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49話『もう一人では歩けない』

 トラネウス軍からエルトゥラン王城を奪還して三日が過ぎた。

 戦いで荒れた城の後片付けもようやく落ち着いたところである。


 俺はティアナートに呼び出されて、城の三階にある執務室に来ていた。

 扉を開けると、部屋の左手側に会議用の円卓がある。

 その席の一つに俺が着き、隣にティアナートが座った。


 今日のティアナートは袖の長い桃色のドレスを着ている。

 いつものように手には純白の手袋をしていた。

 対する俺は定番の作務衣で、左手にだけ兵士用の分厚い手袋をはめていた。

 灰色の左手を隠す用である。


 円卓の上にはお茶のセットが置いてある。

 満杯のティーポットが一つと、湯気を立てるカップが二つ。

 白いお皿に焼き菓子が並んでいる。

 朝食と昼食の間の小休憩の時間というわけだ。


 ベルメッタは給仕の仕事を済ますと退室した。

 ティアナートが人払いを頼んだためである。

 おそらく扉の外で待機しているはずだ。

 なので今、執務室の中にいるのは俺と彼女の二人だけである。


 俺は少し緊張していた。

 この三日間、ティアナートは統治者として事後処理に追われていた。

 俺はその間、彼女に抱擁されたことを何度も思い返しては、うぶな男子丸出しで悶々としていたので、どうにも目が合わせづらいのである。


「体調が良くないのですか?」

「えっ!?」


 びくりとする俺を、ティアナートは心配そうな表情で見てくる。


「ケガの具合はどうなのです。それに左腕のことも」


 俺は気を取り直して答える。


「ケガならすぐに治りました。最近はもうそんな感じなんです。救聖装光を使い続けている副作用だと思うんですけど……」


 実際、二日目の朝には傷は塞がっていた。

 灰化した左前腕は変わらず動かないが、他はすっかり元気者だ。

 あの白い髪の少年も大概だったが、俺も人のことを言えないなと思う。


「片手だと顔を洗うのが面倒だとか、靴紐を結ぶのに難儀するとか。日常生活の不慣れは多いですけど、体の具合は悪くないです」

「……では何をそんなに身を固くしているのです」


 疑いの眼差しを向けられる。

 だが正直には答えづらい。

 貴方の前にいると、抱きつかれたことを思い出してつい意識してしまうんですというのは、あまりに煩悩的で恥ずかしいではないか。


「シロガネ」


 ティアナートはジトっとした目で俺を見てくる。


「私は貴方の前では心を晒すことにしたと言ったでしょう。だから貴方もそうしなさい。私と貴方の間に隠しごとはなしです。時間のむだだからさっさと白状して」


 そこまで言われては、はぐらかす方がみっともないだろう。

 俺は顔を赤くして、おずおずと口を開いた。


「その、異性の方に抱きつかれたのは初めてだったので、緊張してしまって」

「は?」


 ティアナートは呆けた声を出した。

 だがすぐ俺の言葉の意味に気付いてか、にやにやする。


「そう……! んふふ、心配して損をしました」


 口元を手で隠すも、含み笑いを抑えきれていない。

 ティアナートはごまかすように、わざとらしく咳払いした。


「その件は後で話すとして、まずは必要な仕事を済ませましょう。貴方には私の相談役として情報を共有してもらわないと困るのです。だらけた分だけ余暇の時間は減ります。一言一句、聞き逃さないように」

「あっはい」


 ティアナートはやれやれとお茶を口にする。

 まねして俺も乾いた口の中を潤した。

 彼女はカップを卓に戻すと、トラネウス王国の動向について教えてくれた。


 逃走したアイネオスの身柄を押さえることはできていない。

 目撃情報によるとアイネオスは、王城を目指してエルトゥラン王国南部を行軍中だった別のトラネウス軍と合流したとのことだ。

 それがトラネウスの第二王子、次男シルビスを大将とする軍なのだという。

 なぜシルビスが王城を目指していたかと言えば、捕らえたティアナートと結婚させて国を乗っ取るために、アイネオスが呼び寄せていたからだ。


「今後の動きはどうなりそうですか?」


 俺が尋ねると、ティアナートはため息をついた。


「もちろんまたすぐに攻めてくるでしょう。アイネオスは賽は投げたのです。いまさら後には引けない。それに今が千載一遇の好機なのは客観的な事実なのです。チコモストからドナンの軍が戻るまでが勝負と考えているはずです」


 アイネオスはシルビスと合流後、エルトゥラン南部で軍を待機させている。

 トラネウス本国から援軍が到着次第、再度攻撃を仕掛けてくるのだろう。

 今度は不意打ちではなく、正面からエルトゥランを叩き潰す腹積もりだ。


「アイネオスを放置しておくのはまずいですよね。敵の援軍が来る前に、こちらから打って出た方がいいんじゃないですか?」


 ティアナートは少しの間、目を閉じて思案した。


「私がアイネオスなら、その場合は慌てずに兵を南に下げるでしょう。戦うのは援軍を待ってからでいい。拙速の必要はない」

「アイネオスはドナンさんの軍が戻るまでに決着をつけたいんですよね? いつ戻るかわからないのに、そこまで落ち着いて判断できるでしょうか?」

「そのためのアスカニオだったのでしょう」


 ティアナートは重たい息を吐き、目元を険しくした。


「トラネウス軍で最も優れた将軍がアスカニオです。チコモスト侵攻に同行させたのも、いざという時の足止めだった。貴方の話だと、建てた砦をアスカニオの軍に占拠されたのでしょう?」


 連絡手段の限られる第三国で敵軍の足止めをする。

 そんな困難な任務、全幅の信頼を置く将でなければ任せられない。

 初めから計画通りだったというわけだ。


「アイネオスが本国からの援軍を待つ時間は十分にある。こちらが決戦を望んだところで乗ってはくれないでしょう」

「城を取り戻しただけじゃ、最悪の状況は変わってないってわけですか」


 俺が眉尻を下げると、ティアナートは首を横に振った。


「そんなことはありません。本来ならもう終わっていた勝負なのです。貴方の帰還をきっかけに番狂わせが起きた。不利は変わらないにしても、もう一度勝負の場に立てる」


 ティアナートは前向きな笑みを浮かべた。


「であれば与えられた時間でやれることをやるだけです。震えて泣いている暇などない」


 頼もしい限りである。

 上に立つ王女陛下がこの態度なら、兵が動揺することもないだろう。


「そう言えば、捕虜の人はどうしたんですか?」


 先日の王城奪還戦で、逃げ遅れたトラネウス兵およそ百名を捕虜としたのだ。


「身代金を要求する書簡をトラネウスに送ってあります。もっとも次の大一番が終わるまで返すわけにはいきません。それまでは刑務所なり労働所にでも分散して配置しておきましょう」

「あっ、一段落すれば帰してあげるんですね」


 俺がそう言うと、ティアナートはお見通しとばかりにふふんと笑った。


「私が捕虜を殺すとでも思った?」

「え? まぁ、捕虜の方には悪いですけど、今はそうした方が安全かなと……」


 俺の脳裏に、コヨルゥに一杯食わされた記憶がよみがえる。

 敵を懐に置いておくのはリスクなのだ。


「確かに、埋伏の毒を警戒するのは大切です。ですが今回はその可能性を考えずともよいでしょう。あの状況下から覆される前提の策というのは、さすがに遠回り過ぎる」


 それもそうかと俺は頷く。

 あの時、アイネオスは勝ち誇っていた。

 城を奪還されるとは微塵も思っていなかっただろう。


「ですから時が来れば捕虜は丁重にお返しします。シロガネ、その意味がわかりますか?」

「……エルトゥラン王国の寛容さをトラネウスの国民に示すためだとか。捕虜に何か吹き込んで、トラネウス国内に広めるためとかでしょうか」

「よく勉強していますね」


 ティアナートは意地悪な笑みを浮かべた。


「考えてもみなさい。友好国を背中から斬っておきながら、兵の多くを捕虜にされたのですよ。情けない国王をトラネウス国民はどう思うでしょうね」

「あー……」


 なんとなく理解できて、俺は相槌を打った。


「印象操作は大切です。民に慕われてこその王ですから。まぁその辺りはリシュリーがうまく工作してくれるでしょう。アイネオスにはたっぷりと恥をかかせて差し上げます」


 面子の問題は意外とバカにならないものなのだ。

 どんな組織にも現状に不満を持つ勢力が存在する。

 指導者の面子にケチがつけば、途端に反対勢力が勢いを得る。

 それは権力基盤のがたつきそのものだ。

 そうならないよう統治者は気を使うのである。


 話も一段落して、俺たちは一息ついた。

 ティアナートは焼き菓子を一つ摘まみ、口に運んだ。

 せっかくなので俺もいただくとする。

 歯ごたえはさくさくで、甘くておいしい。


 開いた窓から昼前の暖かい日差しが入ってくる。

 しばしの間、俺たちは焼き菓子とお茶を楽しんだ。

 カップにおかわりを注ぎながら、ティアナートはところでと切り出した。


「アイネオスと決着をつけたら、私は貴方を王配として迎えるつもりです。その前段階として貴方にベール伯爵位と救世騎士の称号を与えます。役職を持たない名誉伯ですから気軽に受ければよい。貴方には獣人族の王を討った大功がある。誰にも文句は言わせません」


 俺はベルメッタに教わった社会知識を思い出す。

 騎士の称号は王が個人に与える栄誉称号だ。

 単なる名誉であり、特別に何かもらえたりはしなかったはずだ。

 国民からは尊敬されるかもしれない。


 伯爵位は騎士称号とは少し違い、国が与える位階である。

 位階とはその国における貴賤の序列をさすもので、つまり特別な人間であると認められた証となる。ざっくり言えば国から貴族認定されるということだ。

 これは国の制度なので、国から年金が出る。

 ただの名誉である騎士称号との違いがそこにある。

 と、そこまでは俺も知っているのだが……


「王配というのは何ですか?」

「女王の配偶者のことです」


 言って、ティアナートはカップのお茶を口に含んだ。

 俺は耳を通った単語が頭の中でうまく繋がらなくて、首を傾げる。

 ティアナートはカップを置くと、静かに息を吐いて、横目で俺を見た。


「トラネウスとの争乱が片付いたら、私は正式に女王として即位します。その時、貴方を夫にすると言っているのです」

「へっ!?」


 とんでもないことを言われていたことに気付き、俺は気が動転した。


「夫ってあの、夫婦の夫ですか? 俺がですか?」

「貴方に限って心配ないとは思いますが、身辺整理をしておきなさい。妾を持つことは認めません。余計な後継者争いの種になるだけです」

「え、いやその、ちょ、ちょっと待ってください」


 俺はつい先日まで女性と抱擁したことすらなかったお子様男子なのだ。

 順番を飛び越えすぎた話についていけない。

 あたふたする俺に、ティアナートは不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。


「何か問題でも?」

「いえその、そういうのって、お互いに好き合ってからと言いますか……」

「まぁ!」


 ティアナートはびっくりした様子で口元を手で隠した。

 その頬がみるみる紅潮する。


「こ、婚前の身で愛し合いたいだなんて、ふしだらです! 無責任です!」

「ふぁっ!?」


 とんでもない誤解をされたと思い、俺は慌てて言い返す。


「そんなこと一言も言ってませんよ!? 気持ちの話です! 結婚するならその前に気持ちを確かめ合わないとって話です!」


 お互いに顔を真っ赤にして固まる。

 二の句が継げず、指を動かすこともできない。


 どのくらい時間が止まっていただろうか。

 ふと窓の外から鳥の鳴き声が届いた。

 魔法が解けたかのように、ティアナートはお茶のカップに手を伸ばす。

 俺も喉を鳴らしてカップを空にした。


「……話を戻しましょう」


 ティアナートは恥ずかしさを隠しきれていない。

 それは俺も同じなので触れないことにする。


「気持ちの問題だと言うなら、なおのこと何が問題なのかわからない。貴方は私を支えると言ったではないですか」

「それは言いましたけど……」

「では何が不満なのです。まさかすでによそに女がいるのではないでしょうね」


 細めた目でにらまれて、俺はどうにも参ってしまう。


「そんなわけないじゃないですか。俺が聞きたいのは、ティアナートさんが何を目的にこんな話をしたのかです。俺は結婚というのは両想いの男女がするものだと思っているんです。俺とティアナートさんはそういう間柄ではないでしょう?」


 普通に考えて、俺のような偏屈な人間を好きになる理由がない。

 おそらく何か外交に利用するために婚約を発表するのだろう。

 俺はそういう前提で彼女と話をしているのだ。

 ティアナートは何か違和感を覚えたのか、怪訝な顔をする。


「シロガネ。貴方まさかとは思いますが……私が政治的な目的のために結婚を持ち掛けたとでも思っているのですか?」

「違うんですか?」


 するとティアナートは軽く握った右手を自身の眉間に当てた。

 呆れた様子でため息をつく。


「本当に困った人。戦場の貴方はあんなにも雄々しいというのに」


 ティアナートは扉の方を向いて、室内に人がいないことを再確認した。

 照れくさそうな顔をして、その素晴らしく豊満な胸に自身の右腕をむぎゅっと押し付けて、潤んだ瞳で俺を見つめてくる。


「もっとはっきり言葉にしないとわかりませんか? 私は貴方を人生の伴侶にしようと考えるくらい特別なものを感じている。まだ色恋を知らない身なので、この気持ちが愛かどうかはわかりませんが」


 普段は凛として気丈な王女である彼女が、乙女のように恥じらう様があまりにもかわいらしくて、俺は心臓が苦しく高鳴るほどに動揺した。

 意味もなく視線をきょろきょろさせてしまう。

 客観的に判断すれば、明らかに彼女は好意を示してくれている。

 それでも俺はどうしても、そんなはずがないだろうと思ってしまうのだ。


 俺はカップにわずかに残った雫をすすった。

 ティアナートは腹を割って話してくれている。

 ならば俺も正直に打ち明けるべきなんだろう。


「その……俺は自分が人に好かれる人間だとは思っていないんです。偏屈でめんどくさいし、なにより自分自身が一番信用できない。だからどうしてティアナートさんがそんな風に言ってくれるのか。疑うわけではないですけど、俺には理解できないんです」


 ティアナートは嫌な顔一つせず、なるほどと頷いた。

 それから空になった俺のカップにポットのお茶を注いでくれた。

 俺はお礼を言って、ぬるくなったお茶で乾いた喉を潤す。


「貴方が自信がないと言うのなら、納得するまで言ってあげましょう」


 ティアナートは挑戦的な笑みを浮かべた。


「先程も言いましたが、戦場の貴方は本当に凛々しい。私も軽くですが武芸を学んだのでわかります。戦う貴方は見惚れるくらいに美しい。我が国の槍術とは違う独特な、けれど理に沿った鮮麗さがある。それは救聖装光の力に頼るだけではできないことです」


 俺は素直に嬉しくなる。

 だがそれは自分が褒められたからではない。


「俺の爺ちゃんは……祖父は槍の名人だったんです。未熟な俺が生き残れているのも、厳しく鍛えてくれた祖父のおかげです」

「そうでしたか。さぞ立派な御仁なのでしょう」


 俺は生まれ育った寺の風景を思い出して、郷愁の念を覚えた。

 エルトゥランに来た日からもう三か月が過ぎていた。

 脳裏に浮かぶ父さんと爺ちゃんの顔もぼんやりしてきた気がする。


「シロガネ。貴方は絶体絶命の危機を何度も救ってくれました。貴方がこの国に来てからどれほどの功績を上げたことか。普通の姫なら恋に落ちてもおかしくないと思いませんか?」


 ティアナートは俺の顔色から内心を推し量っているようだった。


「童話の中のお姫様ならそうかもしれませんけど……それに俺は誰かに好きになってほしくて助けたわけじゃない」

「知っています。貴方がまっすぐな人なら、私は運命を感じたりしなかった」


 引っかかるようなことを言ってくる。

 眉をひそめる俺を、ティアナートは射貫くような目で見てきた。


「貴方は伝説に謳われた完全無欠の救世主様ではなかった。にもかかわらず、自己犠牲を厭わず私に尽くしてくれている。それはなぜです?」

「それは――」

「罪悪感。かつて貴方はそう答えた」


 俺が言うより早く、ティアナートは言葉を被せてきた。

 体を前のめりにして顔を近付けてくる。


「貴方の心に深い傷を負わせた過去が、貴方にそうさせているのでしょう? 自分を犠牲にして他人を助けることで救われた気分になる。でもそれもその日だけ。心はからからに乾いたまま。なぜなら失われたものは帰ってこないから。そしてまた自己犠牲を繰り返す。本当は自分を助けてほしいくせに」


 俺は顔をこわばらせる。

 三年前の七夕の前夜、俺は大切な幼馴染を助けられなかった。

 あの日の出来事は俺の心から芯をえぐり取った。

 それからずっと底なしの汚泥の中でもがいているのが俺なんだ。


「でもそれは私も同じ。後悔に駆り立てられて生きている」


 ティアナートは重たい息を吐いて、椅子の背もたれに体を預けた。

 その表情に哀傷の影が差す。


「あの日の私に勇気があれば、きっともっと多くの命を救えた。私を逃がしてくれた父と母を。匿ってくれたベルメッタの家族も。なのに私は怖くて逃げて、隠れて震えて、結局最後は追いつめられて。自分の死が避けれないものだと思い知るまで戦おうとしなかった。私はそんな自分を許せずにいる。今の私はその裏返しでしかない」


 ティアナートは椅子から腰を上げると、俺の隣に立った。

 純白の手袋に包まれた右手を俺の肩に置いてくる。


「まるで鏡に映った自分を見ているような気持ちにならない? シロガネ、貴方はどう思う?」


 彼女の白い指先から桃色の袖を辿って、俺はティアナートと目を合わせた。

 似た者同士だと彼女は言いたいのだろう。

 痛いところを突かれて、俺はつい反発したくなる。


「でもそれじゃあ、傷の舐め合いじゃないですか」

「そうかもしれませんね」


 ティアナートはくすりと笑うと、俺の背後に回った。

 しなだれかかるように俺の肩にあごをのせてきた。

 頬と頬が触れそうになり、俺は顔をそらしてしまう。


「シロガネ。貴方は傷にさわられるのがそんなに怖い?」


 俺の気持ちを見透かしたかのように、ティアナートは耳元で囁いた。


「私は貴方の前では心の扉を開けっ放しにすることにしたの。おかげで今はとても楽。弱い自分を見せられることがこんなにも解放的だとは思わなかった」


 彼女の体温が背中に伝わってくる。

 人の体の温かさというのは、どうしてこんなにも安心できるのだろう。


「王女をやるのが嫌なわけではないのよ? 幼い頃からいつかは国の仕事に関わると思って勉強してきたのだから。でも一番上に立ってずっと気を張っているのはとても疲れる。誰にもそんな自分を見せられなかったし……」


 次第に俺は変に格好つけている自分が滑稽に思えてきた。

 どうして必死になって恥部を隠そうとしているんだろう。

 口ではああだこうだ言うわりに、俺はそういうところが弱いんだ。

 根っこの根っこが臆病なんだ。


「贖罪の為に自分を追い詰めても救われはしない。いつか行き詰まって壊れるだけ。シロガネ。そのことは貴方も気付いているのでしょう?」

「それは……」


 俺は言葉を返せず、うつむいた。

 ティアナートの言ったことは実感として正しい。

 このままいけば俺は泥の中で死ぬだろう。


 かつて俺はギルタに『捨て鉢な生き方はやめるべきです』と言った。

 吐いた言葉が全て自分に返ってくる。

 どんどん化けの皮が剥がれていく。


「俺は……」

「私に心の中を見せるのが怖い? 貴方がどんな人でも、私は貴方を責めたりしない。だから怖がらないで。貴方の弱いところを私に見せて」


 全部わかっていたんだ。

 何度も頭の中で自問自答してきたことだ。

 その度にわかったふりを気取って、見て見ぬふりを続けてきた。

 でもこうして自分ではない誰かにその事実を突きつけられると、恥ずかしさと情けなさで泣きそうになってくる。

 結局は俺は、自分がしてほしいことを他人に押し付けていただけなんだ。


「やめてください……俺は……」

「もう我慢しなくていいの。心を楽にさせてあげて。私が貴方を許してあげる。私が貴方を受け止めてあげるから」


 ティアナートの甘い声が耳をなでる。

 虚勢で塗り固めた心の鎧がひび割れて崩れていく。

 沈殿したヘドロのような感情が喉をせり上がってくる。


「俺はただの人でなしなんです。死んだ方がましな屑なんです。そのくせ死ぬ度胸すらない。いざ死にそうになると生にしがみつく。意地汚くて、どうしようもない腰抜けなんです……!」


 まぶたの裏に蘇るのはあの夜の映像だ。

 三年前の七夕の前夜。寺の裏山の祠の前。

 サチエは助けを求めて俺に手を伸ばした。

 俺はその腕を掴んだ。掴んだんだ。掴んだのに。


「俺があの時、あいつの手を離さなかったら……!」


 顔が熱くなる。

 視界がにじむ。

 嗚咽を我慢できない。


「助けたかったのに……! でも……あいつは……! なのに……辛いからって……俺だけが助かろうなんて……!」


 俺は喚くように声を吐いた。

 助けたかった。本当に助けたかったんだ。

 なのに俺は土地神様の恐怖に屈して、土壇場でサチエから手を離した。

 そんな俺に彼女は『ありがとう』と最期に言った。

 俺はその言葉を今でも受け止められずにいる。

 だって『ありがとう』は感謝の言葉だろ。

 彼女を突き放した俺にその言葉を受け取る資格はない。

 俺は罵倒されなきゃいけないんだ。


 弱くて醜い自分に涙がこぼれる。

 ティアナートはそんな俺を、後ろから優しく抱きしめてくれた。

 温かくて柔らかい。


「苦しかったのね? でももう一人で強がらなくていいの。これからは私が一緒に泣いてあげる。私が貴方を守るから」


 サチエは俺のことを許してくれるだろうか。

 その問いに答えはない。

 幼馴染はもうこの世にいないのだから。


「私が貴方を愛してあげる。私が貴方の心を埋めるから……」


 ティアナートの声が胸に染み入る。

 この傷はきっと消えない。

 それでも生きていくのなら、前に向かわないといけないのだ。

 強いなら一人で歩いていけばいい。

 弱いなら誰かと支え合っていくしかない。


「シロガネ、私だけを見て。私を守って、私と同じ道を歩いて」


 俺は震えながら、ティアナートの右腕をぎゅっと掴んだ。

 彼女の温度を感じながら、涙が枯れるまで泣き続けた。

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