13話『夜が明ければ朝が来る』
桟橋の船上からブオナ島を眺めると、火事の跡が炊煙のように見えた。
船の甲板では兵士たちが腰を下ろして、朝食を口に運んでいる。
その集まりから離れて、俺はティアナートと船尾にいた。
「……ということがありました」
明け方、船に戻ってきたところを待ち構えていた彼女に捕まったのだ。
それで昨夜の出来事を報告した次第である。
あの後、俺はクルガラたちに交じって消火活動の手伝いをした。
宮殿の火災が収まったのは水平線が白くなり始めた頃である。
建物はすっかり燃え尽きて炭と成り果てた。
ともあれ山林への延焼を免れたことは不幸中の幸いだろう。
美しい緑の島が焼けることは誰も望んでいないのだ。
「……そうでしたか」
ティアナートは口元を白い手袋の右手で隠して、あくびをした。
顔に疲れの色が見える。
彼女は昨日と同じ紫色のドレスを着ていた。
ただし髪の上に乗せていたティアラは外している。
「勝手な判断で動いてしまって、すみませんでした」
頭を下げると、ティアナートは首を横に振った。
「いえ、その点はむしろよくやってくれました。今回の件はその場での即断即決が必要だった。良い判断です」
彼女は柔和に微笑んだ。
「判断が必要な場面に常に私がいるとは限りません。今後も貴方が必要だと判断したならそうしなさい。私が許可します」
「わかりました」
ほっとひと安心する。
しかしよくよく考えてみれば、自分の行動を引き金に鱗人族との関係がとんでもない状態に突入していた可能性もあったのだ。
己の向こう見ずっぷりに今さら恐々とする。
以前、ベルメッタに言われたように、言動には気を付けないといけない。
俺は自分のことを未熟な若造としか思っていないが、公の立場としては王女陛下に救世主と認められた、特別な側近として見られてしまうのだから。
「……?」
ティアナートが俺の顔をじっと見ていることにふと気付く。
「なんでしょうか?」
「綺麗な顔」
ティアナートの右手が俺の頬をなでた。
突然の至近距離にどきりとする。
純白の手袋についた黒いすすを見て、彼女はくすりと笑った。
「顔を洗っておきなさい」
俺の肩をぽんと触って、ティアナートは船内に降りていった。
疲れているのかと思ったが、わりと上機嫌みたいだ。
彼女の笑顔を見ると俺も心が軽くなる。
桶で海の水をすくい、手と顔を洗う。
少し肌がぴりぴりするが、真水はないのだから仕方がない。
一段落するとお腹が空いてきた。
夜通し頑張ったことだし、さっさと朝食にありついて仮眠をとりたい。
俺は配膳待ちの列に並んだ。
船上の兵士たちがいくぶん賑やかなのは食事内容のおかげだろう。
昨日の朝食は航海中ということもあって、かちかちの堅パンとチーズ二切れ。それに船旅用の酸っぱい果実酒という簡素なものだった。
だが本日の朝食はそれに加えて、昨日の会談の帰りに鱗人族から差し入れとして受け取ったブオナ島産の果物が配給されたのである。
この果実、びっくりするほど甘くておいしいのだ。
こういう特別なものが一つあるだけで人間は元気が出る。
人は仕事の大変さには耐えられるが、食事の貧しさには腹を据えかねる。
三大欲求とはよく言ったものだ。
正直なところ、いくら修行してもこの欲からは解脱できる気がしない。
朝食一式を受け取り、どこに座って食べようかと俺は甲板を見渡した。
右舷の船べりに腰を下ろしたオグが手を振っている。
彼の部下である十人隊の皆もいた。
お邪魔しますと俺は輪に入らせてもらう。
「で!? どうだったんだよ?」
俺が甲板の上にお尻をつけるなり、オグは前のめりに聞いてきた。
「とりあえずは一件落着かな。宮殿は燃えてなくなったけど、それ以上の被害は出なかったし。ケガ人も出ちゃったけど、命に別状はなかったみたいだから」
「まじか。てかあの空気でよく収まりがついたな」
「元々がそんなに悪い人たちじゃなかったからかな。復讐心とか正義感とか、義務感とか対人関係のしがらみとか。そういうのが絡まり合って暴走した結果だったんだと思う。でもまぁうまくいったのは運が良かっただけだよ」
「へぇー」
オグはかじりかけの果物を口の中に放り込んだ。
まねるわけではないが、俺もまず果物を丸かじりする。
疲れて干からびた体に甘味エキスが染み入る。
甘いものを食べる一口目の幸福感には格別なものがあると思う。
「そういえばオグ。戻る時、道に迷ったりしなかった?」
聞いた途端、オグはげほげほとむせた。
服の袖で口元を拭う。
「んなわけねぇでしょ……」
目を泳がせるオグを、周りの隊員たちがにやにやしながら見ている。
単純に心配して聞いたのだが、当たりを引いてしまったみたいだ。
「嘘はいけないねぇ」
「隊長ってすぐそうやって見栄を張るよね」
「坊主は昔からそうだったからなぁ」
食わせ者の兄貴分ムルミロ。
新兵の青年レティ。
頼りになるベテランのサムニー。
隊員たちに順番に冷やかされて、若き十人隊長殿の顔がみるみる赤くなる。
「だぁー! うるせぇよ! 迷いましたよ!」
オグは照れを隠すように大げさに頭をかいた。
話によるとこうだ。
俺が藪から飛び出した後、オグは報告に戻ろうと急いだ。
しかし帰路の途中で方向感覚を失ってしまったらしい。
どこを向いても木と草の真っ暗な山道だ。それは責められない。
焦ったオグは『とりあえず下に降りていけば戻れるだろう』という力業の思考で、険しい傾斜を降りることにしたんだそうな。
頬や腕のすり傷はその結果だろう。
「あんなとこ迷わないほうがおかしいんだよ。ちゃんと帰ってこられたんだからいいだろ」
なおも強がるオグを皆がからかう。
仲が良いなと眺めながら、俺は朝食を平らげた。
お腹が膨れると途端に眠気が来る。
これ以上はもう起きていられない。
短時間でいいから一度、意識を落とさないとだ。
「すみません。ちょっとだけ寝てきます」
「おー、お疲れさん」
みんなからの労いの言葉に感謝しつつ、俺はその場を離れた。
食器を調理係の者に返して、船内に降りる。
船の中は正直に言って狭い。
まず胴体部分の両脇には漕ぎ座がある。
船首の方には船倉があり、食料などの積み荷でいっぱいだ。
船尾の方には小さいながら船長用の部屋がある。
今回だとティアナートとベルメッタがこの部屋を使用している。
では兵士がどこで寝ているかだが、特に決まりはない。
空いているところで好きにすればいい。
今だと漕ぎ座の上で寝転がっている兵士が多い。
王女陛下の寝室の近くは暗黙の了解で避けられているようだった。
俺は空いている漕ぎ座に体を横たえた。
ベンチで寝るような感覚だ。
目を閉じて力を抜くと、意識が深みに沈んでいく。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
気付くと体を揺らされていた。
「シロガネ様~。起きてください~」
頑張って重たいまぶたを開く。
栗色の髪の毛を垂らして、ベルメッタが俺の顔を覗き込んでいた。
「もうすぐ鱗人族の皆様がいらっしゃいます。ご支度をなさってください」
「……ぁい」
漕ぎ座から体をのっそりと起こす。
まだ頭がふらふらするが、少しはましになった。
この感じだと三時間くらいは眠れただろうか。
「何か……飲むもの……」
言っている途中で気付く。
ベルメッタはすでに木のコップを差し出してくれていた。
受け取って、さっそく口に運ぶ。
凄く甘い。それでいて酸っぱい。
糖分と酸味のパワーでぐっと意識が冴える。
この味は昨日の食事会の時に飲んだ果物ジュースだ。
「ありがとう。目が覚めた」
「どういたしまして」
ベルメッタはにこっと笑った。
さすがは王女専属の侍女だ。気が回る。
俺はジュースを飲み干して、彼女にコップを返した。
「じゃあ行ってくる」
「はい、お願いします」
船内から甲板に上がる。
船首の方にティアナートとドナンの姿を見つけた。
足早に向かう。
「すみません。遅れました」
「おぉシロガネ殿」
ドナンが振り返る。
ティアナートは俺の顔色を検分するように見てきた。
すでに彼女は黄金のティアラを頭にのせており、準備万端のようだった。
「よく眠れましたか?」
「はい、ありがとうございます」
よろしいとティアナートが微笑む。
話している途中から、俺は砂浜が気になっていた。
鱗人たちが木製の卓と椅子を設置している。
「あれは何の用意をしているんですか?」
「本日の会談はあちらで行うことになりました」
「あぁそういう……」
クルガラの宮殿は燃えてしまい、もう存在しないのだ。
それに今日はいい天気だ。ビーチ気分もいいだろう。
寝不足でまたあの山道を登るのも大変だ。
「私たちがどういう相手と話をしているのか。姿形が見えた方が兵たちも良い印象を持つでしょう。そういう意味でもちょうどよい」
その視点はなかったなと俺は頷く。
船に残った兵士はクルガラの姿を知らないのだ。
せっかく来たんだ。相手の大将の顔くらい拝んで帰りたいと思うだろう。
それにしても用意された長卓は雰囲気が昨日と違うように感じられた。
上手に作った日曜大工のような単純な造形だ。
木材の色も真新しい。
替えがなくて、本当に急ごしらえなのかもしれない。
そうこうするうちに森から鱗人族の団体さんがいらっしゃった。
先導する巨体の男はガッリだ。
すぐ後ろにクルガラがいた。
外見に特徴のある二人だ。遠目にもすぐわかる。
しかし引き連れてきた鱗人の数がやけに多い。
ざっと百人はいるだろうか。
威圧行為なのかと警戒するが、彼らは武器を持っていなかった。
木樽を複数人で担いできている。中身は何だろう。
「参りましょうか」
俺たちは船を降りて、砂浜に向かった。
卓の片側の椅子にティアナートが腰を下ろす。
その右隣の席が俺だ。
ベルメッタは王女のそばで日傘をさしている。
ドナンは俺たちから少し離れて、浜辺の鱗人たちににらみを利かせていた。
船から兵士たちが身を乗り出して、砂浜の様子を眺めている。
卓を挟んで、ティアナートの対面にクルガラが座った。
俺の向かいの席に着いたのはソベクである。
ガッリは鱗人たちを浜辺に整列させて、その先頭に立っている。
「話を始める前に、まずは紹介しておきたい」
クルガラは穏やかな口調で切り出した。
隣に座る鱗人を手で示す。
「この者の名はソベク。鱗人族の新しい時代を共に担っていく一人だ。本人の希望もあって臨席させたのだが、構わないだろうか?」
ティアナートがちらりと俺を見る。
ソベクが昨夜の火事騒動を起こした主犯格だと、彼女には伝えてある。
彼の言動を見て知っている俺に判断しろということだろう。
俺は微笑んで、はっきりと頷いてみせた。
ソベクがあの後どんな風に考えを巡らせたかはわからない。
しかし今すっきりとした彼の表情を見れば、悪意がないのはわかる。
「ええ。構いません」
「ありがとうございます」
ソベクは深々と頭を下げた。
クルガラが嬉しそうに微笑む。
「昨夜のことはすでに王女の耳に入っているだろうか?」
「存じております」
「お騒がせしたことを謝罪する。そしてあらためて感謝させていただく。こうして我らがこの席に着けたのもシロガネのおかげだ」
ありがとう、とクルガラが頭を下げた。
ソベクも同様に一礼する。
「いえそんな。別にたいしたことは――」
俺が謙遜しようとすると、ティアナートが卓の下で俺の足に触れた。
言葉を使わず『私に任せなさい』と言っているように感じた。
「私の救世主がお役に立ったようですね」
ティアナートはにっこりと笑う。
クルガラは一瞬きょとんとしたが、すぐにふっと笑った。
「あぁとても」
会談は和やかに進行した。
鱗人たちが運んできた木樽はお土産だった。
ブオナ島の果物の詰め合わせと、それを絞ったジュースの樽だった。
ジュース樽の一つはただちに兵士たちに振る舞われ、歓声が上がった。
友好的な雰囲気になっていた。
なんだかんだ、こういう心遣いは良い印象を与えるものである。
特に兵士たちは異種族との戦闘もあり得ると出港前から気を揉んでいた。
その分、余計に心も緩むというものだ。
そんな空気の中、ふとティアナートが切り出した。
「ところでクルガラ王に一つ提案があります」
「なにかね?」
「王は昨日、人間と獣人の争いには関与しないと仰いました。その気持ちは今もお変わりになっていませんか?」
クルガラは胸の前で腕を組むと、しばし黙り込んだ。
ソベクは黙って彼の表情を見ている。
鱗人族の王はゆっくりと息を吐き、ティアナートに視線を返した。
「申し訳ないが答えは変わらない。諸君には恩義を感じているし、友好的な関係でありたいと思っている。だができることならば島の鱗人たちを争いに巻き込みたくないのだ」
「そうですか……」
ティアナートは残念そうに顔を伏せた。
もしかしてを期待したが、こればかりは仕方ない。
彼は一族を率いる王なのだ。自国の民を第一に考えるのが正しい。
俺のしたことはあくまでも勝手なお節介なのだ。
恩の押し売りで相手を責めるのは筋違いだろう。
「ではこういうのはいかがしょう」
ティアナートが面を上げる。
この流れを想定して次の矢を用意していたのだろう。
「王は事前の許可があればブオナ島近海を通ってもよいと仰いました。その条件に一つ付け加えてほしいことがあるのです」
「と言うと?」
「私どもが許可を求めた時、そのことを獣人族に伝えていただきたいのです」
クルガラが首を傾げたのと同様に、俺もハテナとなる。
「そうすることで諸君に何の得があるのだ?」
「その代わり、獣人族が許可を求めた時は私どもに知らせていただきたい」
「ほぅ……」
クルガラは思案するようにあごの下をなでた。
「条件は対等なのですから、どちらかに傾く行為ではないと思いますが?」
事前に情報を掴んでいれば対策の立てようもある。
進軍予定が相手に筒抜けになってしまうというのも一つの抑止力だ。
海路からの侵攻をゼロにできないのなら、せめて守りやすいように。
それがティアナートの出した結論なのだろう。
クルガラは椅子の背もたれに体を預けた。
腕組みをしたまま空を仰ぐ。
潮風に吹かれて、山の草木がざぁーっとさざめいた。
その場の全員が彼の言葉を待っていた。
「……よかろう。その提案を受け入れよう」
クルガラはティアナートの目を見て頷いた。
ソベクも特に異論はないようだ。
「……痛み入ります」
ティアナートは安堵の息を吐いた。
目に見えて表情が軽くなる。
「陸でのことに手を貸すことはできない。だがもし海で問題が起こったならば、誰よりも力になることを約束しよう。諸君の進む道に良き運命が微笑むよう願っている」
クルガラは席を立つと、右手を差し出した。
ティアナートも立ち上がり、その手を握り返す。
「両国が末永く良い関係を築けることを願っています」
にこやかな握手をもって会談は終了した。
あとは船に揺られて帰るだけだ。
桟橋に向かう途中、ソベクが砂を鳴らして俺のそばに駆け寄ってきた。
「シロガネ。亡き父に会わせてくれたこと、本当に感謝している。君と出会わなければ私は道を間違えていた。ありがとう」
差し出された彼の手に、俺は温かい気持ちになった。
感謝は大事な指標なんだ。
自分のしたことが正しかったのか間違っていたのか。
自己満足なのか誰かの為になったのかを教えてくれる。
俺は自然と笑顔になり、ソベクの手をぎゅっと握った。
「また今度、ゆっくりお話ししましょう」
「楽しみにしている」
俺たちは桟橋から船に戻った。
錨が上がり、船を桟橋に係留する縄が解かれた。
漕ぎ座についた兵士たちがドナンの号令で一斉に櫂を動かし始める。
砂浜に並んだ鱗人たちに見送られ、船はゆっくりとブオナ島を離れていった。