22話『追憶(3)』
目が覚めると、俺は座敷牢の中にいた。
牢は太い木材で組まれている。
広さは六畳ほど。正面以外の三方を土壁で囲まれている。
後ろ壁の高い位置に小窓があった。
通気口と採光窓の役割を兼ねている。
窓から差し込む光の中をほこりが泳いでいた。
この建物には覚えがある。
寺の敷地の隅っこにある蔵の中だ。
父さんが仕事でまれに使用しているのを知っていた。
悪霊に憑かれて錯乱した人を落ち着くまで置いておくのだ。
でもそんな場所にどうして俺が入れられているのだろう。
とりあえず牢の出入り口に手をやるが、錠がかかっていて開かなかった。
当然ながら素手で壊せるものではない。
俺は採光用の窓を見上げた。
高さは二メートルと五十センチほどだろうか。
這い出せれば一番だが、駄目でも外に助けを呼ぶことはできるだろう。
俺は窓に飛び付こうとして、ふと妙な存在に気付いた。
「……え?」
採光窓の縁に小さなおじさんがいた。
二度見するがやはりいる。
大きさは人の拳くらいだろうか。
陣羽織を着た小さなおじさんがこちらを見下ろしていたのだ。
奇怪にもほどがある。
息をするのも忘れて小さなおじさんを凝視していると、不意におじさんはびっくりした顔をして、窓の向こうに消えてしまった。
あまりのことに頭が思考をやめてしまう。
ぼーっと突っ立っていると、背後からガチャガチャと音が聞こえた。
蔵の分厚い引き戸がゆっくりと開く。
父さんが警戒した面持ちで蔵の中に入ってきた。
「父さん! これどうなってんだよ。何で俺がこんな所に?」
父さんは険しい表情で俺の様子を見ていたが、ふと安堵の息を漏らした。
「まったく。どれだけ心配したか……」
座敷牢から出してもらい、俺は父さんと母屋に戻った。
居間のちゃぶ台を挟んで、これまでの経緯を話してもらう。
今日の日付は八月八日。
信じられないことに、あの日から一か月が経っていた。
詳細はこうだ。
あの日の翌朝。父さんは裏山で倒れている俺を見つけた。
頭部にケガをしていたが、それは大事に至らなかった。
だが目を覚ました俺は常軌を逸した錯乱状態にあったらしい。
自傷行為や徘徊を繰り返し、とても日常生活を送れる状態ではなかった。
病院で詳しい検査をしても原因はわからず、これは質の悪い霊障だと見て取った父さんは、やむを得ず俺を座敷牢に入れたのである。
「そっか……」
俺はここ一か月の記憶が完全に抜け落ちていた。
覚えているのはあの日の出来事の強烈さだけだ。
あの気持ち悪さは霊障だと言われればむしろ安心するくらいだ。
思い出そうとするだけで吐き気がする。
「それよりさ、サチエはどうしてんの?」
尋ねると、父さんは黙って湯呑のお茶をすすった。
「会いに行くか?」
「当たり前だろ」
「じゃあちょっと待ってろ。タチバナさんとこに電話するから」
そう言って父さんは居間を出ていった。
俺はお茶を飲んで待っていたが、どうにも居心地の悪さを感じていた。
家の雰囲気が以前と違う気がする。
なんだろう、家の中に知らない誰かの気配がするというか。
でも声や足音が聞こえてくるわけではない。
頭がおかしくなった後遺症なのだろうか。
どうにも落ち着かない。
そんなことを考えている内に父さんが戻ってきた。
「大丈夫だそうだ。タチバナさんの家に行ってくるといい」
「わかった」
残ったお茶を飲み干して、俺は家を出た。
炎天下の道を自転車で飛ばす。
田んぼの青々とした稲の様子に時間の流れを感じさせられた。
サチエの家の前で自転車を止める。
彼女の自転車が車庫の奥に止まっているのが見えた。
玄関の引戸をがらがらと開ける。
「こんにちは! シロガネです!」
玄関からすぐの襖戸が開き、サチエの母親のタエコさんが姿を見せた。
顔がやつれているようだが夏バテだろうか。
「こんにちは。ヒカルくん、具合はもう良くなった?」
「はい、ありがとうございます。よく覚えてないですけど」
自嘲する俺に、タエコさんは愛想笑いしてくれた。
彼女が先程までいた和室に案内される。
「お邪魔します」
畳の和室に入ると、仏間に見慣れないものが置いてあった。
後飾りの祭壇の上に白木位牌と写真立てが並んでいる。
白い包みの箱にはおそらく骨壺が収められているのだろう。
音楽プレイヤーから念仏の音が流れていた。
その光景に俺は心臓がきゅっと縮んだ。
タエコさんは小さな祭壇の斜め前で正座した。
俺は部屋の入り口から動けずにいる。
誰の位牌と遺影写真なのか、近付いて確認するのが怖かったからだ。
「ヒカルくん。お線香を上げてあげて」
促されて、祭壇の前に膝をついて座る。
遺影に写っているのは……
「嘘ですよね?」
問いかけに、タエコさんは無言のまま首を横に振った。
遺影の写真には見覚えがある。
サチエが中学校に入学した時に撮影したものだ。
俺は口を半開きにしたまま、額縁の中のサチエを眺めていた。
だっておかしいだろ。
その骨壺の中にサチエの骨が入っているとでも言うのか。
彼女の体を焼いて、残った骨が。
現実感がまるでなかった。
「ヒカルくん。サチエは最期に何か言ってた?」
タエコさんの表情は弱弱しくも穏やかだった。
俺はどう答えるべきか迷った末、彼女の言葉をそのまま伝えることにした。
「ありがとう……って」
「そう……」
タエコさんはふいに涙ぐみ、顔をそらした。
その様子に俺はくずおれそうになる。
まさに娘を失って嘆く母親の姿に見えたからだ。
それはどうしようもない重たさで俺に現実を突き付けていた。
悪夢は終わったんじゃなかったのかよ。
頭がくらくらする。重すぎて吐きそうだ。
「ごめんなさいね。取り乱してしまって」
タエコさんは目元を指で拭った。
「いえ、そんな……」
「もし良かったら、形見に何かもらっていってあげて」
勧められて、俺は和室を出た。
タエコさんは和室に残った。気を使ってくれたのだろうか。
勝手知った幼馴染の家を歩き、サチエの部屋に入った。
学校の制服をかけたハンガーが壁にかかっている。
ベッドの上には読みかけの本が置いてあった。
お気に入りのカバのぬいぐるみが座布団の上に鎮座している。
青色のカーテンは開けてあり、窓から外の光が差し込んできている。
よく知っているサチエの部屋だ。
もう誰もいない部屋とは思えない。
本棚の本を読んで待っていれば彼女が帰ってくる気がする。
「嘘はやめろよ……」
俺は押入れの引き戸を開けた。
ドッキリでしたと隠れていて欲しかったが、そんなはずもない。
冬用の毛布と布団がしまってあるだけだった。
ため息をついて引き戸を閉める。
勉強机の上にペンと短冊が放置されているのに気付く。
色んな願い事が書かれていた。
『海に行きたい』
『幸せになりたい』
『みんなが元気でいられますように』
あの日、短冊を一緒に飾るはずだったんだ。
俺は胸が締め付けられる。
書かれた短冊はこれで全てだろうか。
机の周りを探すと、ゴミ箱に捨てられた短冊を見つけた。
くしゃっと潰されたそれらを拾い、広げてみる。
――死にたくない。
短冊にはそう書かれていた。
俺は首を絞められたように息ができなくなった。
拾った他の短冊も広げてみる。
『負けない』
『一緒に生きる』
サチエは何を思って短冊を書いたんだろう。
少なくとも死ぬつもりなんてなかったはずだ。
彼女は未来を望んでいた。そう思える。
「っていうかそもそも!」
俺は早足で和室に戻った。
タエコさんは祭壇の正面に座って、遺影を眺めていた。
こちらに振り向いた彼女の前で、俺は膝をついた。
「すみません。一つだけ教えてください」
「なに?」
「サチエはいつどこで、どうして……」
そこから先は言葉が喉を通らなかった。
どうして『死んだのですか?』なんて口に出せやしない。
それでもタエコさんは察してくれたようだ。
「私も、できればヒカルくんに聞きたいと思っていたの。七月六日の夜。土地神様の祠で何があったの?」
俺はあの日の夜のことを話した。
「頭を打って意識がなくなって。そこから先のことはわからないんです。今日のついさっきまで記憶が飛んでいて……」
「ありがとう。聞かせてくれて」
タエコさんは弱弱しく微笑んだ。
「サチエが見つかったのは、次の日の朝だった」
早朝。裏山の祠を探しに来た俺の父さんが、俺たち二人を発見したそうだ。
サチエは祠の前で倒れており、すでに事切れていたという。
手首を切ったようで、地面が赤黒く染まっていたとのことだ。
「最期にヒカルくんと話せて、あの子も喜んでいると思うわ」
タエコさんはしみじみと言った。
咄嗟に俺は言い返しかけて、ぐっと飲みこんだ。
この人はサチエの母親だ。
俺なんかよりはるかに辛いはずなんだ。
俺がとち狂っていた一か月の間もずっと苦しんでいたはずなんだ。
「……今日は帰ります」
俺はサチエの遺影を一瞥して、立ち上がった。
タエコさんは玄関まで見送ってくれた。
「ありがとう。サチエに会いに来てくれて」
「気持ちが落ち着いたら、あらためてお邪魔させてください」
一礼して、俺は彼女の家を後にした。
自転車にまたがって、俺はペダルを全力で漕いだ。
自分でもわからないぐちゃぐちゃの気持ちがそうさせていた。
ぜぇぜぇと息を切らせて、足をぱんぱんに痛くして走る。
寺に戻った俺は自転車を置いて、裏山へと走った。
険しい山道に足がもつれて転ぶが、気にせず駆け上がる。
小さな祠まであと少しという所で、俺はふらっときて地面に手をついた。
顔を青くして、酸欠で喉を鳴らす。
土の坂を這いながら祠のそばへと近寄った。
祠には何かが飛び散った跡が残っていた。
点在する黒ずんだ跡はおそらく。
俺は足元の落ち葉をかきわけ、地面を露わにした。
こちらは雨で流れたのだろうか。
焦げ茶色の地面があるだけだった。
「……あっ?」
祠の足元、落ち葉に紛れて何かが落ちている。
どす黒くにじんでいるが、それが何なのか俺にはすぐわかった。
御守りだ。
俺が作ってサチエにあげた、この世に一つしかない御守り。
途端に堪え切れない想いが涙腺から溢れ出した。
「ああああぁぁぁぁ!!!!」
御守りを握りしめて、俺は額を地面に押し付けた。
ただ泣き叫ぶしかなかった。
もしもサチエが生きているなら、この御守りを手放したりしない。
こんな所に落ちているのはサチエがもうどこにもいないからだ。
「俺が! 俺がっ!!」
握り拳で地面を何度も叩く。
サチエはこの場所で手首を切って自殺したという。
彼女にそうさせたのは土地神様だったかもしれない。
でも俺が一番許せないのは自分自身だ。
俺はサチエを助けられたはずなんだ。
俺がサチエの腕を掴んだ時、彼女はまだこちら側にいたはずだ。
生きようとして必死に戦っていたはずなんだ。
なのに俺は手を離してしまった。
得体の知れない恐怖に屈して、彼女を突き放してしまったんだ。
「俺が……」
俺がサチエを殺した。
救わなきゃいけない人を救えなかったんだ。