私達の塔
いつから歩いていたのだろうか。
気がついた時には、僕はどこかを歩いていた。そこは知っている場所である気がしていたけど、本当は全然知らない世界であったようにも思う。
歩きながらぼんやりと、僕は自分が今までいた世界とは別の世界に来てしまったのだと感じていた。
目の前には、一面の廃墟が広がっていた。
きっとこの世界にも、かつては自分のもといた場所のように文明があったのだろう。森を切り拓き、海を埋め、ビルを建てていたのだろう。
そんな脆く崩れやすい文明は荒廃したようだ。その土台の上に立っていた曲がりなりにもあったであろう秩序。そういったものが完全に崩れた世界。それがここなのだろう。
足元に転がる石を蹴りながら、僕はぼんやりとそう考えていた。
どこへ行くあてもないまま歩く僕を、他人事のように眺めていた人々。
こんな世界にも人間は住んでいるらしい。みんな一様にぼろ布をまとって、暗い目をしている。誰もがうつむいて、その日を生きるのに必死なようだ。大人も子どもも男も女も、生きる気力が無いようだった。
そんな中、僕は彼女に出会った。
彼女は僕と出会ったときにこう言った。
「私は今の状況に満足なんてしていないわ。私が求めているのは今まで以上の発展、進歩なの」
そう語る彼女は、表情一つ変えなかった。
「でもね、私の周りのボンクラ共はそんなもの求めていない。いつだって今の状況に甘んじていてウジウジしてばかり。私はそれが歯がゆいの」
熱くもならず、冷静でもなく。淡々とそう吐き捨てると、彼女は遠くを指差した。
「向こうを見て」
彼女の指差した方を見る。そこには一面の荒野と連々と続く山々。その向こうに見えるもの。
「遥か彼方にとても高い塔が見えるでしょう」
彼女の言うとおり、遥か彼方に塔が見えた。
塔の高さはよくわからなかった。なぜならば、その塔の頂上は雲まで届き、てっぺんまで見ていなかったからだ。
「私はその塔が何なのか知らないわ。もちろん私の周りの人達もね。多分知る気もないのでしょうけど」
そう言って、彼女は僕に一歩近づいた。
「でも私は知りたい」
そう語る彼女の言葉は、今までより少し強い口調だった。
「私はその塔の存在を聞いたときから、ずっとそれが何なのか知りたかった。でも誰も知らなかった。教えてくれなかった……。そうして、そうしてずっと私は常にその塔のことを考えるようになり、いつしかその塔は私の生きる意味になっていたの。死ぬまでに私はその塔が何なのかを知りたい。誰かが教えてくれないのだったら、私は自分でそこまでいって確かめてやりたい」
そこまで言うと、彼女は僕の方を振り向いた。
「だからね、あなたにお願いしたいことがあるの」
「お願いしたいこと?」
急な提案に少々面食らいながらも、僕はそう答えた。
「ええ、私を……」
「その塔まで連れて行って」
笑顔で彼女はそういった。
僕はその笑顔を見て、不覚にもドキリとした。無論、彼女の笑顔がとても素敵であったことも影響はあるだろう。しかし、それは笑顔と言うにはあまりに悲しすぎた。
心からの思いを告げているのにもかかわらず、それが拒否されることをわかっている悲しい笑顔。
多分、これまでも僕みたいな人間は何人も来たのだろう。そして彼女はそういった人たちに同じお願いをしていたのだろう。
しかし、全て拒絶されていた。
僕はそれに気がついてしまった。それと同時に、僕は自分がこの世界に来た意味がわかったような気がした。なんのためでもない。彼女をあそこまで連れて行くのが、僕に課された使命。
僕のこの世界での生きる理由。
僕は静かに頷いた。
「……わかった」
僕が承諾したことに彼女は驚いていたようで、静かに伏せられたまぶたが少し動いていた。小さな口は、ぽかんと開けたままになっていた。
しばしの逡巡を経て、
「ありがとう」
彼女はもとの無表情に戻り、頭を軽く下げていた。
こうして僕達の旅は始まった。
その塔にたどり着くには、幾つもの困難が待ち受けていた。果なき荒野を越え、鬱蒼と生い茂る森を抜け、吹きすさぶ雪山を登らなければならなかった。
道中は楽なことばかりではなかった。様々な困難を僕たちは乗り越えなければならなかった。
僕たちは、時に助け合い、時に励まし合いながら、少しずつ塔の根本を目指して進んでいった。
そうして、ついに僕たちは塔の根本にたどり着いたのだった。
僕は塔を見上げた。遠くから見たときと同じように、塔の先端は雲に隠れて見ることはできなかった。目の前に石に階段が見える。きっと塔の中を何周もするように、螺旋状につづいているのだろう。
「やっとついたね」
僕は横にいる彼女に声をかけた。
「ええ、どうやらついたみたいね」
そう言うと、彼女は静かに階段を上り始めた。
僕は黙ってその後ろについて行った。
互いに何も喋ることができないまま、僕たちは登り続けた。多分ここに来るまでの時間よりも長い時間が経った。
やはり塔の中には螺旋状に石の階段が続いていた。ところどころにある窓からは外の景色が見える。僕たちはそこからの景色でだいたい今どのくらいの高さにいるのかが予測できた。
登って、登って、登った。
窓から見える景色に雲がなくなる頃、僕は自分の体力の衰えを感じていた。階段をあがる足に力が入らなくなり、仮に踏み出せたとしても今度は体がついていかなかった。それは疲労によるものももちろんあったのだが、自身の年齢によるものであるのもわかっていた。ここまでで経過した時間は年単位であったと思う。手足の筋肉が衰え始め、顔のしわが増え、目がかすむようになってきた。旅を始める前に、決して若くない年齢であった僕は、いまや老人に片足を入れているような年齢であるような気がしていた。
それでも僕は登り続けた。目の前の彼女が止まるまでは、僕は止まるわけにはかなかったから。
彼女は登り始めた頃からずっと同じペースで進んでいる。いや、僕が彼女を旅に連れ出したときから、ずっとそうだった。彼女は変わらなかった。いつも同じ表情で、同じ歩幅で歩んできた。そうして、ここまでたどり着いた。
僕が唯一知っている彼女の顔は、その無表情だけ。
……いや、彼女は僕に連れて行くように頼むときに見せた笑顔だけが、違う唯一の表情だ。
その彼女が歩むのをやめないのならば、僕はついて行かなければならない。それが僕の生きる理由であるとしたのだから。
頂上が近い気がした。延々と続いていた階段が終わる予感がした。
それは自分で感じた予感ではなく、目の前の彼女が感じた予感であった。常に同じであったペースが心なしか上がった気がした。それを感じとったから、そう思ったのかもしれなかった。
「そろそろかな」
僕の口からでたその言葉は、まるで自分の声ではないようであった。自分の知っている声と比べて、だいぶ嗄れているような気がした。
「ええ、そうみたい」
彼女はそう言った。彼女の声は変わらなかったが少し小さくて、自身の耳の遠さと相まって危うく聞き逃してしまうところだった。
そのまま再び黙って階段をあがっていった。
目の前に踊り場が見えた。きっとそこが頂上なのだろう。きっと彼女も気がついているだろう。
僕は階段を駆け上がろうとした。しかし、僕の体はそんなことすら難しいほど衰えてしまっていた。それでもなんども転びそうになりながらも、僕は静かに彼女を追い越した。
そうして一足先に踊り場につくと、後から静かに登ってくる彼女を待った。
彼女は最後の一段に気がつかないで踏み外してしまうかもしれない。残り一段のところで僕は彼女の手を静かにとった。まるで気づいていたかのように僕の手を彼女は優しく握り返した。
「ここが最後だよ」
僕が告げると、彼女は踏み外すことなく踊り場にたどり着くことができた。
「ありがとう」
彼女の手はとても小さくて、僕の手と同じく皺らけになっていた。
「一つ聞いていいかしら?」
ふいに彼女から質問された。
よくよく考えてみれば、それは彼女からされた初めての質問だったのかもしれない。
「頂上について私の夢はかなうわ。ここまで来てくれたあなたには感謝してもしきれない。私のわがままにつきあうのはもう終わるはず。それなのに……どうしてあなたは泣いているの?」
そこでやっと、僕は自分が泣いていることに気がついた。自分の目からこぼれ落ちた涙が、彼女とつないだ手を濡らしていることに気づいていなかった。
僕は袖で涙を拭うと、
「これは汗だよ。ここに来るまでにだいぶくたびれてしまったからね」
とごまかした。
そうなの、と彼女はその言葉に納得したらしかった。
「さぁ、教えて。ここに何があるかを」
彼女は踊り場の先にある扉を指差した。
僕は頷くと、扉のノブに手をかけ、開こうとした。
その途端、僕はとても嫌な予感がした。何かこの先に良くないものがあるかのような予感。
それを振り払うように、僕は勢い良く扉を開いた。
そして
僕は答えることができなかった。
「……どうしたの?」
何も答えることができない。
なぜならば、僕には答えようにも彼女の問いに対する答えは何もなかったのだから。
僕と彼女が必死になってたどり着いた塔の上には、何もなかったのだから。
何もなかったのだから。
扉を開けた先に広がっていたのは部屋、そして崩れた壁から広がる青空だった。彼女が期待していたものはそこにはなかった。
「そう……私がここに来たのは無駄足だったということね」
彼女が静かに、悲しそうに呟いた。
僕はそれを聞いて、膝をついてうなだれるしかなかった。
「なら……みんなに知らせてあげないといけないわね。ここに何もないということを。今後私のようにここに何かがあると信じて、来てしまう人が現れないようにするために」
そう言う彼女の声は、夢破れた者の声ではなかった。ここまでたどり着くまでの彼女の声と同じだった。
でも僕は。
僕はその声について行くことができなかった。
「早く、降りなければなら」
そう踵を帰した彼女の足は、踊り場を踏み外した。一度空中に浮いた体は、前のめりに倒れて、そのまま彼女は落下していった。階段を転げ落ちながら体がぶつかる鈍い音が、僕の背後から聞こえてきた。
僕には彼女がどうなったのか確かめる勇気はなかった。しかし帰るために階段を降りたら、僕は落下していった彼女の姿を見なければならなかった。
だから僕はもう一つの方法でこの塔を降りることにした。
生きる理由を失った彼女は、新しい生きる理由を見つけた。
生きる理由を失った僕は、生きることができなくなってしまっていたのだった。
お読み頂きありがとうございました。
羽栗明日です。
異世界ものが書きたいと思い書き始めたのですが、期せずしてこんな話になってしまいました。
皆さんは自分の生きる理由を見出せていますでしょうか。
それを失った時、あなたはどうするでしょうか。
新たな目的を見出だせるか、はたまた絶望するか。
人生とは新たな目的を見出し続けるものであると私は考えています。
コメントなどいただければ幸いです。