44話『召使いは語るしかない』
エルトゥラン王城がトラネウス軍の襲撃を受けたその日の話である。
太陽も眠る真夜中に、救世主様の屋敷の扉を叩く者がいた。
こんな時間に何者かとシトリが尋ねると、それは義理の姉ギルタだった。
玄関の扉を開けると、ギルタは二人の珍客を連れていたという。
王女ティアナートとその侍女ベルメッタであった。
ティアナートはいつものドレスではなく、侍女と同じ服を着ていた。
逃走用の変装である。
ギルタの父マグウ=マリージャはかつてエルトゥラン王国の大将軍だった。
王の信頼も厚く、ゆえにいざという時の城の隠し通路の存在を知っていた。
父からこの情報を聞かされていたギルタは先回りをした。
城から脱出を図った王女を匿うべく、屋敷に連れ帰ったというわけだ。
トラネウス軍が王城を襲撃すれば、ティアナートは逃げの一手を打つ。
ギルタはそう予測していた。
人間族を祖先の土地から駆逐しようとした獣人族とは違って、隣国トラネウスの国王アイネオスはエルトゥラン王国との統一を望んでいた。
今後の統治を考えれば、王女の身柄は是が非でも抑えなければならない。
アイネオスが一番困る方法をティアナートは選ぶだろうと考えたのだ。
ところでギルタはエルトゥラン王家に忠誠を誓っているわけではない。
ではなぜ王女を保護したかといえば天秤にかけた結果だ。
自分を使い捨ての犬としか考えていないトラネウス王国にティアナートを差し出したところで、精々はした金が手に入る程度だろう。
シトリの今後の生活を考えれば、エルトゥラン側に恩を売った方が良い。
ギルタはそう考えて、父マグウの首をはねた王女に助力を申し出たのだ。
ギルタの立てた計画はこうだ。
まずギルタが逃走用の馬車を手配する。
それまでの間、ティアナートらは屋敷で身を潜める。
準備が済み次第、エルトゥランの町から離れる。
可能であれば目的地は北の国境、サビオラ砦だ。
ギルタの提案をティアナートは了承した。
準備の間にトラネウス軍に包囲網を張られる可能性はあったが、女二人が徒歩で逃げたところでたかが知れている。
危険を冒してでも足を用意した方が良いだろうとの判断だった。
ティアナートたちをシトリに預け、ギルタはすぐに出ていった。
彼女の帰りを待つ間、三人は屋敷の食堂で過ごすことにした。
ろうそくの明かりが深夜の大部屋をぼんやりと照らしている。
縦に長い食卓の上にはティーポットと三つのカップが置かれていた。
卓の片側にシトリが、反対側にティアナートとベルメッタが腰掛けた。
ティアナートとベルメッタは行儀よく座ったまま一言も発しない。
二つのカップは手付かずのまま冷めた。
シトリは二人の態度に少しの苛立ちを覚え、口を開いてしまった。
「陛下にお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
ティアナートとベルメッタは視線をシトリに向けた。
「城に味方を残したまま、真っ先に陛下がお逃げになられた。それが上に立つ者のすべきことなのですか?」
「ええ。今はこれが最適解でしょうから」
シトリの不敬な問いかけに怒りもせず、ティアナートは答えた。
「大切なのはエルトゥランの民の心なのです。たとえ城を落とされようとも、民が屈さぬ限り敗北ではない。チコモストに出したドナンの軍もじきに戻って来る。その時まで私が敵の手に落ちず、反抗の意志を掲げ続ける。アイネオスはそれを最も嫌がるでしょう」
「……そんなに簡単にいくものでしょうか。シロガネたちが帰ってきても、敵に勝てるとは限りませんよね」
「勝てます」
ティアナートは少しの迷いもなく断言した。
「どうしてそう思えるのですか?」
「シロガネたちは精強な獣人族を相手に戦っているのです。実戦経験の乏しいトラネウスの弱兵など取るに足らない相手。恐れる必要などない」
ティアナートは毅然とした態度で言ってのける。
シトリはギルタと同じように、自分の父を討った彼女に良い印象を抱いていなかったが、じかに話をして雰囲気に呑まれそうになる感覚を覚えた。
家族の仇に迎合してたまるかという反発心が口をついて出る。
「強いんですね王女様は。羨ましい。貴方はそうやって、辛いことも平然と乗り越えてきたんでしょうね」
その言葉に反応したのは、今まで大人しくしていたベルメッタだった。
思い切り『バン!』と机を叩いて立ち上がる。
「どうしてそんなこと言うんですか!? 辛くないわけないじゃないですか! 貴方には人の気持ちがわからないんですか!?」
かわいらしい外見からは想像できない激昂にシトリは圧倒される。
その目つきに、シトリは自分が藪をつついて蛇を出したことに気付いた。
シトリはベルメッタの素性を知らなかったが、その目を自分に向けてくる相手は、父バエトに憎しみを抱いていることを身をもって学んでいたからだ。
「座りなさいベルメッタ」
ティアナートが抑えた声音で言うと、ベルメッタは唇を固く結んだ。
椅子に腰を下ろして、侍女服の裾を強く握った。
「私の侍女が失礼な物言いをしました。ご容赦くださいませ」
ティアナートは愛想笑いを浮かべるも、頭は下げなかった。
シトリは口を滑らせた己に後悔しながら首を垂れた。
「私の方こそ過ぎたことを申しました。申し訳ございません」
建前の謝罪を交わして、食堂はまた静寂を取り戻した。
ろうそく一つの薄暗い食堂に重い沈黙が流れる。
シトリは気まずい空気に嫌気がさして卓に突っ伏した。
真夜中に叩き起こされて眠いのもある。
これ以上話すこともないと思い、彼女は目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「シトリ! 起きろ!」
乱暴に肩を揺さぶられて、シトリはまぶたを開いた。
ギルタはシトリをむりやり立たせると、背負い袋と燭台を押し付けた。
わけがわからないまま食堂から連れ出される。
「ど、どうしたのギルタ?」
「敵に嗅ぎつかれた! 急げ!」
「えっ? えっ?」
ギルタに引っ張られてシトリは薄暗い廊下を走る。
もうじき夜が明けるのだろう。
廊下の窓越しに、庭先に集まった鎧兜の兵士の姿が見えた。
「屋敷の周りはトラネウス兵に囲まれてしまっている。シトリ、お前は二人を連れて逃げるんだ。隠し通路の抜け方は覚えているな?」
「う、うん……」
すでに玄関の前でティアナートとベルメッタが待っていた。
両者ともに緊張した面持ちで、さすがに落ち着かない様子だ。
ギルタはティアナートの前で片膝をついた。
「私はここに残って時間を稼ぎます。彼女が案内をしますので、すぐに屋敷をお離れになってください」
三人の視線がシトリに向けられる。
有無を言わせぬ状況だった。
シトリは玄関すぐの右の角部屋の扉を開けて、先に王女と侍女を中に入れた。
ギルタがシトリの肩にぽんと手をのせる。
「扉は開けておいてくれ。逃げた痕跡は私が消しておく。大丈夫だ。きっと何とかなる」
そう言ってギルタは微笑み、シトリの背中を押した。
戸惑いながらもシトリは角部屋の中に入った。
この角部屋はシトリの父バエトが生前、応接間として使っていた部屋である。
もっとも今は家具の一つもない空き部屋だ。
部屋の奥にある扉を開けるとそこは書斎だった。
壁際に空の書棚が並んでいる。
「少し持ってもらっていいですか」
シトリはベルメッタに背負い袋と火のついた燭台を預けた。
それから一人で部屋の隅に置かれた書棚を動かした。
板張りの床に鍵付きの地下侵入口がある。
シトリは鍵を開けて、侵入口を塞ぐ床板を外した。
土がむき出しの狭くて暗い穴に梯子がしつらえてあった。
「どうぞ先に降りてください。私は蓋を閉じるので」
ティアナートとベルメッタが困ったように目を合わせる。
「……私が先に参ります」
ベルメッタが梯子に足をかけた。
火のついた燭台を片手に地下へと降りていく。
ティアナートはその様子を不安そうに眺めていた。
「陛下。お急ぎにならないと」
シトリが急かすと、意を決したようにティアナートは梯子に足をかけた。
左腕をぶら下げたまま、右手だけで器用に梯子を降りていく。
そう言えば王女陛下は左腕を悪くしていらっしゃるのだったか。
シトリはふと思い出したが、だからといってどうにもできない。
後に続いて穴に入った。
床板の蓋を閉じると、その暗さと狭さに息苦しさを覚える。
梯子の位置を手探りしながら、慎重にシトリは梯子を降りていった。
何とか三人とも無事に底に降りられた。
そこは土を掘って作った地下通路だった。
通路は辛うじて人がすれ違える程度の幅しかない。
シトリはベルメッタから燭台を返してもらった。
「足下に気を付けて、ついてきてください」
ろうそくの明かりを頼りに、土で囲まれた地下道を進む。
シトリは左手で土壁に触れながら歩いた。
石交じりの土壁はしっとりと冷たい。
三人の足音が狭い空間に反響して聞こえる。
誰も言葉を発しない。
シトリは今更ながら自分の置かれた状況に不安を感じ始めていた。
流されて一緒に逃げているが、敵兵に捕まったらどうなるのだろう。
自分も牢屋に入れられるのだろうか。
屋敷に残ったギルタはどうしているのだろう。
トラネウスの兵士たちに酷い目に合わされてはいないだろうか。
「シトリ=アルメリア」
不意に背中から声をかけられて、シトリは振り返る。
ロウソクの火に照らされたティアナートは柔和な眼差しを向けていた。
「足を止めないで。歩きながら話します」
言われた通りに向き直り、シトリはまた歩き出す。
「もし後でトラネウスの者に詰問されても、私に脅されたとでも言えばよい。貴方は断れずに手を貸しただけ。命まで奪われはしないでしょう」
「え……?」
シトリはすぐにはその言葉の意味を理解できなかった。
まさか自分の身の心配をされるとは思ってもみなかったからだ。
「私は一度、貴方とは話をしてみたいと思っていました。もしこの苦難を無事に乗り越えられたなら、茶会の場でも設けましょう」
「ど、どういうつもり?」
シトリは反射的に振り返ってしまうが、慌てて前を向いた。
今は逃げることが先決なのだ。足を止めてはならない。
しかし動揺を抑えられず、口から言葉が溢れた。
「私はあんたを好きだと思ったことなんかない。あんたたちだって私のことが憎いはずでしょ? どうしてそんなこと言うわけ?」
「シロガネです」
ティアナートは両者を繋いだ少年の名前を出した。
「貴方の何が彼の琴線に触れたのか。私はそれが知りたい。ただそれだけです。他意などありません」
土壁に添わせていたシトリの左手がふと空を切る。
地下道に狭い横道があった。
「こっちです」
道を変えて進む。
シトリはもう一か月は顔を合わせていない屋敷の主を思い出していた。
面倒臭いくらいにお節介焼きで変わり者の少年の顔が脳裏に浮かぶ。
「はじめて王女様に興味が湧きました」
シトリはわずかに頬を緩ませて、背後のティアナートに言った。
「お茶会、楽しみにしています」
それから暗い地下道を歩くことしばらく、行き止まりに辿り着いた。
その足下に小窓のような枠があり、それを金属製の蓋が塞いでいた。
シトリは膝をついて、蓋をぐっと押す。
蓋が外れた拍子に土がぱらぱらとこぼれ、光が差し込んできた。
穴から這い出すと、寄せては返す波の音がした。
しっとりとした潮の香りが鼻をくすぐる。
空はまだ薄暗い。
見回すとごつごつとした岩肌に囲まれていた。
地下通路は海岸近くの崖下の岩場に繋がっていたのだ。
ティアナートとベルメッタが穴から這い出してくる。
三人とも袖や裾が土で汚れていた。
外の空気を吸えた解放感に、皆で安堵の息をつく。
「ようやく出られましたね……」
ティアナートは青ざめた顔をしていた。
歩いた距離はさほどではないはずだが、額に冷や汗が浮かんでいる。
「休んでいる暇はありません。行きましょう」
ティアナートは額の汗を右手の白手袋の甲で拭って、歩き出した。
でこぼこの硬い岩場を抜けると、目の前に砂浜が広がっている。
そこに奇妙な光景があった。
フード付きの外套をまとった少年が砂でお城を作っていた。
顔立ちは中性的で愛らしいが、腰の脇の剣帯に剣を差している。
その剣は鞘の先から柄の端まで艶のある黒色に染まっていた。
かわいらしい少年が持つには不釣り合いな物騒な代物である。
少年のそばには、無精ひげの中年の男が仰向けに寝転がっていた。
シトリたちに気付くと、男はむくりと体を起こした。
人のよさそうな笑顔を浮かべて手を振ってくる。
「おはようさーん。いい天気やねー」
朝の訪れを告げる太陽が水平線に輝いている。
こんな時間に、近所の住民が浜辺で砂遊びしに来るものだろうか。
シトリたちが戸惑っている間に、無精ひげの男は腰を上げた。
枕にしていた縄の束を拾うと、フードの少年の背をぽんと叩く。
「ほら少年。仕事するぞ」
「うん」
少年は手の砂を払うと、髪をかきあげるようにフードを脱いだ。
少年の髪の色は真っ白だった。
しかしそれは色素が抜け落ちた老人の白髪とは正反対だ。
艶のある白い髪が陽の光で煌めいている。
靴底で砂を鳴らして二人が近付いてくる。
真っ先に駆け出したのはティアナートだった。
「走って!」
途端に無精ひげの男の目つきが変わった。
蹴り足に頼らない素早い足の回転で砂浜を走るや、縄の輪を放り投げる。
ティアナートは砂に足を取られ、縄を避けられなかった。
腕の上から胴体を拘束され砂浜に突っ伏す。
「ティア様!」
駆け寄ろうとするベルメッタを遮るように、白い髪の少年が割って入った。
屈託のない笑みを浮かべて、剣の握りに手をかける。
「王女様以外は殺してもいいって言われてるんだ。死にたくないなら動かないでね」
しかしベルメッタは一瞬の躊躇もなく、爪先で砂を蹴り上げた。
砂の目つぶしに少年は顔を腕で覆う。
その隙にベルメッタはどこからか取り出した短剣を抜き、腰だめに突進した。
やったかとシトリが息をのんだ刹那、甲高い金属質な音が弾けた。
宙に舞ったのは『斬られた』短剣の刃だった。
白い髪の少年は解き放った漆黒の剣を鞘に納め直す。
ベルメッタは断たれた短剣の切っ先を見つめて立ち尽くすしかなかった。
少年は変わらない笑顔のまま、つぶらな瞳をベルメッタに向ける。
「お姉さんは王女様のことが大好きなんだね。でもそんな危ないことしちゃだめだよ。そんなに慕ってくれるお姉さんに死なれたら、王女様が悲しむでしょ」
その間に無精ひげの男はティアナートの手首、足首を縄で縛っていた。
こうなってはもう抵抗のしようがない。
戦意喪失したベルメッタも同様に縛り上げられる。
シトリは一歩も動けず、ただそれを見ているしかなかった。
「さてと」
無精ひげの男は胸の前で縄をぴんと張ると、シトリの方に歩いてくる。
「余計な目撃者は消すようにって言われてるんだよねぇ」
「ひっ……」
腰が引けた時に足がもつれて、シトリは砂浜に尻もちをついた。
近付いてくる無精ひげの男を、白い髪の少年は腕を横に出して遮った。
「どうした少年?」
「このお姉さんは殺しちゃだめだよ。ギルタの大切な人なんだから」
無精ひげの男はやれやれと肩をすくめた。
「おっさんは王女さん連れて先に行くからなー」
男はティアナートの身柄を肩に担ぎ上げた。
ざくざくと砂を鳴らして離れていく。
白い髪の少年はシトリの前で片膝をつくと、柔らかい笑顔を浮かべた。
「お姉さんはギルタの義理の妹さんだよね。ギルタは組織を裏切ったからきっと酷い目に合わされる。でも帰りを待ってる人がいるってわかれば生きる希望が湧くでしょ。だからお姉さんのことは殺さないんだ」
少年はシトリに手を差し伸べる。
その手は幼い顔立ちに反してごつごつしていた。
元軍人のギルタのような、鍛練に打ち込んだ人間の手だった。
「僕ね、ギルタには勉強を教えてもらったんだ。優しい人は好きだよ。そういう人にこそ幸せになってほしい」
シトリは首を横に振り、少年の手を拒絶した。
彼の笑顔にどこか薄ら寒いものを感じたからだ。
少年は表情を崩すことなく手を引っ込め、シトリに背を向けた。
縄で縛られて、砂浜に転がされているベルメッタを両腕で抱え上げる。
「じゃあまたね。シトリお姉さん」
白い髪の少年はそう言い残して、軽い足取りで砂浜を駆けていった。
シトリは動けないまま、その後ろ姿が見えなくなるまで波の音を聞いていた。