21話『追憶(2)』
翌朝。俺は一時間早く家を出た。
いつもの山沿いの道で自転車を止め、サチエを待つことにする。
家に迎えに行かなかったのは、素直に出てきてくれると思わなかったからだ。
ご両親が俺を遠ざけようとしているように感じていたのもある。
早朝の山は霧がかかったような天候だった。
天気予報は晴れのはずだが、まだ肌寒い。
チュンチュン鳴いているのはスズメだろうか。
あくびをしながら待っていると、制服女子を乗せた自転車が道を走ってきた。
俺は大きく手を振る。
そばまで来ると、サチエは自転車を止めて、地面に足を着いた。
「何してんの?」
「おはよう。これやるよ」
俺は御守りをサチエに手渡した。
彼女の視線が御守りと俺の顔とを行き来する。
「御守り。お前が土地神なんかに連れていかれないようにってな」
「あたしに?」
「ちゃんと自分で作ったんだぜ。怖くなったらそれを握れよ。土地神に呼ばれても、そっちじゃなくて俺のところに来い。絶対にお前を連れていかせたりしないから!」
「ヒカル……」
サチエは御守りを両手でぎゅっと握った。
不安の全てを払拭できたわけではないだろう。
それでも彼女が少しでも笑顔になってくれて、それが何より嬉しかった。
「それじゃあ、学校行くか」
久しぶりに俺たちは二人並んで登校した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一週間が過ぎた。
授業が終わって放課後。
鞄を片手にサチエが話しかけてきた。
「ヒカル。このあと空いてる?」
「あぁいいけど」
「じゃあちょっと、海の方に行こっか」
学校を出た俺たちは、国道から一本裏に入った地元道を自転車で走った。
十五分も走れば船の浮かぶ港に出る。
コンクリートで整備された遊歩道が海岸に沿って伸びている。
その一角に自転車を止め、俺たちはベンチに並んで腰かけた。
「どうしたんだよ。海が見たいとかさ」
尋ねる俺をよそに、サチエは空に向かって伸びをした。
空の赤色と海の青色が水平線で混ざり合う夕暮れの時間だった。
潮風が香る。
「ちゃんとお礼言っとこうと思って」
「なんの?」
「なんか色々」
あははとサチエは笑った。
「ありがとね、ヒカル」
顔色も良くなり、彼女は元気を取り戻したようだった。
以前と同じように笑うようになり、また一緒に登下校するようになった。
「声が聞こえるって言ってたけど、あれから大丈夫か?」
「うん。これのおかげかな」
サチエは胸ポケットの目玉クリップを外して、御守りを手の平に乗せた。
落とさないようにわざわざ強いクリップで挟んでいるのが彼女らしい。
「この御守りをもらってから、変な声とか聞こえなくなったんだ。最近はよく眠れるし。こういうのって本当に効くんだね」
「当たり前だろ。俺が真剣に作ったんだぞ」
「お寺さんってすごいねー」
軽口を叩けるほど効果てきめんだったようだ。
ただ正直に言って、俺の作った御守りにそんな力があるはずない。
土地神様が本当に存在するなら、御守り程度では焼け石に水なのだ。
父さんが言っていたように、本人の気の持ちようが大きい。
わずかな力しかない御守りが彼女の心の支えになっている。
心霊現象をはねのけるには結局それが一番なんだ。
「ねぇヒカル。夏休みになったら海に行こっか」
「今来てるだろ?」
目の前に広がる水面を指さす俺に、サチエはふくれっ面になる。
「もっとちゃんとした海水浴場」
「電車で浜の方まで行って?」
「それそれ。約束ね。あと一緒に花火もしよっか。久しぶりに線香花火とかしたいし」
「まぁ別にいいけど」
「ちょっとー」
人差し指で俺のほっぺたをぐりぐりしてくる。
「誘ってあげてるんだから、もっと喜ぶべきでしょー?」
「喜んでるって!」
手を払っては、また突っつこうとしてきてはを繰り返す。
そんなおふざけができる日常が帰ってきていた。
そう思っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
七月六日。
毎年、俺の寺では七夕の前日から境内に笹を立てる。
短冊に願い事を書いて笹に飾るためだ。
出店もない簡素なものだが、これはこれで大切な行事だ。
祭事というのは続けることに意味がある。
親がやってきたことを子に伝え、思い出を共有する。
それが伝統を繋げるということなのだ。
何事もやめるのは簡単だが、失われたものを取り戻すのは困難だ。
夕焼け空の下、俺は父さんと境内に提灯を取り付ける作業をしていた。
夜中にも人が来る日なので明かりが必要なのだ。
それに提灯があるだけで祭りらしい雰囲気が出る。
父さんが脚立の上に立って、最後の提灯を取り付ける。
俺は足元で脚立を支えていた。
「よーし終わり。ご苦労さんっと」
父さんがひょいっと脚立から降りる。
「後片付け頼むわ。終わったら好きにしていいから」
「はいはい」
俺はコードやフックなど、使わなかった機材を段ボールに戻した。
脚立に腕を通して肩にのせて、段ボール箱をよいしょと持ち上げる。
「ヒカル。サチエちゃんの具合はどうだ?」
俺は腕に抱えた段ボールの位置を調整しながら、父さんの方に向き直った。
「元気にしてるよ。最近は土地神の声も聞こえないみたいだし」
「今日の様子はどうだった?」
父さんの問いかけに、俺は不安を覚えた。
「普通だったと思うけど、何かあるの? 今からサチエのとこに行くつもりだけど」
「……ならいいんだ」
父さんは普段通り、ひょうひょうとした表情をしていた。
こった肩を回しながら、母屋の方に歩いていく。
俺は脚立と機材を倉庫にしまい、サチエの家に向かうことにした。
自動車が一台通るのでぎりぎりの道を歩く。
左を向けば山。右を向けば田んぼが広がっている。
稲は伸び盛りで青い。
五分ほど歩いてサチエの家に着いた。
風を通すためなのか、玄関引戸が開きっぱなしになっていた。
俺は玄関に入って『こんばんはー』と呼びかける。
少ししてサチエの母親のタエコさんが出てきた。
「あらヒカルくん。サチエと一緒じゃないの?」
不思議そうに言うタエコさんに、俺も首を傾げる。
「どういうことですか?」
「さっきお寺に行くって出てったのよ。会わなかった?」
俺の家からここまでは一本道だ。
道中、誰ともすれ違っていない。
「どこかで入れ違ったのかしら」
「……そうかもですね。探してみます」
ぺこりと頭を下げて、俺は玄関を出た。
ちらりと車庫を見ると、いつもの場所に自転車がなかった。
サチエが出かけたのは確かなようだ。
仕方なく来た道を帰る。
寺に戻ると、一組の親子連れが笹に短冊を飾りつけていた。
本堂の段差に腰掛ける爺ちゃんを見つけて、俺は駆け寄る。
「爺ちゃん。サチエ来てない?」
「見ておらんぞ」
境内を見回すが、彼女の姿はない。
短冊を結び終えた親子連れが寺から去っていった。
他に人影はない。
事故とは考え難い。狭い田舎だ。すぐ伝わる。
となるとどこか寄り道でもしているのだろうか。
俺も本堂の段差に腰を下ろして、サチエを待つことにした。
寺に行くと母親に告げているのだ。
下手に動くよりも待っていた方が確実だろう。
それからしばらくの間、俺は爺ちゃんと雑談をして過ごした。
夕日が沈み、夜の帳が下りる。
提灯の赤い光が境内を照らした。
爺ちゃんはもう寝ると言って母屋に戻っていった。
俺はぽつんと一人、境内に残される。
懐から携帯電話を取り出し、サチエに電話をかけてみる。
しかし呼び出し音が鳴るばかりで出てくれない。
気付いていないのか、何か取り込み中なのか。
しかたないので代わりにメッセージを送っておいた。
夜が更けていく。
見上げると、澄んだ夜空に満月が輝いていた。
丸くて大きい綺麗な月だ。
月には魔力があるというが、こうして眺めていると肌でそう感じる。
引っ張られるような感覚があるのだ。
月見をしながら、携帯電話を確認してはを繰り返す。
着信も返信もない。
ただ時間だけが過ぎていく。
座っているのもしんどくなって、俺は段差の上で寝転がっていた。
ぼんやりと月を眺めていると、ふと携帯電話が鳴りだした。
慌てて電話に出る。
「はいシロガネです」
「あぁヒカルくん。タチバナです」
かけてきたのはサチエの母親のタエコさんだった。
俺は体を起こす。
「サチエはそっちにいる?」
「いえ、あれから寺で待っているんですけど、来てないです」
「そう……ありがとうね」
電話が切れる。
時間を確認すると、もう夜の十時を回っていた。
こんな電話がくるということは家にも帰っていないのか。
さすがに心配になる。
今日、俺はサチエと短冊を飾ろうとだけ約束していた。
他にどこかへ行こうと話した覚えはない。
ならサチエが俺の知らない予定を組んでいたのか。
いやそれも考えにくい。
彼女は聞いてもいないのに予定を告げてくる女子なのだ。
俺は彼女を探しに行くことにした。
とりあえず寺から彼女の家までの道のりをもう一度歩く。
月は明るいが、それだけでは街灯のない夜道を行くには心許ない。
携帯電話をライトにして、道の両脇も念のために照らしながら歩いた。
草むらの虫たちの演奏と田んぼのカエルの歌とで騒がしい。
注意深く歩いたつもりだが、何も見つけられずサチエの家に着いた。
居間の明かりが外に漏れている。
サチエの部屋の窓は暗いままだ。
彼女の自転車もない。
携帯電話を確認するが応答はない。
「まいったな……」
行き先の見当がつかない。
この辺りでふらっと立ち寄れるのは俺の寺くらいだ。
どうしたものかと思ったが、結局来た道を戻ることにした。
帰り道、なにとなしに山の方に目を向けた時だった。
ほんの一瞬だがチカッと何かが光った気がした。
位置から考えて寺の裏山を登ったところか。
あの辺りに小さな祠が建っていて……
「あっ!?」
気付いてすぐ俺は走り出した。
裏山の小さな祠は土地神様を祀ったものだと父さんは言っていた。
御守りを渡してから、何ともなくなったと思っていたが違うのかよ。
どうか間抜けな考えすぎであってほしい。
俺は闇の中を全力で走った。
寺に戻ると提灯の赤い光が境内を照らしていた。
見回すが誰の姿もない。
俺は本堂の裏へと走った。
お堂に遮られて、提灯の明かりが途絶える。
俺は裏山の麓から、雑然と草木の茂る山道を見上げた。
夜の山は先が見通せない暗黒だった。
先程までやかましかった虫たちが今は静まり返っている。
俺は額の汗を拭って、山道を上り始めた。
土を踏む音と共に草葉が鳴る。
月の光もろくに届かない山の中を勢いに任せて走った。
何度も足を滑らせるが、ともかく不安が俺を駆り立てていた。
擦りむいた手の痛みも汚れも気にせず山道を上る。
何分経ったかわからない。
すでに喉はからからで、息も絶え絶えになっていた。
ふと暗闇に微かな明かりが見えた。
そのそばには薄っすらと人の輪郭が浮かんでいる。
「サチエ!」
呼びかけに影が振り返った気がした。
俺は力を振り絞って山道を駆け上がる。
小さな祠のろうそくに火が灯っていた。
祠の前に立つ学生服の少女は、俺がよく知る幼馴染だった。
「何でこんなとこにいるんだよ。ずっと待ってたんだぞ?」
なにより安堵の気持ちが強かった。
彼女の姿を前にして疲労が吹き飛んでいた。
「…………」
サチエの顔は笑っていた。
目を大きく開いて、白い歯を見せて。
ふざけているのかと思うような、大げさな笑顔だった。
「なんだよ?」
その様子が妙におかしく思えて、俺はつられ笑いする。
彼女は笑ったまま、ゆっくりと左手を伸ばしてきた。
「たすけて――」
表情とは正反対の絞り出すような声だった。
俺は咄嗟に右手を伸ばし、彼女の左腕を掴む。
その瞬間、身震いするほどの悪寒が指先から肩へと走った。
掴んだ彼女の腕はひどく冷たい。
『いっしょにいこ?』
彼女はニチャリと笑った。
尖った犬歯がねっとりと唾液の糸を引く。
異様なほど大きく見開かれた目は光のない黒い穴のようだった。
まるで深い井戸を覗こうとした時のような不安が臓腑から滲み出てくる。
『いっしょにいこ?』
底冷えするような声音が、這いずる虫のように耳に入り込んでくる。
違う。同じ声で同じ顔をしているのに何かが違う。
サチエなのにサチエじゃない。
『いっしょにいこ?』
彼女の左手が俺の右腕を掴んだ。
ぞわぞわぞわと嫌悪感が腕を上ってくる。
毛虫が這うような、なめくじが這うような、おぞましい感覚だった。
俺は反射的に腰を引きかけて、だが辛うじて踏みとどまる。
サチエの着ている学生服の胸ポケットが視界に入って、目玉クリップで落とさないように挟んである御守りの存在を思い出したからだ。
俺は寺生まれの息子だが、父さんと違って優れた霊感はない。
だから心霊現象や法力を心からは信じていない。
それでも御守りを渡したのは俺の気持ちだからだ。
土地神様みたいなわけのわからないものに負けるな。
そんなものより俺を信じろという気持ちなんだ。
俺は左手で彼女の右肩をがしっと掴んだ。
「しっかりしろよ! 俺はここにいるだろ!」
体を揺らすと、彼女の目がピンポールのように焦点を失った。
赤ん坊のように首ががくんがくんする。
びっくりして左手を頭部にそえると、それを支えに彼女は止まった。
目と目が合う。
「ヒカル……」
サチエは微笑むと、右の手の平を俺の心臓の位置に当てた。
そして――
『一緒に逝こ』
息が止まる。
彼女はくわっと目を見開いて、歯をむき出しにした笑みを浮かべていた。
その右手から黒いヘドロめいた粘液が溢れて這い上がってくる。
それはぐじゅぐじゅと俺の肌を伝い、首から頬へと上ってきた。
どぶ川のような臭いが鼻をつく。嘔吐感が喉まで来ていた。
視界が黄色いフィルターをかけたみたいに変色する。
目の前がぐるぐる回って気持ち悪い。
万華鏡のように分身したサチエの顔が風船みたいに大きく膨らんで見えた。
どろどろのヘドロが目から、耳から、鼻から、口から入ってくる。
体の粘膜がおぞましいものに冒されていくのがわかる。
まるで肥溜めの底に沈められたような気分だった。
「ああああああああ……!!」
発酵した泥の煮汁が頭蓋骨の中まで溶かしていく。
脳みそにたかる百万匹のアリがしわに沿って行進する。
柔らかいケーキを食い散らかして糞を転がす。
格子線状の巣をつくり回転する様は高次元ジェットコースターのようで。
連続的に交差する縦横のレーザー光線が作る三次元ピラミッドが、惑星の公転運動のように接近して極大化しては通り抜けて小さくなって消える。
とにかく気持ち悪い、怖い、寒い。
もうわけがわからない。
何がわからないのかすらわからない。
思考回路はずたずたで、頭の中がねとねとする。
肺も胃も腸も泥水でぱんぱんに膨れ上がっていた。
内臓に生えたかびの汁が体の肉を腐らさせていくのを感じる。
「気持ち悪い……気持ち悪い……」
目の前が真っ暗で何も見えない。
このまま泥の中にいたら、体も心もぐずぐずになってしまう。
すぐに外に出て、肺にこびりついた汚物を洗浄しないといけない。
すぐに外に出て、蛆が這いまわる肉を削いで骨を水で洗わないといけない。
すぐに外に出て、すぐに。すぐに。すぐに。すぐに。
「嫌だぁーっ!!」
俺は力任せに『自分を掴む何か』を振り払う。
途端に回路が繋がったかのように五感が戻ってきた。
夜風に吹かれて木の葉が揺れる。
暗い山の中、俺の目の前にサチエが立っていた。
呆然とした表情で、泣いている。
「ちがっ――」
「ヒカル」
サチエは優しく微笑んだ。
大粒の涙が彼女の頬を伝い、落ちる。
「ありがとう」
両手で胸をどんと押された。
体が後ろに倒れていく。
でこぼこの斜面を俺は転がり落ちた。
ぐるぐると目が回り、地面と夜空が交互に回る。
抵抗できないまま坂道を転がった俺の体は、ふいに頭を木の根元に強く打ちつけてようやく止まった。
「うぁ……」
不思議と後頭部が温かい。
抗いようのない睡魔に意識が薄れていく。
最後に俺の目に映ったのは、闇夜に浮かぶ丸い月だった。