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30話『ご主人様と召使い』

 獣人族の国チコモストへの出兵が正式に決定した。

 エルトゥラン王国王女ティアナートの要請に応じて、南の隣国トラネウス王国の国王アイネオスは騎兵隊を援軍として送ることを承諾した。

 トラネウス騎兵隊とはエルトゥラン王城にて合流する。

 その後、連合軍としてチコモストへ向かう予定である。


 そのトラネウス騎兵隊が明後日にも王城に到着するとのことだ。

 もちろん俺も従軍するので、遠出の支度をしなければならない。


 着替えの類はもう用意が済んでいる。

 城下町の仕立て屋に頼んで、普段着ている作務衣を複製してもらってある。

 長旅でも着替えに困ることはない。


 武具の準備も万端だ。

 ミスミス姉妹には予備の分まで多めにクナイを作ってもらった。

 金属槍が重いので持ち運びには難儀しそうだが、大変なのはそれくらいだ。

 兵士は鎖帷子に兜と短剣を基本として、槍や弓も抱えて持って行くのだ。

 救聖装光がかさばらず軽い分、苦労は似たようなものだろう。


 行軍中の食事だが、これは三食提供されるので基本的には心配ない。

 もちろん自前で余分に用意するのは自由なので、何か日持ちの良いものを今日の内に買っておこうとも思っている。

 ドナンの息子オグに聞いた話だと、干し果物がおすすめらしい。

 戦地では甘味が貴重だ。

 食事は軍務中の数少ない癒しなので、疲れた時のために自分へのご褒美を用意しておくと精神衛生上とても良いとのことだ。


 身支度に関してはそのくらいか。

 それとは別にもう一つ大事なのことがある。

 しばらく国を離れるので、挨拶がまだの人に会っておきたいのだ。


 ベルメッタに出かける旨を伝えて、俺は城を出た。

 青い空に高く昇った太陽が眩しいほどに輝いている。

 肌に当たる陽の光は熱いくらいだ。

 俺は石畳のなだらかな坂を下って城下町へと向かった。


 コンクリート造りの集合住宅が立ち並ぶ大通りを西へと歩いていく。

 城下町は普段と空気が少し違うように感じられた。

 いつものように賑やかではあるのだが、どこかそわそわしている。

 大きな戦いが近いことを住民も知っているからだろう。


 大通りをとことこ歩いて、町の中心部である円形広場まで来た。

 広場の真ん中に立つ、左手で剣を掲げる戦士像は救世主様の像である。

 騒がしいと思ったら今日は大道芸をやっている。

 屋台も出ているようだから、後で寄ってもいいかもしれない。


 広場から南に続く道を歩く。

 町の南側は比較的、高級住宅街と呼べる場所だ。

 庭付きの大きな邸宅がいくつも見受けられる。

 通りをしばらく歩き、途中で西に曲がる。

 少し坂を上った先の小高い場所が目的地だ。


 この国ではわりと珍しい木造のお屋敷である。

 以前、訪ねた時には割れていた窓や外壁が修繕されている。

 ぼさぼさだった庭木も手入れされて小綺麗になっていた。

 足下も掃き清めてあり、落ち葉と枯れた花びらの山はどこにもない。

 この屋敷に足を運ぶのは久しぶりだったが、ずいぶん雰囲気が良くなった。

 ぼろ屋敷だった頃の面影は感じられない。


 ここは元々アルメリア家の屋敷だった。

 だが今は俺の家となっている。

 もっともそれは建前上の話で、実際に住んでいるわけではない。

 シトリとギルタを支援する過程で、この屋敷の所有者となっただけなのだ。


 高級感のある木製の玄関扉は閉ざされていた。

 呼び出し用の吊り鐘をがらんがらんと鳴らして、待ってみる。


「……どちら様ですか?」


 扉越しに少女の声がした。


「こんにちは! シロガネです!」


 少しの間があって、両開きの分厚い玄関扉の片側がそっと開いた。

 地味目の使用人服に身を包んだ少女が警戒した様子で顔を見せる。

 この屋敷の元々の家主であるシトリ=アルメリアだ。


 以前は脂でてかてかしていた髪の毛が今はふんわりしている。

 公衆浴場で門前払いされなくなったのだろう。

 顔立ちも少しふっくらしたように感じる。

 不安になる痩せ方をしていたのが、肉が付いて肌艶もずいぶん良くなった。

 食事も満足にとれているようだ。

 シトリは俺の姿を確認すると、安心したように表情を緩めた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


 肩まで伸びた黒髪を垂らして、シトリは頭を下げた。

 彼女の印象にそぐわない丁寧なおじぎに、俺は呆気に取られてしまう。

 するとシトリは露骨に不機嫌そうな顔をした。


「なに? 似合ってないとか言いたいわけ?」

「あっいえ、そういうわけじゃ……」

「あのねぇ。あんたはここの主人であたしは召使いでしょ。それでお給金貰ってるんだから、その分お仕事はちゃんとするし。て言うか、おかえりって言ったんだから、ただいまは?」


 シトリは腰に手を当てて、母親めいたことを言う。

 それが不思議と心地良くて俺は頬が緩んだ。


「ただいま」

「とりあえず入れば?」


 促されるまま屋敷の中に入る。

 板張りの廊下は掃除されて綺麗になっていた。

 玄関広間から左手側の廊下へ、シトリの後に続いて歩く。

 食堂である大部屋に通された。

 部屋の中には会食用の縦に長い食卓が置かれ、椅子が並んでいた。

 めぼしい家具はそれだけで飾りっ気がない。

 それでも空き家同然だった頃に比べればましだろう。


「お茶入れるから適当に座ってて」


 言いながら、シトリは奥の調理場に歩いていく。

 俺は調理場からすぐの縦長食卓の一席に腰を下ろした。

 のんびり待たせてもらうことにする。


 シトリはかまどの前で膝をつくと、火打石と火打金で木屑に火を起こした。

 薄く削った付け木に火を移し、組んだ乾き小枝を燃やして炎を育てる。

 その手際の良さに俺は感心した。

 次にシトリは水瓶から片手鍋に水を注ぎ、鍋を火にかけた。

 ふとこちらに振り返る。


「あんたってさ、好きなお茶の種類とかあるの?」

「特に好みはないですけど……あっそうだ。せっかくですからこの間の、シトリさんの故郷のお茶がいいです」


 シトリは半分呆れた顔で微笑んだ。


「ちゃんとしたお茶っ葉もあるのに。あんたっていちいち物好きよね」


 シトリはまんざらでもない様子で、戸棚から陶器の小瓶を取り出した。

 中身は乾燥させた薬草と花で、これが茶葉の代わりである。

 それをひとつまみし、煮立った鍋に放り込む。

 湯気に乗って、香ばしさを含んだ花の香りが漂ってくる。

 シトリは煮出したお茶を木製のジョッキになみなみと注いだ。

 火を消して、二人分のジョッキを手に戻ってくる。


「はい、おまたせ」

「ありがとうございます」


 シトリが隣の席に腰を下ろす。

 熱々のお茶をすすると、やや土っぽい風味が口に広がった。

 健康的な味わいだ。


「今日はギルタさんは留守ですか?」

「トラネウスの方に行ってる。しばらくは帰ってこれないって」


 ギルタはエルトゥラン軍の百人隊長だった女性で、シトリの義姉である。

 一年前の反乱の後はトラネウス王国の暗部に身を寄せていたが、今はトラネウスの情報をこちらに流す二重スパイをやっている。

 両国が軍を動かす今の時期は影が動くにはちょうどいい。

 彼女も仕事で忙しいのだろう。


「で、あんたこそ今日はどうしたわけ? 全然寄り付かないでほったらかしにしといてさ」

「あぁそれは」

「そもそもこの家はもう、あんたの家なんだからちゃんと帰ってきなさいよ。家主がいないと家のこと決められないんだから。許可なしにあんたのお金を使うわけにはいかないんだし。そこのところ、ちゃんとわかってる?」


 まくし立てられて俺は圧倒されてしまう。

 ただその口調は怒っているというよりも、俺をたしなめているようだった。

 これはちゃんと思いを言葉にして誤解を解かなければいけない。

 そう考え、俺は飲みかけのジョッキを卓に置いた。


「順番に答えさせてください。この家に立ち寄らなかったのは邪魔になると思ったからです。俺の家になったというのは建前で、ここはシトリさんの家だと思うから。お二人が静かに過ごせれば、俺はそれで――」

「それが気に入らないって言ってんの」


 シトリは半眼で、呆れたようにため息をついた。

 それから真剣な面持ちで、前のめりに顔を寄せてくる。


「あのね。あたしもギルタもあんたには本当に感謝してる。でもいつまでもおんぶに抱っこで哀れんでほしくないの。だからけじめをつけて、お仕事はお仕事としてきっちりやりたい。その方が堂々と胸を張れるでしょ?」


 シトリの言葉は俺の胸にすとんと落ちた。

 彼女は籠の中の鳥ではないのだ。

 餌をやるがごとく、一方的に施す関係は対等とは言い難い。

 俺一人の自己満足で終わらせずに、現状をごまかさずに向き合って、その上で俺は彼女たちと信頼関係を築いていかないといけないんだろう。


「シトリさんの気持ちはわかりました。俺はこの屋敷の主人で、貴方は屋敷を管理する召使いだ。そうですね?」


 シトリは納得がいったように微笑んだ。


「左様でございます」


 わざとらしいやりとりに、俺もふふっと笑う。


「よその方がいない時は今まで通りの話し方でいいですよ。むしろそうしてもらえるほうが俺も嬉しいですし」

「そう? ご主人様がそう言うんだったらそうするけど」

「ええ、その方が気が楽なので」

「じゃあいい機会だからさ、あんたもその他人行儀な喋り方やめない? なんか距離、感じるんだよね」


 なるほどと俺は頷いた。

 いったん深呼吸して、気持ちを切り替える。


「わかったよ。だったらこれからは友達と話すみたいにする。名前もシトリって呼んでいいかな?」

「うん、それでいい」


 シトリは両手で挟むようにジョッキを持って、お茶をすすった。

 俺もお茶を口に運ぶ。

 二人だけの食堂で静かに一息つく。


「さっきの話なんだけど、毎日この屋敷に帰って来るのは難しいと思う。城で寝泊まりするのはいざって時の護衛も兼ねているから。でも週に一度くらいは時間を作って、こっちに来るようにするよ」


 シトリはジョッキを持ったまま、ふんふんと頷いた。


「じゃあ、あんたに決めてもらいたいことは前もって紙にまとめとくね。それならたまに帰ってきた時、ぱっと目を通してもらえるし。いちおう聞いておくけど、あんた読み書き計算はできるのよね?」

「たぶん大丈夫」


 場所が違っても算数は算数だ。

 使用されている言語も不思議と日本語とほとんど変わらない。

 なので俺がエルトゥランに来てから、その点で困ったことはない。

 墨と筆で字を書くことにももう慣れた。


「じゃあそういうことで。はー、なんかすっきりした」


 シトリはジョッキを机に置くと、腕を頭上に伸ばしてあくびした。

 そこではてと首を傾げる。


「で? あんた今日は何しに来たんだっけ?」

「しばらく国を離れるから、その挨拶に」

「えっ?」


 シトリは驚くも、すぐに気付いて『あぁ』と納得の声を出した。


「獣人族の国に戦争しに行くんだっけ? あんたは救世主様なんだから、そりゃあ行かなきゃいけないよね……」

「だからその前に二人の顔を見ておきたくて」

「そっか」


 シトリはどこか寂しそうに視線を落とした。

 俺がお茶で口の中を潤していると、不意に彼女は声を上げた。


「出かける用意はできてるの? あたしがやったげよっか?」

「もうだいたいは終わってるから。保存食だけ後で買いに行こうと思ってて」

「じゃあそれ一緒に行こっ」


 早速とばかりにシトリが席から立ち上がる。


「いや、それくらい一人でできるから」


 慌てて引き留めようとすると、シトリはため息をついて肩をすくめた。


「あんたと一緒に出歩くのに意味があるの。わかんない?」


 言われても、頭上に疑問符が浮かぶばかりだ。

 まさか俺なんかとデートしたいわけでもあるまいし。

 となると考え得るのは……俺は顔を険しくして問いかける。


「もしかして何か揉め事とか、誰かに絡まれてるとかある?」

「んー、そういうのはないんだけど」


 シトリは何か思案するように、立てた人差し指をくるくると回した。


「やっぱりまだちょっと疑いの目で見られてる感じがするんだよね。何せ、あたしって悪名高い反逆者の娘でしょ。救世主様の名を騙ってるんじゃないかーみたいな。だから一度、ご主人様と召使いで歩いてる姿を見せつけておきたいわけ」

「なるほど……」


 俺は少し考えこむ。

 俺がシトリを庇護した一件は、宰相であるリシュリーが手を回してくれただけあって、あっという間に町中に広まった。

 そのおかげで彼女は普通の生活ができるようになった。

 表立って彼女を非難すると、シトリの主人である救世主様を、さらには国の統治者であるティアナートを否定することになるからだ。

 しかし変に気を使って会いに行かなかったせいで、疑惑のまなざしを向けられているというのは失態だ。これを解消するのは俺の責任だろう。


「わかった。じゃあ一緒に行こうか」

「ありがと。急いで用意するからちょっと待ってて!」


 シトリは残ったお茶を飲み干すと、部屋を飛び出していった。

 俺はジョッキをちびちびやりながら待つ。

 がらんとした食堂は、一人で過ごすには寂しさを感じる広さだった。

 シトリ一人で手入れするにはこの屋敷は大きすぎる。

 所有者として、そういうことも考えるべきなのかもしれない。


 慌ただしく足音を鳴らしてシトリが戻ってきた。

 紐で口を締められる皮袋を肩に引っ掛けている。


「お待たせ! 行こっ!」


 俺は残りのお茶を呷ってジョッキを空にし、腰を上げた。

 戸締りをして屋敷を出る。

 二人で石畳の道を歩いて、まずは広場の方へと向かった。


「屋敷の管理はシトリに任せるよ。一人じゃ大変だろうから、必要なら人を雇ってくれたらいい。物凄くお金がかかる場合だけは前もって相談してほしいけど」


 隣を歩くシトリは、やや見上げるように目を合わせてくる。


「そうする。家の仕事はお母さんがやってたの見てたし。まー、そういうのは任せといて」


 シトリは自信ありげにウインクした。


「修理も済んで屋敷も綺麗になったし。これから空っぽの家をこつこつ自分好みに仕上げていくの。庭には明るい花を植えて、部屋にはかっこいい家具を揃えて。あたし、ちょっと楽しみになってきたかも」


 先の展望を語るシトリは明るい笑顔を浮かべていた。

 俺の中の彼女の印象がどんどん変わっていくのがわかる。


「シトリって、かわいいよな」

「何言ってんのあんた?」


 シトリに鼻で笑われてしまう。

 でも俺はこんな軽いやりとりをできることが嬉しかった。

 ざんばら髪でやせ細った彼女はもういないのだ。


「お金の出入りは全部、帳簿つけてるから。また今度見せるね」

「うん」


 円形広場まで出ると、町の人たちが足を止めて大道芸に見入っていた。

 果物を額に乗せた道化師が玉乗りをしながらお手玉をしている。

 たいした腕前だと俺は感嘆した。


「ご主人様は見世物がお好きですか?」


 シトリがそっと俺の服の袖を引いた。

 人目につく場所なので、召使い風の言葉遣いに変えたようだ。


「それもあるけど、懐かしいなぁと思ってさ」

「懐かしい?」

「ニンジャ修行の一環で似たようなことを練習した覚えがあったなって。お手玉とか玉乗りとか、体幹とか器用さの訓練も兼ねてさ。でもあんな風に同時にはできないなぁ」


 俺の言葉に、シトリは不思議そうな顔をする。


「修行……?」

「大道芸は間諜にも使えるって爺ちゃんが言ってたよ。張り込みとかで同じ場所にいても、芸をしながらなら怪しまれにくい。路銀稼ぎにもなるし、町の人とも距離を詰めやすいって」


 シトリは感心したように頷いた。

 それから大道芸人の方を見る。


「じゃあ、あの人も?」


 俺は小さく笑った。


「もしかするとそうかもね」

「へぇー」


 俺たちは人ごみを離れて、大通りを東に向かった。

 よく立ち寄るパン屋のすぐ近くに果物屋がある。

 いつものように歩道に商品棚をはみ出させて、恰幅のいいおばさんが呼び込みの声を上げていた。

 俺は挨拶がてら声をかける。


「こんにちは」

「はぁい、いらっしゃい!」


 おばさんは威勢よく答えながらも、振り向いたその視界にシトリの姿を見つけて、ほんの一瞬だがわずかに表情を硬くしたように思えた。

 だがすぐ年季の入った笑顔に戻る。


「あらまぁ救世主様! 本日は何をお求めでしょう?」

「保存食として持っていける干し果物を探しているんですけど」

「はいはい! それならちょうどいいのがありますよ!」


 おばさんがこっちこっちと手招きする。

 商品棚の一角に、拳大に膨らんだ小ぶりな皮袋が並んでいた。

 その一つを手渡してくる。


「干し果物の詰め合わせ。兵隊さんに大人気!」


 袋を開けて中を見ると、大粒小粒が入り混じっていた。

 おばさん曰く、腐敗防止の為、蜜漬けした果物を天日干ししたものらしい。

 果物の表面が飴細工のようにコーティングされている。

 値段を尋ねると、なかなかご立派なお値段である。

 俺が顔を渋くすると、おばさんは申し訳なさげに両手を揉み合わせた。


「ここに残ってるので全部なんです。すぐ作れるものでもないですから」


 値段は盛っているにしても、数が少ないのは本当なのだろう。

 こういう商品は加工の手間を惜しむとすぐだめになる。

 稼ぎ時だからと粗悪品を並べない姿勢はむしろ好印象だ。

 もの自体は良さそうだし、最後の晩餐になるかもしれないものにお金を惜しむのは、節約を通り越してケチだろう。


「じゃあ一つ買います」

「はい、ありがとうございます!」


 代金を支払って、小袋を受け取る。

 それから邪魔にならないよう、俺たちは店先から離れた。

 シトリは近くに人が少ないことを確かめて、すっと体を寄せてくる。


「これだけでいいの? 堅パンとかは買わないの?」

「基本的には食糧は足りてるって話だけど……」


 以前、ブオナ島に船で行った時も質素ながら十分な食事が提供された。

 その点で信頼しているのだ。

 だがシトリは眉根を寄せ、不信感を露わにした。


「今度の戦いは長丁場になるんじゃないの? 何が起こるかわからないのが人生なんだから。もしもの時のことは考えておいた方がいいって」

「うーん……」


 そう言われると不安になって来るのが人情だ。

 長距離を歩くことになるので、できる限り荷物を軽量化するつもりだった。

 それでも非常食だけは用意しておいた方が安心か。


「わかった。買っていこう」


 シトリはほっとしたように息を吐いた。


「うん、その方が絶対いい」


 予定を変更して、少し道を戻ってパン屋に立ち寄ることにした。

 開けっ放しの入り口から店に入ると、店主のおじさんが店の隅で椅子に腰かけて、のんびりとお茶をすすっていた。

 俺たちの入店に気付いて、にっこりと笑顔を浮かべる。


「いらっしゃいませー」


 店の中は焼けた小麦の香りで満たされていた。

 それだけで口内に唾液が溢れてくる

 目的のものはどこかと店内を見回すと、おじさんが声をかけてきた。


「何かお探しですか?」

「保存食として持っていける、堅いパンはありますか?」


 おじさんは合点がいったと頷き、奥の調理場に入っていった。

 かちかちのパンを乗せた鉄板を抱えて戻って来る。

 台の空いたところによいしょと置く。


「どのくらいご入り用でしたか? 足りないようなら明日また焼いて、取り置きしておきますが……」

「これだけあれば十分です。おいくらですか?」


 俺が代金を支払う間に、シトリは持ってきた皮袋に堅パンを詰めた。

 おじさんにお礼を言って、二人で店を出る。


「またのお越しをー」


 店主の声を背に歩道に出ると、シトリがまた俺の袖を引いた。


「この後はどうするの?」

「必要なものは買えたし、帰って荷造りを終わらせようかな」

「……そう」


 シトリは堅パンを詰めた皮袋を俺に押し付けてきた。

 それからさらに俺の右手を掴んで、何か小袋を握らせてくる。

 なんだと目で問い返すと、彼女は落ち着かない様子で顔をそらせた。


「お守り。中は見ちゃだめなやつだから。わかった?」


 いいから黙って受け取れという圧を感じる。

 俺は自然と笑みを浮かべながら、それを懐にしまった。


「ちゃんと帰ってきなさいよね。ただでさえあんたはお人よしなんだから、引っ張られちゃだめ。むちゃしないで危なくなったら逃げること。いい?」


 まるで子供に言い聞かせるように、シトリは言ってくる。

 そのお節介な優しさに、俺は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「……ありがとう」


 人に心配してもらえるというのは、それだけでありがたいことなんだ。

 熱のある繋がりがないと人は投げやりになる。

 心に穴の空いた人間にはその穴を埋める『何か』が必要なのだ。

 時にそれは復讐心であったり、執着心であったりする。

 しかし温かい場所に繋ぎ止めてくれるのは結局は優しさだけだ。

 それを分けてもらえた気がして、俺は嬉しくなったのだ。


 感じ入る俺を見て、シトリはくすっと笑った。

 彼女の右手が俺の胸をぽんと叩いた。


「じゃあまたね」

「あぁ! また!」


 手を振ってシトリと別れる。

 これでやり残したことはなくなった。

 後はこの熱い気持ちを胸に戦地に赴くだけだ。

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