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魔女と瘦せた黒猫  作者: 西の茶店
1/1

 魔女契約の有効期限は一年間です 失効と再契約につき後日お伺いします



       魔女と痩せた黒猫






                   西の茶店




             




 その日まで、俺は自分自身を疑うなんてしたことはなかった…。


 


 そろそろ日も暮れるのが早くなってきた十月。一年の全国大会の選抜以来、ストライカーの座に居座っている俺は、二年になっても朝も放課後もサッカーに明け暮れて過ごしていた。




 女っ気一つもなく、一部の奴らに「サッカーバカ」と言われようと、レギュラーになれたどころか、『期待の新星』と新聞にまで載ったことが、嬉しくてたまらなかった。




 それまでは、いくら熱血サッカー少年をやっていても、いつも補欠止まりでいまいち冴えない影だったんだ。これで力入れなきゃ、本当のバカだ。




 その日も汗と砂埃まみれになって、大雑把にシャワーで流しただけで帰って来た俺に、母さんが汚い捨て猫でも見るみたいに、「先に風呂に入ってちょうだい」と、リビングから俺を追い出した。




 仕方なく俺はサッカーボールを階段に置いて、風呂場に直行した。




 何か一つ脱ぐたびにパラパラと落ちてくる砂に、ヤバイな、と顔を顰めている時だった。




「ああ、手紙が来てたから、机に置いておいたわよ、香」




 ドアの向こうで母さんの声がして、俺は砂がバレたのかとギクッとした後、なんでもないように答えた。




「ふーん、サンキュー。それより、風呂出たらすぐ飯にしてくれるー?俺、腹減っちゃってさぁ」




 はいはい、と呆れた声で返事が帰ってきて、俺は誰からの手紙かも考えず、頭からシャワーをひっかけた。




「あーさっぱりしたっ。さ、お部屋へ行こーか、愛しのボールちゃんっ」




 腰にタオル一枚を巻いた姿でダンダラ模様のボールを拾いあげると、俺はご機嫌で階段を昇って自分の部屋のドアを開けた。




 PCの電源を入れ適当にYouTubeをでっかい音で再生しながら、がしがしと頭をタオルで拭いた。




 そーいや、手紙が来てるって?




 引っ張りだしたトランクスに足を通して、机の上に置かれたワインレッドの封筒に目をやった。




 すげー色、誰からだろ?




 手にとって裏返してみると、何も書いていない。消印もないし、ダイレクトメールっぽいけど、透けるように綺麗なワインレッドの封筒は、どう見ても『**ゼミ、大学受験講座!』の類いのものではない。




 ダイレクトメール…?違うな、なんだよこれ、猫模様の消印?




 切手も何も貼っていない封筒に、くっきりと捺された場所も日付もない消印は、見たこともないひょろりとした猫の模様だった。




 痩せた黒猫の消印に、パソコンの宛名書? 何となく気味悪いと思いながらも、好奇心の方が強くて、俺は丁寧にはさみで封を切った。




 中は封筒と揃えたように、微妙に色の違うワインレッドで、宛名書きと同じでパソコンで打たれていた。




 シンプルに折られた便箋を広げ終わると、真ん中に寄せたように並んだ短い文章が、よけいに気味が悪かった。




『柚木香さま




 魔女契約の有効期限は一年間です




 失効と再契約につき後日お伺いします




               高天早紀』




「魔女!?」




 思わず口に出してしまって、俺は慌てて口を手で覆った。




 ま、魔女だってぇ?契約の有効期限だの、失効だの、再契約だの…おまけに、[高天早紀]って、誰だよ!?




 まじまじと便箋を見入ったものの、悪戯にしてはディテールがこっている。大体こういう場合は、デタラメでも名前など入れないでただの[魔女]にした方が、気味悪がられるはずだ。         




「かおるー!何してるの、ご飯が冷めるわよー!」




 母さんが呼ぶ声がして、俺ははっと我にかえった。




 イタズラだ、イタズラ!消印だって、こんな模様のスタンプでも買ったんだろ!俺がなにを契約したって言うんだ!




 そう決め込んで、俺はがさがさと便箋を封筒に戻すと、机の引き出しにしまい込んだ。




 後で捨てればいいや!




 ジーパンをはいて手早くパーカーを引っ掛けると、俺はばたばたと階段を降りていった。








「いってきまあっすっ!」




 朝一番。その日の俺は死物狂いのランナーと化していた。




 ぬあぁぁんで、三つもセットしてある目覚ましが鳴らねーんだよーっ!




 忙しく足を動かしながら、時計に目をやった。八時五分、針が示す時間に益々焦りが激しくなる。




 じょおだんっ!駅に着くのが二十分、電車が二十二分、朝連サボリになっちまったけど、授業ぐらい無遅刻で出ねーと、平常点が!




 [文武両道]をモットーにしている学校なもんで、最悪といった方がいいくらい、生活態度や出席率にはチェックが厳しい。




 あああっ!こんなことなら、パンクしたチャリの修理代使い込まねーで、さっさと直しときゃよかった!




 自業自得、後悔先にたたず。頭に浮かんでくるのはそんなつまらん言葉だけだった。




 ばっかやろうっ、FWの足をナメんじゃねーっ!




 表通りは人が多すぎて、俺はさっと路地裏に入り込んだ。やたらと古い作りの街なので、駅周辺なんかは細くうねったような道がいっぱいなのだ。




 小さい頃からおとなしく家にいるようなガキじゃなかった分、住み慣れた街は隅々まで知り尽くしている。路地裏は細くて人通りが少ないため、逆に人が避けて通るからがらがらだった。




 池の側の小さな神社の前を通り過ぎようとした時だった。突然、ざざざ、と大きな木の葉が風に揺れた。




「柚木くん」




 突然名前を呼ばれて、俺はびくっとして足を止めた。




 俺の前後に人がいないのは、確認している。どこだ?




「柚木くん、こっちよ」




 低くもなく、高くもない、不思議な音域の女の声が、含み笑いを混ぜて聞こえてきた。




 ざざざ、風もないのに葉を揺らしている木の下で、女が笑っていた。




 正確には、少女、に近い。見かけないセーラー服に、背中まであるふわふわとした髪がまとわりついている。




「久しぶりね、柚木くん。その後、サッカーの調子はどう?」




 鮮やかに微笑んで、セーラー服の少女が俺に尋ねた。




「…おかげさんで、絶好調だよ。あんた、誰だよ」




 明らかに待ち伏せていたような現れ方に、不信感のメモリがどっと上がる。




 だいたい今日ここを通ったのは、目覚ましや自転車なんかの不幸が重なったからだ。歩きでは地元の人も通りたがらない裏道に、女が待ち伏せてたりするもんか?




「仕方ないか、柚木くんはあたしのこと忘れてるもんね。でも、名前くらい知ってると思うんだけどな」




 くすくす、と女が笑う。まるで、人をからかって楽しんでいるように。




「高天早紀、っていうんだけどな」




 …どっかで聞いたような…!あの、昨日の奇妙な手紙の…!




 ワインレッドに、痩せた猫の消印…[魔女]からの手紙。




「あ、あんた、魔女!?」




 まるっきりイタズラだと思い込んでいた俺は、ぎょっとして叫んだ。




「そうよ。去年の契約の失効と、再契約について来たんだけど」




「冗談だろ!?今時魔女なんか、いるはずねーだろ!」




 どう見ても普通の女子高生にしか見えないセーラー服の女は、少しむっとしたように言った。




「初めての場合はよく言われるけど、柚木くんの場合、一度契約したこと覚えてないからやり難いのよね」




 …まてよ?




「あんた、俺がいったいなにを契約したって言うんだ?だいたい俺が[魔女]と契約したのを覚えてないって、なんであんたが知ってるんだ?」




 魔女と契約した、なんて信じたわけじゃなかった。ただ、女は何のために俺にあんな手紙を寄越し、自分は魔女だと言って現れたのかが、知りたかった。




「あなたの記憶は消されたの。正確に言えば、去年あたしと関わった時期の分、記憶を消されたの。だから、あなたはあたしのことを知らない。でも、あたしは知ってる。あなたが一年の時Dクラスだった事も、ずっとレギュラーになりたくて、頑張っていた事も」 


 


 まるで独り言のように、自称魔女は言った。




 感情のこもらない台詞が、冷たいようで悲しそうにも聞こえた。




 それでも、言ってる内容が当たっているだけに、俺は何か背筋に冷たいものを感じた。




「あんまり沢山一度に言っても、混乱するだけね。考えておいて。あなたが今のままのあなたでいるか、昔のあなたに戻るか、選ぶとしたらどっちがいいかを。期限は、ハロウィーンの前日まで。またね、柚木くん」




 それだけ言うと、自称魔女はセーラー服を翻して、木の後に消えた。




「待てよ、おいっ!」




 てっきり後に隠れたと思って駆け寄ると、自称魔女は跡形もなく、本当に消えていた。




 まさか…本当に、魔女!?




 真剣にぞくっとするのと同時に、風がざざざ、と木の葉を揺らした。




『あなたが今のままのあなたでいるか、昔のあなたに戻るか』




 いったい、何の事を言ってるんだ…?








「よー、香ちゃん。今日はずいぶんゆっくりと登校してきたなぁ」




 昼休み、席を立とうとしたとたん、がしっ、と後から押さえこまれた。




「だぁっ、放せ円城寺っ」




 ハードロックする腕を振り払って、机にぶつけた額をさすりながら立ち上がると、しょーもないことしーの円城寺の首を締め上げた。




「あーもおっ、今日はやたらについてねーんだよ!食堂行こーぜ、食堂」




「ベントーは?」



「おふくろも寝坊して、なし。くっそ、朝メシも食ってねーんだ。ラーメンと焼きメシ食おっと」




 ぶちぶちとぼやきながら、円城寺を引きずって食堂の席を確保させると、俺はラーメンと焼きメシを持って席についた。




「そーいやさ、朝会った妙な女って話、最後まで聞かせろよ」




 きつねうどんをズルズルといわせながら、円城寺が休み時間に話した続きを急せた。




「あー、あの話?だからー、そいつが言うには、魔女らしいんだけどさ、今時いると思うか?魔女だぜ、魔女」




 ずずず、とラーメンをすすって、俺は一時間目を完全にぽしゃった恨みを込めて、がんがん、とテーブルを叩いた。




「魔女の宅急便じゃあるめーし、空飛んでみろってんだ!」




 まったく、どんな方法で隠れたんだか、あの後どこ探してもいなかったし、気味悪いったらありゃしねぇ。




「どんな格好してた?顔は?」




 興味本位でしか聞いとらんなー、と円城寺を見て思いながら、俺は愚痴を込めてうだうだと話してやった。




「それが見たこともないセーラー服でさ、どー見てもフツーの女子高生って感じ。髪がふわって背中くらいまであって、顔は…まあ、可愛いほうだったかな?」




「おいしーじゃねーか」




「…うどんが?」




 わざとはずして言うと、円城寺が割り箸を伸ばして、ラーメンのぺらぺらのチャーシューをさらっていった。




「チャチャ入れんな、阿呆。なんでそんなセーラー服の女子高生と、朝から待ち伏せされてふてくされてんだよ、贅沢者」




「あーのーなー…おまえ、人の不幸を楽しんでないか?」




 ラーメンが終わって焼きメシに手を付けながら、俺は恨みがましく円城寺を睨みつけた。




「人のフコーは大好きサっ」




「懐かしい歌ってんじゃねーよ、タコ。あーあ、今日の朝連サボリになるし、体調崩したとか言って、放課後もサボっちまおーかなぁ」




 ここは無難に、家に直行したほうがいいかもなぁ。あの口調だと、また会いそうな感じだし…。ああやだ、出来れば二度と逢いたくない。いくら顔がよくっても、得体のしれん女なんて俺はいやだっ。




 ばくばくと焼きメシを口に運びながら、パックの烏龍茶で流し込んだ。




「いーのかぁ?サッカー界の新星、我が校のストライカーともあろー柚木香くんが、さーぼーりーだーなんて」




 ふざけた口調で言った円城寺に、俺は慌てて口を塞いだ。




「わざとでかい声で言うな、バカ。いーかげんやめろよ、新星なんて一年もたちゃ…」




 自分の言った台詞に、びくっとした。




 確か、FWでストライカーだった佐竹先輩が骨折して、補欠だった俺がFWに抜擢されたのは…ほとんど、一年前!




『今のままのあなたでいるか、昔のあなたに戻るか』




 あの女はなんて言った?去年の契約、って…まさか、俺は…!








「ゆーずーきーくん」




 くすくすくす、と含み笑いを交えた声が、背後からかけられた。




 ぎっくん、と心臓が飛び上がりそうになるのと同時に、また待ち伏せされていたのに思わず青ざめた。




 今日はクラブも休んで、家に直行するつもりで帰ってきた。それも円城寺とキャプテンしか知らないし、今朝と違う裏道を選んだのに…。




「そう露骨にいやな顔しないでくれる?」




 声の主、自称魔女は古びたブランコに腰を降ろして、キィキィと小さく揺らしていた。




「なんで、ここに…」




 ブランコと砂場しかなく、子供も寄り付かないような公園と呼べるかどうかも怪しい場所で、魔女は待っていた。朝と同じセーラー服。学校はどうしたんだ…?




「魔女は、何でもお見通し、なんてね。隣、座らない?」




 特別誘うような言い草でもないのに、俺はふらりと誘われるように、魔女の隣のブランコに腰を降ろした。




「今朝言ったこと、考えた?」




「…俺は、あんたとなにを契約した?」




 魔女の問いには答えずに、俺は逸る鼓動を押さえて平静を保ちながら、尋ねた。




「…誰にでも、知らない方がよかった事って、あるものじゃない?」




 キィキィとブランコが鳴く。はぐらかそうとしているのか、魔女はそんなことを呟いた。




「その契約の内容ってのは、今の俺は知らない方がいいような、事なのか?」




「知ったら、きっとショックでしょうね」




「…後悔、じゃないのか?」




 ざざざ、黄金色の銀杏の葉が風に揺れる。風と、葉ずれの音しかない沈黙。




「わからない。どんなに願っていたことが契約で叶ったとしても、後で後悔する人もいれば、そんなこと欠片も思わないで喜ぶ人もいる。あたしにはわからないけど、それはあなたが強く望んだこと。それだけよ」




 魔女の台詞には、相変わらず感情というものが感じられなかった。淡々と語る、冷めた口調。まるで突放されているみたいだ。




「…あんた、なんで魔女なんてやってんだ?」




 不思議に思ったとたん、台詞は口から飛び出していた。


 


 唐突すぎたかな、と焦る俺に、魔女はきょとんとした表情を見せた。




「…変な人」




 驚いた表情から、くすくす笑いに変わった。




「…今までも「魔女なんか」とか、「魔女なんて」とか言われたけど、魔女っていっても色々あるの。あたしの仲間は分類すればウィッチとか、ウィザード。要は魔術を悪い事に使っちゃダメなの。魔女ってだけで悪い奴だって決め付けるの、やめてほしいのよね」




 魔女は真摯な瞳で強く言い切った。冷たいような瞳も、からかうような口調も、くるくる変わる仮面のようで、不思議だ。




「どうしたの、黙り込んで。どっちを選ぶか決めた?」




 その台詞で俺ははっと我にかえった。




 …そーいや、俺は魔女と契約がどーのって話してたんだった…。




「もし俺が契約を続行するって言ったとしたら、記憶はどうなるんだ?」




 魔女はそうね、と口元に手をやって、考えながらぽつりぽつり言った。




「今回の記憶はそのまま残るけど、去年の記憶は、戻らないわね。記憶を消したのは、あたしじゃないから」




「…?じゃあ、誰が?」




「…ごめんね、あなたになくした記憶を教えるのは、禁止されてるの」




 時計に目をやって魔女は立ち上がり、長いふわふわとした髪を後に払った。




「今日は別の契約者の所にも行かなくちゃならないの。考えておいてね。じゃ、またね」




「おい、待てよ…!うわっ!」




 手を伸ばしたとたん、びゅうっと風が吹き抜けて、俺は一瞬目を閉じた。




「…魔女?」




 魔女の姿はもうどこにもなく、魔女が座っていたブランコが風に吹かれて、キィキィと鳴いているだけだった。




『今のままのあなたでいるか、昔のあなたに戻るか』




 いつまでも残ってエコーする、魔女の声。




 …思い当るのは、一つしかない。去年の佐竹先輩の骨折から、俺の力が認められた。というより、なかったはずの才能が、俺をレギュラーの座に着かせた…。




 帰宅して引き出しを開けると、なぜか捨てることが出来なかったワインレッドの封筒が、他のがらくたに紛れて入っていた。




 去年までなかった、あるはずのない才能。




 ただ、これまではそれでもいいとして、これからは、どうする…?




 バシャン、と引き出しを閉めて、俺は机を拳で殴り付けた。




 あいつさえ現れなけりゃ、俺は何も知らずにいれたのに…!








 次の日、朝連の時間よりも三十分ほど早めに家を出て裏道を通ったけれど、魔女は現れなかった。




 その日の放課後も、次の日も、その次の日も、魔女は現れなかった。




『魔女は、何でもお見通し、なんてね』




 古びたブランコに腰掛けて、小悪魔のようにくすくす笑う魔女の姿が脳裏に浮かぶ。




「人を待ち伏せした次は、待惚かよ…」






 キィキィキィ、ブランコを揺らしながら、俺は待っていた。十月三十日。ハロウィーンの前日。




 朝から学校をサボって、ずっとブランコに乗っていたせいで、途中で気持ち悪くなったりもした。薄暗くなった空に目をやって、袖口をずらして時計を見る。




 五時半。あれから、一度も逢ってない…。




 時間の感覚が、わからなくなった。




 いつのまにか日は暮れ、黄ばんだ蛍光灯がチカチカとまばたいて、ぽつりと明かりを灯した。




 肌寒くなってきたころ、ひゅうっと風が俺の前を通りすぎた。




「…こんばんわ」




 魔女だった。前と同じセーラー服姿が、薄暗い街灯に浮かび上がった。




「…おせーよ。待ちくたびれた」




 ずず、ざざざ。靴ぞこが砂をかすって、ブランコを止めた。




「だって、柚木くん、あたしに会いたくないって思ってたでしょ?」




「…何でもお見通し、ってか?」




 そりゃ思ったけどさ…これが現実なら、どーしょーもねぇじゃん。俺の、未来がかかってんだから、さ…。




「だって、魔女だもん…」




 魔女が曖昧な笑みを浮かべた。




「それで、ここで待ってたっていう事は、継続するって取っていいの?」




「…ああ。情けねーな…」




 頷いて、俺は苦笑して呟いた。




「俺は俺であれば、今も昔も関係ねぇ、とか言えればカッコいいのにさ…。情けねぇよ。ショックとか、後悔とか通り越して…。魔女の力を借りて、人の不幸を踏み台にしてまで伸し上がりたいなんてさ…」




 それでも、まだ力を捨てようとしていない俺が、死ぬほど情けなく、意地汚い…。




 何が、そんなに俺をサッカーに執着させるんだろう。たしかに、シュートが決まれば嬉しいし、勝った時はもっと嬉しい。




 コートに立って、ボールを押し出しながら、敵の中を突っ切っていく、高潮感…俺は、コートに立ちたい!




 組んだ指に力が入って、俯いていた俺の視界に、魔女の細い足首が飛び込んできた。




「…継続と効力の証として…」




 驚いて顔を上げた俺の首に、するり、と細い腕が絡みつく。思わず目を見開く俺の唇に、魔女の唇が重なった。




 …冷たい、唇…。




 唇に歯の感触が伝わってきて、鈍い痛みと共に、血の味が口の中に広がる。




 唇、噛まれた!




「あなたの血を、一滴もらったわ。キスは契約と効力の証の儀式。魔女は契約者から血液をもらい、それを我が主、魔王ルシファー様に捧げて魔力を頂くの。あなた一人、気にすることはないわ。すべて、ギブアンドテイクで成り立っているのだから…」




 顔を放した魔女が、妖艶な笑みを浮かべながら、唇についた俺の血をペロリと嘗めた。




「効力の有効は一年間。ルシファー様から頂く魔力も一年間。だから、また来年逢いにくる。あなたの望みを、叶えるために」




 艶やかな嘲笑。[魔]の力が宿る、魔性そのものの笑み。




 今更ながら、ぞくっとした。俺は、魔女と契約したんだ、と…。




「なんて顔してるの?後悔?ショック?それとも…あたしが、恐いの?」




 くすくすくす。答えを期待していない問いを投げ掛けて、魔女は二、三歩後へ下がった。




「じゃあ、また、来年ね。ばいばい、柚木くん」




 くるりと踵を返したとたん、魔女の姿は闇に飲み込まれたように消えた。




 …本物の、魔女だ…。




 口の中には微かな血の味と、鈍い痛み――契約の証が、残っていた…。








 にゃあぉう


 


 ハロウィーンの夜。ベッドに転がっていた俺は、猫の声にぎょっとして飛び起きた。




 げ、黒猫!?




 机の上には、いつのまに入り込んだのか、ひょろりとした黒猫がちょこんと足をそろえて座っていた。




 にゃあぉう




 俺に一声かけるようにして、黒猫は窓に向かってトン、と机を蹴った。




 ぶつかる!




 手を伸ばした俺の目前で、黒猫はふうっと窓に吸い込まれるように消えた。




 窓は開けてないのに!…まさか!




 はっとして、机に飛び乗って、窓を開けた 黒猫はトントン、と屋根を伝って降りながら、下で待ち受けていた魔女の腕の中に納まった。




「…魔女…」




 黒猫を抱き抱えた黒ずくめの魔女は、一瞬俺と視線を合わせて微笑むと、またふっと消えた。




 あ…今の黒猫…!




 机に乗ったまま引き出しを開けてワインレッドの封筒を取り出すと、くっきりと捺されていたはずの猫模様の消印が、消えていた。




 中の手紙の方は!?




 ガサガサと便箋を広げると、契約がどうのと書いてあった文章は、変わっていた。




『柚木香さま


 またね


               高天早紀』 




 それが、俺が魔女を見た最後だった。






 


 そして、一年が過ぎ、十月が訪れる。






 相変わらず、朝から番までサッカーに明け暮れていた俺はその日、出掛けていた母さんが用意しておいた夕飯をがっついていた。




 今日はたまたま早くクラブが終わって、珍しく六時には家に帰れて、テレビのチャンネルはどこも、ニュースタイム。




『今日、午後五時半頃、**交差点近くを歩いていた女子高生、高天早紀さん十八歳が、道路に飛び出し、青信号で突っ込んできた乗用車に跳ねられ、死亡しました。目撃者の証言によると、高天さんは路上にいた猫を救けようとしたらしく…』




 思わず呆然としていた俺の手から、茶わんが滑り落ち、がちゃん、と床で乾いた音を立てた。




 魔女が、死んだ!?




 しばらく呆然とした後、俺ははっとしてばたばたと階段を上がり、自分の部屋のドアを開けた。




 慌てているせいで中々うまく出てこない引き出しに苛立ちながら、震える手で、去年届いたワインレッドの封筒を取り出した。




 猫が、魔女が抱いていったはずの猫の消印が、戻ってる!




 ガサガサと中の便箋を引き出すと、俺は緊張しながら、丁寧に広げた。




『その猫がいる限り、効力は消えません


 猫を、よろしくお願いします


 ごめんね…       


               高天早紀』




 な…どうなってるんだ、なんで魔女が死んだんだ!?




 机に置いていた封筒が、風もないのにふわりと舞って、下に落ちた。




 拾い上げたときには猫の消印はなく、机の上に、一匹のひょろりと痩せた黒猫がちょこんと座っていた。




 にゃあぉう




「ひっ…」




 俺は思わず悲鳴のような声を洩らして、じりっと後ずさった。




 にゃあぉう




 ぺろり、と赤い舌が覗く。血のように、赤い猫の舌。




「く、来るなぁっ!」




 咄嗟に手をまさぐると、目覚まし時計が手についた。




「向こうへ行け!」




 ガツッ。鈍い音が、短く響いた。




 俺の投げた目覚まし時計は、猫に命中した。猫はもう起き上がらなかった。




「う、うわあああっ!」




 倒れたはずの猫の姿は消え、ワインレッドの封筒には、鮮明な血色に変わった猫の消印が、戻っていた。






 次の日、大雨が降っていたので自転車をやめ、傘をさして歩いて駅に向かっていた俺は、待ち構えていたかのように目の前を横切る痩せた黒猫を見た。




 キキキキーッ!




 いきなり飛び出した黒猫を避けようとしてハンドルを切った乗用車が、俺に向かって突っ込んできた。




 ふわりと、雨の中にビニール傘が舞った。




 ぐしゃっ。耳障りな、不快な音。




 そして、全身を突っ切る激痛。




「ぎゃああああっ!」




 車のバンパーと電柱の間で俺の右脚は、握り潰された卵のような悲鳴をあげた。




「脚が、俺の脚があぁっ!」




 消えゆく意識の中、雨の中に黒猫が俺を見ていた。


 


――「この猫、腹空かせてるみたいなんだけど、あんた、なんか食い物持ってねえ?」




 ああ、あの猫を魔女に渡したのは俺だったんだな…。




 老いて死んだ黒猫を抱いて、泣いていた魔女。




『特別に、あなたの願い、叶えてあげる』




 魔女は目に涙をいっぱい浮かべながら、微笑んでいたっけ。




 にゃあぉう




 黒猫は薄く目を細め一声だけ鳴いて、路地裏へ姿を消した。




 俺が魔女と初めて出会った、小さな神社のある、細い路地へ…。












            了



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