01話『ようこそ生贄の救世主様』
「救世主様。お目覚めになってください」
凛とした少女の声が耳に触れた。
誰かに体を揺さぶられている。
けれど俺の意識は泥のようだった。
心地良いまどろみの中にあって、身じろぎする気もしないほどに眠い。
「起きてくれませんねぇ」
「救世召喚の儀は失敗した……ということでしょうか?」
「お兄様の調べた手順の通りになりましたので、成功はしたのかと」
「ではなぜ、この者は目を覚まさないのです。やはり儀式に不備が……」
「単にお寝坊なのではないでしょうか? 気持ち良さそうなお顔ですよ」
二人の女性の声が、ふわふわした脳みそに響く。
こんなに気持ちいい睡魔は久しぶりだった。
このまま身を委ねて深い泥の底まで沈んでしまいたい。
そう思っていると突然、わき腹にめり込んだ衝撃に俺は息が詰まった。
痛みで眠気がすっ飛んでしまい、俺は呻きながらまぶたを開いた。
閉じ切った地下室を思わせる静かで暗い場所である。
俺は寝巻き代わりの作務衣のまま、冷たい石床にうつ伏せで倒れていた。
石床には魔法陣のような、曼荼羅めいた紋様が描かれている。
「お待ちしておりました、救世主様」
降ってきた声に顔を上げると、純白の手袋に覆われた右手が目に映った。
手を差し伸べてくれている。
俺は床に手をついて上半身を起こして、これは何の夢かと目を疑った。
桃色のドレスを着たお姫様が床に膝をついて、微笑みを浮かべている。
ドレスは袖の長さが手の甲まであり、しっかりと肌を隠していた。
艶めく金色の長い髪が豊満な胸の膨らみの下まで垂れている。
年の頃はおそらく十代の後半。俺と同じくらいだろうか。
姫様の後ろにはもう一人、少女が控えている。
その服装から侍女のように見えた。
栗色の髪は肩まで伸びており、その顔立ちはどこか幼さを感じられる。
その手が持つ燭台の火が、この暗い空間をぼんやりと照らしていた。
この二人はいったい何者なのだろうか。
およそ俺と同じ日本人だとは思えない。
まるで舞台演劇の格好だが、二人の着こなしはこなれ過ぎていた。
そもそも俺は今、自分の置かれた状況すらわかっていなかった。
ここはどこだろう。
俺が暮らす寺にこんな石床の広間はなかったはずだ。
頭の中に疑問符が飛び回る。
ともかく俺は自分が何をしていたのかを思い出そうとした。
記憶が曖昧で自信がないが、俺は一人きりで蔵に籠もっていたはずだ。
蔵の中にある座敷牢で明かりも灯さず、一切の食べ物、水を断ち、眠らず、ひたすらに坐禅を続けるという過酷な修行に打ち込んでいたのだ。
その三日目だっただろうか。
意識が飛び飛びで自分でも限界が近いことは感じていた。
だとするとこれは本当に幻なのかもしれない。
彼女たちは修行を邪魔するために天魔が差し向けた美女というわけだ。
「いかがなさいましたか?」
桃色ドレスの姫様が心配そうに顔を覗き込んでくる。
気が強そうな目に整った鼻筋。唇には妖しさすらあった。
思わず見とれてしまうほど綺麗だ。
俺は高鳴る鼓動に動揺しながらも、彼女の手を取って立ち上がった。
「私はエルトゥラン王国の王女ティアナート=ニンアンナと申します。救世主様、どうか我が国の民をお救いくださいませ」
姫様は豊かな胸元に右手を当てて、深々と頭を下げてきた。
「あっ、えっと……! 自分はシロガネヒカルと申します」
俺は慌てて頭を下げた。
こうして向かい合うと、ティアナートの魅惑的な体形美がよく分かる。
俺より少し背が低いことから考えて、身長は百七十センチくらいだろう。
武道の心得でもあるのか、立ち姿にも凛とした美しさがある。
そのボディラインは俺のような年頃男子には刺激的すぎた。
ろうそくの明かりが、彼女を照らす後光のように感じられた。
「シロガネ様とおっしゃるのですね。どうかそのお力をお貸しくださいませ」
はい何でもと答えかけて、俺はふと我に返った。
俺は父さんのような悪霊祓いのプロではない。
爺ちゃんのようなニンジャでもないのだ。
「力になりたいのは山々なんですけど……自分はまだまだ修行の身で、人様を助けられるような人間では……」
「シロガネ様は救世召喚の儀によって、この国へと渡られたのです。自信をお持ちください。貴方様は救世主なのです」
ティアナートが顔を近付けてくる。
ふんわりとした甘い香りにうろたえそうになるが、はたと俺は気付く。
彼女はいま何か不思議なことを言わなかっただろうか。
「シロガネ様、ご心配には及びません。我が国には救世主様のための秘宝が残っております。一度、身に纏えば千の兵にも勝る英雄となれる秘宝でございます」
ティアナートの右手が俺の腕を掴んだ。
「さぁこちらに」
腕を引っぱられて、俺は石床の広間を奥へと進んだ。
燭台の明かりだけが頼りの闇の中に三人の足音が響く。
反響音と圧迫感から察するに、やはりここは地下室なのだろう。
夢や幻にしてはずいぶん臨場感がある。
広間の奥には膝ほどの高さの段差があり、その先に古びた玉座があった。
その玉座に黒っぽい『なにもの』かが鎮座している。
それを目の当たりにした瞬間、俺は得体のしれない肌寒さを覚えた。
「ベルメッタ、明かりを」
栗色の髪の侍女が手に持った燭台を玉座へと向けた。
闇の中に浮かび上がったのは『黒い鎧』だった。
頭から足の先まである全身鎧が、まるで人間のように玉座に座っていた。
その光景に俺は息を呑んだ。
いや、強がらないではっきり言おう。
骨の髄から恐ろしいと思った。震えるほど怖い。背筋が凍るのがわかる。
ろうそくの火に照らされて気付いたんだ。
鎧は黒っぽいなんてものじゃない。
その色はまるで乾いてどす黒くなった血の色だ。
人の形をした装甲の奥からおぞましい妖気が溢れ出しているのがわかる。
「我が国に伝わる秘宝『救聖装光』と呼ばれているものです」
ティアナートは微笑みながら紹介してくれた。
だがどうしてそんな顔でいられるのかが俺にはわからない。
彼女には見えていないのだろうか。聞こえていないのだろうか。
王女様には悪いがこっちはもう気が気じゃない。
「ティアナートさん、ベルメッタさんも。俺の後ろまで下がってもらえますか……?」
俺は勇気を振り絞って言う。
しかしティアナートは怪訝そうに、侍女のベルメッタと目を合わせた。
だめだ。この反応はわかっていないんだ。
「いいからお願いします。できるだけ早くお願いします」
「どうなされたのですか。この鎧に触れるだけで良いのです」
ティアナートは俺の腕を引っ張って鎧に近付けようとする。
どうしてそうなる。
もしかしてわざとやっているのか。
穏便に収めたかったが、こうなったらもうやるしかない。
「いいからその鎧から離れて! それは呪われている!」
俺はティアナートをむりやり後ろに引っ張って、鎧の前に飛び出した。
大きく息を吸い、素早く両の手で印を結ぶ。
「喝ぁーっ!!」
爆ぜるような音がしたかと思うと、広間の空気が変わった。
圧が肩に重くのしかかると同時に燭台のろうそくの火が揺れた。
鎧の影がゆらゆらと少しずつ大きくなっていく。
地鳴りのようなくぐもった声がする。
さぁ出てこい。
俺は作務衣の懐から取り出した数珠を手にかけ、念仏を唱え始めた。
念仏なんて効かないと言う人がいる。
霊には言葉なんて通じないだろうと言う人もいる。
だがそんなことはないと、俺は父さんから教わった。
念仏とは言の葉であると同時に音なのだ。
音とは波動であり、それ即ち力である。
つまり気を込めた念仏は……
――どんな魂にも通じるということだ!
鎧の影がひときわ大きく揺れた。
鎧の中から漏れ出した黒いもやが煙のように立ち昇る。
もやは一つの大きな塊となり、人の顔へと形を変えていく。
「憎い! ニグィィーッ!!」
その口から放たれたのは、破裂音と金切り声が入り混じった叫びだった。
これは思ったよりも厳しそうだ。
だが逆に俺は意識して不敵に笑った。
弱みは見せない。同情もしない。
それが悪霊祓いのコツだと父さんに教わったからだ。
「此岸怨嗟に縛られし者よ。あるべき世界に還れ!」
俺の気迫などものともせず、怨霊はさらに複数の顔を浮かび上がらせてきた。
怒り、憎しみ、痛み、苦しみ、妬み、嫉み、どの表情も負の感情そのものだ。
この感じは一人分の怨みじゃない。
未練を持った霊がいくつも集まった質の悪いやつだ。
生ごみのような臭いが鼻を突く。
怨霊が顕在化してきた証拠だ。
さぁ勝負はここからだ。
霊の影響が表に出たということは、霊がエネルギーを使っている証なのだ。
まずは消耗させて怨霊を弱らせないといけない。
「ティアナートォォ! オマエさえイナけれバァ!」
怨霊が吠えた。
この霊、王女様に恨みでもあるのか。
俺は印を結んだ手を怨霊に向けたまま、顔だけ動かして後ろに目をやる。
侍女のベルメッタは尻もちをついて、燭台を掲げたまま固まっていた。
恐怖で動けなくなっているようだ。
そんなベルメッタを庇うように、ティアナートは立っていた。
一歩も怯まず、怨霊をにらみ返している。
見開かれた目には激しい怒りが感じられた。
強く歯を食いしばっているのか頬が震えている。
「化けて出るほど私が憎いか……恥知らずの逆賊どもが……!」
ティアナートは底冷えするほどの声で吐き捨てた。
抑えきれない憎悪が漏れ出たように感じられる。
先程までのティアナートは可憐で美しいお姫様だったはずだ。
途端に様変わりした彼女に、俺は驚き戸惑っていた。
「ティアナートォォ!」
「苦しい! イタイィー!」
「お前さえ! オマエさえイナけれバァ!」
ぶわっと生ぬるい風が吹いた。
俺は慌てて向き直り、怨霊への念仏を続ける。
黒いもやで出来た怨霊の顔がぼこぼこと泡立っていた。
それが無数の口となって、罵詈雑言を投げかけて来る。
この怨霊、俺なんかがかなう相手だろうか。
額に汗がにじむ。
早まったかもしれない。
でもいまさら後には引けない。
俺は寺生まれの男なんだ。
目の前の誰かを見捨てて、邪悪な存在から逃げる選択肢などない。
もう二度とあの日のような悲劇は繰り返さない。
その為に俺は血の滲むような修行をしてきたんだ。
手を伸ばして掴んだのなら、その手は絶対に離しちゃだめなんだ。
俺は念仏を唱えながら、へその下に力を込めて気を練った。
今はやれることを全力でやるしかない。
「口を開けば恨み辛み。どこまでも見苦しい。不愉快、極まりない」
背中越しに、ティアナートの冷たい声が聞こえた。
「己らの罪を棚に上げて、死してなおその態度か! 私欲のために国を売ろうとした人非人どもが! 貴様らごときが化けて出ようと怖くもなんともない! 悔しければ、この首はねてみよ!」
怒りを爆発させるティアナートに、俺は慌てた。
ちょっと待ってくれ。
こっちは必死だってのに彼女は何を言ってるんだ。
そんな風に挑発したら――
「ゴアアァァーッ!!」
怨霊のカラダからヘドロのような触手が飛び出した。
ティアナートの体にぐるぐると巻き付く。
「ティア様!」
侍女のベルメッタが駆け寄って、怨霊の触手を剥がそうとする。
泣きそうな顔で引っ張るがびくともしない。
触手が強く食い込み、ティアナートの体を締め上げる。
彼女の顔が苦痛にゆがんだ。
まずいことになった。
だがいま念仏を止めるのは危険だ。
念仏の力で怨霊を抑えているから、この程度で済んでいるのだ。
どうすればいい。
冷たい汗が背中を伝った。
こういう時、父さんならどうする。
決断するのが怖い。
とちって死ぬのが自分だけならいい。
自分の失敗で誰かが死ぬのはもう絶対に嫌なんだ。
だから怖い。一か八かをやる踏ん切りが付かない。
「シロガネッ!」
声にハッとする。
ティアナートは蛇のように巻き付いた触手に体を絞られる痛みに耐えながら、力のこもった眼差しを俺に向けてきていた。
そこには怒りの色と同時に、何かに期待する光があるように思えた。
「怖気づいている間に人は死ぬのです! 貴方に力があるのなら、それを私に見せなさい!」
ティアナートの言葉が胸を打つ。
俺はその言葉を発破として受け取った。
ぐだぐだ考えて何になる。
このまま何もしなかったら、ただの見殺しだ。
自分の弱さを逃げ道にするのは根性なしのやることだろう。
俺は寺生まれの男でニンジャの孫なんだ。
期待されて応えないでどうする。
俺は今一度、怨嗟の言葉を吐く醜悪な霊を見据えた。
よく見ればこの怨霊、激昂して暴れたせいで消耗が進んでいる。
逆にこちらは練り上げた気が溜まっていた。
呼吸を整え、印を結ぶ。
神仏に代わり、いざ邪を祓わん。
解き放て――
「破ァーッ!!!!」
全身全霊の喝破が怨霊の体を貫いた。
穿った穴が渦を巻き、黒いもやが吸い込まれていく。
「イタイィィィッ! ドウシテェェェエ!?」
「執着を解放しろ! 留まるから痛みに縛られる!」
怨霊の顔が歪んで崩れた。
渦の中に飲み込まれていく。
「アァァァ……」
「安らかに眠りたまえ」
俺は指で空を切る。
渦はゆっくりと虚空に溶けて、消えた。
生きとし生けるもの全てはいつか無に還る。
善人も悪人も平等に。もちろんそれは怨霊だろうと変わらない。
薄暗い石床の広間に静けさが戻った。
玉座に座る『鎧』からはもう禍々しい念を感じない。
どうやらうまくいったようだ。
俺は全身でため息を吐いて、その場にへたり込んだ。
我ながらよくやったものだ。
奇跡と言っていい。
「救世主様。大丈夫ですか?」
ベルメッタが顔を覗き込んでくる。
平気だと答えたかったが、力が抜けて声が出なかった。
代わりに俺は手を挙げて応じて、ふと別のことに気付く。
ベルメッタの体はがたがたと震えていた。
顔は笑っているが、目の焦点が合っていない。
俺は声を出すために頑張って息を吸った。
「大丈夫。もう大丈夫ですから」
できるだけ優しく言う。
意図が伝わったかはわからないが、ベルメッタは頷いてくれた。
「お見事でした。救世主様」
顔を上げると、俺のすぐ前でティアナートが微笑んでいた。
「かようなことになろうとは姫は思いもしませんでした。ですがさすがは救世主様。なんと素晴らしいお力なのでしょう。姫は感激しております」
猫なで声で言ってくる。
あらためて観察すると、彼女の作り笑顔は少しぎこちない感じがした。
「そういうのはもうやめませんか」
俺はゆっくりと立ち上がって、正面からティアナートの目を見た。
「俺は騙し合いとか好きじゃないんです。本当の貴方を見せてください、ティアナートさん」
ティアナートは固めた笑顔のまま動かない。
俺は目をそらさず、ただじっと待った。
長い沈黙の後、ついに彼女は観念したようにため息をついた。
「火急の事態とは言え、おだてて人を使おうなど浅はかな考えでした。礼を欠いた行いを謝罪いたします」
ティアナートは深々と頭を下げる。
面を上げた彼女の表情は凛々しいものに変わっていた。
「教えてくださいティアナートさん。救世主だとか召喚だとか。そもそもここはどこなんですか?」
さすがにもう夢や幻とは思っていない。
とんでもなく異常な状況だが、これはきっと現実だ。
だったらまずは自分の置かれた状況を把握しなければならない。
「初めにも申し上げた通り、この国の名はエルトゥラン。そしてここは王国の中心たるエルトゥラン王城の中。その地下にある儀式の間です。貴方はここではないどこか……異なる場所から喚び出されたのです。私どもが執り行った救世召喚の儀によって」
ティアナートはだらりと下がった自身の左腕に右手を添えた。
それから堂々とした態度で言い放った。
「シロガネ。貴方は私の救世主となりなさい。そしてこの国を救うための生け贄となるのです」