39話『我が身を焼き焦がすとも(3)』
アカマピが土を踏む音が近付いてくる。
立たなきゃいけないのはわかっていた。
わかっちゃいるが、ぼろぼろの体はもう本当にだめになっていた。
諦めという甘美な誘惑に心が溺れそうになる。
こんなになるまで頑張ったんだ。誰も責めやしないよ。
やれるだけやったさ。もう十分だろ。
自分を正当化する言葉ばかりが脳裏に浮かんでくる。
それなのに――
「なんで……」
どうして涙がこぼれるんだろう。
こんなになるまで自分を追いつめても、俺は自分を許せなかった。
胸の奥に押し込めたどす黒い炎はいまだに燻ぶり続けている。
このまま死んだら俺は情けない根性なしのままだ。
俺はまだ何者にもなれちゃいない。
俺はまだ人生に納得しちゃいないんだ。
「俺は……!」
救世主の力って、救聖装光の力って本当にこんなものなのか。
この程度の力で歴史を動かせるわけがないだろう。
出し惜しみするなよ。もっとよこせ。
お前が生命を吸うっていうなら、好きなだけくれてやる。
だからお前の本気を見せてみろよ――!
足音が耳のそばまで来た。
俺は荒野に仰向けで横たわったまま、かっと目を見開いた。
アカマピが金棒を振りかざしている。
「さらばだ、人間族の戦士よ」
金棒が振り下ろされる。
俺は跳ねるように右足で金棒を蹴った。
すんでの所で金棒が頭をそれて、地面をへこませる。
俺は足を戻す勢いで体を起こし、脱兎のように距離を離した。
落とした槍を引っ掴んで、アカマピに向き直る。
「その姿は……!」
アカマピは驚嘆の声を漏らした。
俺の体を覆う救聖装光の左腕装甲が黒く変色していた。
漆黒と化した装甲から黒煙がぶすぶすと立ち昇る。
焦げた臭いが鼻をついた。
脳天から爪先まで、神経が燃えるように熱い。
体内を駆け巡る血液が煮え滾っているように感じる。
俺は黒く染まった装甲に包まれた左腕を見た。
指の先まで熱を感じる。力を込めてみると握り拳になった。
思った通りに動く。左手の感覚が蘇っていた。
「それが悪魔の力か。奥の手を隠していたというわけだな?」
「そんなわけないでしょ……手を抜いて戦えるほど俺は強くないんだ……」
俺は興奮を抑えながら、金属槍を構えた。
脳内が麻薬めいた分泌物で満たされている。
意識が冴えて、この上なく感覚が研ぎ澄まされていた。
心臓がばくばくとあり得ない速さで拍動している。
今、俺が動けているのは救聖装光で命を燃やしているからだ。
火が消える前に決着を付けないといけない。
「しましょうか、続きを」
「望むところだ」
アカマピが笑みを浮かべたのを見て、俺は弾けるように飛び出した。
一気に距離を詰め、槍を突き出す。
金棒が風を唸らせて、槍を横へと打ち流した。
――そのやり方はもう体験した。
アカマピが金棒を逆方向に切り返そうとしたときには、俺は跳んでいた。
顔面狙いの飛び蹴りを、アカマピは体勢を斜めに崩して避けた。
俺は体を捻って着地し、ただちに槍で足元を刈りにいく。
アカマピは巨体に似合わぬ俊敏さで槍を飛び越えた。
反撃の振り回しが来るが、俺は後方回転跳びで距離をあけた。
また槍の間合いに戻る。
アカマピは金棒を正眼に構え直していた。
俺は仕掛けるふりして踏み込み、フェイントをかける。
金棒がぴくりと動くも、乗ってきてくれない。
アカマピは落ち着いた目で、俺の動きを観察していた。
武道の達人を相手にしているようなやりづらさだ。
とにかく動作にむだがない。
気が急く。だが体は熱く心は冷たくだ。
俺は己の武器を信じ抜くことにした。
気を込めて鋭く突きを放つ。
アカマピは当然のように金棒で打ち払ってきた。
最小限の足さばきから横振りが来る。
俺は半歩下がり、金棒を槍で突いて軌道をそらせた。
すかさず再度、突きを仕掛ける。
互いに攻撃を弾き合い、嵐のごとく金属音を打ち鳴らす。
「アカマピだ! アカマピを討てぇー!」
後方に控えていた味方の歩兵部隊が猛然と左翼を上がってきていた。
こちらの状況に気付き、ドナンが指示を出したのだろう。
だがエルトゥラン騎兵と交戦していたアカマピの配下クァクァは、この動きをいち早く察知し、歩兵部隊を迎え撃つべく獣人部隊を動かした。
「ウオオォォー!」
叫び声を上げて戦士たちがぶつかる。
そんな喧噪をよそに、俺とアカマピの打ち合いは続いていた。
恐ろしい速度で振るわれる金棒と槍が火花を散らし、鋼の音色を響かせる。
金棒が唸るたび心臓がひりつく。
どうにか凌いでいるが、力も速さも向こうが上だ。
紙一重の攻防の中で俺はただ一つの突破口を狙っていた。
もっとだ。もっと鋭利に感覚を研ぎ澄ますんだ。
限界を超えて一点を――
俺が繰り出した突きを、アカマピは金棒で外に受け流した。
短い踏み込みから、腰のひねりを加えた金棒の振り回しがくる。
その瞬間が過集中した俺の目にはスローモーションに見えた。
狙うのは金棒の表面の僅かなくぼみ。
それは攻撃を弾く度に打ち込んでいた箇所である。
地面につけた足の底から筋肉を連動させ、足から腰へ、胴から腕へ。
俺は全身の力を乗せて、迫りくる金棒に渾身の突きを放った。
尖った槍の先端は金棒に亀裂を走らせ、その勢いのまま鉄塊を割り貫く。
「むおっ!?」
砕け散る金棒越しに、驚愕するアカマピの顔が見えた。
俺は素早く槍を引き戻し、再度突きを繰り出す。
アカマピは手元だけ残った金棒で防ごうとするが、もう遅い。
穂先がアカマピの右胸に突き刺さった。
「ぬぅ……!」
咄嗟にアカマピは金棒を捨てて、両手で槍の柄を掴んだ。
剛力でしっかりと掴まれて、押そうにも槍が動かない。
分厚い胸板から滲み出した赤い血が槍の柄を伝って垂れる。
アカマピは食いしばった歯をむき出しにした。
「恐るべき力だ、人間族の救世主よ……! さすがは我らの祖先を打ち負かしただけはある。だがこの強さを乗り越えた時、アカマピは真に最強の戦士となる!」
アカマピの丸太めいた腕の筋肉が膨れ上がる。
俺は足を開いて腰を落とし、槍を抜かせるものかと力を込めた。
互いに一本の槍を掴んでの力比べとなる。
「貴方の夢の為に、どれだけの人が犠牲になったかわかっているんですか!」
「己が信念の為に身命を賭すのが戦士の生き様だ! 礎となった者の為にも、アカマピは前に進み続ける!」
「止めるって言ったでしょうが!」
にらみつけた視線が交わる。
槍を伝った血の滴りが、柄を握る俺の左手にまで流れてきた。
黒く変色した装甲に触れた途端、じゅわっと焼けた音を立てて蒸発する。
「負けるかぁぁぁ!!」
俺は奥歯を噛みしめて、血管が切れそうなほど力を込める。
足の指で地面を抉るように反動をつけて槍を押し込んだ。
「があっ!!」
赤茶色の体毛で覆われた胸板を切り裂いて、血塗れの穂先が上にそれた。
アカマピは痛苦の声を漏らしながらも、握った槍をぐいと引き寄せた。
俺は勢いあまって体が泳いでしまい、腕の下に潜り込まれてしまう。
胴に回されたアカマピの太い腕が鎧の上から締め上げてくる。
熊が抱擁するかのような剛力に銀色の装甲がきしみ、足が浮いた。
「かはっ――!?」
肋骨から背骨まで圧迫されて、肺から空気が絞り出される。
俺はなんとか槍を逆手に持ち直し、アカマピの背中に突き刺す。
「ぬうぅぅ……!」
アカマピは俺を抱き締めたまま前屈みに体重をかけてきた。
背骨が反り返り、骨が危険な音を鳴らす。
このままじゃへし折られる。
俺は力を振り絞って、突き立てた槍をアカマピの背中にねじ込んだ。
「ぐぅぅぅぅ!!」
血と土で汚れた刃が屈強な肉の鎧に潜り込んでいく。
俺はもう目を開けていることも、息をすることもできなかった。
体も心も何もかもが苦しい。
それでも今度こそは最期まで苦しみ抜きたいと思っていた。
自分の為なんかじゃなく、自分を信じてくれる誰かの為に。
ふとアカマピの腕が緩んだ。
俺はずるりと滑り落ちるように背中から地面に倒れる。
辛うじてまぶたを開くと、膝をつくまいと堪えるアカマピの姿があった。
見開かれた目が血走っている。
「アカマピは……誰よりも強い戦士だ……! 相手がどれほどの強者であろうと……断じて屈しはしない……!」
さすがのアカマピも息が荒い。
深くまで刺さった槍は彼の背中に残ったままだ。
俺は自分の体を包む、めこめこにへこんだ救聖装光に意識をやった。
胴体を圧迫する装甲の歪みを緩めて、ようやく肺に酸素を吸い込めた。
息も絶え絶えながら言葉を返す。
「アカマピさん……貴方はきっと立派な人だ。王として、とてつもなく大きなものを背負っているんでしょう……」
俺はふらふらの体を起こし、片膝立ちになる。
「ちっぽけかもしれないけど、俺だって背負っているものはある。エルトゥランに来て、俺はみんなと出会えた。男としてやり直す機会をもらったんだ。だから……」
気力で立ち上がり、鼻先が触れる距離でアカマピをにらみつける。
「貴方の夢は、俺の大切な人たちを傷付ける! だから譲らない!」
互いに肩を揺らして息をする。
戦士たちの咆哮がこだまする曇天の下、仕掛ける瞬間を計り合っていた。
不意に風切り音と共に、流れ矢が飛んできた。
俺は上半身をそらして矢を避ける。
一瞬を逃がさず、アカマピは背に刺さった槍を掴み、振り下ろしてきた。
袈裟斬りの一撃が俺の肩口に迫る――がそれよりも早く、反り返りからの後方宙返り蹴りがアカマピの顎を捉えていた。
その巨体が怯んだ隙に俺は槍の柄に手を伸ばす。
奪われまいとアカマピが槍をきつく握ったのは反射的にだろう。
俺はするりと側面に回ってアカマピの背に飛び付き、彼の首に左腕を回した。
左手で自分の右上腕を掴んでがっちりと固め、右手でアカマピの後頭部を押さえ付けるようにして首を絞める。
同時に両脚を彼の胴体に引っ掛けて、体勢も安定させた。
「ぐぅぅっ!?」
首に巻きつけた左腕の黒い装甲は焼けた鉄板めいた熱さを持っていた。
首を絞めると同時に獣の喉を焼く。
アカマピは俺を引きはがそうとした。
だが完全に入った首絞めは容易に振りほどけるものではない。
アカマピは潰れた喉で唸り、槍を俺の左腕に刺そうとする。
しかし漆黒の装甲は刃を通さない。
二度、三度と槍を突きつけるも、穂先が装甲の表面を滑るだけだった。
生肌の焼ける嫌な臭いが黒煙を伴ってゆらゆらと立ち昇る。
「このっ……程度……!」
アカマピは槍を手放すと、その場で跳びあがった。
百キロを優に超す巨体が背中から地面に落ちる。
彼の背にしがみついていた俺は、受け身も取れずに押し潰された。
一瞬、意識が飛ぶ。
しかし俺は腕を緩めていなかった。
絶対に離さないという意地が体にそうさせていた。
「負ける……ものかよ……!」
アカマピは地面に指を食い込ませて、上半身を起こした。
俺を背負ったまま、震える足で立ち上がる。
もう一度やるつもりか。
俺はアカマピの太い首を絞める腕に力を込めなおした。
「ぬあぁぁぁ!!」
アカマピが唸り声を上げながら跳んだ。
落下感の中、俺は歯を食いしばる。
アカマピの岩山のような巨体が、俺を硬い地面にめり込ませた。
瞬間、目から火花が散る。
喉から漏れ出たのはもはや呻き声ですらない苦悶の吐息だ。
「ミヤワァン……俺は……!」
アカマピはゆっくりとだがまた体を起こそうとする。
やめてくれ。次また潰されたら俺の体はきっと持たない。
象に踏まれたトマトみたいに意識まで弾けてしまう。
俺の心の悲鳴など蹴散らすように、アカマピは震えながらも立ち上がった。
もうだめか。俺は目をぎゅっとつむる。
それでも最期の一瞬まで抗いたくて、絞める腕の力だけは緩めなかった。
「俺は……誰よりも……」
アカマピはかすれた声で呟くと、ふと力が抜けたかのように膝をついた。
その上半身が後ろに倒れそうになり、俺は地面に足をつく。
「……え?」
限界に達していた俺の脳みそは状況をすぐには認識してくれなかった。
アカマピの巨体は完全に脱力しているようだった。
だが俺は首を絞める腕を離さない。
気を失ったふりをしているのでは、という恐怖心があったからだ。
「大王!? 大王ーっ!」
動転した様子で駆けて来るのは、長い髭の獣人クァクァとその配下たちだ。
獣人族は決闘を気高い行為として尊重し、善意であれど横やりを入れることを、戦士への侮辱であるとして何よりも嫌っている。
俺たちの決闘に手を出してこなかったのもその為だ。
だがさすがに御大将の危機とあらば手段を選ばない者もいるだろう。
乱入されて逃げられでもしたら次はない。
決断を迫られて逡巡する俺は、クァクァたちを後ろから追いかける味方部隊の存在に気付いて、つい唇の端を吊り上げてしまった。
「シロガネのところに行かせるなーっ!」
オグの十人隊をはじめとした味方兵士が手槍を投擲する。
がら空きの背中に攻撃を受けて、クァクァ配下の獣人たちが悲鳴を上げた。
俺一人で全ての獣人を相手にしているわけじゃない。
敵は山ほどいるが、味方だって同じだけいるのだ。
仲間の援護に背中を押された気がして、俺は俄然勇気が湧いた。
意を決して地面に落ちた金属槍に手を伸ばす。
「――っ!」
足下から空へと振り抜いた槍には確かな手応えがあった。
アカマピの首が宙を舞う。
頭部を失った獣人王の巨体が地に伏し、首元から血が溢れた。
時間が止まったかのようだった。
殺伐とした戦場の中で、状況に気付いた者だけが言葉を失っていた。
だがその静寂は不自然すぎて目立つ。
ざわめきはあっという間に戦場に広がった。
獣人族の王アカマピ=テパステクトリ、戦死。
それは一つの時代の終わりを意味していた。
偉大なる王の死を知った獣人たちは戦意を失い、散り散りに逃走を始めた。
連合軍の総大将ドナンはここぞとばかりに追撃を指示する。
兵士たちは逃げる獣人の背に槍を突き立て、矢を浴びせた。
容赦ない追撃は日が暮れるまで行われた。
空を覆う暗い雲がしとしとと雨を降らせる。
荒野のどこを見渡しても屍が横たわっていた。
俺は身を濡らして荒野の上に立ち、念仏を唱える。
人の命を奪った俺にそんな権利があるのかはわからない。
それでも死者を悼む気持ちに嘘はない。
そう思い、英魂の冥福を祈った。