20話『追憶(1)』
俺の実家のおんぼろ寺は山の麓にあった。
そばには小さな川が流れており、道路に出るには橋を渡らないといけない。
木で作った古い橋なので、川が溢れると流されることもある。
車が一台通れるだけの道路の向こうには田んぼ広がっていた。
田に水を入れると一斉にカエルが元気になり、夜は毎日演奏会だ。
そんなよく言えば自然豊かな片田舎で俺は生まれ育った。
祖母は俺が生まれる前に、母は産後の肥立ちが悪くて亡くなったらしい。
なので俺は父さんと爺ちゃんと、男三人で寺で暮らしていた。
俺がタチバナサチエと出会ったのはいつの頃だっただろう。
小学校に上がる前だったのは確かだ。
当時の俺はわりと活発な男子で、暇だと思えば山や川を駆け回っていた。
ある日、俺は爺ちゃんに折り紙で手裏剣を作ってもらった。
浮かれて野外を走りながら『イヤー!』と叫んでは手裏剣を投げ、投げた分だけ動けるという謎ルールのニンジャごっこをしていた。
だがその途中、投げた手裏剣がふと風に煽られる。
生垣を越えてよその家の庭に飛びこんでしまった。
ひょこっと覗くと、庭に面した縁側に女の子が座って夕涼みしていた。
俺が勝手に庭に入っていくと、彼女は驚いて怯えた素振りを見せた。
「こんにちは! しゅりけん、とらせてください!」
俺が大きな声で言うと、彼女は庭の一部を指さした。
そこに落ちていた折り紙の手裏剣を拾い、俺は女の子のそばに駆け寄る。
「いっしょにあそぶ?」
彼女はふるふると首を横に振った。
もう夕方だから怒られちゃうのかなと思った。
「じゃあまたこんど、あそぼうね! ぼくはシロガネヒカル。きみは?」
「……サチエ」
消え入りそうな声で女の子は呟いた。
「サチエっていうんだ! じゃあばいばい!」
俺は手裏剣を口にくわえて、ニンジャ走りで寺まで全力疾走した。
寺に帰ると、爺ちゃんが境内の大樹を眺めていた。
この大樹、樹齢三百年を超える歴史ある樹なんだそうな。
昔、カブトムシを取ろうと飛び蹴りして、本気で怒られたことがある。
「おかえり、ヒカル」
「ただいま! じいちゃんあのね!」
早速、女の子のことを話すと、爺ちゃんは難しい顔をした。
「タチバナさんとこの娘さんか……」
「サチエっていうんだって! ぼく、ちゃんとあいさつしたよ!」
爺ちゃんは俺の頭をなでてくれた。
「うむ。えらいぞヒカル」
「へへー」
無邪気な俺に、爺ちゃんは微笑んでくれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
家から小学校までは歩いて一時間ほど距離があった。
はじめは親が付き添ってくれていたが、それも道を覚えるまでだった。
同じ地区の子は俺とサチエの二人だけだったので、俺たちは自然と並んで登校するようになった。
朝は俺が家まで誘いに行って、夕方はサチエが待っていた。
放課後になると俺は、級友と校庭で遊ぶことも多かった。
なので『先に帰ってもいいよ』とサチエに何度も言ったことがある。
彼女はいつも『待ってる』と答え、俺が遊び終わるまで校庭を眺めていた。
そんなわけだから家に着いた頃には日が暮れていることがよくあり、そのたび俺は父さんから叱られるのだった。
サチエは人付き合いをどこか避けているようだった。
クラスの女子が彼女を遊びに誘っているのを何度も見たが、ついては行くものの参加せず、みんなが遊んでいる様子を眺めていることが多かった。
そういうことを続けるものだから次第に誘われなくなる。
サチエは空いた時間、一人で本を読んで過ごすようになった。
ある日の帰り道。
山沿いの道を二人で歩きながら、俺は疑問に思って聞いてみた。
「サチエって、みんなと遊ぶの楽しくないの?」
「……そういうのじゃない」
サチエは前を向いたままで、こちらを見てくれなかった。
「じゃあなんで? みんなで遊ぼうよ」
「そういうのじゃないって言ってるでしょ」
強い口調で言うので、俺はそれ以上は聞かなかった。
問い詰めて嫌がられるのもと思ったし、そんな彼女がこうして自分とは一緒にいてくれることが、特別扱いされているようで嬉しかったのもある。
ただこういう関係は、高学年にもなると冷やかしの対象になる。
サチエは学校では無口でよくわからない女の子で通っていたが、この冷やかしを当然のように無視した。
反応の悪さがつまらなかったのか、周りも彼女を相手にしなくなった。
逆に単純な男子だった俺はすぐ熱くなる。
からかわれて級友と掴み合いの喧嘩をしたこともあった。
そのあと先生に叱られて、お互いにぶーたれて帰るのである。
それでも次の日には一緒にサッカーをして遊ぶのが男子なのだが。
「相手にするからでしょ。ほっとけばいいのに」
夕焼け空の帰り道。
サチエは呆れた表情で俺に言った。
「だってなんかむかつくだろ」
「反応するから付け上がるって言ってんの」
二人になるとサチエは口調が強くなる。
別に学校にいる間、猫を被っているわけではない。
親しくなると遠慮がなくなるタイプなのだ。
彼女が家族と話す時もこんな感じだからだ。
「それはそうかもだけどさ」
「けど何よ。もしかしてヒカル、ナイト気取りとかしてるわけ?」
けらけらと笑う。
この頃はサチエの方が背が高かったのもあって、本当に上からだった。
俺が毎日、牛乳を飲むようになったのはこのせいと言っていい。
「かっこいいねー男子」
「うるさいなぁもう」
「でもあたし、誰かに守ってもらおうなんて思ってないから」
サチエは遠くを見てそんなことを言う。
その言葉はきっと、自身に言い聞かせるための言葉だったんだろう。
後になって俺はそう思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
サチエが急に俺を避け始めたのは中学二年生の頃だった。
朝、誘いに行っても玄関に出てこなくなった。
代わりに親御さんから『遅れるみたいだから先に行ってて』だとか『用があって先に行ったみたい』と言われるようになった。
思春期特有の一緒に行くのが恥ずかしくなったとかだろうか。
はじめはそんな風に考えていた。
授業が終わるとサチエはすぐに教室を出る。
部活動に励んでいるとか、新しくできた友達と遊んでいるわけでもない。
一人でさっさと家に帰るようになった。
そんな日が何日も続くとさすがにおかしいと感じる。
ある日、俺はサチエを追いかけてて『一緒に帰ろうぜ』と声をかけた。
彼女は俺の顔を見るなり、何も答えず駆け足で駐輪場に向かった。
自転車の前カゴに鞄を押し込んで、逃げるようにペダルを漕ぎ出す。
「おいサチエ! 待てって!」
慌てて俺も自転車に跨り、立ち漕ぎで後を追った。
向こうが全力なのでこちらも全力だ。
茜色の空の下、田舎道を二つの自転車が風を切って走る。
「サチエ! 無視すんなって!」
「うっさい! ついてくんな!」
太ももをぱんぱんにして自転車を漕いだ。
体力の差が出たのか、山沿いの道に入ったあたりで完全に追い越した。
観念したのか、サチエは自転車を止めて、両足を地面に下ろした。
息を切らせながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
「ついてくんなって言ってるのに、なんでついてくんの?」
「お前が逃げるからだろ。なんか俺のこと避けてるし。とりあえず理由を言えよ。じゃないと追いかけるに決まってるだろ」
「はぁ……ヒカルはこれだからさぁ……」
サチエは呆れた顔でため息をついた。
俺は彼女をじっと見つめる。
カラスが夕日に向かって鳴いていた。
「……とりあえず座れるとこ行こ」
サチエの提案で俺たちは移動することにした。
とはいえ人目を避けてゆっくり座れる場所は少ない。
結局、俺の自宅である寺まで戻ってきた。
自転車を止めて、本堂の裏側に回る。
二人して石台の縁に腰掛けた。
ここなら建物に遮られて表からは見えない。
目の前には裏山を登る道があるが、そちらから人が来ることはないだろう。
「で? 何で急に俺のこと無視したんだよ?」
「……もう、あたしなんかにかまわない方がいいよ」
「だからその理由を……」
サチエは下を向いて、拗ねたような、泣き出しそうな顔をしていた。
「あたしは生贄の家の子供なんだ。だからもうかまわないで」
「はぁ? なんだよそれ」
「なにって言われてもそういうものなの。嫌な思いをしたくなかったら、もうあたしにはかまわないで」
「嫌だ」
俺は即答した。
サチエは『なんでよ?』という顔をしたが、そんなの関係ない。
「そんなわけのわからないことのせいで無視されてたまるか。生贄だかなんだか知らないけど、それならこっちは寺生まれなんだよ」
「ヒカル……」
「だいたい生贄とかいつの時代の昔話だよ。もうそんなご時世じゃないだろ」
「違うんだよヒカル。そうじゃないの」
サチエは自分で自分を抱くように、それぞれの手で反対の腕を握った。
その体が震えている。
「あたしだって信じたくなかった。でも土地神様は本当にいるんだよ。早く来いってあたしを呼んでるの。声が聞こえるの」
顔を青くするサチエの様子はとても演技には見えなかった。
「罰が当たったんだ。小さいころから言われてたのに。あんたは神様の所に行くんだから、友達を作っちゃいけないよって。一人くらいなら許してくれるかなって欲を出したから……」
俺はサチエのことを、自分を持っている強い女子だと思っていた。
だから初めて見た弱弱しい彼女の姿に衝撃を受けた。
同時に怒りが湧いてくる。
「ふざけんなよ!」
俺はサチエの肩を掴んだ。
「そんな神様、俺は認めない! 俺がお前のこと守ってやるから! だからそんな顔するな!」
「ヒカル……」
サチエは一瞬表情を明るくしたが、またすぐにうつむいた。
いつものように人をからかった軽口で返してほしかったのに。
「……帰る」
サチエは俺を押しのけて、石台の縁から立ち上がった。
「サチエ」
「ごめんね。変なこと言って」
彼女は力なく微笑んだ。
俺はもやもやしたものを感じながらも、境内の外までサチエを見送った。
彼女を乗せた自転車が遠ざっていく。
俺は弾けるように境内を駆け、母屋に飛び込んだ。
靴を放り出して、廊下を走り、居間のふすまを開ける。
ちゃぶ台で新聞を読んでいた父さんが驚いて顔を上げた。
「おいヒカル。どたばた廊下を走るな。行儀が悪い」
気にせず俺は父さんに詰め寄った。
「父さん! 土地神様って知ってる!?」
「そりゃあ……」
言いかけて、父さんは何かに感づいたようだった。
短く刈った坊主頭をなで上げる。
「聞いてどうするんだ?」
「いいから聞かせてくれよ! あと生贄の家ってなんだよ!」
「……とりあえず座れ」
父さんは読みかけの新聞をたたんで、ちゃぶ台の上に置いた。
俺は父さんのそばであぐらになる。
「タチバナさんとこの話だろ」
「知ってんの!?」
「順番に話してやるから。まぁ黙って聞け」
俺の住むこの地域にはかつてから人身御供の風習があったそうだ。
ある民族学者の研究によると、まだ治水がされていなかった頃、この土地の人は河川の氾濫を龍神の怒りとみなしていたらしい。
人身御供はそれを収めてもらうことを目的としたものだったとのことだ。
また歴史資料によると、この地で大規模な埋め立て工事が行われたことは確かなようで、その作業中に不審な事故が起こり、生贄を捧げたとある。
そのとき龍の神に身を捧げたのが、当時この地を治める大名であったタチバナ家の娘オユキであったという。
さて、ここから先は口伝のため真偽不確かな話となる。
河の埋め立てにより住処を奪われた龍は激しく怒り、今までに与えた恩恵の分だけ、この地の者すべてに呪いを返すと宣言した。
これに対しタチバナ家の当主ミツザネは兵を集めて龍を追い払おうとしたが、まるで歯が立たず、かえって龍の怒りを買う始末であった。
父の苦労をおもんばかった娘オユキは龍の元へ赴き、こう言ったという。
「我が身を差し出しますので、どうかお怒りをお収めください」
「人間一人ではとても割に合わない」
「貴方が怒るのは空腹のため。私を食べれば怒りは収まるでしょう」
ならばと龍はオユキを丸呑みにして食べてしまった。
途端に龍は顔を青くし、動かなくなったという。
食べられる前にオユキが服毒しており、その毒が体に回ったためである。
遅れて駆け付けたミツザネは怒り狂い、弱った龍の体を三つに切り裂いた。
いくら娘の仇といえ相手は神である。それを殺してしまった。
祟りを恐れたミツザネは龍の頭、腹、尾をそれぞれ別の場所に埋めた。
そしてその上に社を建て、神として祀ったという。
はてさてこれにて一件落着。
水害はなくなり、土地も豊かになり、国はいっそう栄えたそうな。
めでたしめでたし……と思われていたのだが……
それから六十年が経った頃。
龍の神がタチバナ家の娘の夢枕に立ち『まだ足りない』と告げたという。
時を同じくして、流行り病で倒れる者が里に出始めた。
娘の父親は祈祷を行わせたがまるで効果がない。
その内どこからか『龍の祟りだ』と噂が広まり、次第に騒動は収まりがつかなくなり、結局タチバナ家の娘が生贄に捧げられたのだという。
その後、里を蝕んでいた病は去り、その年はたいそう豊作だったそうな。
以降、六十年周期で人身御供は繰り返され、今日に至るという。
語りを終えた父さんは冷めたお茶をずずずとすすった。
「そんな迷信。誰が信じるんだよ」
くってかかる俺に、父さんはため息をついた。
「お前には感じられんか。まぁその方が幸せかもしれん」
「なんだよ、その言い方」
「土地神様は本当にいるってことだ。本職の俺が言うんだ。間違いない」
俺は眉間にしわを寄せる。
父さんは寺の住職であり、本物の悪霊祓いだ。
霊のことに関しては絶対に嘘をつかない人なのだ。
「じゃあ父さんがその龍を退治してくれよ! そいつのせいでサチエが生贄にされるんだろ!?」
「そんな簡単な問題じゃないんだ」
父さん曰く『土地神様』は山の神なんだそうだ。
水の化身である龍や蛇ではないという。
祀られているのも三つの社ではなく、寺の裏山にある小さな祠らしい。
その説明に俺は頭の中がこんがらがった。
「どういうことだよ。土地神様とさっきの龍神は関係ないってこと?」
「関係はある。だが同じものではない」
「はぁ? わかるように言ってくれよ」
「たとえるなら、龍神から生まれた子供みたいなもんだ」
長い年月を経て、伝承がすり替わってしまったのだと父さんは言う。
人間というのは都合のいいもので、水害が日常ではなくなったことで、龍神の存在は忘れさられてしまったのだ。
その結果『六十年に一度、生贄を捧げる』という慣習と、それによって『豊作が祈願される』という要点のみが里に残されたらしい。
実際、先程語られた龍神の逸話は戦後復興されたもので、社の関係者に聞いて回った話を元に再構成した物語なんだとか。
その程度にしか住民に認知されていなかったということだ。
人々の認識というのは重要な要素で、これは神様の性質すら変えてしまう。
水害がなくなり水の神は消え、かわりに豊穣の神が求められた。
それが山の神として土地に根付き、土地神様と呼ばれるようになったのだ。
「この土地の風習そのものが神格化された存在なんだ。善悪に関係なく、そういう存在と定義されているから生贄を求める。この土地固有の自然現象みたいなものなんだよ。人間の力じゃあ逆らいようがない」
「どうにかなんないのかよ!?」
「この土地の人間が土地神様のことを忘れ去るほかない。伝統が消えていってる世の中だが、こればかりは時間がかかる。俺が生きているうちは無理だろうな」
「なんでそんな落ち着いてんだよ!」
他人事のように口ぶりに、俺はカッとなって掴みかかっていた。
父さんは怒りもせず、むしろ優しい目で俺を見ていた。
「サチエちゃんにしてやれることはもう全部やった。土地神様に見つからないよう結界も張ったし、身代わり人形もこしらえた。むしろこの年までよく持った方なんだ」
その道のプロが言うのだ。本当なんだろう。
でもだからといって簡単には受け入れられない。
大見得を切っといて、あっさり引き下がってどうする。
「何でもいいんだ。何か俺にできることはないのかよ?」
父さんは少し考えた後、俺の肩をぽんと叩いた。
「なら御守りの作り方を教えてやる。お前が作って渡せ」
「御守り?」
「結局、最後は本人の意志の強さなんだ。向こう側には逝きたくない。こちら側で生きていたい。本人がその気持ちを強く持てるように、お前が『かすがい』になれ」
自分がサチエをこの世に繋ぎ止める存在になる。
その響きに、俺は胸に希望が湧いてくるのを感じた。
「ありがとう、父さん」
俺は父さんの指導を受けて、心を込めて御守りを作った。