺の母は、俺を産んですぐに亡くなった。

 だから母の顔を写真でしか見たことがない。

 祖母もすでに鬼籍に入っていたから、母親代わりの人もいなかった。

 俺は父さんと爺ちゃんに感謝しているし、自分を不幸だとも思わない。

 それでも母親という概念には憧れがあった。

 ロタンは自身の生まれ育ちをどう思っているのだろう。

 機会があったら聞いてみたいと思った。


「私が知っているのはそのくらいだな。役に立てたかわからないが」

「興味深いお話でした。ありがとうございます」


 俺はぺこりと頭を下げた。

 ロタンと別れ際に交わしたやりとりを果たすことにする。


「ロタンさんが言っていました。ギルタさんにはいっぱい優しくしてもらった。だからありがとうと伝えてくれと。もう会うことはないだろうとも」

「……そうか」


 ギルタは湯飲み茶碗に視線を落とした。

 波打つ中身と同じようにその瞳が揺れる。


「シロガネ。一つだけ忠告しておくが、あまり敵に同情し過ぎるなよ」


 ギルタは諭すように言ってくる。


「お前は優しい。私がこうして生き長らえているのもお前のおかげだ。だが戦場でそれは甘さになる。誰とでも手を取り合えるとは限らない」

「わかってますよ、そんなこと……」


 俺は動かなくなった自身の左手に目を落とした。

 ぶつかり合うしかなかった結果がこの灰色の左前腕なのだ。

 話し合いで済めばそれでいいが、無理なら武器を手に取るしかない。

 そうなった時、相手を殺さずに全てを収める力は俺にはない。

 天秤にかけて、大事なもののために手を汚す他ないんだ。


「もう慣れましたから」


 俺は自嘲気味に薄笑いする。

 歴戦を気取るつもりはないが、人を傷付けることへの抵抗感が薄れてきたように思う。俺はそういうことができる人間だったんだな、なんて考えてしまう。

 感傷的になりかけたその時、シトリがぱんぱんと手を叩いた。


「あーもう暗いのやめ! シロガネ、あんたお昼食べていくでしょ?」

「え、あぁうん」

「じゃあ作ってくるから。それまで二人で楽しい話でもしてて。楽しい話ね!」


 シトリは部屋から出ていった。 

 俺はギルタと顔を合わせて、二人して苦笑いした。


「あいつの言う通りだな。人生は楽しんだ方がいい」

「そうですね」


 窓の向こうに空の青さを望んで、俺は心に澄んだ風が通るのを感じた。

 そしてふと空腹を覚えて、待ち遠しくお腹をさするのだった。

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