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12の花の話

8月 ガーベラ

作者: livre

12の花の話。8月。

 それは、神が創った芸術品だと思う。

なだらかな曲線。吸い付くような質感。

キメの細かい、つるりとした白磁の肌。

撫でれば静かに指が滑るのに、軽く押すと思いがけないほど強くはね返される。それでいてひどく柔らかい。

華奢な線を描く肢体は、見るからに脆くて不安になる。握り潰せばいとも容易く壊れるのではないか、と。

しかし彼女たちはあの身体で子を孕むことができる。あの薄い腹の中で、命をひとつ作り上げることができる。そんなものを、一体何者が壊せようか。

ああなんて、なんて素晴らしい。

体臭さえ甘やかに薫らせる女体の、なんと美しいことだろう。

 それに比べて、男の身体の醜悪さは見ていられない。

滑らかさの欠片もない無骨なライン。肌はごわつき、ささくれ、表面には汚らしい体毛が虫のように蠢いている。

汗と荒々しい臭いが混じりあって…こうも不快な気分になるものなど、他にはないだろう。

女性の身体がなければ子種を残すことさえできないくせに、威張り散らして、反吐が出る。

あの美しく細い身体を猿のように貪り、射精するしか脳のない馬鹿共。

浅ましい。浅ましい。あんなにも醜いものが、この世に必要なのだろうか?

 勿論、そう。この私も。


 幼い頃、両親は私に冷たかった。

虐待を受けていたわけではないのだ。食事は常に満足いくまで食べさせてもらっていたし、人間的な生活を充分にさせてもらっていた。

しかし、それだけと言えばそれだけだった。

絵本を読んでもらっただとか公園へ連れて行ってもらっただとか、そういった記憶はない。

愛しているとも言われなかった。

けれど当時の私はそれを不思議に思うことも不満に思うこともなかった。

“違う”と気付いたのは私が10歳の時。妹が生まれた時だ。

両親は妹を溺愛した。

まるでガラス細工を扱うかのように抱き、可愛い可愛いと口にした。愛している、とキスもした。

毎夜妹に絵本を読み聞かせる母の声を、私は隣の部屋で一人、ベッドに入って聴いていた。

けれど私も妹を愛していた。両親を恨む気持ちもなかった。

納得したのだ。確かに妹の方が美しく、脆く、可愛らしいと。

なるほどこれならば、両親だって私よりも妹の方が可愛かろう。

私には掛けられない「可愛い」も「愛している」も、彼女のためにあるのだと思った。

この弱く儚く美しい生き物のために、それらの言葉はあるのだと。

あの頃私の内面に渦巻いていたものは、恐らく嫉妬心ではなかっただろう。

あれはただひたすら、妹という“肉体”に向けられた羨望だったに違いない。


 私が15歳、妹が5歳の時、両親が離婚した。

詳細は知らされなかったものの、離婚を告げられた時の私には理由なんてどうだってよかった。

私は嬉しかった。清々していた。

あの気持ちの悪い生き物から離れられると嬉しかった。

気持ち悪い生き物、とは父親のことだ。

その当時の私の裡にはもう、男体への嫌悪感が出来上がっていたのだ。

父親の姿形が気持ち悪くて仕方がなかった。それはそれは、吐き気を催すほどに。

父は離婚の際、妹には定期的に会いたいと言った。私に関しては何も言わなかった。

それはそうだろう。自分によく似た容姿の人間よりも、儚く可憐な生き物の方が会いたいに決まっている。

 離婚を終えてからの母は毎日忙しなく、私は妹にとっての親代わりとなった。

まだ幼い彼女を世話していたのは私だった。

日々の入浴は特に丁寧に。彼女の肌が傷つかないよう、常に清潔に保たれるよう、そっと優しく洗ってやった。その毎日で私が彼女の肢体に見蕩れていたことは、反駁の余地もない。

 中学生になってからの私は、自分の身体がとても醜いものだと気付き始めていた。

それは父と同じ、気持ちの悪い身体だった。

せめてと無駄な肉を落としてみても、母や妹のような柔らかな曲線は得られない。骨と皮のような身体は、やはり醜いままだった。

当時の自分にできる最大限の努力として、全身の剃毛を徹底した。少なくとも1週間に2,3度は欠かせない。完璧に剃毛することだけが、その時の私にできる全てのように思えた。

それでも母や妹の神々しいまでの美しさには及ぶはずもなく、私はひたすら醜かった。

 二十歳になると私は家を出、昔から続けていた彫刻で身を立てた。

豊かな生活ではなかったが、私一人が食べていくのには充分なだけの価値が、私の作品にはあるようだった。

そんなふうにして、もうすぐ20年ほどになる。


 こうして彫刻家として活動を続ける最中、何度か男体彫刻の打診を受けた。勿論全て断わった。

私は女性しか彫らない。 男の身体など、考えただけで吐き気がする。

だから依頼される度に気分が悪いし、私が毎回誰に頼まれても躊躇なく断るためか、やがてどの美術商からもその手の話は来なくなった。

そうした不快な出来事があると必ず私は書庫に籠り、分厚い作品集を眺めることにしている。

作家は決まってベルニーニ。彼の彫る女体は実に素晴らしい。

滑らかな肌も柔らかで弾力のある肉感も、恐ろしいくらい緻密に表現されている。まるで本物の女性の肉体が、今ここで時を止めてしまっているかのように。

彼の作品を眺めれば、私の心は凪いでいくのだ。

惜しむらくは、彼には少しばかり見境がない、というところだろうか。

ベルニーニは、男体像も制作した。それは神話の神であったり時の権力者であったりと様々だが、そこだけが唯一残念だ。

あんなに汚らわしいものを彫るだなんて。神のような手を持っていたのにも関わらず、だ。

だから私の所有する彼の作品集に男体の姿はない。いや、他のどの作品集にも。

全て切り取って燃やしてしまった。そんなことを始めたのは確か、高校生の頃だったように思う。


 それが完成したのは不意のことで、不自然なことにさえ感じた。

私はこの20年余り、自らの理想の最たるものを創ろうとしていた。

ここはもっと曲線的だとかあの部分はもっと滑らかにだとか、頭の中には確実に在るのに、それを形にはできずにいた。

その時は唐突かつ、抗えない衝動と共に訪れたのだ。

 夜半過ぎ。元々不眠気味となっていた私は眠れずに、じっと暗闇の天井を睨みつけていた。

床に毛布を敷いただけの寝床の周りに、美しい女体が並んでいるのを感じていた。ともすればその息遣いさえ聞こえてくるようだった。

と、自分の裡から強い刺激が湧き上がったのだ。

それは喜びでありある種の恐れであり、性的な興奮でもあったかもしれない。

それまでは頭の中にしか存在しなかった虚像の女性が、ふと実体となって私と一体化する感覚だった。

私は彼女に身を委ねることにした。そうすることでしか、この熱を発散することなど叶わないはずだ。

慌てて起き上がり手近に転がっていた石材を拾い上げ、何も厭わずに彫り続けた。

私は幾夜も幾夜もそうしていた。

夜になれば、彼女がやってくるからだ。


 出来上がったのは私の手よりも少し大きいだけの、一糸纏わぬ女体だった。大きな石材がなかったために、こんなにも小さくなってしまった。

両手で包み、震える指でそっと撫でる。

滑るような手触り。この流れるライン。目を伏せた色香漂う表情。石であることを忘れてしまう、質感。肉感。

両手で持ったまま、朝日が昇ったばかりの窓辺に立たせる。

外は明るく、部屋は暗い。彼女の背後は明るく、私のいる場所は暗い。

彼女の光に今、私は照らされている…。

…涙が出る。抑えようもない。咽ぶように私は泣いた。

頭を垂れ、鼻水を垂らし、嗚咽を漏らして泣いた。窓辺に佇むそれに懇願するような姿勢だった。

美しい。美しい。美しい美しい美しい。

頭の中にしかいなかったはずの彼女が、今ハッキリと目の前に存在している。

なんと悦ばしい、尊いことだろう。

 縋りつくように近付き、再び頭から足先まで撫でる。…そして気付いた。

これは…私だ。

いや違う。これこそが、私なのだ。

本当の私は今、この手の中にあるこの姿をしているのだ。

動いて話して寝て起きて物を食べ糞をする私は私ではない。

幼少期から抱く気持ちの悪さは、ここに原因があったのだ。

こんなにも、本来の私は美しい形だったというのに。

加えてまた、私は気付く。

 ああ。ほら。あるじゃないか。

 明らかにおかしな異物が、ここに。


 硬いままでは、切りづらかろうと考えた。

だから一先ず熱を放出して、いつもの萎びた形にした。

やはりおぞましい。この状態でも、屹立していても、どちらにしてもおぞましい。

父親にもこれはあった。母と妹にはなかった。

これがあるから、気持ちが悪いのだ。

これがないから、女性は愛されるのだ。

根元を、鬱血するほどワイヤで縛る。

その時点で千切れるくらいに痛かったが、どうせ千切ってしまうのだから構わない。

窓辺には今も私が立っている。見守ってくれている。それを見遣れば、痛みは頭から消え去った。

ワイヤを縛りつけたすぐ下に、彫刻用の鑿をあてがった。

は、は、と荒い息遣いが耳に届いた。それは私から発せられていた。

…怖いか?

…いや。怖くなどない。

“私”は“私”にならなくては。怖くなどない。恐れなど、ない。私は私に還るだけだ。

刃先の位置を確認する。柄の部分に金槌をあてる。

精一杯振り上げる。

力任せに、振り下ろす。

一心に。一心に。

 私は私の、美しい身体を、取り戻す。

ガーベラ(ピンク) 花言葉「崇高美」

(https://hananokotoba.com/gerbera/ より引用)

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