花筏-8
俺は制服の脇のポケットに手を突っ込んだ。
手に会章が当たる。目の前で入れたからこれがここに有ると言う事は彼女も知っている筈だ。
それからなるべく静かな声でこう切り出した。
「残念だけど角筈さんには俺は殺せませんよ」
「…なぜ?」
「会章には自決用の刻印が仕込んであるからです」
「嘘だわ」
「その手を止めて下さい。でないと死にますよ」
俺は手の中の会章の刻印を一つ励起した。あの青い眼は精気の動きを感知出来る。
一瞬震え、俺の喉元まで伸びた綺麗な手が止まる。やっぱり自分の手で殺さないとならないらしい。
彼女が俺を殺すよう強いられているなら俺が自決出来ないと合理的に考えられるようになるまでは動けない筈だ。本気だったとしても賭けに出る程確信を得られて居ない事になる。
「嘘…会章にそんなものが仕込んで有る筈が無いもの」
「…角筈さんにこれの何が分かるって言うんです?触った事も無いのに」
彼女が目を見開く。
俺の推測は当たったようだ。彼女が触れていたとしたらあの魔法量を実現する魔法構造体に彼女の中の妖魔が気付く可能性は高い。多分ここで初めて本物に出会った筈だ。魔導学園の代表会員を女だと思ってた事を考えても詳しく弄って無い事は確実だった。
偽物が彷徨いているって話と平仄も合う。その人物が付属の先輩から騙し取った会章になぜそんなまどろっこしい仕掛けをしたのかは分からないけど現実に彼女はここで封印されていた。
「あなた飯垣先輩の…いえ、あの魔術師の知り合いなの?」
「あの魔術師が誰を指してるのかは分かりませんが魔術師の知り合いは多いですよ。会章にその封印を仕込めるレベルの知り合いも何人も知っています」
「…思わせぶりな事を言って情報を取ろうとしているわ。あなたの言う事どこまで本当なんだろう?」
しまった!調子に乗ってしまった!目の前の女の子が帝立高等の首席を取った人だって事を失念していた。
下手な事を言ったら見透かされる!そして見透かしたらそれを指摘して動揺させようとする位にはどっちの理由かは知らないけど本気で俺を殺そうとしているんだ。
冷や汗が出て来る。
でも、ここで急に用心深くなったらそれこそ本当に疑われる。俺は突っ走るしか無かった。
それにしてもアイツらどうなってるんだ?俺は自決用の刻印起動の振りをして通信用の刻印から救難信号を送っていたが最初に了解の符号が三条から送られたっきりなんの反応も無い。窮状の丈を送り付けたかったが角筈に気取られるとそれで終了なので下手な事も出来ない。
俺はチマチマと言葉を継いで時間を稼ぐ。
「それは僕だって死にたく無いですからね。角筈さんか中にいる妖魔かは知らないけど邪悪な計画の為に俺を殺さなきゃならない。そして俺に残された対抗手段はこの体内気泡生成刻印だけ。非常に矛盾した状況に有るんです…使いたく無いけど使えるって事を角筈さんに確信して貰わないとならない。気の毒でしょ?」
「ごめんなさい…でも、あなたは一つ間違ってるわ。殺すのはあなたじゃなくても良いの。だから…」
「でも!角筈さんは手を止めた。俺以外を狙うのはそれなりに手間が掛かる。或いは時間は味方じゃないか?今は俺を殺すしか無いんだ。それから俺の名前は護尋です。下は慶三郎…どっちでも良いですよ」
「…」
今度は角筈さんが言わずもがなの事を言って選択肢を狭めた。人が死ぬの見るのはやっぱり怖いからとでも言っておけば俺は余程困ったと思うけど手段の話になれば手を止めた事がすべてだ。
「…名前なんて」
「名前なんて知ったら殺しにくくなる?角筈さん」
「関係ない…名前なんて単なる符号だわ。そんなのに拘るのは愚かな事よ」
低く呟くように続ける彼女の言葉は俺の言った事に対する反論と言うより自分に言い聞かせる言葉に聞こえた…呼び方も変えよう。
「葵子さんそれは違う。少なくとも俺は名前も呼ばれず殺されるのは嫌です。戦場で砲弾に殺される兵士になるのはまっぴらだ…だったら美女に恨まれて名前を絶叫されながら絞め殺される方が遥かにマシです」
もっとも敵に名前を呼ばれて追いかけ回されるのは最高レベルに嫌かも知れないけど…そう言うのが好きそうな須郷は此処には居ない。役に立たない奴だ。
角筈さんは目を見開き何か言おうとして辞めてしまった。目を伏せ肩を震わせる姿に少し気の毒になってしまうが俺だってこれ位言う権利はあるだろう。
「け…護尋さん殺されるのは…」
そこまで言って彼女は苦しそうに顔を背ける。全体の姿はともかく表情だけ見ればとても人を殺せるような人には見えない…と言うかその通りなのだろう。
予想以上に彼女は弱くて逆の意味で警戒感が湧いてくる。
俺があの節足で切り裂かれずに済んでいるのは恐らく彼女の身体で俺を殺す事が何らかの約定の一部になっているからだ。彼女に俺を殺す事が出来ないとはっきりと分かったら約定は破綻する。破綻したら妖魔は人の身体を得た魔人となる。そうなれば確実に俺は破滅して彼女も終わりだ。
因みに今後の対応が容易なのは憑依が解けるのが一番だけど次善の結果は俺が殺されて契約済みの妖魔になると言う中々承服しがたい順序になる。これは決して三条に知られてはいけない情報だ。
だから…
「わ、私の中の声は…も、護尋さんが動けなくなるまで痛め付けろと…でも…」
「腕を狙えば!…えーと、刻印を発動します」
俺は慌てて彼女の言葉を遮る。
彼女は弱過ぎるように見えた。
何かこの奇妙なゲームの盤をひっくり返すような事を言い出す前に条件を付け俺は事実上それを受け入れた。段々とまずい状況になって来ているのを感じる。元々無理難題だったのだけれども傷病退会待った無しの状況に追い詰められると状況の理不尽さに泣けてくる。
彼女はなぜ妖魔を受け入れてしまったのだろうか?欲望の為に安易な決断をするようには見えないので不思議だった。もちろん人の心なんてすぐに理解出来るものじゃ無いだろうけど。
「分かった…どこまで耐えられるかって言ってるわ」
「こわ!」
いや!心の声をそのまま伝達するスタイルもどうかと思いますけど!そう考えるうちに俺は足を縛った粘糸に振り回される。
そのまま放り投げられて俺は船着場の石畳をころがる。
「くそ!」
痛いと言うか内臓がひっくり返るようで気持ち悪い。よろよろと立ち上った俺はすぐに鞭のようにしならせた節足に足を掬われて転倒する。頭と腕を守った結果必然的に背中から地面に叩き付けられ息が止まる。
「が!…………」
格好付けずに地面に這ったまま守りに入れば良かった。俺は会章を手放さぬよう腕を守りながら丸虫のように身を丸める。そこに滅茶苦茶に節足の鞭が打ち付けられる。
魔術師は魔術の暴発を繰り返すうちに自然に苦痛に対する耐性を得るけどそれでもそれは純粋に感覚的なものだ。骨が軋みを上げて皮膚が引き裂かれる苦痛に直ちに耐えられる訳では無かった。
くそ!こうなったらこのまま傷病退会を目指してやる。
「傷病退会!傷病退会!傷病退会…」
俺は呪文のように希望の力ある言葉を繰り返してこれに耐える事を決意したのだが…
「ぐううう!」
俺は痛む脚を粘糸に絡まれ吊り上げられた。一体このサディズム溢れる仕打ちは誰のセンスかと彼女の方を窺う。金曜会員に推薦される女性は嗜虐趣味が条件かも知れないと疑ったからだ。
…彼女では無かった。
彼女は限界だった。歪めた表情にはそんな趣味の欠片も無くただ罪悪感と無力感だけが浮かんでいた。何かを口にしようかと口を開き虚ろに目を伏せると口を閉じる。
彼女がこのゲームを続けられそうに無いのは明らかだった…どうする?
「や、やり方を…変えましょう」
俺は苦痛に耐えながら何とか言葉を絞り出す。
「そ、そんな事は出来ないわ…」
「だって…幾ら痛め付けても俺が音を上げなかったら街中の注目を浴びて終わりですよ。魔術師が苦痛に耐性が有るのは葵子さんご存知では無い?」
粘糸が解け俺は地面に落下した…痛い。いや、すごい痛い!肩の骨が折れたかも?
「う…痛過ぎ!もう無理!」
「今音を上げたように見えたんだけど。あ、私…」
思った事すぐ口に出ちゃう性格なんですね。今まで牽制だと思ってたのも気付いた事全部喋ってただけとか…まあ、話繋げやすいか?
「減らず口を叩けてる内は音を上げたとは言え無いですね」
角筈さんは呆れたように口を開く。ようやく無力感以外の表情が浮かんで来た。自分の苦痛を圧して女性の心を守ろうとするとかヒーローの真似事をさせられる状況に激しい怒りを感じるが仕方ない。後で上乗せ料金を含めて花屋敷先輩に請求する事にする。生き残ればだけど…
「自分で減らず口って言っちゃうんだ…待って!話を聞いた方が…」
多分、減らず口を叩かせるなとか言われてるんだろうな。ある意味真っ当な心の声に抗う角筈さんを見て俺は勝負に出る気になった。
ー 主人公は女の子相手の修羅場は定期(主にストーカー様対応) ー